2015年2月28日土曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑨

     喜びは
             武者小路実篤

  喜びよ、お前は何処からくる、
  深い、深い処からくるね、お前は、
  たしかにお前は、自然の子だね、
  さもなければ人類の子だ、
  お前は。
  個人から生れるにしてはお前は深すぎる。

ロマン・ロランに代表されるヒューマニスティックで理想主義的な世界的思潮は、日本でも、光太郎に限らず、近代文学運動の一つの大きな流れとなりました。

その象徴的な存在が、武者小路実篤らの「白樺派」でしょう。

白樺派は、1910年(明治43)年に創刊された同人誌『白樺』を中心に展開されました。

もともと学習院の学生らが顔見知りの十数人が資金を出し合って刊行を始まったのが『白樺』。

武者小路のほか、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦ら、学習院出身の上流階級に属する作家たちが多いのが特徴でした。しかし学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として禁書扱いされたそうです。

時の学習院院長は、あの乃木希典。乃木が体現するものへの反発から、みんな軍人嫌いで、光太郎のように、ロダン、セザンヌ、ゴッホといった西欧の芸術にも目を開き、影響を受けていたのです。

白樺派は、大正デモクラシーの自由主義的な雰囲気の中、人間を肯定的に受け止め、生命を高らかにうたいあげる作品を生み出しました。島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』など美化を拒んで自然に即して真実を描こうとした自然主義文学に代わり、1910年代の文学の主流となりました。

     プロレタリア

               小林園夫

  てめえ一人に親があると言ふのか
  てめえ一人が女房子持ちだと言ふのか
  てめえ一人が親思いだと言ふのか
  てめえ一人が女房子を可愛がると言ふのか

  てめえやおいらが立つたのは一体誰のためだ
  てめえやおいらが勝つのは何の力だ
  卑怯者奴ッ分つたか

  分かつたら今から部署につけ
  第一警備班だ 同志よ!

一方で、光太郎の“猛獣篇”を書いていた時代は、マルクス主義的な立場から、プロレタリア階級の解放をめざした文学が流行していました。

1910年代後半から、“大正労働文学”とも言われた、現場の労働体験を言葉にしていく一群の作家たちが出現。小牧近江や金子洋文は、雑誌『種蒔く人』を発刊し、社会の現状の改革と結びついた文学が試みられました。

関東大震災直後の1924年には『文芸戦線』が創刊。プロレタリア文学の中心的な雑誌となっていきます。青野季吉は〈「調べた」芸術〉を提唱し、作家たちの創作意欲を高めました。半面、政治運動の対立がもろに文学的な分裂をも招いていきます。

詩は、ひとりの人間が作り出します。とともに、時代の産物でもあります。そして、詩人が時代のワクを打ち破って射る“一矢”ともなるのです。

「ぼろぼろな駝鳥」は、白樺派やプロレタリア文学が台頭してきた時代に、高村光太郎という芸術家が放った“一矢”だったのです。

2015年2月27日金曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑧

1926(大正15)年、時事新報による「私の好きな世界の人物」というテーマのアンケートに、光太郎は次のように答えています。

――世界各方面の現代名士中貴下の好まれる人物氏名

躊躇なしにロマン ロラン

――何う言ふ点を好まれるか

彼が世界で最も高い精神であるが故に。彼よりも博学な、賢明な又新らしい主義をもつ人物は尠(すくな)くないが、彼ほど清冽の心を持ちながらその英雄主義に他を凌駕する意識のほとんど感じられない点は全く人類の宿弊を破つてゐる。

“猛獣篇”を書いていた時期、光太郎はロマン・ロランに激しく傾倒していました。

ロマン・ロラン(1866~1944)は、『ジャン・クリストフ』『魅せられた魂』などで知られるフランスの作家です。

理想主義的ヒューマニストとして、世界の平和運動の先頭に立ち、反ファシズムや戦争反対を叫び続けました。

1914年8月に起きた第1次世界大戦の際には、滞在中のスイスから、仏独両国へ「戦闘中止」を訴えます。

そのため祖国へ帰れない状態になるのですが、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセらと意を通じ合いその活動はより国際的な広がりをもってゆきます。

1916年にはノーベル文学賞を受賞。翌17年にロシア革命が勃発するとすぐに支持を表明している。

光太郎は、1924(大正13)年、ロマン・ロランの戯曲『リリュリ』の訳を古今書院から刊行。翌年には、尾崎喜八、片山敏彦らとロマン・ロランの友の会をつくっています。

