2015年4月30日木曜日

島崎藤村『若菜集』から(5)

1908(明治41)年10月に出た藤村の長編小説の『春』という長編小説があります。二葉亭四迷の勧めで同年4月7日から8月19日まで「東京朝日新聞」に連載、10月に緑陰叢書第2篇として自費出版されました。

藤村初の自伝的小説で、そのころ盛んに詩文を発表していた「文学界」の創刊ごろの同人たちとの交流を通して、理想と現実に悩み、苦しみながら、それぞれの道を模索する青春の姿が描かれています。

藤村自身がモデルと考えられる主人公の岸本捨吉は、教え子である勝子(モデルは佐藤輔子)を愛したため、職を捨てて旅に出たものの同人雑誌の創刊の話を聞いて、戻ってきます。

しかし捨吉や同人たちを待っていたのは、俗世の打算を打ち破り自由を求めようとする葛藤と挫折でした。そんな中、捨吉が心から尊敬していた先輩である青木が自殺して、大きな衝撃を受けます。

青木のモデルになったのは、北村透谷(1868-1894)でした。透谷は、英国から来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトの影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴。1889年には日本平和会結成に参画し、機関誌『平和』に寄稿するなどしていました。

しかし次第に国粋主義へと流れる時勢にあって、評論『エマーソン』を最後に、日清戦争勃発直前の1894(明治27年)年5月16日、芝公園で首吊り自殺をします。25歳5カ月の若さでした。

そんな尊敬する先輩の死後、「共同の事業」に疲れてきた「文学界」の同人たちの中にあっても「自分は自分だけの道路(みち)を進みたい」と思う捨吉は作家として生きることを決意し、一切を捨てて東北の学校へ赴任するのでした。

北村透谷の自殺について、藤村は後年「その惨憺とした戦ひの跡には拾つても拾つても尽きないやうな光つた形見が残った」(「北村透谷二十七回忌に」)と回想しています。

1895(明治28)年、こうした身辺の打撃や文学上の懐疑から、もう一度、勉強をやり直すことを思い立って「大学選科に入る準備」を開始。12月には明治女学校を退職しています。

1896(明治29)年9月には、明治女学校の同僚小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に赴任します。

同学院に籍を置いたのは1年足らずで、翌1897年7月には辞職して帰郷しますが、「仙台へついてからといふものは、自分の一生の夜明けがそこではじまつて来たやうな心持を味ひました」(「『若菜集』時代)と回想しています。

そしてこの年の8月、第1詩集『若菜集』を春陽堂から刊行します。七五調を基調とし、冒頭の"六人の処女"(「おえふ」「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)をはじめ、有名な「初恋」、「秋風の歌」など51編が収録。

日本におけるロマン主義文学の代表的な詩集として文壇の注目を集めることになります。『若菜集』について藤村は、後に次のように記しています。

「『若菜集』は私の文学生涯に取つての処女作と言ふべきものだ。その頃の詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩歌はまだまだ遠い先の方に待つているやうな気がしたが、兎も角も先蹤を離れやう、詩歌といふものをもつともつと自分等の心に近づけやうと試みた。黙し勝ちな私の口唇はほどけて来た」(『改訂版藤村詩集』序)

2015年4月29日水曜日

島崎藤村『若菜集』から(4)

明治20年、藤村が入学したころの明治学院は西欧風の教育が特徴で、教授陣もほとんど外国人でした。在学中は馬場孤蝶や戸川秋骨と交友を結び、台町教会で木村熊二によってキリスト教の洗礼を受けています。

学生時代、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ワーズワースなど西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典や、二葉亭四迷の『あいびき』や『めぐりあい』、森鴎外の諸作品など、近代文学の黎明を肌で感じつつ、自らを啓蒙していきました。

「樹木の多い、静かな場所」だった開校当初の学院について「学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いたものだ。自然というものが、私の眼に映り始めたのも丁度其時分であった」(「明治学院の学窓」)とも記しています。

明治学院を卒業後は、巌本善治の主宰する『女学雑誌』の編集を手伝い、同誌に翻訳文を発表するなどして文学の道を歩み始めます。とりわけ同誌を介して知った北村透谷からは、文学的にも精神的にも決定的な影響を受けることになります。

北村透谷(1868-1894)は、本名は北村門太郎。相模国足柄下郡で没落士族の家に生まれ、両親とともに上京して東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。

1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学。自由民権運動に参加しましたが、大阪事件の際に同志から活動資金を得るため強盗をするという計画の勧誘を受けて絶望、運動を離れました。

1889年『楚囚の詩』を自費出版しましたが、出版直後に後悔し自ら回収。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明しました。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は藤村に衝撃を与えたといわれています。1893年に創刊された『文学界』誌上には「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆していました。

藤村は、明治学院を卒業すると、友人の世話で東京四谷にあった明治女学校高等科の英語の教師になりました。1892(明治25)年の9月、藤村21歳のときのことです。

翌年、交流を結んでいた北村透谷や星野天知の雑誌『文学界』に参加して、同人として劇詩や随筆を発表します。

ところが、まもなく藤村は、教え子の佐藤輔子という1歳年上の生徒を愛してしまいます。

輔子の父親は、岩手県の花巻出身で、第1回岩手県選出国会議員の佐藤昌蔵。国会議員となった父に伴って上京、明治女学校に通学するうち英語の教鞭をとっていた藤村と相知ることになったのです。

輔子には親の定めた鹿討豊太郎という許婚者がいて、藤村との板ばさみの恋に苦しみました。明治28年5月、鹿討豊太郎とともに札幌に移り住みました。

ところが不幸なことに、その年の8月、24歳で病死しています。ちなみに北海道大学総長を務めた佐藤昌介は、輔子の異母兄にあたりました。

輔子を愛した藤村は、教師として自責の念からキリスト教を棄教し、辞職します。その後関西へとあてのない旅に出ます。1894(明治27)年には女学校に復職しましたが、兄事した北村透谷の自殺という衝撃的なできごとに遭遇するのです。

当時のことは、後に『春』に描かれます。この小説で佐藤輔子は、主人公の捨吉の恋人、勝子のモデルとされています。

2015年4月28日火曜日

島崎藤村『若菜集』から(3)

藤村の父、島崎正樹(1831-1886)は天保2(1831)年5月4日、信濃(長野県)馬籠宿の本陣、そして庄屋、問屋をかねた家に生まれました。

系譜によれば島崎氏は、相模国三浦の出。永正10(1513)年、島崎監物重綱が木曽氏に仕えてその祖となり、その長男七郎左衛門重通が永禄元年(1558)木曽馬籠に移って郷士となったそうです。

正樹は重通から降って17代に当たります。23歳で、隣村妻籠の本陣から同族の島崎与次右衛門重佶の妹ぬいを娶り、四男三女をもうけました。その末子が藤村ということになります。

正樹は幼くして四書五経を読み、長じて中津川の医師馬島靖庵に国学を学びます。文久3(1863)年には江戸の平田鉄胤の門をたたき、平田派国学の門人に加わりました。これが終生彼の思想の拠り所となります。

尊皇攘夷の波が、木曽谷の山中にまで押し寄せてくる時代でした。皇女和宮御降嫁の通行、水戸天狗党の武田耕雲斎一行の西上、中山道鎮撫総督の東征の通行など、正樹は草莽の士としてこれらを応援し歓迎しました。

維新後は戸長、学事掛をへて教部省考証課雇員になります。一方で、政治的な活動にも関与しています。

禁伐林とされた木曽山林の明山の解放、官有地と民有地の境界再調査、補償金の下付請願などを明治政府に求めた木曽の山林解放運動を展開。明治7年には、天皇の輿(こし)に憂国の歌をかいた扇をなげた疑いで、不敬罪に問われました。

正樹は明治新政府に大きな夢を抱いていました。しかし時代の流れは、彼の国粋思想、拝外思想とは相容れなかったようです。また、旧家の特権が奪われ、山林解放運動に頓挫するなど、家政の衰運はとどめようもありませんでした。

時代の歩みから取り残された正樹は悶々として、ついに発狂してしまいます。晩年、岐阜県水無神社宮司をしていましたが、帰郷して明治19年11月29日に死にます。満55歳でした。

