2015年3月24日火曜日

茨木のり子「鯛」⑬

  早春の海に
  船を出して
  鯛をみた

  いくばくかの銀貨をはたき
  房州のちいさな入江を漕ぎ出して
  蜜柑畠も霞む頃
  波に餌をばらまくと
  青い海底から ひらひらと色をみせて
  飛びあがる鯛
  珊瑚いろの閃き 波を蹴り
  幾匹も 幾匹も 波を打ち
  突然の花火のように燦きはなつ
  魚族の群れ

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

  偉い僧の生誕の地ゆえ
  魚も取って喰われることのない禁漁区
  法悦の入江
  愛もまた奴隷への罠たりうるか

  海のひろさ
  水平線のはるかさ
  日頃の思いがこの日も鳴る
  愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

「鯛」について、いっしょに詩誌「櫂」を始めた同志である川崎洋は、その著『こころに詩をどうぞ』に、次のように記しています。

〈この鯛ノ浦は、魚にとっては、うっとりするような喜びの入江です。しかし、別の角度から見ると、魚達はその入江から出て黒潮を泳ぎまくったり、未知の海を目指したりする生命のほとばしりからは遮断され、見世物としての日常に拘束されているということになります。

それが日蓮上人の慈愛によってもたらされた。そう考えることから、愛もまた奴隷への罠たりうるという一行がつむぎ出されました。愛という罠にとらえられたら、身も心もまるごと相手に捧げることになる。そんな愛の力学に思いが到るというわけです。〉

「鯛」が入った詩集『鎮魂歌』が出版されて10年後の1975(昭和50)年、のり子は最愛の夫、三浦安信を癌で失います。その時、のり子は〈戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた。〉といいます。

〈今まであんまりにもすんなりと来てしまった人生の罰か、現在たった一人になってしまって、「知名」と言われる年になって経済的にも心情的にも「女の自立」を試される羽目に立ち至っているのは、なんともいろいろと「おくて」なことなのであった。

そして皮肉にも、戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった《自由》の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった。〉(「はたちが敗戦」)

「寂寥だけが道づれ」の日々に入ってから30年以上たった2006(平成18)年2月、茨木のり子は自宅でひとり息を引き取りました。享年79歳。生前に、のり子は自身の「死亡通知」を残していました。

  このたび私〇〇〇〇年〇月〇日〇〇にて
  この世におさらばすることになりました。
  これは生前に書き置くものです。
  私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
  この家も当分の間、無人となりますゆえ、
  弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
  返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
  「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
  思い出して下さればそれで十分でございます。
  あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
  おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
  しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かに
  して下さいましたことか……。
  深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

  ありがとうございました。

  〇〇〇〇年 月 日

準備されていた手紙は、死亡の日付や死因などが空欄になっていました。そこを埋めて郵送してほしい、と甥の宮崎治夫妻に託していたそうです。最期もまた、凛として筋が通っていました。

2015年3月23日月曜日

茨木のり子「鯛」⑫

物質とは何かと探っていくと、クォーク、レプトン、ゲージ粒子、それから昨年、CERN(欧州合同原子核研究所)で発見されたヒッグス粒子などいろんなものにたどり着くように、「言葉」にもさまざまな要素がつまっています。

意味や音の響き、文字のつづり方やかたち、論理、醸し出すニュアンスなど数えあげればきりがありません。画家がさまざまな色の絵の具や筆を使ってカンバスに絵を描くように、詩人はこうした言葉のいろんな要素を駆使して言語空間というカンバスに文字を刻んでいきます。

何が書かれているのかさっぱり分からないけれども、言葉の引き出しかたや、響きの美しさ、比喩の面白さなどから詩人たちの間で高く評価される作品もたくさんあります。

でも、詩人共同体の外にいる一般の人たちにはそれがまるで理解されず、そっぽを向かれるという状況をもまねきます。

茨木のり子の作品は、そうした“何が書かれているのかさっぱり分からない現代詩”とは、ほど遠いところにあります。

「鯛」を読んでも分かるように、のり子の詩は論理的で、すかっと筋が通っている。そして、新聞に載っているような私たちが日常使う言葉で、しっかりした視座からものを見つめ、問いかけます。

だから、のり子の作品はみんなに読まれるのです。説得力のある言葉の力が伝わって共感を、ときには反感をもひき起こします。わかりやすく考えを伝えるのは簡単そうにみえますが、それを実行するのは並大抵のことではありません。

新聞や雑誌で情報としての言葉をきちんと伝えるだけでも、さまざまな誤解や摩擦を招くことがあります。のり子ははっきりと伝わる言葉を選んで詩を組み立て、独自の世界を構築していきました。

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

  偉い僧の生誕の地ゆえ
  魚も取って喰われることのない禁漁区
  法悦の入江
  愛もまた奴隷への罠たりうるか

  海のひろさ
  水平線のはるかさ
  日頃の思いがこの日も鳴る
  愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

決して「老いたトラホームの漁師」や「ぶざまなまでの大きさ」の鯛に罪があるわけはありませんが、「偉い僧の生誕の地」でつづけられている地域に根付いた行為に「愛もまた奴隷への罠たりうるか」と詩人は疑問の声を上げます。

大きな言論機関に身を置くわけでもないひとりの詩人が、大っぴらにこうした批判的な言葉を投げかけるには、“言葉遊び”に終始するような場合と違って、相当の覚悟が要り、責任がかかってきます。

詩人にとってこうした責任は、書くことによって、そして生きる姿勢によって果たしていくしかなかったのです。

のり子が73歳だった1999年に出版された『倚りかからず』は、詩集としては異例の15万部の売り上げを記録しました。

      倚りかからず

  もはや
  できあいの思想には倚りかかりたくない 
  もはや
  できあいの宗教には倚りかかりたくない
  もはや
  できあいの学問には倚りかかりたくない
  もはや
  いかなる権威にも倚りかかりたくない
  ながく生きて
  心底学んだのはそれぐらい
  じぶんの耳目
  じぶんの二本足のみで立っていて
  なに不都合のことやある

  倚りかかるとすれば
  それは
  椅子の背もたれだけ

老いても、のり子の凛とした姿勢は貫かれました。ただし、老いのためか、「椅子の背もたれ」という肉体的、精神的な“避難場所”は用意していたようではありますが。

2015年3月22日日曜日

茨木のり子「鯛」⑪

1年ほど前、ケネディ駐日米大使が、和歌山県で行われているイルカ追い込み漁について「非人道性を懸念している」とツイッターに書き込んだことをめぐって、議論を呼んだことがありました。

ケネディ大使は、追い込み漁に反対する何百というツイートを米国内から受け取り、自分のツイッターに書き込むことを決めたようです。

米国での関心が高まったのは、反捕鯨団体の「シー・シェパード」がインターネットを通じて漁の様子をくわしく報告したのも影響していたようです。

米政府は、追い込み漁が「イルカの生息数不足を招く」ことなどを理由にして、漁を「支持しない」立場を取っています。日本側からは、「牛や豚や魚の命も奪っているが、それに目をつぶり、鯨やイルカ漁を残虐というのは論理的でない」(仁坂吉伸・和歌山県知事)など、反論が相次ぎました。