1926年1月29日、ロランの誕生日の「時事新報」に発表された「ロマン ロラン六十回の誕辰に」という記事の中で次のようにロランを讃えています。

〈彼は常に時代の表面を流れない。常に時代を裏づけてゆく。時代の道徳を超えた「道」に立つ人類がいつかは必ず到達するであらう平和の日の来るまで、飽かず人類が繰返すところの一里塚である。〉

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

“猛獣篇”では、自由で自然な猛獣に対比させるかたちで人間の卑小さをクローズアップさせます。そして、ここに出てくる「駝鳥」、あるいは前回見た「白熊」など、動物園に閉じこめて飼う残酷さを描くことで、人間社会を批判しています。

人道主義的な考え方をつきつめれば、政治や社会的なものと対峙せざるを得なくなります。ロマン・ロランに象徴される理想主義的ヒューマニズムへの傾斜と、“猛獣篇”は、がっちり結びついてくるのです。

それは、ひたすら自分の生き方に密着し、それを確認してきた「道程」時代の若き詩人が、年を重ねたところで、当然のごとく行き着く転機のようにも思えます。また一方で、後にみる「白樺派」やプロレタリア詩の台頭など、当時の文学的潮流のひとつの果実ととらえることもできそうです。

2015年2月26日木曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑦

  ザラメのやうな雪の残つてゐる吹きさらしのブロンクス パアクに、
  彼は日本人(ジヤツプ)らしいオシのやうな顔をして
  せつかくの日曜を白熊の檻の前に立つてゐる。

  白熊も黙つて時時彼を見る。
  白熊といふ奴はのろのろしてゐるかと思ふと
  飄として飛び、身をふるはして氷を砕き、水を浴びる。

  岩でできた洞穴(ほらあな)に鋭いつららがさがり
  そいつがプリズム色にひかつて
  彼の頭に忿怒(ふんぬ)に似た爽快な旋回律を絶えず奏でる。

  七ドルの給料から部屋代を払つてしまつて
  鷲のついた音のする金が少しばかりポケツトに残つてゐる。
  彼はポケツトに手を入れたまま黙りこくつて立つてゐる。

  二匹の大きな白熊は水から出て、
  北極の地平を思はせる一文字の背中に波うたせながら、
  音もさせずに凍つたコンクリートの上を歩きまはる。

  真正直な平たい額(ひたい)とうすくれなゐの貪欲な唇と、
  すばらしい腕力を匿した白皚皚(はくがいがい)の四肢胴体と、
  さうして小さな異邦人的な隣火の眼と。

  彼は柵にもたれて寒風に耳をうたれ、
  蕭条(せうでう)たる魂の氷原に
  故しらぬたのしい壮烈の心を燃やす。

  白熊といふ奴はつひに人に馴れず、
  内に凄じい本能の十字架を負はされてね
  紐育(ニユーヨーク)の郊外にひとり北洋の息吹をふく。

  教養主義的温情のいやしさは彼の周囲に満ちる。
  息のつまる程ありがたい基督教的唯物主義は
  夢みる者なる一日本人(ジヤツプ)を殺さうとする。

  白熊も黙つて時時彼を見る。
  一週間目に初めてオウライの声を聞かず、
  彼も沈黙に洗はれて厖大な白熊の前に立ち尽くす。

「清廉」につづく“猛獣篇”の第2作「白熊」です。詩の舞台となっているニューヨーク市のブロンクス公園には、世界最大級の動物園があります。1899年に一般公開をはじめ、いまでは世界中の約650種4000匹の動物が飼育されているといわれます。

「白熊」は、第1作「清廉」が作られた翌1925(大正14)年1月にできました。「猛獣篇第一部より」の傍題がついています。

かまいたちをテーマにした「清廉」には、「猛獣篇第二部より」と添えられていました。というのは、光太郎は当時、完成すれば40篇くらいになることが想定される詩集『猛獣篇』を作る構想をもっていたのです。

当初、その詩集の第一部には実在の動物を、第二部には架空の動物を配置する予定でした。構想が変わったためか、「ぼろぼろな駝鳥」など他の“猛獣篇”の作品にはこうした傍題はありません。