ところで、籠村の庄屋の家に生まれた藤村は、1878(明治11)年、6歳のとき神坂学校に入ります。このころから学問好きの父正樹から『孝経』や『論語』の素読を受けています。

1881(明治14)年、9歳のとき、三兄友弥とともに上京し、京橋区鎗屋町(現在の中央区銀座4丁目)の、長姉そのの嫁ぎ先である高瀬薫方に寄宿。泰明小学校に通いました。

高瀬一家が木曽福島へ帰郷してからは知人の家などに身を寄せて、幼くして独りで生きていかなければならなくなります。

小学校を卒業した後の明治19(1886)年には、同郷の武居用拙から『詩経』『春秋左氏伝』の教授を受けています。また絵画に親しんだり、ナポレオン伝を読んで政治家にあこがれたりもしていたようです。

さらに三田英学校(錦城学園高等学校の前身)、共立学校(開成高校の前身)など、当時の進学予備校で学び、明治20(1887)年、16歳のとき、創立したばかりの明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)へ入りました。

明治学院の起源は、1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」にさかのぼります。1880年には築地へ移転、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設けられました。

1883年には、横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称し、大学と予備科を整える学校となりました。後に予備科は神田淡路町へ移転し「英和予備校」となっています。

他方、1877年には、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立されました。

1886年にはこれら一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」となることが決まり、翌1887年には、設立の認可が下りました。

これによって東京一致神学校は「明治学院邦語神学部」に、一致英和学校、英和予備校は「明治学院普通部本科」と「予科」に名前を変更。キャンパスは、荏原郡白金村(後に芝区白金今里町=現在の港区白金台)に設けられました。

2015年4月27日月曜日

島崎藤村『若菜集』から(2)

私が子どものころから親しんできた『現代詩』(学燈社)で、吉田精一は島崎藤村の『若菜集』(1897)を、「近代詩のあけぼのを告げ、詩もまたじゅうぶんに芸術的要求を満たす表現様式であるということを証明した」と位置づけています。さらに、

「藤村は一方では西洋の死、ことに英詩から学び、一方では『古今和歌集』以来の和歌の伝統、芭蕉以降の俳諧、さらには杜甫・李白の漢詩など、東洋の叙情から生命をくみあげ、西洋的なものと、伝統的なものとを、一つにとけ合わせて新しい詩集を組み立てたのである」

「藤村の詩は五七調、もしくは七五を基準とし、それ以外の破格が少ない。詩語も詩情も自然でなだらかである。その詩情は優美で、せつない物のあわれを、胸いっぱいにつつみながら、ひかえめに表現するところに、純情なうたいぶりが強い。なげきとためいきの激しさが、彼の恋愛詩や、漂泊の旅情をうたうにふさわしい」

などとしたうえであげているのが、有名な「椰子(やし)の実」です。吉田は「この詩は、漢詩調の体言止めによって、感傷の激しさをうち出すのに成功している」としています。

  名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ

  故郷(ふるさと)の岸を 離れて
  汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

  旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる

  われもまた 渚(なぎさ)を枕
  孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて 胸にあつれば
  新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

  海の日の 沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

  思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
  いずれの日にか 国に帰らん

「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」と宣言した島崎藤村の「新体詩」とはいったいどのようなもので、"明治"という近代化の時代にあって、それはどのように生まれたのでしょう。それを知る手がかりにと、しばし藤村というひとの生い立ちを眺めてみることにしましょう。

島崎藤村は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村に、大作『夜明け前』のモデルともされる父・正樹と、母・縫の4男として生まれました。

筑摩(ちくま)県は、藤村が生まれた前年の1871(明治4)年に、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置されています。現在の長野県の中信・南信地方、それに岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたります。

1874(明治7)年、馬籠村は湯船沢村と合併して神坂村になります。さらに1876(明治9)年には、筑摩県の信濃国分が長野県に、飛騨国分は岐阜県に編入されたため筑摩県は廃止。

これによって藤村が生まれた馬籠は、長野県筑摩郡神坂村に入ることになりました。その後、1958年(昭和33)年の合併で、西筑摩郡山口村に編入。このとき「島崎藤村」騒動ともいわれる大きな騒ぎが起こっています。

神坂村議会は当初「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決しました。しかし「文豪島崎藤村の生誕地を岐阜県に持っていかれたら大損失」と長野県議会が、これに猛反発します。

村は越県合併派、県内合併派に分裂していがみ合い、とうとう警察の機動隊が常駐する始末になりました。最終的に国の裁定で「越県合併を認めるが、馬籠など北部3集落は長野県に残す」というかたちで幕引き、馬籠は西筑摩郡山口村に編入されました。

1968(昭和43)年には、西筑摩郡は木曽郡と改称されて、長野県木曽郡山口村にある木曽谷の馬籠宿として観光客の人気を集めます。ところが平成の大合併で再び越県合併の話が持ち上がり、山口村は2005年、けっきょく岐阜県中津川市に越県合併されることになりました。

2015年4月26日日曜日

島崎藤村『若菜集』から(1)

    潮音

  わきてながるゝ
  やほじほの
  そこにいざよふ
  うみの琴
  しらべもふかし
  もゝかはの
  よろづのなみを
  よびあつめ
  ときみちくれば
  うらゝかに
  とほくきこゆる
  はるのしほのね

これは、島崎藤村(1872-1943)の最初の詩集『若菜集』に入っている一篇です。「ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね」。そんな春の潮騒のように、明治という"青春"の時代に、日本の近代詩は産声を上げました。

藤村は『若菜集』(1897年8月)を皮切りに、『一葉舟(ひとはぶね)』(1898年6月)、『夏草』(1898年12月)、『落梅集』(1901年8月)の4詩集を立て続けに出版、さらに4冊を合本した『藤村詩集』を1904年9月に出しています。

「若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に」という前書きが付いた『藤村詩集』の「自序」は、有名な「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」という文句で始まります。

日本の近代詩の"誕生宣言"とも受け取ることもできる若々しく意気軒昂な「自序」を、とりあえずここにあげておきましょう。その内容については、折に触れて少しずつ検討していきたいと思います。書かれたのは、明治37(1904)年夏となっています。

〈遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。

 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
 明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。

 新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。

 詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
 なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。

 誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

 われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
 藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。

 あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。〉

2015年4月18日土曜日

立原道造「はじめてのものに」⑭

立原道造の日記や手紙の中に、水戸部アサイが姿を現すようになるのは、石本建築事務所に入って1年後の1938(昭和13)年4月以降のことです。

その前年の昭和12年10月、道造は突然発熱し、肋膜炎と診断されます。そして医師から当分安静にするように命じられています。

翌11月には、静養のため信濃追分へ。「はじめてのものに」の恋の舞台ともなった油屋に滞在していましたが、滞在中に油屋は火災で消失してしまうのです。幸い道造は、2階から辛くも逃れて助かりました。

病いが刻々と自身の体を蝕んでいくなか、追分で出会った少女たち、すなわち「はじめてのもの」たちとのポエティックな夢想の恋にかわって、アサイとの、ある意味で散文的な、現実の恋愛が展開されていくことになります。

〈……僕らは今はじめて新しく一歩を踏み出す。『風立ちぬ』としるしたひとつの道を抜け出して〉と、新生への力強い意志を示したエッセー「風立ちぬ」をはじめ、最後の旅から紡ぎ出された「盛岡ノート」「長崎ノート」など、アサイとの現実の愛をよりどころに生まれた晩年の散文作品は、そのころの詩よりずっと輝いているように思われます。

道造はアサイを愛するようになって1年後の1939(昭和14)年3月29日、血痰による喀痰不能のため息を引き取ります。享年24歳。

三好達治は道造の詩を、「青春の園生に吹く微風の声のような、そこはかとない爽やかなリズムをもった、明るいすがすがしい、そういう年頃の魂のみを訪れる哀感に満ちた、思想的というほどには沈潜した面影のない、軽やかな音楽」と評しています。

私はといえば、道造の詩は正直、あまり好きではありません。読むと立ち所にむず痒くなるのです。そんな道造の詩の中にあって、これまで読んできた「はじめてのものに」は、表現はゴタゴタしていてぎこちなさを感じますが、それがかえって青春の一断面を実態として浮かび上がらせてくれるようで、心地よく読むことができます。