クジラやイルカなどの商業捕鯨の是非については、国際捕鯨委員会(IWC)で半世紀以上にわたり、世界的に激しい論議が続けられてきました。しかし、捕鯨国と反捕鯨国との間にある深い溝はいっこうに埋まりません。

2010年5月現在、IWCには88カ国が加盟しています。このうち、捕鯨支持国39カ国に対し、反捕鯨国は49カ国。徐々に支持する国が増えてきているとはいえ、世界的には捕鯨に反対する国のほうがはるかに多いのが現実です。

伝統的にクジラやイルカを食べる文化をもち捕鯨をしてきた国には、日本をはじめノルウェー、アイスランド、、ロシア、カナダ、フェロー諸島(デンマーク自治領)などが挙げられます。アメリカは、国内の少数民族の先住民生存捕鯨は認めていますが、商業捕鯨には反対の立場。捕鯨国のカナダは、国際捕鯨委員会を脱退しています。

捕鯨が是か非かは、捕りすぎによる資源の減少やクジラ類の種の保全、生態系の維持といた自然保護的な視点だけでなく、経済問題や食文化、宗教観などさまざまな方面から争われています。

捕鯨反対派の中には、クジラ類は脳が大きく音波によって高度なコミュニケーションをとり、人間と同じ哺乳類である。こうした点から「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食べるのをタブー視する考えが根強くあります。

牛や豚など他の哺乳類はたくさん食べているし、知能がどうのこうので線を引くのは逆に人間の「差別」にもつながる、理不尽で、不合理なものにも思えるのですが。

国や民族によって異なる風習や伝統な考えかた、宗教的な教えといったものには、理屈を超えた大きな力があります。クジラを「食料」ととらえるか、「野生動物」とみるかという食文化の問題も大きくかかわってきます。

20年ほど前、私は、北極圏の端にあるノルウェー最大の捕鯨基地、ロフォーテン諸島で、あるクジラ漁師に会いました。捕鯨砲を50年間撃ってきたという、当時70歳のエルンスト・ダールさんです。

そのころノルウェーは商業捕鯨を中断していて、ダールさんたちは仕方がなくホエール・ウォッチングに切り替えました。ところが、船は失火で消失。1億円はするという捕鯨船を買うやりくりに追われていました。

「これをクジラに打ち込んでいたんだ」と、大きな体のダールさんからそのとき記念にもらった捕鯨砲の槍の先が、いまも自宅の机の中にあります。

ちなみにダールさんの奥さんは、玲子さんという横浜出身の日本人女性。2人の仲むつまじい様子から、なんとなくクジラ文化のえにしのようなものを感じたものです。

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

  偉い僧の生誕の地ゆえ
  魚も取って喰われることのない禁漁区
  法悦の入江
  愛もまた奴隷への罠たりうるか

捕りたくても、捕れないしばり。クジラやイルカへの「愛もまた奴隷への罠たりうるか」。詩「鯛」を読んでいると、いままさに激しい論議の渦中にある大きな国際問題にも思いがおよびます。

2015年3月21日土曜日

茨木のり子「鯛」⑩

  ひとびとも育つ
  アカシヤや泰山木のように
  あるとき 急速に

  一九六〇年の雨期
  朝の食卓で 巷で 工場で 酒場の隅で
  やりとりされた言葉たちの
  なんと 跳ねて 躍ったことか

  魚籠より溢れた声たちは
  町々を埋めていった
  おしあい へしあい
  産卵期の鮭のように

  海に眠る者からの使いのように
  グァム島から二人の兵士が帰ってきた
  すばらしい批評を真珠のように吐きちらし

  ひとびともたしかに育つ
  ひそやかで隠微なひとつの方則
  それを見た あるとしの六月に

詩集『鎮魂歌』に、「鯛」とともに掲載されている「あるとしの六月に」という詩です。

「魚籠より溢れ」出る、「跳ねて」「躍った」声。「産卵期の鮭のよう」な「おしあい へしあい」。

こうした、魚の行動にたとえて表現されているものは何なのか。詩の題名と「一九六〇年の雨期」からすれば、ある年代以上のかたたちは、すぐにピンとくるでしょう。そう、日米安保条約改定に対する反対闘争のことです。

1957年、岸信介首相が安保改定に乗り出すと、やがて各地で反対運動が活発になっていきます。1960年5月19日に新安保条約が強行採決されると、各地で岸内閣退陣を求める抗議デモへと発展します。

そして6月15日、運動は最高潮に達します。この日のストには580万人が参加し、全国で3万店が閉店しました。東京では11万人が国会議事堂を包囲した、とされています。

デモ隊は右翼と遭遇して大乱闘になります。学生たちはスクラムを組んで通用門に体当たり。「ワッショイ、ワッショイ」と門扉にロープを巻いて引き倒し、門内の阻止の車両にも火を放ちました。

警官隊は放水して押しもどそうとしましたが、抑えきれずに学生らは構内へ乱入して警官隊と衝突。午後7時過ぎ、そんな中で東大生・樺美智子(22歳)が転倒し、学生らの下敷きとなって圧死するという悲劇が起きました。

後藤正治によるのり子の評伝『清冽』によると、この年の5月から6月の日々を綴った「日記風の体裁を取ったエッセイ」が、詩誌「現代詩」(飯塚書店発行)に掲載されました。そこに「六月四日」の日付で、次のような記述があるそうです。

《その日、一人でも入れるデモを探そうと思つた。(中略)坂の中ほどに立つてぼんやり見ていると、やがて大学生の大群がジグザグ行進をしてやつてきた。全学連をまのあたり見たのもこれが最初だつた。

〈岸を倒せ〉〈安保反対〉われわれの友情は……という唄、はためき流れる無数の校旗、汗くさい顔、稚い顔の渦……全学連は日本の鬼つ子だ。とびがたかを生んだ驚いているようなものだ。

この皮肉と、おかしみと、感動! かれらは年令からいえば戦死した学徒兵たちの末弟ぐらいにあたるのだろうか!

