2017年1月4日水曜日

飯島耕一「わが母音」⑤

母音とは――。広辞苑によれば、

〈声帯の振動を伴う呼気が、口腔内で著しく通路を妨げられることなく通過して発せられる音。口の開き、舌の位置などの相違によって音色の相違を生ずる。現代日本語では、ア・イ・ウ・エ・オの五つ。呼気がもっぱら口腔を通過するならば口母音、一部鼻腔に流れるならば鼻母音となる〉

と、されています。

人は言葉を発するとき、舌や唇を使って、呼気の流れを抑制したり妨害することによって、いろんな音を作りだしています。ザックリ言えば、母音とは、吐きだす息を唇や舌で妨害しないときに出る音ということになるようです。

一方の子音はといえば、呼気の流れを妨害させて出す音。しかし、唇や舌は連続的な動きをしますから、妨害があるかないかできっちり二分するようなわけにはいきません。

一口に母音といっても、「i」や「u」は「a」よりも子音に近いし、子音といっても「l」や「m」は「p」や「b」よりも母音に近くなります。

母音の音色は、舌や唇のかたちや顎の開閉度で決まります。唇の丸みを伴ったものを円唇母音、そうでないものを平唇母音。

舌の盛り上がったところが前舌であるものを前舌母音、後舌であれば後舌母音、その中間なら中舌母音と呼ぶそうです。

母音は、単独で、あるいはその前後に1個または複数の子音を前後に伴って、ひとまとまりに発音される最小の単位である音節(シラブル)を作ります。

一つの母音の発声中に調音を変えるものを二重母音、三種類の調音がある場合には三重母音と呼びます。

二重母音、三重母音はあくまで一つの母音であって一音節ですが、単に母音が連続していれば、複数の音節となります。

母音はその持続時間の長さの違いによって長母音と短母音に分けられます。日本語をはじめ言語のなかには、長母音と短母音の区別によって、意味の弁別をするものがあります。

音を調整する筋肉の緊張を伴うかどうかで、緊張音、弛緩音というように母音を分別することもあります。母音を調音するとき、舌の先を反らせたり、舌を盛り上げたりすると、咽頭が狭まり「r音」性の母音が出せます。


  A黒、E白、I赤、U緑、Oブルー、母音よ、
  いつかきみたちの誕生の秘密を語ろう。
  A、無惨な悪臭のまわりで唸りをあげる
  きらめく蠅の毛むくじゃらの黒いコルセット、

  影の入江だ。E、靄とテントのあどけなさ、
  誇り高い氷河の槍、白い玉、散形花のおののき。
  I、深紅、吐かれた血、美しい唇の笑い
  怒りのさなか、あるいは悔悛の陶酔のなかで。

前回見たアルチュール・ランボーの詩「母音」では、母国語の5つの母音に、それぞれ一つずつ、合わせて五つの「色」をあてはめていました。

A (アー) は黒、E (ウー) は白、I (イー) は赤、U (ユー) は緑、O (オー) は青です。日本語を使っている私たちには、なかなかイメージを掴むのは難しいですが、フランス人としてのランボーの感性がこめられているのでしょう。

さて、「わが母音」を味わうのにも、母国語であるところの「母音」という単語の意味のひろがりや、音のひびきを感じとっていくことが必要になるのでしょう。

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

吐きだす息を唇や舌で妨害することなく発せられる母音は、この詩によれば、「純粋な」空間をつくり出しうるものなのです。

そして、「母音の空間に生まれるもの」は、「いつそうぼくを駆りたてる/いくつもの夢」でもあります。さらに詩人は、「ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる/あの首くくるような悔恨よりも強力だ」といっています。

「母音」は、「悔恨」よりも力を持ち、「生きる力」の原動力になります。それは「希望」といってもいいかもしれません。しかし、「それは光を追う透明さを持つから/ぼくらは何度も見失いがちになる」のです。

2017年1月3日火曜日

飯島耕一「わが母音」④

1953(昭和28)年に書肆ユリイカから刊行した第1詩集『他人の空』の表紙には、フランソワ・ヴィヨンの詩集『吊された者たちのバラード』に挿入されているフランス中世の首吊りの木版画が使われています。