書いた詩が好きとはいえない、とはいっても、道造の日本語は実に美しいと思います。たとえば、死の前年の11~12月に病をおして出かけた長崎への旅から生まれた、比類ない珠玉の散文「長崎ノート」を読むと、あの萩原朔太郎でさえ文語へ回帰していった時代に、日常の言葉をここまで高めることができたのか、とあらためて驚嘆します。

道造が逝って半年後の1939年9月、ドイツのポーランド侵攻を機に第2次世界大戦が始まります。戦争の闇をくぐらず“青春の詩人”の軽やかなリズムだけを残していった立原道造。

だからこそ、道造の詩は輝き続けてきたのでしょう。でも、戦後を生きていたらどんな(苦渋に満ちた)言葉を残したのか。やっぱり、読んでみたかったなという気もします。

2015年4月17日金曜日

立原道造「はじめてのものに」⑬

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

道造は子どものころから、歌舞伎役者の声色や物まねがうまかったといわれます。とりわけ、鹿の真似が真に迫っていたとか。信濃追分で出逢い、そして別れていった少女たちにも冗談を言ったりからかったり、笑い声にあふれた夏のひとときを過ごしていたのでしょう。

「はじめてのものに」は、第1詩集『萱草(わすれぐさに)に寄す』の中に収められています。松永伍一は、追分の少女たちとの別れについて、次のように指摘しています。

〈詩集のタイトルを『萱草に寄す』としたのは暗示的だ。「忘れること」より「忘れさせる」心理の働きが、過ぎ去っていく束の間の夏にこそふさわしかったから。それは、現れたものは初めから消えていくべき運命を夏の日の恋が負うているということを、確認することが詩人立原の流儀だった。

少女とめぐりあうのは、結婚するという通俗の道筋とはまったく無縁のものであった。会うのは所詮別れるためであり、それが詩のテーマとして立ちあがるとき、恋という行為をも「忘れさせる」ことが、かれの正統な手続きであった。そのためには追分の少女たちは去っていかねばならなかった〉

去っていった少女たち。それと時を同じくして、建築を専攻していた道造の学生生活も終わります。そして今度は、鮮明でたしかな恋愛の対象であり、最後の恋人ともなった女性に出逢うことになります。その出逢いについて、小川和佑著『立原道造 忘れがたみ』には、次のように記されています。

〈「帝大の立原ですが……」
それが水戸部アサイの聞いた最初の立原の声だった。昭和十二年三月、立原は石本建築事務所に来意の電話をかけて来た。

石本建築事務所では毎年、東大と早大からその年の最も優れた卒業生を一名ずつ採用することになっていた。立原はその一人だった。

しかし、水戸部アサイは、そうした事情をよく知らされていなかった。電話の声はよく響く太い声だったから、水戸部アサイは、たぶん立原氏というのは帝大の若いが偉い先生かなにかで、所長の石本氏の友人だろうと思った。

――だが、その「立原氏」が受付けに現われて見ると、電話の声の印象とはまったくうらはらな、ひどく痩せて、やたらに丈ばかり高い、髪の長い学生だった。

応対しながら、水戸部アサイは、なんだかさっきのひとり合点がおかしかった。この帝大の「立原氏」はひょろ長い足を踏みしめるようにおづおづと事務所に入って来たのだ。

それにしても声だけは堂どうと、さっきの電話のように太く、逞しい男性を思わせる声だったので、その不均衡が、なんとなくまたおかしかった。〉

実際にアサイに会ってもいる小川によれば、この女性は「立原が愛したどの少女にも似ていない」といいます。〈美しさだったら松竹歌劇団の北麗子(今井静枝)に及ばない。才気でいえばあの関鮎子がより勝っている。優雅な物腰や言葉づかいなら、学友柴岡亥佐雄の遠縁の少女横田ケイ子が対照的に思いかえされる〉(同書)。

きっと、追分の少女たちになかったアサイの温かく豊かな何かが、道造の心を激しく揺さぶったのでしょう。

2015年4月16日木曜日

立原道造「はじめてのものに」⑫

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「灰の煙の立ち初めた」すなわち、恋のときめきを感じたその日から、幾夜もエリーザベトの悲恋の物語を夢みたというわけです。

エリーザベトの物語、前回みたシュトルム『みずうみ』を持ち出すまでもなく、追分の少女たちは必然のごとく詩人の前から去っていきます。

〈去年の秋の頃から、指折りかぞへてゐたらこの頃は、おや指と人さし指しか曲げないで、もう夏休みまでの月日をかぞへられます。

夏が来たら! とばかり思ひつづけたが、かうしてその日々近づくと、去つて行つた少女との再会など思はれ、何のたのしさも湧いて来ません。

諦めきれぬ心のどこかが、その少女の行方とどめる夢とたくらみに波打ちます。風景、季節など何の心もそそつてくれない。しかし、今年の夏は、卒業論文の勉強するのでいそがしいのです。また、論文は美学なのです。〉

「はじめてのものに」を発表した翌年の1936(昭和11)年の5月12日に友人の杉浦明平にあてた手紙の一節には、こんなふうにあります。

いっしょに追分を散策した「ゆふすげびと」の関鮎子はちょうどこのころ、内田源太郎という人と結婚しています。

そして鮎子は、その4年後、岡崎でこの世を去ります。23歳の若さでした。

道造は、杉浦に傷心の手紙を書いた昭和11年夏にも信濃追分を訪れています。そこで再会した、ともにモーツァルトを聴いた今井春枝も、その年の8月に結婚しました。

そんな春枝との別れをモチーフにしたと思われる散文「花散る里」には、次のような描写があります。

〈馬車の窓を隔てて青年と少女が顔を見合わせてゐた、彼たちの間に交される言葉はもうなにもなかつた。少女は考へてゐた、その前の夜、青年の口を不用意に洩れた一言を。

――あの娘も秋になるとお嫁に行つてしまうのだ、と。少女はそれがいぶかいかつた、私はこの季節のはじめの明日、お嫁に行くのに、と。

しかし、その意味を悟つたときに、少女の姿はふたつにたちきられたやうだつた。少女はその酷い言葉を今も窓の外に見つめてゐた。

どこにあるとも知れず、村中に咲いてゐる林檎の花のにほひがつめたくこめてゐた〉

2015年4月15日水曜日

立原道造「はじめてのものに」⑪

  ――人の心を知ることは……人の心とは…… 私は
  そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「エリーザベトの物語」というのは、ドイツの作家、テオドール・シュトルム1817-1888)の『みずうみ』(原題:Immensee)のことでしょう。

『みずうみ』はシュトルムが32歳だった、1849年に発表。その2年後に刊行された"Sommergeschichten und Lieder"(夏の物語と歌)という短篇集に収録されています。

物語は、老いたラインハルトの回想のかたちをとります。

子どものころからラインハルトは、幼なじみの5歳年下の少女エリーザベトに心を寄せ、エリーザベトもラインハルトを慕っていました。

2人は休みにはいつもいっしょ。ラインハルトは彼女に童話を読んで聞かせたりしていたのです。

やがて、ラインハルトは大学へ進むため、エリーザベトと離れなければならなくなります。

復活祭で帰省すると、取った手を引っ込めようとするエリーザベト。ラインハルトは、何かよそよそしいものがはいり込んできたように感じます。

そして、エリーザベトの母から、ラインハルトの学友のエーリッヒが湖畔の別邸を父から相続したことを聞きます。

2年ほどたって、研究に励むラインハルトのもとに手紙が届きます。エリーザベトがエーリッヒからの結婚の申し入れを、ここ3カ月のあいだに2度も断っていたものの、とうとう受け入れたという内容でした。

さらに数年たって、ラインハルトはエーリッヒの邸宅を訪れ、結婚したエリーザベトとも再会します。民謡を蒐集する仕事をしているラインハルトは、ある日の夕暮れ近く、エーリッヒ夫妻やエリーザベトの母の前で民謡を朗読します。

中に、母のすすめで思い定めた人をあきらめ、別の人と結婚したのを悔いる次のような詩が含まれていました。

  母は欲(ほ)りせり君ならで
  あだし男に添えかしと、
  思いさだめしかの君を
  忘れ果てよとつれなくも、
  されど得堪えじわが思い。

  われは嘆こうわが母の
  とらせし道のたがいてし、
  かからざりせば尊かる
  恋も罪とはなりはてて、
  ああいかにせむこの嘆き!