警官の前を通るときは、うつかりすると押し返されるのでしつかりスクラムを組んだ。まつたくこれも私にとつては劃期的なことだつた。夫以外の見も知らぬ男性と腕を組むなどということは!》

怒り、叫ぶ、激しい大波が荒れまくっているなか、のり子も、デモに混じって「戦死した学徒兵たちの末弟」たちとともに闘っていました。

  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

国の「進路」をめぐって激しくぶつかり合い、そして、

  ひとびとも育つ
  アカシヤや泰山木のように
  あるとき 急速に

そんな時代にあって詩人が目にする「怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさ」には、きっと、ひときわ「ぎょっとさせる」ものがあったのでしょう。

2015年3月20日金曜日

茨木のり子「鯛」⑨

  子孫のために美田を買わず

  こんないい一行を持っていながら
  男たちは美田を買うことに夢中だ
  血統書つきの息子に
  そっくり残してやるために
  他人の息子なんか犬に喰われろ!
  黒い血糊のこびりつく重たい鎖
  父権制も 思えば長い

  風吹けば
  さわさわと鳴り
  どこまでも続く稲の穂の波
  かんばしい匂いをたてて熟れている
  金いろの小さな実の群れ
  〈あれはなんという川ですか〉
  ことこと走る煤けた汽車の
  まむかいに坐った青年は
  やさしい訛をかげらせて 短く答える
  〈最上川〉
  彼のひざの上に開かれているのは
  古びた建築学の本だ

  農夫の息子よ
  あなたがそれを望まないのなら
  先祖伝来の藁仕事なんか けとばすがいい

  和菓子屋の長男よ
  あなたがそれを望まないのなら
  餡練るへらを空に投げろ

  学者のあとつぎよ
  あなたがそれを望まないのなら
  ろくでもない蔵書の山なんぞ 叩き売れ

  人間の仕事は一代かぎりのもの
  伝統を受けつぎ 拡げる者は
     その息子とは限らない
     その娘とは限らない

  世襲を怒れ
  あまたの村々
  世襲を断ち切れ
  あらたに発って行く者たち
  無数の村々の頂点には
  一人の象徴の男さえ立っている

のり子が39歳だった1965(昭和40)年に出した詩集『鎮魂歌』の、「鯛」の次の次に出てくる詩「最上川岸」という詩です。

あの西郷隆盛の詩に、「児孫のために美田を買わず」という言葉が出てきます。子孫に財産を残すと、それに依存して安逸な生き方をしてしまうので財産を残さない、というような意味です。

そうはいっても、子や孫に「美田」とまではいかなくても、何らかのものは残してやりたいと思うのが世のふつうの親たちの人情であり、プライドでもあるでしょう。

先祖代々受け継いできた「和菓子屋」なら、それを絶やすことができないと主人たる男は考えるのが常です。あとつぎにあたる子も、「餡練るへらを空に投げろ」とは簡単にいかないから葛藤します。

この詩を、“世間知らず”の女性詩人の戯言と受け止める向きもあるでしょう。でも、そのズバズバ切り込む激しい語り口は爽快で、理屈としてはうなずけます。

愛知県西尾市で育ったのり子は「父はその町の或る病院の副院長をしていて、経済的にも比較的恵まれていたせいで、昭和初期の不景気風も身に沁むことがなかった」。

「女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生き抜いてゆけるだけの力を持たねばならぬ」というのが持論の父の意にそって、いまの東邦大学薬学部を卒業しています。

戦後の1949(昭和24)年、「医学の新しい在りかたを求めて意欲的」な勤務医と結婚。「米も煙草もまだ配給で、うどんばかりの夕食を取りながら、エドガー・スノウの『中国の赤い星』を一緒に読みあった」りしていました。

「女房が物書きの道を進むというのは、夫としてはどう考えてもあまりかんばしいことではない筈なのだが、夫は一度もそれを卑しめたり抑圧したりすることがなく、むしろのびのびと育てようとしてくれた。

父、夫、先輩、友人達、私の身辺に居た男性たちが、かなり優秀で、こちらの持っていた僅かばかりの芽を伸ばそうとばかりしてくれた。そのために男性への憎悪をバネに自分をかちとるとか、仕事をするということがなかった」(「はたちが敗戦」)。

まさに絵に描いたような、知的で、リベラルな恵まれた環境のなかでのり子は育ち、暮らしていました。それは、地域の因習やしきたりに拠らなければ生きてはいけない「房州のちいさな入江」に住む、当時の漁村の人たちの生活とは大きな隔たりをもったものだったでしょう。

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

「泳ぎ出して行」きたくても、遠くへ「進路を取」りたくても、その手立てや方向、さらにはモチベーションさえも見出しえない状態に置かれることはよくあります。なんらかの、そうした「拘束」のなかに置かれているのが、生の営みなのかもしれません。

しかし、詩人は泳ぎだそうとしない「怠惰な鯉」に「ぎょっと」し、いらだちます。それを“世間知らず”といってしまえばそれまでですが、“世間知らず”だからこそ発せられる問いかけの中にも真実があります。そこに、現代詩の魅力もあるのです。

2015年3月19日木曜日

茨木のり子「鯛」⑧

詩「鯛」の舞台、「鯛の浦」は、1967(昭和42)年12月に、特別天然記念物に指定されています。

文化財保護法の規定で、学術上貴重でわが国の自然を記念する天然記念物のうち、世界的、国家的に価値が特に高いものが特別天然記念物。動物では、21件が指定されていいます。

タンチョウ、カモシカ、トキ、オオサンショウウオなどの動物のほか、「小湊のハクチョウおよびその渡来地」「長岡のゲンジボタルおよびその発生地」「高知市のミカドアゲハおよびその生息地」など、地域とのセットで指定されているものもあります。

「鯛の浦」の指定地域は、内浦湾東側の入道ケ岬と西側の松ケ鼻を結んだ湾内の海域と、東側の岬に近い陸地の一部をあわせた200haとなっています。

国の天然記念物に指定されると、荒らされたり傷つけられたりすることがないように、文化庁長官の許可がなければ、捕ったり釣ったりすることがことができなくなります。

そのため、天然記念物としてある特定の生物だけを保護したのがアダとなり、かえって生態系のバランスが崩れたり、自然破壊や経済的損害をもたらすことも少なくありません。

たとえば、下北半島のニホンザル、長野県のニホンカモシカ、奈良公園のシカなど、天然記念物として保護されたために個体数が増えて、農作物や農林業に被害をもたらすなどの問題が起こりました。

“平たい魚”を意味しているタイは、雌は5~6歳になると産卵します。産卵期は4~6月。体重1.5kgのタイで40万粒、体重4kgなら90万~100万粒を産みます。

受精後2日半で孵化した稚魚は、7月上旬まで藻場にいて動物性プランクトンを、8月中旬からは岩礁で小エビなど甲殻類、9月中旬になるとエビの漁場でエビのほかにイカなどを餌にして育っていきます。

1月下旬になると、まったく餌を採らず越冬状態になります。 4月上中旬、越冬を終えた幼魚は回遊を始めます。成魚になるのは6,000粒の卵から1匹の割合といわれています。

ふつうは水深30~150mの海底が岩や砂利のところに生息し、群れを作らず、海の中層を回遊しています。ところが「鯛の浦」はきわめて異例で、水深10~15mと浅く、狭い範囲に群れをなして生息するのです。

しかも、船べりを叩くと水面近くに現れて、 魚の切り身など与えられる餌に集まります。どうして集まるのか、生態学的にこの現象をどう考えたらいいのかといったあたりは、まだ十分解明されていないようです。

こうした鯛を人々は、先祖代々、日蓮の生き姿と考えて信仰し、たとえ戦争で食べるものに苦慮しても捕らず、「鯛の浦」を守り続けてきました。そしてさらに、特別天然記念物という制度のワクもつけられているのです。