  僕はインクを探す。
  耳をふさいでいても、
  この部屋を通つた者らの
  心臓の鳴りが
  壁に見えて来る日。

  〈黙れ〉の日。
  吊された者らの
  声が壁に見えて来る日。
  汚れた手で
  吊された木版画の二人が、
  手を前で組み合わせて
  はだしでいるのに気づく日。

という「吊された者の木版画に――序詞にかえて――」に始まって、22篇。大学ノートサイズの57ページの薄い本でしたが、その反響はたいへんなものでした。

谷川俊太郎はすぐに会いたいという手紙を飯島に送り、大岡信は『詩学』に長所や短所を指摘した書評を、中村稔はこの新人詩人を褒めたたえたうえで、出版した書肆ユリイカの伊達得夫も激励したといいます。

『他人の空』を出版する直前に飯島は、大学を卒業して就職した保健同人社を1年ほどで目的もあてもないまま辞めています。そして、『他人の空』を出した翌年の1954(昭和29)年には、結核が発病。清瀬病院で右上葉の肺切除手術を受けました。

1955(昭和30)年、長野県小諸市にあったアフターケアの病院を出て、社会復帰。といっても働き口があるわけでもなく、伊達の求めでシュペルヴィエルの詩の翻訳などを手がけます。とともに、伊達の支援で出したのが第2詩集の『わが母音』でした。

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

  澄んだ母音を見つけることが
  ぼくらの日課の色どりであればよい。
  それは恐ろしい現実にたち向かう
  ぼくらの 幸福すぎる
  権利なのだ。
  まるい小石を蹴るように最初の母音を蹴りながら
  ぼくは今日も雑踏のうちにまぎれこむ。
  雑踏のなかにいても 一人は一人であることができ
  一人は一人を愛することができる。
  そして二人でつくつた
  まだ秘密の愛の誓いのように
  ぼくはわが母音をひそかに培い、忘れて見失わぬ
  術〈すべ〉をおぼえる。

詩集の冒頭に置かれた「わが母音」について平出隆は、「飯島耕一自身の詩の詩法の、一つの宣言である」として、次のように鑑賞しています。

〈ここで「わが」と付いているのは、おそらくアルチュール・ランボー(1854―91)=写真=の詩篇「母音」を受けてのことだろう。ランボーの「母音」もまた詩法の表明としての詩であった。

しかしランボーが、統一よりも錯乱を詩法とすることによって現実を攪拌しようとしたのに対して、ここでの飯島耕一は、現実に立ち向かうための武器を培う、初初しい準備をしているばかりのようにみえる。

「それは恐ろしい現実にたち向かう/ぼくらの 幸福すぎる/権利なのだ。」――この「すぎる」という語法に、詩として未だに現実に立ち向かっていないことへの自己批評がみえる。

けれどもこうした自己批評が、この宣言を現実の中へ、「雑踏のうち」へさらに押しすすめる力をもつことになる。〉(『現代の詩人10 飯島耕一』)。

ランボーの「母音」というのは、次のような詩です。鈴村和成の『ランボー全集 個人新訳』から抜粋しておきます。

     母音

  A黒、E白、I赤、U緑、Oブルー、母音よ、
  いつかきみたちの誕生の秘密を語ろう。
  A、無惨な悪臭のまわりで唸りをあげる
  きらめく蠅の毛むくじゃらの黒いコルセット、

  影の入江だ。E、靄とテントのあどけなさ、
  誇り高い氷河の槍、白い玉、散形花のおののき。
  I、深紅、吐かれた血、美しい唇の笑い
  怒りのさなか、あるいは悔悛の陶酔のなかで。

  U、これは周期だ、緑なす海の神々しいゆらぎ、
  動物の散らばるのどかな牧場、皺の平安か、
  学究の大いなる額に錬金術が刻みこむ。

  O、至高の金管楽器、奇怪な鋭い叫びに満ちみちて、
  《世界》と《天使》の横切ってゆく沈黙だ。
   ――Oオメガ、《かの女の目》の紫の光線よ!