  なべての誇り喜びに
  かえて得たるはこの悩み、
  ああこの憂い見むよりは
  枯野の上をさまよいて
  物乞う子ともなりはてむ!
     (訳・関泰祐)

読んでいるうちにラインハルトは、紙が震えるのを感じます。彼が読み終えると、エリーザベトはそっと倚子をうしろにずらして、黙って庭へおりていきました。開けはなしてあるドアのそばを、蛾がぶんぶんうなりながら飛びすぎていきました。

それから何日かたった早朝、ラインハルトは、2、3行の書付を机の上に残して、夫妻に黙って屋敷を出ていこうとします。しかし、それを察したエリーザベトが立っていました。彼女は手を彼の腕の上においた。

「わたしにはわかっていますわ。嘘はおっしゃらないでください。あなたはもう、二度といらっしゃらないのね」

「ええ、もう伺いません」

と彼は言いました。彼女は手をおろし、もう、ひとことも口に出しませんでした。

2015年4月14日火曜日

立原道造「はじめてのものに」⑩

明治、大正生まれの文化人の作品を読んでいると、若くして身につけた教養の深さ、広がりに驚くことがしばしばあります。

立原道造にも、詩をはじめ、建築、絵画などに見られる人並み外れた才気だけでなく、さすがは当時の帝大生だけあって、その教養や表現力の成熟ぶりにも目を見張ります。

と同時に、その恋愛には、現代の感覚からするとずいぶんと純で、プラトニック、情熱的でありながらなんとなく可愛らしく思えたりもするのです。

その成熟した教養、表現力と、ウブな若々しさとのギャップがまた魅力となって、いまも瑞瑞しい青春の文学として新鮮さを保ちつづけているのかもしれません。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

さて、夏の信濃追分で出あった「ゆふすげびと」とも呼ばれた「ひと」との交際はどのようになっていったのでしょうか。

〈僕は不吉な悲しい恋をしてゐる。相手の人はfianceがあるのだ。しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる。しかも、僕らは果ての日には他人のやうにとほく別れなくてはならないのだ。

相手の人はひとりの女の人を、同時に愛してゐる。そして僕は、友だちを、おそらくは愛さうとはせずに彼からただ愛されようとばかり念つてゐる。……二人の人を、ひとは同時に愛せるのだ。

この不吉な敗北の恋はしかしたのしいみせかけをして、一日一日僕の心とじやれてゐる。うつかり何もかも忘れて僕はうれしくなつてしまふのだつた! だがそれだけのことだつた、不吉に哀しかつた〉

これは、「はじめてのものに」が『四季』(第12号)に載ったころの、1935(昭和10)年11月12日、柴岡亥佐雄にあてた手紙の一節です。

小川和佑『立原道造・愛の手紙』などによると、ここで「僕の心とじやれ」ながらも、若者らしい恋の不安を感じている対象の女性は、前にもふれた関鮎子のようです。

道造は、1934(昭和9)年7月、植物学者で歌人の近藤武夫に招かれて初めて訪れた信濃追分で、近藤を介して鮎子を識り、いっしょに「岐れ道」や遊女の墓などを散策する仲になりました。

再び追分を訪れていた翌35年8月16日には、道造は柴岡の遠縁の一家に招かれて、横田ミサオ・ケイ子姉妹に会い、妹のケイ子に心惹かれます。

が、翌17日には、千葉から来た鮎子と再会。すると鮎子にも心が傾きます。しかし、鮎子のほうは近藤の助手の久保秀雄に、より好意を寄せていたようです。

鮎子が千葉へ帰ったあと、滞在先の油屋で、箏曲家今井慶松の次女春枝(北麗子)と親しくなります。いっしょにモーツアルトのレコードを聴き、音楽への理解を深めています。

東京へ帰った11月、道造は、東大のキャンパスで近藤にばったり会いました。「近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗つて街道を走つた少女・鮎子ちやんの写真を見せてもらつたけれど近藤さんはケチンボで僕には与えなかつた」(10月26日、柴岡あて手紙)と記しています。

才に長けるが、まだまだ本当の恋愛を知らないウブな帝大生が、恋に恋して、片思いに悶々としている。当時の道造はそんなふうにも見えます。

2015年4月13日月曜日

立原道造「はじめてのものに」⑨

〈この宿屋には、もう夏からずつとゐるのは僕きり。さうしてそのほかのひともゐないゆゑ、この廣い家のなかにも、宿屋の人たちのほかは、僕きり。

さみしいといへばさうかも知れないが、ひとり炬燵にはひり、本をよんでゐれば、たのしいといふ方がいい。よんでゐるのは、藤原定家歌集。

(秋の夜のかがみと見ゆる月かげは昔の空をうつすなりけり。)

(いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ。)

これが萬葉の歌より、いまの僕の心に近いといへば、それは僕の心がかげ日向多く、うつくしきもの念ふことしきりだといふのだらう。萬葉集とは童謡のごとく面白いが、何だか身近ではない。〉

「はじめてのものに」が発表された昭和10(1935)年の9月15日、滞在していた信濃追分の油屋から友人の小場晴夫にあてて送った手紙の冒頭の部分です。

「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」は、定家の自撰家集「拾遺愚草」の中にある一首。「みねに烟の立ち初めけむ」は、恋のはじまりを暗示しているのでしょうか。

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

最終連の「いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか」が、道造が敬愛していた定家の「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」によっているというのは、間違いないところでしょう。

定家の歌の「みねに烟の立ち初めけむ」のように、道造の詩の「みねに灰の煙の立ち初めたか」も、恋のはじまりを告げているのかもしれません。

今年6月、関連する文化財群とともに世界文化遺産に登録された富士山。

その名の由来を、あの“かぐや姫”の『竹取物語』に求める説もあります。

物語の最後の場面。帝が「后に来てくれ」と嘆願するが、かぐや姫は「私はこの世の者ではありません。もうすぐ使者がまいります」と言って、昇天していきます。

この際、かぐや姫は、不死の薬を帝に渡します。しかし「姫に二度と会えないのに、長生きしても何の意味があろう」と帝は嘆き、武士をたくさん遣わして、その薬を富士山の頂上で燃やしてしまいます。

帝が「不死」の薬を山頂で焼いたから、あるいはたくさんの「武士」が登ったから、「フジ」と呼ばれるようになったというわけです。

すでに見たように、小場晴夫に手紙を出した1カ月余り前の昭和10年8月5日に、道造は「地異とはまたすさまじいもの」と、当時たびたび起こって被害も少なくなかった浅間山の爆発を初めて見て、強い衝撃を受けています。

源氏物語のころから、並び称せられていた浅間と富士という二つの火山。

詩の「火の山の物語と……また幾夜さかは」というのは、『竹取物語』が道造の念頭にあったのでしょうか。

それはちょっと深読みのしすぎで、現に、その身でも実体験している、恋愛という心の異変をも含めた「地異」を、「火の山の物語」といっているのでしょうか。

2015年4月12日日曜日

立原道造「はじめてのものに」⑧

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「それは僕のソナチーネだつた」と言った道造の詩の“音楽性”の秘密は、どこに潜んでいるのでしょう。その音数律にあるのでしょうか。たとえば、第1連目を見ると――

  ささやかな【5音】地異は【3音】 そのかたみに【6音】
  灰を降らした【7音】 この村に【5音】 ひとしきり【5音】
  灰はかなしい【7音】追憶の【5音】やうに【3音】 音立てて【5音】
  樹木の【4音】梢に【4音】 家々の【5音】屋根に【3音】 降りしきつた【5音】

5音が確かに多いようですが、日本語に特徴的な、5音、7音を基調にして3音などの破調を交えながら音楽的なリズムを刻んでいる、というようにはどうも感じられません。

近藤基博は「十四行詩の音楽性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊『立原道造』)という論文で、詩の句末の「に」や「た」に注目しています。