結局、詩集『猛獣篇』は実現されず、「白熊」は詩集『記録』序篇に編入されています。その際付けられた前書きには、次のように記されています。

〈明治三十九年筆者はアメリカ紐育市に苦学してゐた。日露戦争の後なので数年前の排日運動の烈しい気勢はなかつたが、われわれが仲裁して面目を立ててやつたのだといふやうな顔には絶えず出会つた。紐育市郊外ブロンクス公園が筆者の唯一の慰安所であつた。動物は決して「ハロー ジヤツプ」とはいはなかつた。〉

「白熊」について北川太一は、著書『高村光太郎』のなかで次のように指摘しています。

「留学当時のこの極東の青年の心に強く刻印されたアメリカの一面であることは疑えない。かつてそこで、毎日生れてはじめてのことを経験し、日本的倫理観から解放されたそのアメリカが、このような形で歌われるためには、およそ二十年近い歳月が必要だった。ここでは明らかに外界の矛盾と自分とを凝視する眼があり、憤怒がある」

2015年2月25日水曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑥

「ぼろぼろな駝鳥」の入った“猛獣篇”と呼ばれる一連の詩群で最初に発表されたのは、関東大震災から1年あまり経った1924(大正13)年11月に作られた「清廉」です。

  それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
  そそり立つ岸壁のががんと大きい
  山巓の気をひとつ吸ひ込んで
  ひゆとまき起る谷の旋風に乗り
  三千里外
  都の秋の桜落葉に身をひそめて
  からからと鋪道に音を立て
  触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
  ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
  世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ

  愛憐の霧を吹きはらい
  情念の微風を断ち割り
  裏にぬけ
  右に出て
  ひるがへりまた決然として疾走する
  その行手には人影もない
  孤独に酔い、孤独に巣くひ、
  茯苓(ふくれう)を噛んで
  人間界に唾を吐く

  ああ御しがたい清廉の爪は
  地平の果てから来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
  みずから肉身をやぶり、
   血をしたたらし
  湧きあがる地中の泉を日毎あびて
  更に銀いろの雫を光らすのである
  あまりにも人情にまみれた時
  機会を蹂躙し
  好適を弾き
  たちまち身を虚空にかくして
  世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
  身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
  又一瞬にたちかえる
  あの山巓の気

かまいたち(鎌鼬)は、主に甲信越地方に伝えられる妖怪です。つむじ風に乗ってやってきて、鎌のような爪で人に切りつけます。鋭い傷を受けるが、痛みはありません。

もともと「構え太刀」のなまりと考えられていますが、転じてイタチの妖怪として描かれるようになりました。ハリネズミのような毛をしてイヌのような鳴き声をする獣で、空を飛び、鎌のような前脚で人を襲うともいわれています。

関東大震災が起こった1923年9月1日の夜には「朝鮮人が襲ってくる」というデマが流れ、その直後から、朝鮮人に対する虐殺が繰り返される。震災後の戒厳令下、東京の亀戸では社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10人が警察に捕らえられ、刺殺。アナーキストの大杉栄、伊藤野枝らも憲兵隊に連行されて殺害されました。

さらには、皇太子(後の昭和天皇)が社会主義者の難波大助により狙撃を受ける虎ノ門事件が起こって、時の内閣は総辞職。社会不安はつのり、治安維持の名のもとに人間性を無視した暴挙が続きます。学校教育も軍事色が濃くなっていきました。

詩「清廉」は、こうした時代の空気のなかで猛獣と化した人間界に、かまいたちの「清廉の爪」をあびせようとしているようです。本来の人間の生を確かめ、寄りそっていこうとする光太郎の決意をうたっているようにも思えます。

この詩を読んだ田中静三にあてた手紙で、光太郎は「私として一度は通過しなければならなかつた心の過程であります故自分としては是非善悪を超えた境です。御し難い野獣をインノセントの昔にかへして更に高いものに馴致し得るオルフオイスの力を望んでゐます」と記しています。

2015年2月24日火曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑤

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。

近年では、北海道の旭川市旭山動物園など各地の個性的な動物園が人気を集めていますが、光太郎の時代に動物園といったら、なんといっても上野動物園でしょう。

まして、光太郎は(私もそうですが)、上野動物園のある現在の東京都台東区の住人です。

上野動物園は1882(明治15)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園しました。

当時の面積は1ヘクタールほど。日本で初めての動物園です。

もともとこの博物館は、ウィーンの万国博覧会へ出品するため、全国から集められた物産を一般の人たちに公開するのが目的でした。そのため、動物園に集められたのも、日本で生まれた動物がほとんどでした。