2017年1月1日日曜日

飯島耕一「わが母音」③

あけましておめでとうございます。今年も、詩や詩論を休み休みマイペースで読みつづけていきたいと思います。よろしくお願いします。

もう昨年になってしまいましたが、前回に続いて「自伝のかわり」に書いた年譜から、飯島の終戦直後の足どりをみておきましょう。

〈一九四八年(昭和二十一年)、岡山市に戻る。廃墟となった駅前に早くも闇市が出来ている。つねに空腹。第六高等学校文化丙類に入学、四国高松への連絡船の出る宇野港の仮校舎(旧陸軍兵器庫)に通う。

担任教官は戦後早くトレーズの「人民の子」を訳した長崎広次氏、哲学の教官として梯明秀、近藤洋逸氏がおり、ヘーゲルやプラグマティズムの理論を学ぶ。経済学の教官としてまだ若かった宇高基輔氏、英語の教官としてエリオットの北村常夫氏がいた。

二十二年、当時出ていた創元選書で中原中也、富永太郎、青磁社の本で萩原朔太郎を読む。はじめて詩らしい詩を読んだのである。『あんばるわりあ』を早くも読んでいた同級生中島達夫に「コスモス」という雑誌、中野重治の名、新人として平林敏彦がいることをおしえられる。

「近代文学」を読みはじめる。ボードレールを読む。詩の習作数十篇。永瀬清子を知る。堀口大學訳『シュペルヴィエル詩抄』を見せられ、その感覚の新鮮さに強烈な印象を受ける。のちシュペルヴィエルの短篇〈コント〉集『ノアの方舟』を愛読する。

吉田健一訳、ラフォルグの『ハムレット異聞』。小林秀雄訳サント・ブラウ『我が毒』。同年入学の理科の生徒だった栗田勇と中島にすすめられ、それまで経済学部のつもりでいたが栗田とともに東大の仏文にすすむ。中島も翌年仏文に入ったが、彼は神経病を病み、以後療養。

一九四九年(昭和二十四年)、東京大学文学部仏文学科に入る。栗田のほか、橋本一明、鈴木道彦、森本和夫、村松剛、渋沢竜彦らがいた。鈴木信太郎、渡辺一夫教授、中村真一郎講師のクラスに出る。

一級下に金大中がおり、栗田、金とともに一九五〇年、ガリ版の詩誌「カイエ」を創刊し、安東次男、鮎川信夫らにおくる。安東次男からハガキで返信あり、安東を訪ね『蘭』を見せられ以後親密を加えた。岸田衿子を知る。

「カイエ」にはのちに東野芳明、工藤幸雄、村松、石川喬司、佐藤巌、渡辺香根夫らが参加。別のグループの雑誌に日野啓三、大岡信らの「現代文学」があり、それに新日本文学系のグループがあって、はやくも公式主義的進歩派から批判された。

工藤が懸命に弁護してくれたのを思い出す。当時の東大では、中村稔『無言歌』、関根弘『砂漠の木』が読まれた。中村の詩集でユリイカの名を知る。大岡と親しくなったのは大岡が卒業して読売に入った昭和二十八年になってからである。

それよりまえ、金大中とともに「詩行動」に参加、ここに平林敏彦、柴田元男、森道之輔、難波律郎、児玉惇がいた。翌二十七年、『他人の空』の原型ともいうべき詩を書き、はじめて詩が書けそうだという自信を得た。同時に「詩行動」解散。しばらくして「今日」が創刊された。

一九五二年(昭和二十七年)大学卒業、保健同人社に入社、赤坂檜町に高畑昭久とともに住む。

一九五三年(昭和二十八年)退社、練馬区中村南町に住む。夏『他人の空』の一連の詩を書き、十二月出版。自費出版だが、費用は六高で一級下だった三木稔がシンフォニーを書き尾高賞を得て、その賞金を提供すると言い出したのである。

銀座にあったユリイカを訪ねはじめて伊達得夫に会ったことを思い出す。かたくなって「詩集を出してくれますか」とたずねたところ「よろしいでしょう」と彼は言った。自費出版だったのだが、かたくなったのは純情だったわけである。村野四郎、中村稔、大岡信の書評が出た。〉