「鯛の浦」は全国的に知られ、通常は人的被害をもたらすものでもなく、観光資源として地元の経済に大きな貢献をしているのかもしれません。

  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

しかし、「鯛の浦」であてがい扶持に頼ってぬくぬくと暮らす「怠惰な鯛」に、詩人はいらだちます。生命あるものが本来もっているはつらつさを失った「ぶざまなまでの大きさ」の鯛に、歎きの声をあげているのです。

2015年3月18日水曜日

茨木のり子「鯛」⑦

  いくばくかの銀貨をはたき
  房州のちいさな入江を漕ぎ出して
  蜜柑畠も霞む頃
  波に餌をばらまくと
  青い海底から ひらひらと色をみせて
  飛びあがる鯛
  珊瑚いろの閃き 波を蹴り
  幾匹も 幾匹も 波を打ち
  突然の花火のように燦きはなつ
  魚族の群れ

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

詩「鯛」に出てくる「トラホーム」というのは、重い結膜炎を引き起こす眼の感染症です。トラホームはドイツ語読みで、いまは英語読みの「トラコーマ」と呼ばれることのほうが多いようです。

長年、トラコーマの研究に打ち込んでいた野口英世は、1927(昭和2)年、「病原体」を見つけたと発表しました。しかし、それは結果的に間違えで、後にクラミジアという微生物の感染で起こることが分かりました。

トラコーマに感染すると、まぶたの裏側に透明で小さな水ぶくれができます。そして、まぶたがはれて、目は充血し、うみのような目ヤニが出ます。重症化すると、視力障害をまねいて失明することもめずらしくありません。

衛生管理がいきとどき栄養状態もいい、いまの日本で、トラコーマのが発症することはまずありません。クラミジアというとむしろ、性感染症のイメージで受けとめられることのほうが多いでしょう。

しかし世界的には、アフリカやアジア諸国などのクラミジアの感染が広まっている地域では、トラコーマがいまも流行し、年間600万人が失明するともいわれています。

かつては国内でもトラコーマが流行っていました。日清戦争のとき、兵士がトラコーマに感染して帰国したのがきっかけともいわれ、1910年代には罹患率は20%を超えていたともいわれます。

夏休みなどに学校へ医師が来て診療し、トラコーマが疑われると目のまわりに薬をたっぷり塗られた、といった思い出をもっている方もおられるでしょう。

近代日本の文豪、夏目漱石は、胃潰瘍、神経衰弱、糖尿病など数多くの病に苦しめられたことで知られていますが、持病の一つにトラコーマもありました。

昨年、94歳で亡くなった歌手の田端義夫は3歳のとき父を亡くし、少年時代、極貧のため慢性的な栄養失調でした。そのため、トラコーマにかかって右目の視力を失ったとされています。

トラコーマは「貧困」の象徴でもあったのです。

かつて漁村では、飲んだ食べたりするのに使う衛生的な水が不足していて、汚水や海水が目に入るなどして感染し、トラコーマの患者が多かったといいます。鯛を呼ぶ老いた漁師は、外見でわかるほどトラコーマが進んでいたのでしょうか。

  青い海底から ひらひらと色をみせて
  飛びあがる鯛
  珊瑚いろの閃き 波を蹴り
  幾匹も 幾匹も 波を打ち
  突然の花火のように燦きはなつ

そんなふうに輝きながらも「鍛えられた美しさを見せぬ」怠惰に見える鯛。

それを獲ることもできずに「船ばた叩いて鯛を呼」んでいるだけの、決して豊かではないであろう「老いたトラホームの漁師」。

それらの対比からは確かに、「かなしい」ものが湧いてきます。

2015年3月17日火曜日

茨木のり子「鯛」⑥

右手に釣り竿をもち、左脇に鯛を抱えて……。福の神、古くから漁業の神とされてきた“えべっさん”には鯛が付きものです。

古事記や日本書紀、万葉集にも、コイやアユとともにタヒ(タイ)が必ず登場します。赤くて、大きくて、姿がりっぱで見栄えがいい。むかしから鯛は、日本人にとって特別な魚として、大きな存在感を示してきました。

日本の魚はおよそ3800種。うち「**ダイ」と名のつく魚が全魚の1割近い335種以上いて「**ウオ」よりはるかに多いそうです。

刺身、塩焼き、煮付け、混ぜご飯、蒸し焼き、昆布締めなど、いろんな料理があります。赤い色がめでたいと、婚礼などお祝いの席では欠かせません。

マダイは成長して桜の咲く季節に産卵のため、内海や沿岸の浅瀬に集まってきます。この時期の雌は濃い桜色になため「桜鯛」と呼ばれ、俳句の春の季語にもなっています。

  鰈(かれひ)らは乞食魚かも桜鯛  日野草城

鯛は良きにつけ悪しきにつけ、豪華さや華麗さ、ぜいたくの代名詞にもなります。めでたい席に鯛がなければ格好がつかず、「ぜいたくは大敵」の時代に鯛など食べていれば疎まれるのです。

前に見たような、鯛を日蓮の生き姿と考える日蓮宗の信者でなくても、日本人の鯛に対する“信仰”には、おそるべきものがあります。


「娘を育てるについても、質実剛健、科学万般に強く、うなじをあげ胸を張って闊歩する化粧気すらないドイツ女性が理想のイメージとしてあったらしい」(茨木著「はたちが敗戦」)という、ドイツで医学を学んだ医師の父の影響だろうか、のり子はこうした“鯛信仰”からは遠いところにいました。

敗戦から10年、まだまだ日本は貧しかった1955(昭和30)年に出版された第1詩集『対話』に、のり子の生きざまの一端がうかがえる「もっと強く」という詩があります。

  もっと強く願っていいのだ
  わたしたちは明石の鯛がたべたいと

  もっと強く願っていいのだ
  わたしたちは幾種類ものジャムが
  いつも食卓にあるようにと

  もっと強く願っていいのだ
  わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
  ほしいと

  すりきれた靴はあっさりとすて
  キュッと鳴る新しい靴の感触を
  もっとしばしば味いたいと

  秋 旅に出たひとがあれば
  ウィンクで送ってやればいいのだ

  なぜだろう
  萎縮することが生活なのだと
  おもいこんでしまった村と町
  家々のひさしは上目づかいのまぶた

  おーい 小さな時計屋さん
  猫脊をのばし あなたは叫んでいいのだ
  今年もついに土用の鰻と会わなかったと

  おーい 小さな釣道具屋さん
  あなたは叫んでいいのだ
  俺はまだ伊勢の海もみていないと

  女がほしければ奪うのもいいのだ
  男がほしければ奪うのもいいのだ

  ああ わたしたちが
  もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
  なにごとも始りはしないのだ

