2014年11月20日木曜日

60年目の「ビキニにマグロ」⑥

天保時代、マグロの大漁に乗って「夷屋」という寿司屋が、ためしにマグロを湯引きにして、しょう油、ミリンのたれに漬けて寿司ネタにしてみました。

すると、新しいもの好きの江戸っ子に大いに受けて、これがマグロの身をしょう油づけにする「ヅケ」のはじまりともいわれています。

とはいっても寿司にしたのは赤身の部分だけで、高級店でマグロを扱うところはありませんでした。下魚、大衆魚の位置づけは、明治、大正時代になっても基本的には変わりません。

北大路魯山人は「下手といえば、まぐろそのものが下手ものであって、もとより一流の食通を満足させる体(てい)のものではない。いかに最上の宮古(みやこ)まぐろといってみても、高(たか)の知れた美味にすぎない」(「鮪を食う話」)と評しました。

それでも昭和に入るころには、赤身の部分はだいぶ食べられるようになりました。しかし腐敗しやすい脂身のトロは、猫もまたいで通る“猫またぎ”といわれるほどの不人気。

もっぱら缶詰などの加工用でした。生食用として珍重されるようになったのは、冷凍保存技術が進歩し、ライフスタイルの洋風化で味覚も変わってきた1960年代以降のことです。

「鮪に鰯」に出てくる刺身もきっと、赤身を思い描いてのことでしょう。貘がこの詩を作った1954(昭和29)年は、ちょうど高度経済成長がはじまった時期にあたります。マグロにしても、庶民の魚から高級魚へとかけ上がっていく過渡期でした。

そんな時代の最前線で漁をしていた第五福竜丸が「死の灰」を浴びたというニュースは、一文無しで借金に追われマグロの刺身など夢でしかない、「人間みたい」とはとてもいえない生活を送る貧乏詩人の家庭にとってもただならぬ出来事だったのです。

貘の詩集『鮪に鰯』には、「鮪に鰯」によく似たこんな詩も入っています。

     雲の下

  ストロンチウムだ
  ちょっと待ったと
  ぼくは顔などしかめて言うのだが
  ストロンチウムがなんですかと
  女房が睨み返して言うわけなのだ
  時にはまたセシウムが光っているみたいで
  ちょっと待ったと
  顔をしかめないではいられないのだが
  セシウムだってなんだって
  食わずにいられるもんですかと
  女房が腹を立ててみせるのだ
  かくて食欲は待ったなしなのか
  女房に叱られては
  目をつむり
  カタカナまじりの現代を食っているのだ
  ところがある日ふかしたての
  さつまの湯気に顔を埋めて食べていると
  ちょっとあなたと女房が言うのだ
  ぼくはまるで待ったをくらったみたいに
  そこに現代を意識したのだが
  無理してそんなに
  食べなさんなと言うのだ

「鮪に鰯」ではイワシだったが、詩「雲の下」では「ふかしたて」のサツマイモが食卓に乗り、夫婦で「湯気に顔を埋め」ながら食べています。

太平洋戦争末期になると、東京でも空き地があれば畑にしてサツマイモやカボチャを植えていました。サツマイモは米と混ぜていもご飯、つるは雑炊やすいとんに入れて食べていました。

鰯と同じように庶民の頼みの綱ともいえる食材です。詩人は、貧しい庶民のごく日常の食卓から、なにげない言葉でさりげなく現代文明を皮肉っているのです。

「ストロンチウム」や「セシウム」という「カタカナまじりの現代」が、いかに日常の生活をおびやかしているか。科学技術が支えている現代文明がいかに脆いものか。

3年前の東日本大震災で私たちは思い知らされました。貘は、そうした悲しき科学文明が日常生活の足もとをおびやかすところまで来ていることを、60年前にすでに鋭く嗅ぎ取っていたのです。