〈第一連であれば、一行目「そのかたみに」の「に」音が、二・三・四行中の、「この村に」「灰はかなしい追憶のやうに」「樹木の梢に」「家々の屋根に」といった各句末の「に」音と響き合い、四行目「降りしきつた」の「た」音は、二行目「灰を降らした」の句末にある「た」音と響き合っているといった効果である。

これらはまた、「に」音が、二行目「ひとしきり」の「り」音とイ段音同士の響きを作り、「た」音が、一行目「ささやかな地異は」の「は」音とア段音同士の響きを作り上げて、さらに、こうした響き合いは各連中に留まらず、詩全体の各連各句末、あるいは各句中の音韻と反響呼応し合い、複雑な音韻効果を作り出している。〉

さらに、〈彼の詩の手法に見られる対句や繰り返しが、詩として脚韻といった側面を目立たせることもあるが、日本語の詩において、単に行末の脚韻を踏み揃えただけではその音韻効果はあまり期待出来ない。

むしろ、頭韻・脚韻を含めて、詩句の中に同音・同段音が連続的に繰り返されることによって音楽的効果を持ち得るのであって、立原の詩ではそれに成功しているのである〉としています。

音楽性についての細かな分析はともかく、1937(昭和12)年6月26日、道造の詩に今井慶明が曲を付けた組曲「ゆふすげびとの歌」が、上野の東京音楽学校奏楽堂で演奏されました。テナー独唱・酒井弘、ピアノ伴奏・外猟仲一。

道造は「この方の《ゆふすげびとの歌》は《鳥啼くときに》と《わかれる昼に》のふたつから成ってゐて詩集におさめたソナチーネ・1番とはすこしちがつてゐる」(風信子一)と記しています。

曲譜は現存していないようですが、こうして道造の「ソナチーネ」は、音楽になったのです。

2015年4月11日土曜日

立原道造「はじめてのものに」⑦

〈重なりあつた夢は、或る日、しづかに結晶した――

僕は風信子叢書の第一篇に《萱草に寄す》と名づけて、楽譜のやうな大きい本を持つことが出来たのだ。

それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために。二つのソナチーネと小曲・夏花の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカットで飾られた。

《萱草に寄す》のうちソナチーネ一番は《ゆふすげびとの歌》とも名づけられる。萱草はゆふすげである。それは高原の叢で夏のころ淡く黄く咲く花だつた。そしてそれは夕ぐれの薄明かりを愛する花だつた。

僕の村ぐらしの日々はその花の影響の下にあるのを好んだ。この詩集は古い師友と日ごろ敬愛する少い知り人とだけに配つた。はじめてのものゆゑ、人知れずそのおもひを身近に愛したかつたために。

 ……僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたう奇蹟をねがふ。

そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ。〉

前回、少しだけ引用した「風信子(一)」に道造は、詩集『萱草に寄す』についてこのように記しています。

「ソナチネ」はふつう、クラシック音楽のジャンルあるいは形式名をいいます。バロック音楽では、単に短い器楽曲のことを指していたようですが、古典派以降は、わかりやすくて演奏しやすい短いソナタのことを言うようになりました。

ソナタ(奏鳴曲)の小さいもの、というところから「小奏鳴曲」とも訳されることもあるそうです。たいてい2楽章か3楽章構成で、最初のほうは通常、ソナタ形式で作られますが、展開部や再現部の一部が省略されたりします。

ソナチネと聞いて私が真っ先に思い出すのは、ピアノの練習に欠かせないクレメンティの作品です。それから、以前やっていたギターで挑戦したポンセの「南国のソナチネ」。結局、最後まで弾ききれずに終わってしまいましたが。

クラヴサンは、ビアノのように弦をハンマーで叩くのではなく、プレクトラム(爪状のもの)で弾いて音を出す撥弦楽器です。フランス語読み由来の呼び名で、英語でいうハープシコード、ドイツ語のチェンバロにあたります。

いま読んでいる「はじめてのものに」に始まり、「またある夜に」「晩(おそ)き日の夕べに」「わかれる昼に」「のちのおもひに」とつづく、《ゆふすげびとの歌》である第1のソナチネ。

そして、小曲(夏花の歌)をはさんで、「虹とひとと」「夏の弔ひ」「忘れてしまつて」からなる第2のソナチネ。これら『萱草に寄す』を構成する詩は、すべて14行詩です。それらが、楽譜のような本に収まっているのです。

確かに『萱草に寄す』を通読すると、一つの微妙な音楽的リズムを刻みながら、クレメンティのソナチネのように言葉がすっと流れてきます。私には、この詩集全体が、一つの「小奏鳴曲」のようにも思われます。

道造きっと音楽が相当に好きだったのでしょう。それだけでなく、音楽を、詩という言葉とそのリズムで表現しようとする若々しい意気が「聞こえ」てくるような気もするのです。

2015年4月10日金曜日

立原道造「はじめてのものに」⑥

「はじめてのものに」は、4行、4行、3行、3行の14行詩です。道造の詩には、この形式の14行詩がたくさんあります。

こうした14行詩は、しばしば「ソネット」といわれていますし、道造自身もそういう呼び方をしています。

けれど私は、「ソネット」と呼ぶのには、なんとなく抵抗を感じています。それは、西洋の3行詩を「ハイク(HAIKU)」と呼ぶのに似た違和感からかもしれません。

ソネットは14行からなるヨーロッパの定型詩。もともと「小さな歌」という意味があるそうです。13世紀にそれは、厳格な押韻構成と特定の構造を持つ14行の詩を意味するようになりました。

ルネサンス期にイタリアで盛んになり、英語詩にも取り入れられて代表的な詩形のひとつとなります。

本来のイタリア風ソネットは、二つの部分に分けられ、前半の8行で問いを投げかけ、後半の6行で答える。それをつなぐ9行目は、「ターン」の役目を担っています。

押韻構成は、前半8行が「abab abab」や「abba abba」、後半6行は「cdecde」や「cdccdc」、やがて「cdcdcd」という変化形も採用されています。

最も有名なソネット詩人といえば、154篇のソネットを書いたウィリアム・シェイクスピア=写真、Wikipedia=でしょう。4、4、4、2行からなるシェイクスピア風ソネットの押韻構成は「abab cdcd efef gg」です。

ソネットは構成や押韻だけでなく、韻律にも特徴があります。伝統的に、英語詩の場合は弱強5歩格、ロマンス諸語では、11音節かアレクサンドラン(12音節)が広く使われています。

道造の「はじめてのものに」を読むと、それが、イタリア風やシェイクスピア風などヨーロッパのソネットの押韻法によってはいないことがわかります。シラブルをきっちりそろえているわけでもなさそうです。

菅原克己著『詩の辞典』のソネットの項をみると、「14行詩。古いドイツの詩形からから出て、イタリア、フランス、イギリスに伝わった。西洋のものはうるさい約束があるが、日本では14行の詩行を、4、4、3、3、或は、8、6に分けて書く程度で試みられている」とありました。

詩集『萱草に寄す』は、「SONATINE NO.1」、「夏花の歌」、「SONATINE NO.2」の3部に分かれ、「はじめてのものに」は「SONATINE NO.1」の冒頭に置かれています。

この詩集について道造は、「それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために、二つのソナチーネと小曲・夏草の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカツトで飾られた」(「風信子一」)と記しています。

道造は“ソネットの詩人”だ、というよりも、“ソナチネの詩人”と言うほうが、私にはぴったりとはまるような気がします。

2015年4月9日木曜日

立原道造「はじめてのものに」⑤

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

それにしてもタイトルの「はじめてのものに」の「もの」とは、何のことを言っているのでしょう。関鮎子ら恋愛の対象となった「女性」のことを指しているのでしょうか。それとも「恋の思い」そのものなのでしょうか。

この詩が『四季』に掲載される直前の1935(昭和10)年8月5日、道造が2度目の信濃追分滞在をしていたとき浅間山が噴火しています。

「けさ浅間の爆発にはじめて立ち会つた。それは雲の絶間から眺められたのだが、りつぱなものであつた。地異とはまたすさまじいものであろう」(猪野謙二あて書簡)。

そんな、すさまじい火山の噴火という「地異」が「はじめてのもの」なのでしょうか。

これらどれであったにしても、タイトルとしてはあり得るし、どれでなければならない、ということもないような気がします。それらすべてを含んだ抽象的な名詞なのでしょう。

実際には、かなり具体的な「もの」を指しています。にもかかわらず、こうしたある種の“あいまい化”用法を使うことによって、現実的な意味あいを残しながも、そこから距離を置いて人や物を見つめることができるのです。