詩人のこうした姿勢は、詩「鯛」にも貫かれています。

2015年3月16日月曜日

茨木のり子「鯛」⑤

  海がとても遠いとき
  それはわたしの危険信号です

  わたしに力の溢れるとき
  海はわたしのまわりに 蒼い

  おお海よ! いつも近くにいて下さい
  シャトルル・トレネの唄のリズムで

  七ツの海なんか ひとまたぎ
  それほど海は近かった 青春の戸口では

  いまは魚屋の店さきで
  海を料理することに 心を砕く

  まだ若く カヌーのような青春たちは
  ほんとうに海をまたいでしまう

  海よ! 近くにいて下さい
  かれらの青春の戸口では なおのこと

詩集『鎮魂歌』で、「鯛」の二つ前にある「海を近くに」という詩です。1950年に医師の三浦安信と結婚してから、のり子は、いまの埼玉県所沢市に住んでいました。

ふだんは「いまは魚屋の店さきで/海を料理することに 心を砕く」日々だったのでしょうが、なにせ「海がとても遠いとき/それはわたしの危険信号です」というほどの海好きです。

  早春の海に
  船を出して
  鯛をみた

といった具合に、きっと、海へ出かけていくことがしばしばあったのでしょう。そんな詩人の記憶に強く焼き付いていた海に、「根府川の海」がありました。

敗戦から8年たった1953(昭和28)年、「既に私の心のなかに出来上がって」いて10分くらいで書きあげたという詩「根府川の海」を発表しています。

  根府川
  東海道の小駅
  赤いカンナの咲いている駅

  たっぷり栄養のある
  大きな花の向うに
  いつもまっさおな海がひろがっていた

  中尉との恋の話をきかされながら
  友と二人ここを通ったことがあった

  あふれるような青春を
  リュックにつめこみ
  動員令をポケツトに
  ゆられていったこともある

  燃えさかる東京をあとに
  ネーブルの花の白かったふるさとへ
  たどりつくときも
  あなたは在った

  丈高いカンナの花よ
  おだやかな相模の海よ

  沖に光る波のひとひら
  ああそんなかゞやきに似た
  十代の歳月
  風船のように消えた
  無知で純粋で徒労だった歳月
  うしなわれたたった一つの海賊箱

  ほっそりと
  蒼く
  国をだきしめて
  眉をあげていた
  菜ッパ服時代の小さいあたしを
  根府川の海よ
  忘れはしないだろう?

  女の年輪をましながら
  ふたたび私は通過する
  あれから八年
  ひたすらに不敵なこころを育て

  海よ

  あなたのように
  あらぬ方を眺めながら……。

根府川駅は、神奈川県小田原市根府川にある東海道本線の駅。相模湾に面していて、晴れた日には房総半島や伊豆大島まで見渡すことができます。

いまは乗降が少ない無人駅ですが、新幹線のない戦中、戦後は、東海道線が、東京とのり子の郷里の愛知を結ぶ欠かせない駅路でもあったのでしょう。

ところで、近くにいつも海があった「青春」を通り過ぎた詩人が、いま、房州の「鯛」の海を見つめています。

  海のひろさ
  水平線のはるかさ
  日頃の思いがこの日も鳴る
  愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

と。

2015年3月15日日曜日

茨木のり子「鯛」④

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

  偉い僧の生誕の地ゆえ
  魚も取って喰われることのない禁漁区
  法悦の入江
  愛もまた奴隷への罠たりうるか


詩「鯛」にでてくる「偉い僧」というのは、日蓮宗(法華宗)を開いた鎌倉時代の僧、日蓮を指しているのでしょう。

日蓮は1222(貞応元)年、詩の舞台である鯛の浦の近くで生まれました。

日蓮は「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子也」(『本尊問答抄』)、「今生には貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出り」(『佐渡御書』)などと、殺生を生業とした家の出であると記されています。

12歳のときに安房の名刹、清澄山の道善房の弟子になり、16歳で出家する。その後、鎌倉、京都、高野山など各地の寺院で学び、「釈尊の出世の本懐は一切経のなかでただ法華経にある」と確信するにいたります。

諸経を捨てて専持法華経。すなわち、法華経の眼目である題目を専唱すると、善悪、老若、男女、俗世の貴賤や貧富の区別なく、すべての人が成仏できると唱えました。

こうして日蓮は、法華経を広めるため帰郷します。清澄山上ではじめて題目をとなえ、民たちに念仏や禅など他の宗派の破折を説いた。これが、1253(建長5)年の日蓮の立教開宗です。

しかし日蓮は地頭の東条景信の怒りにふれ、清澄山を追われて鎌倉に逃れます。そのころ東国では、天変地異が頻発。人心は動揺し、幕府も対策に苦慮していました。

1260(文応1)年、日蓮は北条時頼に対して、国土人民が法華経に帰依すれば災害は克服でき、邪法である余経に帰せば内乱外寇によって亡国になると諫めます(『立正安国論』)。

このように幕府の政策を批判し、他の宗派を攻撃した日蓮は、伊豆、佐渡などに流されたり、念仏者に襲われることもたびたびありました。日蓮はこれを「法華経弘通の行者には必随する法難である」と甘受していたのです。

日蓮は1264(文永元)年、父祖の供養のために帰郷します。その際、海に向かって祈り、南無妙法蓮華経の題目を書きました。

すると、その題目の文字が波の上に現れ、同時に、たくさんの鯛が海面に集まって題目を食べつくしてしまいました。村人たちはその奇跡に驚き、鯛を日蓮の生き姿と考えて信仰するようになったと伝えられています。

以降、鯛の浦は、殺生禁断の地として鯛に餌を与え、地元に人たちによって守り続けられるようになったのです。

江戸時代、天保・弘化年間の1840年代には、現在の景観に近いかたちの、日蓮宗の大本山「誕生寺」が鯛の浦がある鴨川市にできあがりました。

多くの日蓮宗の信者がここを聖地としてあがめ、漁民の協力で鯛の浦詣でが盛んに行われました。当時は日蓮聖人の生き姿としての鯛をおがもうという信仰心から、鯛の浦詣でが行われていたのです。

漁民たちは、鯛を明神神としてあがめ、鯛を守っている大鮫がいることを信じました。島々には弁天様が祭られ、漁師たちは鯛の浦の海に出入りするたびに、海上安全と大漁を祈りました。

いまも年の初めには、船をつらねて漁民たちが集まり、鯛祭りが行われている。初出式の際の海上安全や大漁祈願の伝統的ならわしも続けられているといいます。

1903(明治36)年、当時の漁業法による禁漁区になります。その後、鯛の浦海岸に一大観光開発の計画が持ち上がることなどもありましたが、村人たちは鯛の保護と自然破壊を防ぐために受け入れませんでした。

戦中、戦後の食糧難の間も、だれひとり鯛をとって食べる人はいなかった。老人たちは空襲を恐れることもなく、貴重な小魚を鯛の餌として与え続けたといわれています。

信仰には、地域のおきてには、ときに頑なとも思える驚くべき力があります。こうした「偉い僧の生誕の地」に、詩人は「愛もまた奴隷への罠たりうるか」と問いつつ、凛とした冷静な眼差しを向けています。