「フクシマ」という先の見えない重い課題を背負っている私たちには、こうした「ビキニ」の詩が、ごく最近作られたばかりのようなリアリティをもって迫ってきます。

2014年11月19日水曜日

60年目の「ビキニにマグロ」⑤

第五福竜丸が漁をしていたマグロ(鮪)は、回遊性の大型肉食魚です。60センチほどのものから、3メートルに達するものまで大小いろんな種類があって、世界各地で重要な食用魚として漁獲されています。

なかでも日本は、世界一のマグロ消費国。そのほとんどを刺身や寿司など生で食べています。水揚げ日本一は、第五福竜丸の母港だった焼津をかかえる静岡県です。

日本かつお・まぐろ漁業協同組合は10月10日を「まぐろの日」と定めています。万葉集の歌にちなんでのことです。

神亀3年(西暦726)10月10日、山部赤人は、聖武天皇のお供をして明石地方を旅し、鮪を獲って栄えているこの地を讃えて次のようにうたいました。

やすみしし 我が大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 高(たか)知らせる 印南野(いなみの)の 大海(おふみ)の原のあらたへの 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人(あま)船騒き 塩焼くと 人そさはにある 浦を良(よ)み うべも釣(つり)はす 浜を良み うべも塩焼く あり通(かよ)ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜  

〈わが大君が神として立派にお治めになる印南野の大海の原の、藤井の浦に、鮪を釣ろうとして漁師の舟はせわしなく動き回り、塩を焼こうとして人が集まっている。浦が豊かなので釣をするのももっともなこと、浜がよいので塩を焼くのももっともなこと。たびたび通ってご覧になるわけもはっきりしている。この清い白浜よ〉(岩波文庫『万葉集(二)』) といった意味になります。

鮪(シビ)とはクロマグロ、あるいはホンマグロとみられています。万葉集には、大伴家持のこんな恋の歌も載っています。 

鮪(しび)突くと 海人の燭(とも)せる いざり火の ほにか出でなむ 我が下思(したも)ひを

マグロを突くといって海人が灯している漁火のように、秘めた私の思いをおもてに出してしまおうか。マグロ漁の漁火に、心に秘められた恋の炎を歌人はみています。 

  塩まぐろ取り巻いている嬶(かか)ァたち  

  鮪売り安いものさと鉈を出し  

江戸時代になると、こんな川柳も生まれました。長屋のおかみさんたちが、塩をまぶしてすり込んだマグロを取り巻いて品定めしているのです。

このころは生身を包丁でさばいて刺身にするような魚ではなく、鉈でぶち切って安く売られる〝下魚〟だったことが読み取れます。

当時は魚の鮮度を保つ方法が無くて、腐りやすかったのです。水槽に入れて生きたまま売る方法がありましたが、サイズが大きいマグロではそれは出来ません。

干魚として乾燥させても、身が極度に固くなってしまうため簡単には食べられません。塩漬にすると食味がたちまち落ちてしまいます。

そのため、最下層の庶民が食べる下魚だったわけです。 マグロが大量にとれたときは、頭などが往来に大量に捨てられて悪臭を放ち、犬も近寄らぬありさまだったとか。

「しび」という呼び声が「死日」と聞えて不吉に感じられた、ともいわれています。

2014年11月18日火曜日

60年目の「ビキニにマグロ」④

ところで、ビキニの惨事があった直後の1954年5月、現代詩人会は、アンソロジー『死の灰詩集』の刊行を総会で決議しました。

そして同年10月、宝文館からアンソロジーは刊行された(204頁、定価200円、装幀・井上三綱)。日本現代詩人会のホームページには、そのときのいきさつが次のように書かれています。

〈このアンソロジーは、政治と文学、テーマ優先か文学的価値か等をめぐって、激しい論争を巻き起こした。その論争の評価については、見解の相違はあるにもせよ、詩人が人類・生物の存在を根底からおびやかす核兵器の製造、実験に断乎たる拒絶の意思を示すこと自体は、きわめて自然かつ当然といえるのではなかろうか。

『死の灰詩集』の編集委員は、安藤一郎、伊藤信吉、植村諦、大江満雄、岡本潤、上林猷夫、北川冬彦、木下常太郎、草野心平、蔵原伸二郎、壺井繁治、深尾須磨子、藤原定、村野四郎の14人。全国から寄せられた1000篇におよぶ作品から、121篇を選んで収録した。