     他人の空

  鳥たちが帰つて来た。
  地の黒い割れ目をついばんだ。
  見慣れない屋根の上を
  上つたり下つたりした。
  それは途方に暮れているように見えた。

  空は石を食つたように頭をかかえている。
  物思いにふけつている。
  もう流れ出すこともなかつたので、
  血は空に
  他人のようにめぐつている。

年譜に出てくる「他人の空」は、戦後詩の代表的な名篇として、しばしば取り上げられます。鳥たちが空からおりたち、地面の「黒い割れ目」をついばんだり「見慣れない屋根」の上を行き来したりしているのです。

なんということのない風景描写のようですが、それは何事かとりかえしのつかなくないことが起こった直後の廃墟なのでしょう。空は「頭をかかえ」、呆然と「物思いにふけつて」います。

それでも、鳥の行動に示されているように、何かが動き、動きはじめています。帰ってきた鳥は、当然、戦争直後の復員兵をイメージしていると読むこともできるでしょう。もはや、犠牲となる者たちの血は流れなくなったのです。

しかし、あるのは焼け野原の空。そこに、行き場所を失ったかのように「血」がただよっています。戦後の荒廃した状況を内面化して、世界と人間との関係の崩壊、不安を描き出しています。

こうして、飯島耕一の戦後ははじまり、詩人としてのスタートを切ったのです。

2016年12月31日土曜日

飯島耕一「わが母音」②

飯島耕一は1930(昭和5)年、トマス・ハーディの研究者として知られる英文学者の父、隆と、岡山県立第一高等女学校で音楽の教師をしていた母、八重子のもとに生まれています。

以下、耕一自身が「自伝のかわり」にと記した年譜をあげておきましょう(思潮社『飯島耕一詩集』)。

〈一九三〇年(昭和五年)、二月二十五日岡山市に生まれる。父方の曾祖父は佐竹藩士、のち弁護士開業、祖父ははじめ農林省にあり、ついで秋田県湯沢に木工会社を起す。失敗。鉱山探索、その他各種事業にしたがう。のち東京へ出てくるが、父が昭和四年、旧制第六高等学校の教官として岡山に赴任し、以後岡山に住んだ。

一九三六年(昭和十一年)、岡山県立師範附属小学校に入った。小学校へ入るまえ、「ドンキホーテ」を毎夜人に読ませるのが習慣だった。毎夏を瀬戸内海の島で過ごす。少年講談を耽読する。はじめて記憶させられた詩は明治天皇御製という時代である。

一九四二年(昭和十七年)、岡山県立第二岡山中学校入学。三年のとき、勤労動員で造船工場に行く。鋳物工として特殊潜水艦の部品をつくっていたが、一つもものにならなかった。四年になり、陸軍航空士官学校を受験する。六月、B29の空襲で岡山市の八割は焼失、一切灰燼となる。

八月はじめ、航士合格、八月二十日入校の通知があった。八月十五日、谷崎潤一郎も疎開していた岡山市近郊、庭瀬町の寄寓先で終戦の詔勅の放送をきく。航空隊に入るつもりになっていたので残念に思った。岡山の聯隊の兵舎のまわりを歩き「徹底抗戦」の貼紙を見る。〉


付け加えると、耕一が小学校へ入った1936年には、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂「二・二六事件」が勃発、翌年7月には北京西南の盧溝橋で起きた衝突事件で、日中戦争(支那事変)がはじまっています。

岡山市に住んでいた耕一は、幼少時から小学校の6年間、夏になると瀬戸内海の島や海岸を訪れることが多かったようです。

それが、子どものころの思い出として深く心に刻まれます。しかし太平洋戦争へ突入するころになると海へ出かけるのもままならなくなりました。

詩人としての耕一の原点には、戦争へと突き進んでゆく時代のなかで記憶に刻まれていった幼少時代の夏の海のイメージがあるようです。

耕一は「詩のイメージ」というエッセーで次のように述べています。

〈アンドレ・ブルトンは次のように書いたことがある(『シュルレアリスム第二宣言』一九二九年)。

結局あらゆることから、生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、高い所と低い所、そうしたものが、もはや互いに矛盾したものとしては知覚されなくなるような、精神のある一つの点が存在することを信ぜざるを得なくなるのである。このような点を確定したいという望み以外の動機を、シュルレアリスムの活動の中に探そうとしても、それは無駄である。