2015年3月14日土曜日

茨木のり子「鯛」③

  早春の海に
  船を出して
  鯛をみた

  いくばくかの銀貨をはたき
  房州のちいさな入江を漕ぎ出して
  蜜柑畠も霞む頃
  波に餌をばらまくと
  青い海底から ひらひらと色をみせて
  飛びあがる鯛
  珊瑚いろの閃き 波を蹴り
  幾匹も 幾匹も 波を打ち
  突然の花火のように燦きはなつ
  魚族の群れ

鯛(たい)は、スズキ目タイ科の総称。私たちが食べている、ふつう鯛といっているのはマダイのこと。北海道以南から南シナ海北部まで、北西太平洋に分布しています。

マダイは全長1メートル以上になる大型魚ですが、食用として市場に出回っているのはたいてい数十センチ程度。日本人ならおなじみの、平たい楕円形で、あごが前のほうに少し突きだした体型をしています。

紫褐色を帯びた光沢ある淡紅色で、青い小さな斑点があります。胸びれは細長く、体の半分近くにも達する。口の上あごに2対、下あごに3対の鋭い犬歯があります。

成魚は水深30~200メートルの岩礁などに生息し、群れをつくらず単独で行動します。頑丈なあごと歯で、小魚、エビやカニ、貝類などさまざまな小動物を食べています。

産卵期は2月から8月にかけて。暖かい海域ほど早い。その時期になると成魚は、沖合いの深みから浅い沿岸域に移動します。

稚魚は浅い海の底の砂場や岩場などで生活し、生後1年で15センチくらいに成長。2~3年で、浅瀬から深い海に移っていきます。寿命は20~40年くらいとみられています。

   鯛網や浜街道は山に入り  内田百閒

   鯛網の沖とは聞けどうち霞み  皆吉爽雨

   鯛網のすみたる海の平らかに  五十嵐播水

鯛の漁に用いる「鯛網」は、春の季語になっています。私の持っている歳時記には、石原八束の次のような解説が載っていました。

〈鯛網にはおおよそ二つの方法が昔からある。鯛葛網(たいかつらあみ)と吾智網(ごちあみ)とである。前者は櫓(ろ)をこぐ船を多勢の網子であやつり、網の両端をしぼりながら引いてゆき、沖合でひきあげるのである。

鯛地漕網(たいじこぎあみ)ともいうが今は動力化されて網子が半分以下になり、多いときでも二十人を越えることはめずらしい。別にこれは鯛縛網(たいしばりあみ)ともいうようになった。

以上の方法は三月末から四月にかけて活動するが、五月になると吾智網の方がこれに代ってくる。吾智網には一艘(そう)吾智と二艘吾智とがあり、創業はたいてい夜間だから、船の簀板(すいた)をたたきながら、鯛を網へ追いこんでゆくその音が、わびしく沖合から聞えてくるという。

鯛網は周防灘(すおうなだ)・燧灘(ひうちなだ)・播磨灘(はりまなだ)などの瀬戸内海が最も盛んであるが、今日ではそれもすっかり観光ショーと化し、鯛網で有名な広島県鞆(とも)の津などこの客が仲々多い。〉

詩には「房州のちいさな入江」とあります。初回にみたように、房州、すなわち千葉県の南部の、マダイが群泳することで知られる「鯛の浦」のことだと考えられます。

1967(昭和42年)12月、鯛の浦は「鯛の浦タイ生息地」として、200ヘクタールの海域と陸地が特別天然記念物に指定されました。この海域では、釣りなどの遊漁ができません。

しかも地元には昔から、ここの鯛を決して捕獲しない習わしが残っています。すなわち、「鯛の浦」に、鯛網がかかることはないのです。

2015年3月13日金曜日

茨木のり子「鯛」②

  男の子をいじめるのは好き
  男の子をキイキイいわせるのは大好き
  今日も学校で二郎の頭を殴ってやった
  二郎はキャンといって尻尾をまいて逃げてった
        二郎の頭は石頭
        べんとう箱がへっこんだ

  パパはいう お医者のパパはいう
  女の子は暴れちゃいけない
  からだの中に大事な部屋があるんだから
  静かにしておいで やさしくしておいで
        そんな部屋どこにあるの
        今夜探検してみよう

「鯉」が掲載されている詩集『鎮魂歌』のなかに入っている「女の子のマーチ」という詩の最初の2連です。

茨木のり子は大阪府に生まれ、愛知県西尾市で育ちました。この詩に出てくるようなおてんばだったかどうかは、よくわかりませんが。

女学校の3年のとき、日本は太平洋戦争に突入します。医師だった父の「女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生き抜いてゆけるだけの力を持たねばならぬ」という考えに従って、東京の帝国医学・薬学・理学専門学校薬学部(現・東邦大学薬学部)に進学します。

しかし、入学してみると「無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっている」ことを痛感、興味は次第に文学のほうに走っていきました。空襲が激しくなるとともに「内部には、表現を求めてやまないもの」もつのっていったのです。

20歳の直前に、終戦を迎えています。先行きの見えない焼け野原。同級生の中には進駐軍を恐れ、操を守るべく丸坊主になる女性もいたといいます。のり子も頭巾をかぶって登校していました。そして「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識たのです。

  わたしが一番きれいだったとき
  街々はがらがら崩れていって
  とんでもないところから
  青空なんかが見えたりした

  わたしが一番きれいだったとき
  まわりの人達が沢山死んだ
  工場で 海で 名もない島で
  わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

  わたしが一番きれいだったとき
  誰もやさしい贈物を捧げてはくれなかった
  男たちは挙手の礼しか知らなくて
  きれいな眼差だけを残し皆発っていった

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの頭はからっぽで
  わたしの心はかたくなで
  手足ばかりが栗色に光った

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの国は戦争で負けた
  そんな馬鹿なことってあるものか
  ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

有名な「わたしが一番きれいだったとき」は、こうした戦争直後の「はたち」を意識していたときから10年ほど経って作られました。

1946年に学校を卒業すると、当初は劇作の道を志しますが、「台詞の言葉がなぜか物足らないものに思え」てきて詩の勉強をはじめます。

「言葉の練習のつもり」で、雑誌『詩学』の投稿欄などに投稿していくうちに、「ミイラ取りがミイラのようになって戯曲のほうの志は得ないまま」詩を書きつぐことになったのです。

1950年に医師である三浦安信と結婚。

1953(昭和28)年5月には、川崎洋に誘われて、いっしょに同人誌「櫂」を創刊します。

「櫂」にはその後、谷川俊太郎、舟岡遊治郎、吉野弘、水尾比呂志ら気鋭の詩人たちが次々と参加。

茨木のり子という詩人の寄って立つ舞台となっただけでなく、戦後の日本の詩を発展させる原動力ともなりました。

2015年3月12日木曜日

茨木のり子「鯛」①

     鯛

  早春の海に
  船を出して
  鯛をみた

  いくばくかの銀貨をはたき
  房州のちいさな入江を漕ぎ出して
  蜜柑畠も霞む頃
  波に餌をばらまくと
  青い海底から ひらひらと色をみせて
  飛びあがる鯛
  珊瑚いろの閃き 波を蹴り
  幾匹も 幾匹も 波を打ち
  突然の花火のように燦きはなつ
  魚族の群れ