「はじめてのものに」が入った道造の第1詩集『萱草に寄す』について、吉本隆明は次のように記しています。

「言語的には指示代名詞や人称代名詞を主語として、日本語よりも印欧語的に繁多に繰返し用いることで、景物や事象を代名詞的世界の水準に抽象し、独特な背景の世界を造りだした。そのあいだにごく少数の具象的な草花の名や事物の名をあしらうことによって〈美〉を構成した」(『吉本隆明歳時記』)

吉本のいう「代名詞的世界」の構築には「もの」だけでなく、「私はひとと/窓に凭れて語りあつた」「そのひとが蛾を追ふ手つきを」と確かな実在性をもちながら代名詞的な表現になっている「ひと」もまた大きく寄与しています。

道造は柴岡亥佐雄への手紙で〈エリザベートとのめぐりあひをうたつて、「はじめてのものに」といふ詩を書いた。四季の十一月号に出した。「もしエリザベートたちが見ることなどあつたら。」そんなことを考へて、今まで僕のうたつた世界が、いかにdas Lebenにとほかつたか、わかつたやうに思つた〉と記しています。

「ひと」は、道造が実際にエリザベートと呼んでいた柴岡の遠縁の横田ケイ子なのでしょうか。月光の中でともにモーツァルトを聴いた北麗子かもしれないし、ゆふすげの花と同じ黄色い帯をしめた関鮎子なのかもしれません。

そんなことはどうでもいいといってしまえば、その通りですが、ついそんな詮索ができるのも、この詩の「代名詞的世界」の魅力なのでしょう。詩人が、そこまで目論んでいたのか、それとも「代名詞的」な表現にしなければなんらかの支障がでてくる事情があったのか。そんな詮索までも、楽しめます。

ともかく、ある女性をイメージしていることは確かですが、それは「ひと」でしかありません。憶測をめぐらして周りがじれったくなりそうなあいまいさの間隙をぬうようにして、初めて本当の恋をする心の小刻みな鼓動が聞こえてくるのです。

あいまいな代名詞的世界であるがゆえに、その心の波動はよりはっきりと、そして、かなしい追憶のように音をたてて降りしきる「地異」と共鳴して、響いてくるように思われます。

2015年4月8日水曜日

立原道造「はじめてのものに」④

これまで見てきたように、道造は1934(昭和9)年夏、約1カ月にわたって、信濃追分で初めての村ぐらしを体験しました。

滞在中に20歳を迎えた帝大生でした。

当然のごとく、年ごろの女性たちとの出会いがあり、恋心がふくらんでゆきます。

そんな一人に、関鮎子がいました。

当時18歳だったとされる鮎子は、追分の本陣「永楽屋」の孫娘で、千葉市で弁護士を開業していた関一二の娘。

親のふるさとの追分に、遊びに来ていたのです。

道造をに追分に招いた近藤武夫の身の回りの世話を彼女がしていたのがきっかけで、親しくなったようです。

道造は鮎子を連れ立って、村外れの「岐れ道」や遊女の墓などをしばしば散策しています。

  あの人は日が暮れると黄色な帯をしめ
  村外れの追分け道で 村は落葉松の林に消え
  あの人はそのまゝ黄いろなゆふすげの花となり
  夏は過ぎ……

その年の『四季』第2号に掲載された道造の詩「村ぐらし」の中に、こんな一連があります。

ユウスゲ(夕菅)=写真=は、ユリ科の多年草。初夏、淡黄色のユリに似た細長い花が夕方開き、翌日の午前中にはしぼみます。「黄いろなゆふすげの花」となった「あの人」とは、鮎子のことなのでしょうか。

道造はほかに、翌1935(昭和10)年夏の追分滞在では、東大の級友、柴岡亥佐雄の遠縁にあたる横田ケイ子、さらには昭和の大検校といわれた山田流箏曲家今井慶松の次女で、松竹歌劇団の今井静枝(北麗子)とも親しくなり、恋慕の情を抱いていたようです。

立原道造の研究家、小川和佑は著書『立原道造 忘れがたみ』の中で、〈この3人の信濃追分の少女たちが、立原の詩と散文のなかの1人の少女「ゆふすげびと」であった。立原のこの少女たちとの愛は、いって見れば夢と現実の境界が定かでない立原の夢幻の詩的世界のなかに溶解している〉と指摘しています。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲(こえ)が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

私たちがいま読んでいる詩「はじめてのものに」に出てくる「ひと」も、信濃追分で出会った3人の少女たちが、立原の夢幻の詩的世界のなかで溶解している「ゆふすげびと」なのでしょうか。

2015年4月7日火曜日

立原道造「はじめてのものに」③

  小諸なる古城のほとり 
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
  若草も藉くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡邊
  日に溶けて淡雪流る

  あたゝかき光はあれど
  野に滿つる香(かをり)も知らず
  淺くのみ春は霞みて
  麥の色わづかに靑し
  旅人の群はいくつか
  畠中の道を急ぎぬ

  暮れ行けば淺間も見えず
  歌哀し佐久の草笛
  千曲川いざよふ波の
  岸近き宿にのぼりつ
  濁り酒濁れる飲みて
  草枕しばし慰む

島崎藤村の有名な「千曲川旅情の歌」です。この詩にも出てくる、ゆったりとした雄大な山容、しかし、しばしば怒りを顕わにするように噴煙をのぼらせる浅間山は、近くに住んでいる人たちにとって、親しくもあり、畏怖の的でもある特別な存在でしょう。

長野県出身の私も、そんな1人です。学生時代も、サラリーマンになってからも、「あさま」の車窓から、幾たび標高2568メートルの浅間山を眺め、励まされたことでしょう。

浅間山は三つの火山体で構成され、それらは浅間烏帽子火山群ないし浅間連峰と総称されています。

一帯は数十万年前から火山活動が活発でした。

気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定。

活動レベルに応じて入山規制をしています。

溶岩流や火砕流をともなう大噴火としては、4世紀、1108年、1783年のものが知られています。だいたい700~800年間隔で大噴火が起こっていると考えられるわけです。

平安時代の1108年(嘉承3年、天仁元年)の天仁大噴火では30億トンに及ぶ大量の噴出物があったと推定されています。

噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国(いまの群馬県)一帯に達し、田畑がことごとく埋まりました。長野県側にも火砕流(追分火砕流)が、約15キロほどかけ下り、湯川や小諸付近まで達したとされています。

1783年の天明の大噴火は、天仁大噴火ほどの規模ではなかったようですが、降った火砕物によって火事や家の倒壊、用水被害や交通遮断が起こるとともに、火砕流、岩屑なだれ、泥流などで浅間山北麓から利根川流域中心に関東平野一帯に大きな被害をもたらしました。

死者1624人、流失家屋1151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余りとされています。

長い噴火の歴史から見ると比較的落ち着いているとはいえ、現在も小規模な噴火は繰り返し起こっています。夏になると浅間山のふもとの信濃追分に滞在していた道造も、その噴火をいく度か、近くにいて体験しました。

信濃追分は、いまの長野県軽井沢町追分。軽井沢町の西端に位置し、御代田町と接しています。標高1000メートル、美しく静かな森や畑が広がり、軽井沢の都会チックな華やかさはありません。

1934(昭和9)年7月22日、その年に東大の建築学科に入学した道造は、初めて信州の地を踏みました。軽井沢駅に降りて、堀辰雄を旧軽井沢のつるや旅館に訪ねるものの、掘はあいにく急用で上京した後で行き違いとなりました。

けれども、掘の依頼を受けていた阿比留信(英文学者)の案内で町を見てまわり、室生犀星宅も訪れています。

23日から25日にかけて神津牧場、志賀、岩村田、小諸をまわり、25日夜から8月20日まで追分にとどまります。このとき初めて、“村のくらし”を体験することになりました。そのころの様子が、次のような詩からもうかがえます。