この書と初版印税は、東大病院、東京第一病院に入院中の、第五福竜丸の被爆患者22人に贈られた(同船の久保山愛吉無線長は、9月23日死亡)。

この年9月、渡英した安藤一郎から『死の灰詩集』刊行を知ったスティーヴン・スペンダーは、「ブリティン・トゥデイ」12月号に、「戦争・平和・詩」と題するエッセイを発表し、次のように述べた。

私は原子爆弾の幾人かの犠牲者について800人の日本の詩人が関心を懐いていることに強い感動を受けた。にもかかわらず、私は私たちの側の作家たちが、彼等自身の心を捜し求め、真にいずれをなすべきかを自らに問い、詩の上でこれらのことに注意を向け、しかも確信をもつまでは発言を抑制しているように見受けられるのを嬉しく思っている(堀越秀夫訳。「詩学」1955年4月号掲載)。〔中略〕

さて、この1950年代前半期は、朝鮮戦争(50年6月~53年7月)、講和条約安保条約調印(51年9月8日)、米の第1回水爆実験(54年3月1日)、第2回水爆実験(同3月29日)等内外の大事件が続発し、今でも「55年体制」と呼ばれるように、米ソの冷戦構造の影響が内外に尖鋭化された時代であった。この時期に現代詩人会が、思想の異なる会員を擁しながら、『死の灰詩集』をはじめ、講演、研究、出版に活発な活動を展開していたことは、刮目に値するものといえよう。〉

詩人たちが「人類・生物の存在を根底からおびやかす核兵器の製造、実験に断乎たる拒絶の意思」を示したという『死の灰詩集』には、山之口貘の有名な詩「鮪に鰯」もおさめられました。

     鮪に鰯

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

漁師たちを襲った理不尽な被爆事件は、貘が生まれ育った沖縄と同じ美しい海に囲まれた南の島で起こりました。

しかも核実験を強行したのは当時、沖縄を統治していた大国アメリカなのです。貘の「腹だち」にはきっと、ただならぬものがあったにちがいありません。

2014年11月17日月曜日

60年目の「ビキニにマグロ」③


1954年9月、久保山さんの死を知った石垣りんはすぐにこんな詩を作りました。

     夜話

  ビキニの灰で
  漁夫久保山さんが亡くなれば
  弔慰金は五百五十万円だ、と
  新聞が大見出しをする、
  貧乏な国の記者が
  貧乏な大衆に向かって書き立てた
  あわれな風情が見えるようだ。

  そういう私も
  五百五十万円家族に残せたら
  死んだ方が喜ばれやしないか、と
  フラチであわれなことを考える。

  小人の国のガリバーのように
  紙幣が
  人間とは不釣合に大きな顔をして
  葬式にまで出てくるのか。

  裏の家の八十になるおばあさんは
  家族の者が仏壇をおがむと
  私を祈り殺す気か、と怒つたそうだが
  戦争で死んだ息子の弔慰金が三万五千円
  十年目でやつとこの間はいつたら
  これは私の葬儀費用だ、と喜んだ。
  
  それも束の間
  一月たたぬのに死んでしまつた。

  ところが大変なことに
  その三万五千円に家族の者が手をつけて
  葬式が出せない、と
  近所で大さわぎなのである。

  それと、これと、
  似て非なることではあるが
  どこか似ている話である。

詩を作った後で、りんは「発表してしまったものは仕方がない。いまとなっては、こんなことを書いた私自身の貧しさが、誰よりもあわれな風情に見えてくる」と自戒しながらも、さらに、アメリカや日本政府、あるいは業界の対応について鋭い批判の眼を向けています。

〈こんどはじめて知って唖然としたことのひとつに、翌1955年1月、アメリカ政府が慰謝料として日本政府に支払った賠償金の200万ドル(邦貨7億2000万円)の行方がある。核問題の核をそれて、どうして私はお金にこだわるのだろう。