ブルトンはこの一点を、また別のところで「至高点(ポワン・シュプレーム)」とも名づける。これは右のようなあらゆるものの混じり合い、あらゆる矛盾の乗り越えられた精神の一地点であるとともに、ブルトンはフランスのバス・ザルプ県のある地点から眺められたあるすばらしい景色を、「至高点」と具体的に掴んでいた。

たとえばぼくの内部にも、幼少時代の夏の瀬戸内海のイメージが、記憶の一点として純粋化されて残っており、それはぼくにとっての「至高点」を確かにかたちづくっている。その後、見、経験したいかなる海も、それを乗り越えることがない。

あの幼少時代の海岸の体験、その海のイメージ、そこに全的に没入することが可能なら、ぼくはまったく自由になり、解放され、言ってしまえば詩を書く必要など、はや持たないはずだ。

実際、健康な子供は(そのような子供がいるとして)、ものを書いたりする必要はなく、反省とか思考をする必要もない。彼らは近代人的な反省や思考によって引き裂かれていない。

こうした「至高点」が確かなものとしてあるらしい。だが、実際のわれわれはそこから切り離されている。生と死は区切られ、過去と未来は二つの分かたれ、伝達(コミュニケーション)の不如意があげつらわれる。

イメージということに限ってみても、われわれは意識的と無意識的とを問わず、イメージの過剰、あるいは欠乏にたえずつき動かされている。一切の現象は見通しがきかないと思うことがある。

われわれの意識に、多少の惨めさと不自由感があるとすれば、それはそうしたところから発している。人々の哀れな罪障意識がそこに重なる。

おそらく詩というイメージの劇、イメージの化学は、こうした事情の間隙を縫って進むもの、欲求されるものであると考えられる。二つに分離されたものは一つになることを自ら求めている。〉 

2016年12月30日金曜日

飯島耕一「わが母音」①

今年の年末年始は、飯島耕一の「わが母音」を読むことにします。 

     わが母音

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

  澄んだ母音を見つけることが
  ぼくらの日課の色どりであればよい。
  それは恐ろしい現実にたち向かう
  ぼくらの 幸福すぎる
  権利なのだ。
  まるい小石を蹴るように最初の母音を蹴りながら
  ぼくは今日も雑踏のうちにまぎれこむ。
  雑踏のなかにいても 一人は一人であることができ
  一人は一人を愛することができる。
  そして二人でつくつた
  まだ秘密の愛の誓いのように
  ぼくはわが母音をひそかに培い、忘れて見失わぬ
  術〈すべ〉をおぼえる。


「わが母音」は、同名のタイトルが付いた飯島耕一の第2詩集=写真=の冒頭に収められています。詩集『わが母音』は16篇の詩からなっていて、1955(昭和30)年に書肆ユリイカから刊行されました。飯島が25歳のときのことです。詩集の「あとがき」には次のように記されています。

〈ぼくは自分の詩を考えながら、昔のアンドレ・ブルトンの次のようなことばを少しも訂正しようとは思わない。

「私はただ現実的なるものと想像的なるものと、この二つのものを結ぶ緊密な関係を明らかにすることによつてのみ、あのますます悪く設けられるように思われる主観的なるものと客観的なるものとの区別に対して新しい一撃を加えようと思う。」

詩人の仕事が難解だとしたらその理由はこのような現実、あるいは「現存するもの」への大胆な認識のしかたにあるのだろうし、詩人の役割こそこのような認識が必然的にもたらす新しい現実の発見にあるのにちがいない。

ぼくはぼくの現実的で想像的な世界を、観察し、歌おうとするよりも、はるかにそこにふみこんで行こうと試みた。そしてその歩み方がぼくの詩のリズムとなることをのぞんだ。

ぼくの詩に不均衡な印象がつきまとつているとしたら、それはただちにぼくの歩み方が不均衡であるためにほかならないだろう。その不均衡を強いるのがあるいは時代の影響であるとしても、ぼくは自分の方法にそうしたものをこえる強さを恢復したいと思う。

想像的であり同時に現実的な「現存するもの」を自分に引留め、かがやかしいものに変身させたいという意識は、これらの詩を書いた時期に、ぼくに切実なものであつた。しかしぼくは自分の詩がメタフイジツクな意味で蔽われることを欲しない。冒頭の詩「わが母音」はぼくの「詩法」(art poetique)であるといえる。〉