1886(明治19)年に宮内省所管となってからは、海外から珍しい動物が集められるようになります。外国の王室からの贈物や、日清、日露戦争の戦利品も展示されました。

1887(明治20)年には、イタリアのチャリネ曲馬団から神田・秋葉原で興行中に生まれたトラを、ヒグマと交換で入手。翌88年には清国(中国)から贈られたシフゾウ(四不像)が、シャム(タイ)からはアジアゾウのペアもやってきました。

95年には日清戦争の戦利品としてフタコブラクダ、98年にはオランウータン、1900年にはオーストラリアからハリモグラ、フクロギツネ、ウォンバット、などとつぎつぎと“住人”が増えていきます。

そして1902(明治35)年、この詩の主役であるダチョウをドイツのハーゲンベック動物園から購入しています。この時いっしょに、ライオン、ホッキョクグマなど合わせて12種を、同園から買っています。

これらの中で一番人気はやはりライオンだったようです。きっと、上野にはじめてパンダが来たときのような物珍しさがあったのでしょう。

さらに07年にはハーゲンベック動物園からキリン、09年にはテングザル、11年にはカバを購入。このころになると動物園の面積は3ヘクタールに広がり、かなりグローバルな生き物たちの世界が、園内で展開されるようになっていたはずです。

それは、檻のなかで「四坪半のぬかるみの中では、脚が大股過ぎるぢやないか。頚があんまり長過ぎるぢやないか」という不自然な世界でもあるのでしょうし、南国生まれの動物にとっては「雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎる」ような状態でもあったのでしょうけれど。

ところで、光太郎の人生の転機ともなり、“猛獣篇”が生まれる契機ともなった1923(大正12)年の関東大震災で上野動物園はどうなったのか。

意外にも、正門の門柱が1本倒れたほかは大きな被害はなく、カバがびっくりして水に潜ったままなかなか出てこないので心配した、という程度で動物たちはみんな無事でした。

2015年2月23日月曜日

「ぼろぼろな駝鳥」④

  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。

ダチョウは鳥の一種ではありますが、ふつうの鳥のイメージからはかけ離れた異色な存在です。第一、鳥なのに飛ぶことが出来ません。

もともとアフリカとアラビア半島に広く生息していました。しかし乱獲などで現在は、アフリカ中部と南部のサバンナや砂漠、低木林などと、生息範囲は限られています。

頭は小さくて、1メートル近い長い首をもつ。オスの成鳥になると全長230センチ、体重135キロほどに達し、現生の鳥類の中では最も大きなサイズです。

また陸上動物の中で最も大きい直径5センチほどの目を持ち、視力も抜群のようです。

翼がヒレのようになったペンギンや、翼が退化しかかっているドードーにもある竜骨突起がダチョウにはありません。

竜骨突起というのは、鳥の胸部にある竜骨と呼ばれる大きな骨の中央を縦に走る出っ張りのことをいいます。飛ぶのに必要な胸筋を支える役割を担っています。

竜骨突起が無いので胸筋は発達せず、さらに羽毛もふわふわとしていて、揚力を受けて飛ぶ構造にはなっていません。

飛べない代わりに、脚は頑丈で俊足です。通常、軽自動車なみの時速50キロ近いスピードで走り、時速70キロを出すこともできます。羽を使って、走る向きを変えたりするのです。

ダチョウの1歩は3~5メートル。その強力なキック力は、ライオンや人間も倒すほどです。2本指の足には長くて鋭いツメがついています。

いろんな年齢のオスやメスが混ざってふつう、10羽程度の小さな群れで生活しています。群れを支配するオスは、優位なメスと交尾。メスとオスは交代で、鶏卵の25倍もの重さになる大きな卵を抱卵します。

通常、植物の草や根、種などを食べる。ダチョウの腸は他の鳥に比べてずっと長く、草などの繊維質を腸で醗酵させてエネルギー源としているようです。厳しい生息環境に置かれると、昆虫やトカゲなどを食べることもあります。