     静物

  堡塁のある村はづれで
  広い木の葉が揺れてゐる

  曇つた空に 道は乾き
  曲ると森にかくれた 森には
  いりくんだ枝のかげが煙のやうだ

  雲が流れ 雲が切れる
  かがやいてとほい樹に風が移る

  僕はひとり 森の間から
  まるい石井戸に水汲む人が見えてゐる
  村から鶏が鳴いてゐる ああ一刻 夢のやうだ

2015年4月6日月曜日

立原道造「はじめてのものに」②

立原道造は1914(大正3)7月30日、立原貞次郎、トメ夫妻の長男として日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)に生まれました。荷造り用の木箱製造を家業としていました。「立原」は母方の家系で、近い祖に水戸藩の儒者立原翠軒、画家立原杏所がいます。

1919(大正8)年、5歳のとき父の死去により家督を相続しますが、家業は母が取り仕切り、後に弟の達夫が継いでいます。

1927(昭和2)年、東京府立第三中学校に入学。まだ13歳でしたが、アートや文学など旺盛な活動をはじめます。

パステル画に抜群の才能を発揮したほか、国漢教師の橘宗利について作歌を学び、北原白秋を訪ね、口語自由律短歌を『学友会誌』に発表。

自選の歌集『葛飾集』、『両国閑吟集』、詩集『水晶簾』をノートにまとめています。

1931(昭6)年、第一高等学校理科甲類入学。当初は、天文学を志していました。

一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に続けて投稿します。

物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載され、学内で注目されます。秋には堀辰雄を識り、以後兄事するようになりました。

1932(昭7)年には同人誌『こかげ』を創刊。一高文芸部の編集委員に選ばれ、杉浦明平らの上級生に伍して活躍します。この年に『さふらん』、翌年、『日曜日』、『散歩詩集』と続けて手づくり詩集を作っています。

1934(昭9)東京帝国大学工学部建築学科に入学。岸田日出刀の研究室に所属しました。1学年下に丹下健三や浜口隆一が、2学年下に生田勉がいました。この年、同人誌『偽画』を創刊。夏、初めて軽井沢を訪れ、それから毎夏、信濃追分の油屋に滞在するようになります。そして室生犀星、萩原朔太郎を識ります。

この年、堀辰雄を中心に創刊された『四季』(第2次)に、三好達治、丸山薫、津村信夫とともに編集同人となります。第2号に組詩「村ぐらし」「詩は」を発表し、詩壇に登場することになります。

1935(昭10)年には、課題設計「小住宅」で、建築の奨励賞である辰野賞を受賞。また、同人誌『未成年』を創刊しています。そして立原の詩作の主要な舞台となった『四季』11月号に、「はじめてのものに」を発表しています。

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

詩を発表した前年から夏を過ごすようになっていた信濃追分は、世界有数の活火山、浅間山(標高2,568メートル)のふもとにあります。道造が訪れていた当時も、しばしば噴火を繰り返し、灰を降らし、山火事を起こし、空振で戸障子やガラスが破損するといった被害も少なくありませんでした。

そんな「地異」がもたらした灰が「かなしい追憶のやうに 音立てて」降りしきった村で、若い2人は、灰を降らせた山の見える「窓に凭れて語りあつた」。怖いもの知らずの青春。詩人は、なんとなく別れを予感させる恋の中にいるのです。

2015年4月5日日曜日

立原道造「はじめてのものに」①

ふたたび日本の近代詩にもどって、きょうから立原道造(1914~1939)の「はじめてのものに」を読み直していきます。

     はじめてのものに

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

この詩は、第2次『四季』の12号〈1935(昭和10)年11月号〉に発表されました。

『四季』は、昭和を代表する同人詩誌の一つです。1933(昭和8)年に堀辰雄らを中心に創刊されましたが、2号だけでおわった「第1次」。さらに、1984(昭和59)年に創刊されて1987(昭和62)年の第11号で終刊となった「第5次」まで、通算すると半世紀以上にわたり、昭和の有力な抒情詩人たちの創作の舞台となりました。

なかでも1934(昭和9)年に創刊、戦中の1944(昭和19)年の第81号まで続いた「第2次」の同人には、堀をはじめ三好達治、丸山薫、津村信夫、井伏鱒二、桑原武夫、神西清、神保光太郎、竹中郁、田中克己、辻野久憲、中原中也、萩原朔太郎、室生犀星などが名を連ねています。『四季』が絶頂期を迎えた時期でした。

立原は堀に才能を認められ、第2号に「村ぐらし」を発表して詩壇に登場します。その後『四季』は、立原にとって作品発表の主要な場であり、創作のよりどころとなります。

『四季』に「はじめてのものに」を発表したとき、道造は21歳。東京帝国大学工学部建築学科の学生でした。掲載された「第2次」の昭和10年11月号は、次のようなラインナップになっています。

  短編「詩と雄弁について11(アラン)」 桑原武夫訳
    散文詩「夜が私に歌って聞かせた・・・(ジャム)」 三好達治訳
    詩「『未成年』といふ雑誌の扉におくる」  丸山薫
  詩「はじめてのものに・またある夜に」 立原道造
    詩「詩人は辛い」 中原中也
    詩「日暮の街」 竹村俊郎
    随筆「詩人の故郷」 辻野久憲
  感想「燈下言」 三好達治
    詩「何でもない詩抄」 竹中郁
    詩「その人」 蔵原伸二郎
    詩「夏の嘆き」 伊東静雄
    詩「嵐」 笹沢美明
    詩「三十歳」 村野四郎
    詩「挽歌」 内田忠
    詩「巷の風・八月にしるす・後醍醐天皇の島」 杉山平一
    詩「四季だより」 Y・K
    感想「僕の言葉」 三好達治

「はじめてのものに」は、『四季』に発表された2年後の1937(昭和12)年5月に出版された第1詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』=写真=に収められました。

『萱草に寄す』は、まるで楽譜のような感じの大きな本です。

「SONATINE NO.1」「夏花の歌」「SONATINE NO.2」に分かれて、合わせて10篇の詩から成っています。

道造は『萱草に寄す』について〈「ソナチネ」(小ソナタ、小奏鳴曲)それも「クラヴサンとフルートのソナチネだ」〉と述べています。

そんな第1詩集の冒頭を飾っている詩が「はじめてのものに」です。

2015年4月4日土曜日

ゲーテ「変転のなかの持続」④

「変転のなかの持続」は1803年、ゲーテが54歳の壮年期、当時とすれば初老にさしかかったころの作品です。その前後のゲーテの歩みを追ってみると――


1784年には、ヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見しています。

ゲーテは骨学に造詣が深く、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考案し、脊椎がこれにあたると考えました。「原型(Urform)」という思想のはじまりです。

1790年に著した『植物変態論』では、この考えを植物に応用しています。

すべての植物は「原植物(Urpflanze)」から発展したものと考え、花弁や雄しべなど諸器官は様々に変化した「葉」が集合してできた結果であるとしました。

そしてリンネの分類学を批判し、進化論の先駆けとも言われる「形態学(Morphologie)」という新分野を提唱しています。

1794年、イェーナでの植物学会で会ったのを機に、シラーと親交を深めていきます。

1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を二人で制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評しました。ドイツ文学の古典主義時代の確立の時期に当たります。

自然科学研究にのめりこんでいたゲーテに、シラーは「あなたの本領は詩の世界にあるのです」とアドバイス。この年には教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、翌年には叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させています。

1806年、『ファウスト』第1部を完成。イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻。ゲーテは腎臓を病んで頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。

なお1774年刊の『若きウェルテルの悩み』に、詩「変転のなかの持続」の思索と関連すると思われる一節(高橋義孝訳)がありましたので、最後にあげておきましょう。

〈ぼくの魂の前に引かれていた幕は落ちてしまった。無限の生なる舞台は、ぼくの眼前で、永遠に口を開いている墓穴の深淵に変ってしまった。君は「それはある」といえるが、すべては移ろい流れるのに。

いっさいは稲妻のような速さで流転し、存在の全き力が持続するのはまれで、悲しいかな、変転の流れに引き入れられ水底に没して岩に当って砕け散るのに、君や君の周囲の親しい人々をむしばまない一瞬間もなく、君自身が破壊者であり、あらねばならずにすむ一瞬もない。