飯島の第1詩集『他人の空』は、1953(昭和28)年にを同じ書肆ユリイカから出版されています。伊達得夫が編集者兼社主としてたった一人でやっていた小さな出版社です。それから2年後、『わが母音』を出版したころのことを、飯島は次のように振り返っています。

〈『わが母音』は彼の事務所が神田神保町のちっぽけな昭森社ビルに移ってからの出版で、入口近くの机の一つが書肆ユリイカだった。幸い『他人の空』が好評だったので、それ以降の詩集は各社の企画出版となる。

『わが母音』は三百部と記憶する。表紙の絵は今はボストンに居を移して彫刻家として知られる井原通夫に頼んだ。絵に入ったカバーが刷り上がって来た時、わたしはたまたまそこに居合わせたが、伊達の計算ちがいで上下が妙に長すぎた。

しかしこれでよいとわたしが言って(すでにもう親しくなっている)、長い部分を折り曲げることにした。おかげで珍しい造本の奇書が出来、気づかぬみんなはしゃれたアイデアだと言っていた。五五年十月刊。学生の頃は「カイエ」「詩行動」のメンバーで、その後「今日」に加わる。

特記すべきことは、この二冊の間の時期に肺結核の手術(その当時はまだ初期の肺切除)のため、東京清瀬の清瀬病院に入り、同じ十三病棟に入っていた吉行淳之介を知る。〉

2016年12月23日金曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑨

これからバシュラールを読んでいくうえで、私自身への問いにも重なる、金森の「問いかけ」を抜粋しておきます。

いったいこの世の中で、科学と詩ほど違うものがあろうか。科学は客観性を尊び、方法的にも整備されているので、どんな知識が妥当でどんな知識が妥当でないかをその度に見極めるすべを心得ている。一定の手続きさえ踏めば誰もが参加できるという開放性と任意性が科学の本質であるように思える。

それに比べると、詩は客観性など初めから求めていない。むしろ誰もが知っていても普通の言葉でしかとらえていないもの、つまり誰もが紋切り型の知識で理解していると思っているものが、本当はそれよりもはるかに豊かな意味を隠しているということを私たちに気づかせてくれる人、それが詩人である。

詩人は客観性をもちえないのではなく、むしろもってはいけない。誰もが感じきれないでいることを十全に感じとること、そしてそれを読者をはっとさせるような言葉で表現すること、それこそが詩人に固有の仕事なのだ。だとすると、科学者は詩人であってはいけないし、詩人は科学者であってはいけないということにならないか。

それなのにバシュラールは科学も、詩も語る。互いを常に同時に語るわけにではないにしろ、片方を語るときにももう片方をそっと忍ばせながら語っている。それは常識に逆らって科学の内部に詩を見つけるということか、そして詩人の仕事のなかに一種の科学的着想の芽を探り出すということなのだろうか。

それはバシュラール個人の離れ技なのだろうか。それとも本当は科学も詩も、人間の行為として、人間の根源ではつながっているのだろうか。科学は方法化された詩なのか、詩は偽装した科学なのか。それともやはり科学と詩は、人間が生みだしたものであるにもかかわらず、互いに異質な世界に旅立っているのだろうか。


そして金森は、森で捕まえたトンボの顔を例に次のように訴えかけています。

〈森で捕まえたトンボの顔をじっと見つめてごらん。その大きな目にある網の目のような模様には、私の顔はどんな風に見えるだろう。

水滴に映った顔みたいに奇妙に丸まって見えるのだろうか。そう思って眺めていると、トンボが頭を傾げてみせる。

きっとトンボにも私の変な顔がおかしく見えたに違いない。羽を放してやると、飛行機みたいな音を立てて遠ざかる。

私が味わう数分間の体験には、確かに幼い科学も、下手な詩人の試作もが隠されている。だから読者よ、科学にも詩にも目をふさがずに、素直にバシュラールの言葉に耳を傾けてほしい。〉

2016年12月21日水曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑧

コントに代表される<概念の哲学>の流れは、フランスアカデミズムでは主流ではありませんでした。アカデミズムを支配していたのは<意識の哲学>のほうでした。

優れた政治家として活躍したメーヌ・ド・ビランは、個人的生活のなかで多くの哲学的思索を残しました。それがクーザンなどの講壇哲学者に発掘され、19世紀の〈意識の哲学〉の主要な源泉になります。