ダチョウが飼育されている様子は古代エジプトの壁画にも見られます。特に羽根は、古代エジプトでは真実と公正の象徴として神々やファラオの装飾品に。中世ヨーロッパでは、騎士の兜の装飾品に用いられました。

古代ローマの料理家アピシウスは、ダチョウ肉料理の記録を残しています。ダチョウ肉は高タンパクで低脂肪、鉄分が豊富で、歯応えのある食感。最近はヘルシー食肉としても注目を集めつつあります。

また、“オストリッチ”と呼ばれる皮革製品は、ダチョウの背中の皮膚を利用したもの。軽くて丈夫で、バッグ、財布、靴などとして幅広く利用されています。

ダチョウは、危険が迫ると砂のなかに頭を突っ込むといわれます。実際はそんな習性はないようですが、その姿から英語では、The foolish ostrich buries his head in the sand and thinks he is not seen.(愚かなダチョウは頭を砂に埋めて、見えないと思っている)などと言われたりもするそうです。

日本のことわざでいえば「頭隠して尻隠さず」といったところでしょうか。また、ダチョウはなぜか昔から、「火を食う」「石を食う」「鉄を食う」などとも言われてきました。なんでも食らう、“化け物”のようなイメージもあるのでしょうか?

2015年2月22日日曜日

「ぼろぼろな駝鳥」③

1923(大正12)年9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖80キロを震源とするマグニチュード7・9の大正関東地震が起きました。190万人が被災、10万5千人余が死亡・行方不明という未曾有の被害が出た関東大震災です。

東京市内の約6割の家屋が罹災、多くの住民が、近くの避難所へと移りました。明治神宮や日比谷公園などには、数千人を収容する規模のバラック(仮設住宅)が建ちならび、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックがつくられたといわれます。

狭い場所避難民が密集したため治安が悪化し、一部は無法地帯、スラムと化しました。もはや警察だけでは手に負えず、軍が出て治安維持にあたり、橋をかけ、被災者を救護しました。

佐藤春夫は当時の状況について「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(『改造』大震災号「サーベル礼讃」)と記しています。

幸い震災の難は逃れた光太郎と智恵子でしたが、当然、その影響は2人のアトリエにも侵入してきました。光太郎は焼け失せた東京の姿を上野から見下ろして、「なつかしさ堪へぬ愛人を思ふ様な涙」にぬれ、「故郷よ、故郷よ、と繰返した」のです。

さらに彼は、「災厄があまり大き過ぎる時、人はもう愚痴をこぼしてゐない。愚痴をこぼすほど自己の感傷に甘つたれてゐられない。絶体絶命の境地は人の根本力を叩き起こす。人は自己の個性の奥から、もつと深い、もつと遠い人間本能の不可抗力に駆られるのを感じる。さうして防衛と再起とは同意味同時の有機的な言葉となつてあらはれる」(「美の立場から――震災直後」)と記しています。

ひたすら内面へと注がれてきた光太郎たちの眼差しは、自然の猛威によって脆くも人間性を奪われ、混乱を極める社会へと視界を広めざるをえなくなりました。そして2人は激しい憤りを感じるとともに、自らの生のありかを再構築せざるを得なくなったのです。

智恵子は、そのころ心に決めた生活信条について「必要以外何物も有たないこと=貧乏なこと。本能の声を無視しないこと。どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。赤裸なこと」と記しています。

こうした震災直後の、1924(大正13)年から1928(昭和3)年にかけて、噴き出すように生まれていったのが「猛獣篇(第Ⅰ期)」と呼ばれる一連の詩でした。それらの詩の題名を並べていくと、次のようになります。

「清廉」「白熊」「傷をなめる獅子」「狂奔する牛」「鯰」「象の銀行」「苛察」「雷獣」「ぼろぼろな駝鳥」「竜」。

実在の動物、空想の生物といろいろ出てきますが、どの詩も、人間の生や生活を抑圧するものに対する反発や怒りに満ちています。近代的な言葉のリズムや音の響きなど、それらの中で最も成功している詩が、「ぼろぼろな駝鳥」といえるでしょう。

2015年2月21日土曜日

「ぼろぼろな駝鳥」② 

高村光太郎は、1883(明治16)年3月13日、東京市下谷区下谷西町3番地(現在の台東区東上野1丁目)に生まれました。

私たちは光太郎を通常「こうたろう」と読んでいるが、本名は「みつたろう」といいます。

余計なことですが、私の誕生日も3月13日、そして同じ東京都台東区の住人。以前から光太郎には、そんな親近感も感じています。

よく知られているように、父は、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげるうえで大きな功績があった高村光雲。