  老いたトラホームの漁師が
  船ばた叩いて鯛を呼ぶ
  そのなりわいもかなしいが
  黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり
  鍛えられた美しさを見せぬ
  怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも
  なぜか私をぎょっとさせる
  どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ
  どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

  偉い僧の生誕の地ゆえ
  魚も取って喰われることのない禁漁区
  法悦の入江
  愛もまた奴隷への罠たりうるか

  海のひろさ
  水平線のはるかさ
  日頃の思いがこの日も鳴る
  愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

「鯛(たい)」は、茨木のり子(1926-2006)が39歳だった、1965(昭和40)年に出された第3詩集『鎮魂歌』の中に収められています。

千葉県の南東部にある鴨川市に「鯛の浦」と呼ばれているところがあります。タイの群生地としてしられている、内浦湾から入道ケ崎にかけての沿岸域をいいます。


遊覧船に乗って100メートルほど沖合に出て、餌を投げると、それにつられて鯛が一斉に集まってきます。

「いるいるいるいる、たくさんいる」

「出てきた出てきた」

そんな歓声をあげながら、海面に浮かび上がってくる鯛の群れに興奮した経験をもっているかたもおられることでしょう。

鯛の浦の入口で「特別天然記念物 鯛の浦タイ生息地」と書かれた看板を見かけました。そこには、こんなふうに書かれていました。

〈内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で5分ぐらいの海域で、伊貝島・弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、このあたりを「妙の浦」と呼んでいる。

ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混っている。マダイは、深さ30~150メートルくらいの海中に生息し、普通はその中層あたりを泳いでいる定着性の近海魚である。

しかし、鯛の浦は20~30メートルの浅海で、しかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切身など)をよく食べるのは、ほかには見られない現象である。

日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり、観光船の船ばたをたたくと海底から姿を浮上させ、あらそって餌を求めるのは不思議なことといわれている。〉

2015年3月5日木曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑬

一天の黒雲を咄嗟に破り、
太洋の波を漏斗(じやうご)に吸ひあげ、
あんたんたる熱帯の島かげに、
ぎりぎりとまき起す木の柱を
斜に光るは爪、
縦につんざくは
尾端の剣、
眼を射る火花の
一瞬、
海底を干して、
洞穴にへうへうの風をよび、
気圧の鬱血に
暴烈の針をさし、
たちまち見え、たちまち隠れ、
天然の素中に
清涼無敵の秩序を
投げて
天上する波、
竜。

1928(昭和3)年、「ぼろぼろな駝鳥」に続いて書かれた「竜」だ。10作目のこの作品で“猛獣篇”はなぜか姿を消します。9年後の昭和12年に、再び作られるようにはなるのですが。

1928年は、言論や思想に対する弾圧が激しく加えられた年でした。3月には、治安維持法違反の容疑で、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が一斉に検挙される「3・15事件」が起こります。

6月には、前にもみたが、治安維持法に死刑や無期刑が追加。7月には、全府県警察部に特別高等警察が設置されています。

光太郎は現実の問題として在る社会の矛盾に、強い関心をもっていた。現実に対する激しい憤りが「ぼろぼろな駝鳥」など“猛獣篇”を書かせる原動力にもなりました。

しかし、そうした関心は人道主義的なもの、芸術家の感性から発する直感的なもので、政治的な理論づけや社会主義的な運動とは無縁のものでした。

1926年2月18~20日の東京朝日新聞に連載されたベートーヴェンの100年忌に寄せた評論「楽聖におもふ」で、光太郎は、ウラジーミル・レーニンについて次のように記しています。

〈レニンがあんなに暴烈な仕事をしながら多くの自国人の愛敬の的となつたのはその誠実の故であつた。人の飢うる時一緒に飢ゑてゐたあの無私の得であつた。如何なる事情の変化は起らうとも人の魂は亡くならない。

いくら亡くさうとしても自然に反する理論はつづかない。理論で亡くし得る芸術はよい芸術ではないのである。芸術の不死とは人間精神の不死と同意義である。〉

ロシア革命を主導した革命家、「帝国主義論」に代表される理論家に対しても、その評価の中心は、人間としてのあり方であり、芸術家として見た魂の問題でした。

  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

こうした叫びから一歩踏み出して、例えば社会運動へと走りだしてでもいたとしたら、光太郎の中にあった社会的関心と美との均衡は崩れてしまうことになったでしょう。

光太郎は晩年、北川太一に次のような意味のことを語ったといいます。

〈洋行以来ずつとはじめから終りまで社会的関心があり、結局最後には、皇室とか国家とかいう壁にぶつかつて困つた。その方に飛び込めば、相当激しくやる方だから、必ず捕まつてしまうにちがいない。しかし自分には彫刻という天職があり、なんといつても彫刻を作りたい。捕まればそれが出来なくなつてしまう。

だからわれわれはそれは考えないでいるよりしようがないと思つた。結局彫刻と天秤にかけたわけで、ともかく彫刻をやるという気持。その苦しみをロランなんかに話し、天皇制などについての考を聞きたいと思つたことがあつたけれど結局、わからないだろうと思つてやめてしまつた。〉(北川著『高村光太郎』)

こうしたあたりが光太郎の光太郎たる所以であり、また限界でもあったのでしょう。それはスペイン内戦へと進む時代に社会の中へと足を踏み入れていった「二つの『道程』」のもうひとり、アントニオ・マチャードの姿勢とはかなり異なるものでした。

それにしても、「ぼろぼろな駝鳥」を読むといつも、「言葉のほんとうの力」とはなんなのだろうと考えます。

2015年3月3日火曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑫

3・11東日本大震災からもうすぐ4年ですが、190万人が被災、10万人以上の犠牲者が出た関東大震災が発生したのは、いまから100年近く前の1923年(大正12)年9月1日のことでした。

このとき光太郎は、下町からの震災避難者たちにアトリエを開放し、智恵子の実家から取り寄せた清酒「花霞」を人々に傾けたりしていました。

それまで、ひたすら自己の内面へと眼差しを向けていた芸術家が、大震災が契機となって外側へ、社会のほうへも視野を広げ、現実を見つめていきます。

“猛獣篇”の第1作「清廉」が作られたのは、大震災から1年余り経った大正13年11月のことです。そして、大震災から4年半後の昭和3年に、第9作にあたる「ぼろぼろな駝鳥」が作られています。