その流れで、科学や論理や合理性ではなく、人間の努力、注意、意思、習慣、自由、目的性、霊性などが問題になりました。クーザンは、哲学史的には折衷主義と呼ばれて現在ではほとんど評価されていませんが、フランスアカデミズムに<意識の哲学>の唯心論的伝統を根づかせるのに大きく貢献しました。

世紀の変わり目に世界的な影響を与えたアンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859-1941)=写真=の哲学は、生理学や生物学への該博な知識に裏付けられていたものの、主張の本質は、意識の物質からの独立や自由を歌う〈意識の哲学〉に与するものとみられます。


〈意識の哲学〉は、20世紀に現象学や解釈学が成立するに及んで、それらの潮流と重なり合いながら、20世紀中盤の実存主義の興隆にまでつながっていきます。

<概念の哲学>のほうは、極端な唯物論的主張が自壊を起こしてその勢いを失っていたものの、実存主義の反動で1950年代後半から構造主義が姿を現し、60年代に流行します。

この構造主義が「その最も重要な思想的起源をなかば瀕死の状態にあった〈概念の哲学〉から汲み取るものだ」ったと、金森は指摘します。

構造主義に対するさらなる反動が、ポスト構造主義として、70年代から80年代の思想界をにぎわせます。思想傾向の大枠としては、再び実存主義的なもの、すなわち〈意識の哲学〉のほうへと接近しているわけです。

フランス思想、さらには現代思想は、〈意識の哲学〉と〈概念の哲学〉の二項対立で、概略的に押さえることが可能になることになります。

〈概念の哲学〉と密着しながら、それに科学史的知見を加えた、エピステモロジーあるいは科学認識論と呼ばれる科学哲学的な伝統がフランスにはあります。

金森はバシュラールについて「エピステモロジーの20世紀前半における代表的論客」とし、「〈概念の哲学〉がむしろ弱体化した時期に、彼はエピステモロジーという特殊性をにないながらも最も力強く〈概念の哲学〉の伝統を守ろうとし」た、と位置づけています。

2016年9月30日金曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑦

金森本では、19世紀初頭からバシュラールのころまでのフランス近代思想の流れを大きくふたつに分けています。

一つは〈概念の哲学〉の流れ、あるいは〈合理性の哲学〉。もう一つは〈意識の哲学〉の流れ、あるいは〈主体の哲学〉と呼ばれるものです。それぞれ次のような説明がされています。

①〈概念の哲学〉の流れ

科学や合理性を思索の中心に取り上げる流れ。科学的知識の性格について哲学的に考える流れ。実験、操作、因果性、確率、偶然性、推論、帰納法、無限などの問題に思索をこらした。

②〈意識の哲学〉の流れ

科学的知識についての考察は一応傍らにおき、より価値論的に踏み込んだ議論をする流れ。人間精神の活動の機微をなかば心理的、なかば論理的に分析する仕事を中心的課題にした。人間心理の注意力、努力、習慣などについて、繊細で複雑な記述を残した。科学が意識的に無視する人間の自由や宗教的真理の問題にも積極的に関わった。

これら二つの流れのうち〈概念の哲学〉の流れについて金森本では、「代表するのは何と言ってもコントだろう」として、次のように説明します。

彼の『実証哲学講義』は社会学生誕の書であるとともに、数学から生物学に至るまでの多くの科学史的かつ科学哲学的な記述を含む壮大な哲学書だった。


コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798-1857)=写真、wiki=が近代的に定式化したとされる実証主義は、19世紀後半、大衆的には唯物論と混同されるに至る。本来、唯物論は感覚的所与を越えた物質一般についての判断を含む学説であるために実証主義と同一視することはできない。

しかし、それらがともに宗教的権威に対して敵対的関係をもったために、18世紀啓蒙主義と多少とも関係が深い反宗教的思想としての位置づけをもっていたことは確かであり、その分近代科学との関係も密接だった。

19世紀後半に至り、実証主義はリトレやテーヌなどの強力な推進者をえて、フランス思想界の重要な流れとなっていく。彼らは迷信や宗教的抗争のもつ理不尽さをあげつらいながら、同時に社会で科学的理性がもつ価値について楽観的見通しを述べ立てることに躊躇しなかった。