あの、上野公園の西郷隆盛像を作ったことでも有名な人です。

光雲の3人息子の長男に生まれた光太郎は、1897(明治30)年9月、父が教えていた東京美術学校(いまの東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。

父が好まなかった文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり、『明星』に寄稿するようになります。

1906(明治39)年から留学の旅に出る。ニューヨークに1年、その後ロンドンに2年、パリに9カ月滞在。1909(明治42)年に帰国すると、旧態依然とした日本の美術界に不満を募らせ、事あるごとに父に反発。東京美術学校の教職も断りました。

明治45年には、駒込にアトリエを完成。岸田劉生らと結成した第1回ヒュウザン会展に油絵を出品している。1914(大正3)年には詩集『道程』を出版、その直後に長沼智恵子との結婚を披露し、婚姻届けは出さないままの共棲が始まります。光太郎31歳のときでした。

昼間は彫刻、夜は執筆。智恵子は肋膜などに病気を抱え、父の仕事の下請けでかろうじて生計を営む窮乏した毎日だったが、30代半ばには、塑像「手」「裸婦坐像」など代表作を次々に生んでいます。

1921(大正10)年、『明星』が復刊。これを機に、『道程』を出してから途絶えがちだった文学活動も再び熱を帯びるようになります。「雨にうたるるカテドラル」などの詩をはじめ、短歌、翻訳など続々と発表していくのです。

大正12年6月の『明星』では、「ぼろぼろな駝鳥」をはじめとする“猛獣篇”の時代の到来を予告させる、次のような詩も発表しています。「とげとげなエピグラム」という題が付いています。

  どうかきめないでくれ、
  明るいばかりぢやない、
  奇麗なばかりぢやない、
  暗いもの、きたないもの、
  あきれたもの、残忍なもの、
  さういふ猛獣に満ちてゐる
  おれは砂漠だ。
  だから奇麗な世界に焦れるのだ。

      ○

  この猛獣を馴らして
  もとの楽園にかへすのが、
  そら恐ろしい
  おれの大願。

そして、この詩が発表になった直後の大正12年9月1日、光太郎が住む東京は、関東大震災に見舞われることとなります。

2015年2月20日金曜日

「ぼろぼろな駝鳥」①

きょうからまた日本の近代詩にもどって、高村光太郎(1883~1956)の有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」を読んでいくことにします。

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

1928(昭和3)年2月7日、44歳のときの作。同年3月発行の『銅鑼』14号に発表されました。

光太郎は40代になってから、白熊、獅子、牛、象、竜など動物をテーマにした「猛獣篇」といわれる一連の詩を書いています。「ぼろぼろな駝鳥」はその代表的な作品でもあります。

『銅鑼』は、1925(大正14)年4月、中国の広州嶺南大学(現在の中山大学)銅鐸社から、謄写版印刷で創刊された同人誌。

創刊同人は、嶺南大学に留学していた草野心平、それに黄瀛(こうえい)、劉燧元(りゅうすいげん)、原理充雄、富田彰の5人でした。

心平はその創刊号に、「同人誌の雨生の中を、このみすぼらしいトウシヤ刷りの出発だ。ぼく逹の仕事がどんな風に進展して行くか、眼のある人は見てゐてくれるだらう」と記しています。

ところが創刊直後の1925年5月30日、上海でデモ隊に租界警察が発砲、学生や労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出る「5・30事件」が起きました。

これを皮切りに反英・排日運動が中国各地に広まったあおりを食らって、『銅鑼』3号は、未製本のまま草野がゲラを日本へ持ち帰り、黄瀛の協力でようやく発行されるという憂き目にあいました。

以後、発行所を次々に変えながら、高橋新吉、宮沢賢治、佐藤八郎、小野十三郎、尾形亀之助など、参加者の詩的、思想的な幅も広がっていきます。

「ぼろぼろな駝鳥」が載った、『銅鑼』14号は、土方定一訳の「バクーニンの手紙の断片」が掲載されるなど、かなりアナーキズム色が強いものになっていきました。

そして創刊から3年、「ぼろぼろな駝鳥」が載った1928年の6月に出た16号をもって終刊となったのです。