関東大震災を東日本大震災に置き換えて考えれば、国を揺るがすような大地変からちょうどいまごろの時期に、この詩人は“獣”たちの詩を書いていたことになります。

東日本大震災からの復興に向けた長い途上にあるいま、この近代日本を代表する芸術家のことばを、読み返しておく必要があるように私は思っています。

私には、関東大震災後と東日本大震災後の日本社会には、よく似たところがあるように思えてなりません。第1次大戦の戦需景気に沸いた反動で戦後恐慌に陥っていたところに、追い討ちをかけるように関東大震災は起こりました。失業者が激増し、決済できない震災手形は莫大な額にのぼりました。

関東大震災後の混乱を治める名目で、緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」が公布されます。この勅令の廃止と引き替えのかたちで震災から2年後の大正14年、社会主義や自由主義者、労働運動などを取り締まる治安維持法が成立します。

「ぼろぼろな駝鳥」ができた昭和3年には、処罰に死刑が加わり、言論や思想への弾圧はいっそう厳しさを増していくのです。

一方、リーマン・ショックを境に世界的に経済は冷え込んで消費は落ち込み、金融不安で急速なドル安が進行、日本経済も大幅な景気後退を余儀なくされていた。東日本大震災が起こったのは、そんな時のことでした。

そして、関東大震災後に治安維持法が成立したのと同じ、ちょうど2年後の昨年12月には、特定秘密の保護に関する法律(特定秘密保護法)が成立しています。国が「秘匿することが必要である」と判断すれば、特定秘密として扱われ、公にした者は罰則の対象になる危うい法律です。

  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

窮乏した生活、自由にものを表現できなくなっていく行き場のない圧迫感。そんな現実のなかで、「遠くばかり見て」いて、「身も世もない様に燃えてゐる」のです。

それでも「瑠璃色の風が今にも吹いて来る」と、この芸術家は理想を抱きます。こうした理想もやがて、大きな戦争によって打ちのめされてしまうことになるのですが。

東日本大震災でわたしたちは、関東大震災の時代には無かった「原発」という“化けもの”をどうするか、という人類的な課題に迫られています。

人間の手ではどうにもならない“化けもの”であることを思い知らされてから4年、

  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

詩人の叫びが、突き刺さるように響いてくるのは私だけでしょうか。

2015年3月2日月曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑪

  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。

「ぼろぼろな駝鳥」が発表される前年の1927(昭和2)年は、光太郎にとっても、日本という国にとって激動の年となりました。

日本の経済は第1次世界大戦による大戦景気から不況へと転じます。さらに、関東大震災の復興のための震災手形が莫大な不良債権と化していました。

折からの不況によって中小の銀行は経営が悪化。金融不安が社会に蔓延するようになります。

「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」(実際はこの時は破綻していなかった)。3月14日の衆議院予算委員会における片岡直温大蔵大臣の失言を機に、一気に取り付け騒ぎが起こります。

そして、これを機に昭和金融恐慌の嵐が吹き荒れることになります。4月に鈴木商店が倒産、そのあおりを受けた台湾銀行が休業に追い込まれました。

高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を増刷するなどして不安の払拭に躍起になりました。

5月には山東出兵、6月には日米英3国によるジュネーブ軍縮会議、7月には芥川龍之介が「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である」と書き残して睡眠薬による自殺を遂げています。

金融恐慌で、肖像彫刻「園田孝吉胸像」の制作を依頼するなど、光太郎を庇護してくれていた第十五銀行も倒産しました。

こうした中、光太郎たちの生活も窮乏を極めることになります。きっと「腹がへるから堅パンも食ふ」のに近い、状態だったのでしょう。この年発刊された『大調和』という雑誌の7月号に光太郎は「近状」という雑記を寄せています。

〈「ホヰツトマンの事」が六月号は甚だ短く、七月号は休みとなつた。時間を取られる仕事が最近連続してゐるのと、今春来、自分の実生活上に加へた或る変革の結果として、殆ど毎日の食糧にも事欠くやうな状態を来たした為、「手から口へ」の仕事にも多分の精力を費さねばならず、自然と書く時間が少くなつたのが原因である。〉

さらに、〈私は美術家としての生活を聊(いささ)か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。

平気でああいふ暮し方の道に進めなくなつた。私は今望んでゐる事がある。夢想してゐる道がある。しかしまだ語るにさへ早過ぎる。苦痛を忍んで今の生活をもう二三年堪へてゐるうち、確然たる自信を得たら、全力を挙げて新らしい道に進む気だ。だからどんな苦しい思をしても勇気だけは失わず、心はいつも廓如(かくじょ)としてゐる。〉

後に光太郎は、この雑記についての北川太一の問いに、次のように答えたといいます(『高村光太郎選集3』解題2)。

実生活上の変革とは――

「個人的なことだな。世間がだんだん狭くなった。彫刻も出さないし、どうしようもない。智恵子がいなかったら、啄木のようになっていただろう。」

ロダン流の生き方の否定については――

「芸術家が自分で芸術を作って売る、それで生活する。それを金のある者が独占する。そういう形に疑問を持ったんだ」

国の経済も、社会も、そこに生きる光太郎を含めた人々の生活も「ぼろぼろ」だったのです。それでも詩人の心は、いつも廓如として(広々と開けて)いるというのです。

2015年3月1日日曜日

「ぼろぼろな駝鳥」⑩

  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。

「ぼろぼろな駝鳥」は、全13行のうち「……ぢやないか」でしめくくった文が8行を占めています。そして、それらのリフレインが、たたみかけるように力強い詩のリズムを作りだしています。

「ぢやないか」という、前回みたプロレタリア詩に出てくるようなの平俗な語り口が、脚韻のような効果を発揮しているわけです。

ここには、島崎藤村や国木田独歩の詩のような、文語的な格調のある響きはありません。しかし、その代わり、開放感にあふれていて親しみやすい感じがします。

いまからみれば、「ぢやないか」というのは、日常ごくふつうに使うありふれた表現です。若い人たちにとってはむしろ、古くさい感じがするのかもしれません。

しかしこの表現が、文語詩が当たり前だった当時の若い詩人たちに与えた影響には、並々ならぬものがあったようです。

伊藤信吉は、『逆流の中の歌―詩的アナキズムの回想』(1963年)のなかで、次のように回想しています。

〈昭和三年末か四年はじめの冬のこと、私は酔っぱらった草野心平や小野十三郎やそのほかの人たちと、夜ふけの前橋の街をもつれあってあるいていた。

ぐだぐだしたその酔っぱらいたちのからみあいの中から、そのとき小野十三郎が「よせよ、それ。ないぢゃないかなんて。」と言った。

誰かがそんなしゃべり方をしたのだ。それは高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」「上州川古『さくさん』風景」などの詩に、「ないぢやないか」という特徴的な語法がたくさん出てくることに関連していた。

たとえば「ぼろぼろな駝鳥」は「脚が大股過ぎるぢやないか」「頸があんまり長過ぎるぢやないか」「これはもう駝鳥ぢやないぢやないか」という語法で成立っている。

それが私たちの会話にもぐりこんだわけで、高村光太郎の詩精神や語法というべきものは、地方都市前橋の冬の寒さの中にまで持ちこまれていたのである。〉