それはときとして一種極端な科学万能主義をうんだ。ダーウィンの進化論がその流れに拍車をかけた。脳の活動を胆嚢が分泌する胆汁になぞらえたカバニスの言葉は、極端な19世紀唯物論のモットーとして盛んに宣伝された。

実証主義や唯物論と一線を画しながら、カントを主要な霊感源として、科学的認識の妥当性について思索を進めた新カント派の流れがある。それは、無限や物自体を前にして、妥当な認識が成立しうる限界はどこにあるかを問う哲学だった。

2016年9月27日火曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑥

兵役から帰ったバシュラールは1919年10月、技師になる夢を諦めて、故郷のバール・シュル・オーブのコレージュで、物理と化学を教えるようになります。35歳になっていました。

コレージュ(Collège) というのは、フランスの4年制の前期中等教育機関。リセの前段階で、日本でいうと、小学6年から中学3年に相当するそうです。

バシュラールは、35歳から46歳までの働き盛りを、中等教育の学校の先生として過ごしたのです。この時期に、仕事の合間にたいへんな集中力で哲学の勉強に打ち込んでいきます。

1年後の36歳のときには、哲学のリサンスを取得。1922年、38歳のときには、高校以上の教育機関で教えられるアグレジェという資格を取っています。

当時、彼の勉強していた哲学は、認識論、科学哲学と呼ばれている領域にあたります。この当時、ヨーロッパではドイツの新カント派などによって、盛んに研究されはじめていました。

金森本には「自然科学的知識は哲学にとって何ら疎遠な外部ではなく、むしろ実質的哲学を構成するための必要条件だった。しかもこの時期は物理学が激変している時代であり、バシュラール自身アインシュタインの相対性理論には強い衝撃を受けていたという事実もある」とあります。

哲学者としての遅い出発をしたバシュラールは、35歳から43歳にかけて、その地歩を築いていきます。そして、1927年に二つの論文をソルボンヌ大学に提出して、文学博士号を取得しました。

主論文の『近似的認識試論』と副論文の『ある物理問題の進展をめぐる試論――固体内における熱伝導』です。これらの論文は翌1928年に出版されています。これから1962年に亡くなるまで、20冊以上の論文が次々に公刊されていきます。

1930年、46歳のときバシュラールは、故郷の近くのディジョン大学文学部に招聘されました。ここに10年間籍を置いたの後の1940年、56歳のときにはソルボンヌ大学へ移り、「科学史科学哲学」の講座を受け持つことになりました。

バシュラールは、文字通り本の山の中で暮らし、最後まで働くことをやめませんでした。金森は、最晩年の『蝋燭の焔』の中の「私は勉強する。私は勉強するという動詞の主語にすぎない。考えることはあえてする気がしない。考える前にまずは研究を。ただ哲学者だけが研究する前に考える」という言葉を引用し、次のように記しています。

「このしなやかな好奇心があったからこそ、彼は七十歳近くになるまで同時代の次々に刷新される物理や化学を追跡できたし、有名無名にかかわらず無数に読破した詩作品の斬新なイメージに陶酔できたのである。バシュラールを研究することで私たちもまた彼の若さを吸収できるのだろうか」

2016年9月25日日曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑤

苦学生として、電信電話技師をめざしていたバシュラール。しかし、勉強をする時間は、第1次世界大戦(1914-1918)によって断ち切れになります。

1914年8月から1919年3月まで、30歳から30代前半を、兵役につかなければならなかったわけです。20代のときのと合わせると6年半を兵役に、8年以上も郵便局員として過ごしたことになります。

兵役の直前1914年7月には、小学生の先生だった女性と結婚しています。しかし妻は、兵役からもどった1年後、バシュラールが36歳になろうとしていた1920年6月に病没してしまいます。


寡夫になったバシュラールは、一人娘のシュザンヌを大切に育て=写真、二度と結婚することはありませんでした。

金森本によると、最晩年の書『蝋燭の炎』には「そうだ、眼差しの光は、死が瀕死の病人の目にその冷たい指を置いたとき、いったいどこにいったのか」とあるそうです。