配分をゆだねられた政府は日本かつお・まぐろ漁業協同組合連合会へ5億8000万円、80パーセントが渡され、残りが治療費2547万4000円と、慰謝料及び傷病手当金5426万2000円で、福竜丸関係は8000万円にも達しない。全体の11パーセントだったという。

私たちが大金と思った550万円は、その中のわずかな金額でしかなかった。業界は、受けとった金で都心に「かつお・まぐろ会館」を建てていた。

もうひとつわかったことは、ビキニ周辺でアメリカが行った前後6回の実験で、被災した日本の船の数は683隻(政府発表)あり、それらの船に乗っていた船員に被害者が出た場合の補償は、まったく考慮されないまま打ち切られたという。22年後に、被爆による病苦を申し出た船員もいるというのに。

一方、マーシャル群島のミクロネシア民の被害は、アメリカからろくな治療も受けられないまま放置された状態にあるという。〉(『夜の太鼓』の「春の日、夢の島へ」)

1955(昭和30)年5月、第五福竜丸の残る22人の乗組員は退院しました。しかし被爆による後遺症の心配がある海の男たちは、長期にわたる遠洋での漁は許されませんでした。

2013年末までに23人中16人が亡くなっています。その多くが肝機能障害に苦しめられ、死因のほとんどが肝硬変や肝臓がんでした。

2014年11月16日日曜日

60年目の「ビキニにマグロ」②

被爆から60年の記念プロジェクトとして今年3月に刊行された『第五福竜丸は航海中』(第五福竜丸平和協会編)によると、第五福竜丸事件は次のような経過をたどりました。

1月22日に焼津港を出港した第五福竜丸は、2月上旬ミッドウェー海域で操業していたが、はえ縄の半数以上を失うアクシデントに見舞われたため進路を変更して南下、マーシャル諸島のビキニ海域へと近づいていった。

2月27日、燃料も食料も限界に近づいたため、漁労長見崎吉男(28歳)と機関長山本忠司(27歳)は3月1日を最後の操業と決めた。3月1日午前6時30分、3時間半に及ぶ14回目のはえ縄の投げ入れ作業が終わった。揚げ縄の作業がはじまるまでは乗組員たちの仮眠の時間だ。第五福竜丸はエンジンを止め、穏やかな波間に漂っていた。その日は「南海の波静かな洋上に星影を写すほどの凪であった」(半田四郎、22歳)という。

そのとき水爆ブラボーが炸裂した。

「『太陽が上がるぞォー』『馬鹿野郎、西から太陽が上がるかッ!』甲板上で絶叫し合う声を、船室にいた私が聞くと同時に、ドヤドヤと二、三人の船員が船内に駆け下りてきました。『わァー、何だ、あれは……、驚いたぜ、突然西のほうが一面焼けただれたように真っ赤になって、ちょうど太陽が上るように明るくなったんだ。おい!早く甲板に出てみろ、凄いぞ!』私はその声にせきたてられて、慌ててデッキに飛び出しました」(池田正穂、21歳)。

西の空に大きな火のかたまりが浮かび、その強い光が空も、海も、船も、そして自分たちをも包み込むのを、乗組員たちは目撃した。東経166度35分、北緯11度53分。アメリカ海軍が設定した「危険区域」の外側の東方約30キロの洋上だった。光は色を変えながらやがて消え、次第にもとの暗い静かな海に戻った。

光を見てから7、8分後、轟音と衝撃波が襲った。「『ドドドドドー、ゴー』海面を伝わってくる爆発音ではない、地鳴りだ。足元を震わす轟音が、海全体を包み込んで下から突き上げてきたのだ」(大石又七、20歳)。「原爆だ」と叫ぶ者もいる。ところが、その後は何の音も変化も起こらない。乗組員たちの不安はますます募ってきた。

午前7時30分、漁労長見崎の指示で、揚げ縄作業が始まった。無線長久保山愛吉(39歳)は「海図室に昇り、果たして今の輝きは何だろう。場所は何処だろうと船長と漁労長とで調べた。どう考えてもビキニの外なく、ビキニへは約100浬〔約180キロ〕ある。揚縄して行けば距離はだんだん遠くなる」と回想している。

午前9時ごろ、空を覆う黒雲から雨に混じって白い粉が降ってきた。やがて雨は止み、白い粉だけが降りつづいた。白い粉は乗組員の頭、顔、手、足、髪の毛に付着し、鉢巻や腹巻き、ズボンのベルトにもたまった。そして、目、鼻、口、耳から体内に入り込んだ。

午後1時30分、揚げ縄作業は終わった。航海日誌には「3月1日午前10時30分(日本時間)揚縄終了後N(北)に帰途に付く。原子爆実験地と思われるビキニ環礁まで87浬最短距離のビキニ島迄75浬の地点にて閃光及び音響を聞く」とある。

第五福竜丸は白い粉の降る海域をぬけて帰途に着いた。乗組員たちは身体や甲板に積もった白い粉を海水で洗い流した。しかし、その日の夕方から放射能の影響があらわれた。目まい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血、そして顔は黒ずみ、白い粉の付着したところは放射線により火傷のように膨らんだ。一週間ほど経つと髪の毛が抜けはじめた。

ブラボー水爆はサンゴ礁の海上の台座に置かれ、巨大な爆発と同時に海中のサンゴが粉々に砕かれ、キノコ雲に吸い上げられていった。サンゴ礁は、直径2キロ、深さ60メートルにわたってえぐり取られ、それはやがて強い放射能を帯びたサンゴの粉(死の灰)となって降りそそいだ。乗組員たちのあびた放射線量は、おおよそ2000~3000ミリシーベルト。広島原爆の爆心から800メートルの放射線量に相当し、放射線をあびた半数が死亡する半致死量に近い、と推定されている。

3月14日午前5時50分、第五福竜丸は、母港・焼津に寄港した。乗組員23人は、その日のうちに焼津協立病院で当直の大井俊亮医師の診察をうけた。大井医師は「原爆症」ではないかと直観し、症状の重い2人は上京、東大病院に入院することになった。

16日付の読売新聞朝刊で「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」「水爆か」「焼けただれた顔」などと衝撃的な見出しで大きく報じられると、被爆事件は全国に知れわたる。第五福竜丸は15日にマグロを水揚げし、東京、大阪など各地に送られていた。焼津漁協から「福竜丸のマグロを売らないように」という連絡が各地に入った。「原子マグロ」の恐怖が走る。

東京の築地市場での検査では、マグロとサメから強い放射線が検出され、市場の人通りが少ない場所に埋められた。大阪府では一部が小売りされたため、食べた市民に不安が広がり、保健所で検査する騒ぎも起こった。19日には米海軍はビキニ海域の危険区域を8倍に拡大。日本政府は指定区域を設けて、そこを通った漁船の放射能検査を実施することにした。魚から10センチ離したガイガーカウンターが1分間に100カウントの放射線を検出すれば廃棄処分とされ、土中深くか海に捨てられた。

焼津中央病院に入院していた乗組員21人は3月28日、米軍輸送機で羽田空港へ送られた。症状の重い5人は、先に入院した2人のいる東大病院に、残りの16人は国立東京第一病院(いまの国立国際医療センター)に入院した。4月半ばになると、通常1立方ミリあたり4000~8000の白血球数が1000前後に、通常10万~20万個の骨髄細胞が1万個に激減する乗組員が出てきた。発熱やだるさにくわえ、鼻血、歯茎からの出血、血便など造血機能障害の症状があらわれた。抗生物質が投与され、大量の輸血がつづけられた。

6月に入るとようやく白血球が増加する兆しが見えはじめたものの、17人が肝機能障害を起こし、黄疸の症状が出た。「病気は悪くなるばかりであったが、毎日子どもの事を考えて心を励ました。幸い先生方の昼夜を分かたぬ御診療のお蔭で、少しづつ気分が良くなった、だがこんどは社会人としての価値を失ったのではないかという不安が持ち上がってくる」と、甲板員の安藤三郎は記している。

7月になると乗組員で最年長だった無線長、久保山愛吉の黄疸の症状が悪化していった。8月20日ごろから久保山の容体は急変、29日には意識障害を起こし昏睡状態に陥った。医師団の懸命な治療で意識がいったんは回復したが、9月23日午後6時56分、焼津からかけつけた家族が見守るなかで息を引き取った。医師団はその死因を「急性放射能症とその続発症」と発表したが、アメリカは水爆実験による被爆との関係を認めていない。

2014年11月15日土曜日

60年目の「ビキニにマグロ」①

「poético」は、スペイン語で「詩的な」といった意味です。このブログでは、日本をはじめ、私がでくわした世界のさまざまな詩や詩論を、興味のおもむくまま、気のむくま、のんびりと、でも地道に、粘り強くよんでいきたいと思っています。

もしも、お付き合いいただけるかたがいらっしゃれば、この上ない喜びです。

                ◇

いまから60年前の9月23日、「死の灰」をかぶった一人の漁師が亡くなりました。遠い南の海で操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」の無線長、久保山愛吉さんです。享年40歳でした。

フクシマの原発事故に隠れてしまっている感じもしますが、今年はアメリカのビキニ水爆実験による被爆事件からちょうど60年の、大切な節目にあたります。久保山さんは第五福竜丸の最初の犠牲者でした。


事件は1954年3月、ハワイの南西約2500キロ、グアムの東約2000キロの太平洋のまん中、「太平洋に浮かぶ真珠の首飾り」ともいわれるマーシャル諸島共和国の美しい環礁の一つで起こりました。

米軍が行った水爆実験によって、ビキニ環礁の東方約160キロの公海上で操業していた第五福竜丸が被爆したのです。

環礁というのは、サンゴ礁でできた島のことです。円環状にひろがるサンゴ礁の真ん中は、ぽっかり空いたみずうみ(礁湖)になっています。ビキニ環礁は23の島からなり、礁湖の面積は約600平方キロに及びます。

珊瑚礁だけで出来ているので、島の標高は高くても数メートル程度。礁湖の水深は数十メートルですが、礁の外縁の海底は急崖になっていて、海岸近くでも水深数千メートルになるところもあります。

こうした特殊な島である環礁は、戦争中、諸国の艦船の避泊地として利用されました。日本海軍も、当時トラック島と呼ばれていたチューク環礁などを使っていたのです。

戦後の冷戦期になると、これらの島々はしばしば核実験の舞台となります。大戦中に米軍が占領したビキニ環礁はそんな一つで、1946年から1958年にかけて核実験が繰り返し行われました。

ビキニ環礁での最初の核実験は1946年7月1日と25日に行われたクロスロード作戦です。大小71隻の艦艇を標的に原子爆弾が落とされました。標的には、全長220メートルの戦艦「長門」や、全長280メートルの米空母「サラトガ」も含まれていました。

この時の核実験を知ったフランスのルイ・レアールは、自身が考案した水着を、その大胆さが周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて「ビキニ」と命名しました。

レアールの本職は自動車エンジニアでしたが、母親が経営していた下着会社の手伝いをしていてビキニを思いつきました。ちなみに発表時から肌の露出度が極めて大きな水着だったため、大胆すぎて当初はほとんど着用されなかったそうです。

1948年には実験場は隣のエニウェトク環礁に変更されました。1954(昭和29)年3月1日、再びビキニ環礁に戻して行われた水爆実験(ブラボー実験)で惨事は起きました。

ブラボー実験では、広島型原子爆弾約1000個分の爆発力の水素爆弾が炸裂、三つの島が消え去り、深さ120メートル、直径1.8キロのクレーターができたとされています。

米軍が核出力の見積りを誤って不十分な危険水域を設定したため、第五福竜丸をはじめ数百隻以上の漁船、さらにはビキニ環礁から約240キロ離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、あわせて2万人ほどが被曝したとされています。

水素爆弾が炸裂したその日の午前6時45分(日本時間午前3時45分)、何も知らない静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(乗組員23人)はビキニ環礁の東方約160キロの公海上で操業していました。