無心の散歩でさえ幾千の哀れな小虫は生命を奪われ、踏み出すたった一足が営々と築かれた蟻の塚をくずし、小さな世界はふみにじられて忌わしい墓場と化する。村々を洗い流す大洪水、都市をいくつものみこむ大地震、そういうまれにしか起らぬ大災害なんか、実はどうだっていいんだ。

自然万物の中に隠れている浸蝕力、自分の隣人や自分自身をさえ破壊しないような何物をもつくることのなかった浸蝕力、こいつがぼくの心を掘りくつがえす。

こう考えると、ぼくの足は不安のあまりよろめいてしまう。天と地とぼくの周囲のつくりはたらくもろもろの力と。ぼくの眼には、永遠にのみこみ永遠に反芻する怪物の姿しか見えないのだ。〉

2015年4月3日金曜日

ゲーテ「変転のなかの持続」③

ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう

きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
激しい雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみは二度とふたたび泳ぐことはない

いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
口づけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたつ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ

喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そしていま それらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ
波のようにこちらへ寄せては
すぐさま四大へと還っていく

始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
詩神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを

ゲーテは、1798年初めにヴァイマルの北東約10キロのオーバーロスラウに土地を購入。そこで田舎生活を楽しみますが、5年後には手放しています。

第1連は、ここでの田園生活への思いが込められているようです。生命の芽生えとその発育の中にあふれる活力、初老に達した人間の過ぎ去った若き日々への郷愁の気持ち。時の流れ、自然の移りゆきの早さ。春の恵みは3行目ではもう花を満開にさせ、4行目では西風に吹かれて散り始めます。

第2連では人の目にはとらえにくい、変化のありさまを表現しています。時は私たちの逡巡を待ってはくれません。一瞬の機会を逃せば、永遠に失われてしまう。旬の果実は素早くつみ取らなければ、熟れ頃を逃してしまうのです。南国の果実のイメージは、イタリア旅行の反映でしょうか。

5、6行目では、驟雨が降るごとに変化する谷間の風景をうたい、7、8行目は、まさに「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」(『方丈記』)。

また、紀元前5世紀、ギリシャの哲人ヘラクレイトスは「同じ川に2度はいることはできない」といったと伝えられています。

第3連と第4連では、自身について語っています。城壁や宮殿など岩のように堅くて変わらないものでも、見る側はたえず違った眼差しで見つめます。人もまた時とともに衰えるのです。喜ぶ力も若々しさも失われていきます。

やさしく動いた手も、形の整った手も変わってゆく。外界の対象物が変化するとともに、それを知覚する人間の目も唇も足も手も変化し、結局、すべてが違うものになる。この世のすべてのものが永遠の生成の中で把握されています。

身体の変化にもかかわらず、主体があくまでも同一性を保っていると信じているのは、かろうじてその主体が同一の「名前」で呼ばれているからでしょう。

しかし名前で呼ばれて意識に固定されているように見えるものも、川の水のようにあるものは衰え、新たなものが芽生えてきます。

波のように寄せ、波のように砕けて、それら一切を構成する四大(地、水、火、風の4元素)に回帰します。ここでは、中でも「水」を指しているのでしょう。

第5連では、それまでの時間の力に代わって詩人の積極的な生き方が前面に出てきます。過去は終わってしまったものではなく、現在の中に生き続け、過去と現在は未来を規定します。

過去と未来、初めと終わりは首尾一貫した全体を構成しなければならない。始めと終わりを備えた時間の中で「私」の自己同一性を確保しつつ、同時に固定的な不変性を逃れて変わる。

そのような生を実現してくれるであろう「詩神の恩ちょう」に感謝せよ、という命令で、この詩は、やや強引と思われなくもないしめくくらかたをします。詩神は、不滅なるものを約束してくれるというわけです。

よく知られる『方丈記』第1段「その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」にも、この詩と共通するところを含んでいそうです。

2015年4月2日木曜日

ゲーテ「変転のなかの持続」②

ゲーテの「変転のなかの持続」は、1803年に作られました。同年5月15日、シュトゥットガルトの出版者コッタに宛てて出版をゆだねられ、ヴィーラントとゲーテの編集による『1804年の小型本』で初めて公になります。

その後、1806年の作品集では「歌謡」という題で、1815年には「楽しみの歌」という題でまとめられた詩に加えられました。1827年の決定版全集には「神と世界」というテーマの詩篇に収められています。

「神と世界」は、晩年に作られたゲーテの自然科学的、哲学的見解を反映した22篇からなります。この詩も最終的には、思想詩的な位置づけがされていたことになります。

この詩は、精神医学者ライル(J.Chr.Reil、1759-1813)の『精神錯乱に対する精神療法の応用に関するラブソディ』(1803)という著作を、ゲーテが詩的に表現したとされています。

ライルによれば、一人の人間を取り囲む外界の事象は時々刻々変化していますが、人間はそれらの事象と自分の意識とを区別できるので、「多数の人格に分裂してしまう」ことはありません。

しかし「我々の意識の中で非常に粘り強く持続するこの自我は、実際にはきわめて変化しやすいものである。老人は、自分が80年前の自分と同じものだと信じる。けれども彼はもはや同じではない。どんなに微細な部分といえども80年前のものはまったく残っていないからだ」。

そのためライルからすれば「我々が常に同一の人格であるという固い信念」は奇妙であって、「生体は一時的にも継続的にも物質代謝を行う。生体は絶えず破壊し、また破壊したものを再び創り上げる」のです。

総体としての自然にとっては、このような破壊と生成の反復運動は半永久的な自己保存にとって不可欠ですが、一人の人間にとっては、その運動は最終的に死によって停止するが故に、むしろ無常観をもたらします。

観察される外界の変化は、不動の自己意識の存在を確信させてくれるのではなく、むしろ自らの老化と、不可避な死を予感させます。

この詩は、そのような無常観から我々を救済し不滅なるものを約束してくれるのが詩神であるというメッセージで結ばれている、とこれまで通常は読まれてきました。

2015年4月1日水曜日

ゲーテ「変転のなかの持続」①

ここで、スペインからドイツへと移って、最近ちょっと目にしたゲーテの詩「Dauer im Wechsel(変転のなかの持続)」をしばし、読んでいきます。まずは、ざっと訳をつけてみました。

Dauer im Wechsel
         
Hielte diesen frühen Segen,
Ach, nur Eine Stunde fest!
Aber vollen Blütenregen
Schüttelt schon der laue West.
Soll ich mich des Grünen freuen,
Dem ich Schatten erst verdankt?
Bald wird Sturm auch das zerstreuen,
Wenn es falb im Herbst geschwankt.

Willst du nach den Früchten greifen,
Eilig nimm dein Teil davon!
Diese fangen an zu reifen,
Und die andern keimen schon;
Gleich mit jedem Regengusse
Ändert sich dein holdes Tal,
Ach, und in demselben Flusse
Schwimmst du nicht zum zweitenmal.

Du nun selbst! Was felsenfeste
Sich vor dir hervorgetan,
Mauern siehst du, siehst Paläste
Stets mit andern Augen an.
Weggeschwunden ist die Lippe,
Die im Kusse sonst genas,
Jener Fuß, der an der Klippe
Sich mit Gemsenfreche maß.

Jene Hand, die gern und milde
Sich bewegte, wohlzutun,
Das gegliederte Gebilde,
Alles ist ein andres nun.
Und was sich an jener Stelle
Nun mit deinem Namen nennt,
Kam herbei wie eine Welle,
Und so eilts zum Element.

Laß den Anfang mit dem Ende
Sich in Eins zusammenziehn!
Schneller als die Gegenstände
Selber dich vorüberfliehn!
Danke, daß die Gunst der Musen
Unvergängliches verheißt,
Den Gehalt in deinem Busen
Und die Form in deinem Geist.

変転のなかの持続

ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう

きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
激しい雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみは二度とふたたび泳ぐことはない

いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
口づけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたつ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ

喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そしていま それらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ
波のようにこちらへ寄せては
すぐさま四大へと還っていく

始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
詩神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを