2015年5月31日日曜日

吉岡実「僧侶」⑤

  その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
  その男には意志がないように過去もない
  鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
  その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
  刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
  もし料理されるものが
  一個の便器であつても恐らく

  その物体は絶叫するだろう
  ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
  いまその男をしずかに待受けるもの
  その男に欠けた
  過去を与えるもの
  台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
  斑のある大きなぬるぬるの背中
  尾は深く地階へまで垂れているようだ
  その向うは冬の雨の屋根ばかり
  その男はすばやく料理衣のうでをまくり
  赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
  手応えがない
  殺戮において
  反応のないことは
  手がよごれないということは恐しいことなのだ
  だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
  吐きだされるもののない暗い深度
  ときどき現われてはうすれてゆく星
  仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし
  戸口から出る
  今まで帽子にかくされた部分
  恐怖からまもられた釘の個所
  そこから充分な時の重さと円みをもつた血がおもむろにながれだす

詩集『静物』の最後に収められた「過去」という詩です。詩に「過去を与えるもの」として出てくる「赤えい」は、全長2メートルになる、日本など東アジアの沿岸域に広く分布する巨大魚。

押しつぶされたように平たく、座布団のような形をしています。胸鰭はゆるやかな曲線を描きますが、口のほうは尖っていて、背面に目。食用ですが、尾に毒の棘があります。

グロテスクな感もある魚ですが、直腸、排尿・生殖口を兼ねる総排出腔の形が人間の女性器に似ているため、城主を色香で迷わせて城を傾けるほどの美女の喩え、傾城(けいせい)にちなんで「傾城魚」とも呼ばれているそうです。

シュールレアリスティックなイメージのなかに、どっかと置かれた「赤えい」。その「生身の腹へ刃物を突き入れ」ても「手応えがない」。このあたりは、自身の満州での戦争体験が下敷きになっているのでしょう。

20世紀、アインシュタインの登場によって時間は、空間のひとつの座標軸と考えられるようになりました。われわれの世界は、縦、横、高さに時間を加えた4次元なのです。

「赤えい」は、その男に「過去を与える」時間軸であり、「膜のような空間」。超現実的な空間に据えられた「赤えい」という時間軸は、なんとも肉感的でリアリティーを持ちあわせています。

詩「過去」のなかには、「僧侶」で繰り広げられる“吉岡ワールド”が輪郭をあらわしはじめているようにも思われます。詩集『静物』について吉岡は、次のように記しています。

〈詩集『静物』は、一九四九年から七年間の作品十七篇を収めている。ぼくには一人の詩を解する友もなく、発表する機関さえなかった。逆にいえば、友をつくらず、発表の場も求めず、自分で納得できる詩をつくることのみ考えていた。

『静物』は一九五五年、二百部自費出版した。無名画家が個展をひらくような期待と不安の裡で。未知の先輩、知己に配った。反響はなく、一行の紹介、批評も現れなかった。

それから一年後、偶然の機会で飯島耕一と知り合った。まさに出会いであり一つの運命だと思う。ぼくは『静物』を最後の詩集にするつもりだったが、新しい友を得てまた書きはじめた。古本屋で署名を裂いた『静物』を求め、篠田一士に贈ったのも一つの思い出。〉(「詩集・ノオト」)

1956(昭和31)年には、飯島にすすめられて「今日の会」に入り、大岡信、書肆ユリイカ社主の伊達得夫らと知り合い、『ユリイカ』周辺の文人たちと交流するようになります。

この年の12月、飯島が『講座現代詩』で、「過去」を鑑賞。これが、吉岡の詩が公の場で紹介される最初となりました。

1957(昭和32)年、飯島に「僧侶」の構想を伝え、飯島の強い推薦で4月、「僧侶」が『ユリイカ』に掲載。詩壇の注目を浴びることになります。

2015年5月30日土曜日

吉岡実「僧侶」④

言うまでもないことですが、言葉にはいろんなものが詰まっています。もちろん言葉は、日々のコミュニケーション手段として、情報のやり取りや意思疎通には欠かせません。

しかし、単に意味を伝えるだけの役回りをしているわけではありません。同じ内容でも、そのしゃべりかたや書きかたによって、そのニュアンスや伝わりかたは変わってきます。

マドリードの劇場でだいぶ前、スペインの名優たちによる「ラ・マンチャの男」を観ました。意味は何だかわかりませんでしたが、私はそのときからスペイン語のそのよどみのないカラッと晴れたような歯切れのよい響きに、すっかり魅せられてしまいました。

意味がわからなくても、その音や響き、リズム、それから言葉の作り出すイメージ、さらには文字のかたちや並びかたに、美しさや何か惹かれるものを感じることはよくあります。そこにも、言葉の素晴らしさがあります。

音楽家が楽譜にオタマジャクシを書き込むように、画家がカンパスに絵の具を塗るように、数学者が数字や記号を操るように、詩人は言葉を使います。吉岡もまさしく、そうした詩人のひとりなのです。

詩とは何か、といったことを論じる能力は私にはありませんが、詩の魅力は、意味にとどまらず、韻やリズム、作り出すイメージなど、言葉のいろんな側面をひきだしてくれるところにあると思います。

音符や数式はだれもが自由に読むわけにはいきませんが、言葉は毎日、誰もが使っています。そんなありふれた言葉のなかにも、これまで思いもしなかった美しさや面白さがあることを、新たな可能性があることを優れた詩は教えてくれるのです。

詩集『静物』のなかには、「静物」という題名の四つの詩の連作が収められています。前回あげたのはその2番目。連作は、次の「静物」から始まります。

     静物 

  夜の器の硬い面の内で
  あざやかさを増してくる
  秋のくだもの
  りんごや梨やぶどうの類
  それぞれは
  かさなつたままの姿勢で
  眠りへ
  ひとつの諧調へ
  大いなる音楽へと沿うてゆく
  めいめいの最も深いところへ至り
  核はおもむろによこたわる
  そのまわりを
  めぐる豊かな腐爛の時間
  いま死者の歯のまえで
  石のように発しない
  それらのくだものの類は
  いよいよ重みを加える
  深い器のなかで
  この夜の仮象の裡で
  ときに
  大きくかたむく

リルケの作品の模倣的な要素もあるように思いますが、ちょうど幾何のトポロジーがさまざまの位相で空間をとらえていくように、そこに置かれているものたち、言葉たちが、意味の束縛から解き放たれて、つぎつぎにイメージを呼び起こしていきます。

基調には、吉岡が若いときから親しんできた俳句などで培ってきた、端的で、メリハリの効いた言葉の運びがあり、鋭い観察眼があるのでしょう。4連作の最後の「静物」は、つぎの作品です。

  台所の汚れた塩
  犬のたれさがる陰茎
  屋根のつきでた釘の頭

  それらのもろい下部構造の一角を
  暗い鏡へ映しながら
  やがては
  まだ形をなさぬ胎児の手足
  画家の心象の岸辺の馬
  計算されない数字
  類似の抽象まで
  他の部屋 他の次元へ
  はこび入れる

  それらの異質のものを同じ高さで
  同じ角度で静止させる
  夜の仕事の華麗なる狡猾さである
  しかし
  重すぎるので
  ただ一個の卵はそのまま
  窓の卓に置かれている
  そこには夜のみだらな狼藉もなく
  煌々と一個の卵が一個の月へ向つている

ここに吉岡ならではの「卵」のイメージが登場してきます。麻布六連隊での面会で「ゆでたまごを二つほど衛兵にかくれて食った」、脳裏に深く刻まれている母との最後の思い出ともなった「卵」。

それは、円とも楕円とも少しちがう膨らみをもった曲線を描く生命のはじまり。卵は、生命が細胞分裂をするとき染色体を娘細胞に分配する紡錘体をも連想させます。

詩集『静物』には、ずばり「卵」という題がついた次の詩も収められています。

  神も不在の時
  いきているものの影もなく
  死の臭いものぼらぬ
  深い虚脱の夏の正午
  密集した圏内から
  雲のごときものを引き裂き
  粘質のものを氾濫させ
  森閑とした場所に
  うまれたものがある
  ひとつの生を暗示したものがある
  塵と光りにみがかれた
  一個の卵が大地を占めている

2015年5月29日金曜日

吉岡実「僧侶」③

  父母の死を信ぜず雪の残りたる高梁畑の落日を見つ

1943(昭和18)年、満州で主に馬の世話をしながら軍隊生活を送っていた吉岡実は、兄からの手紙で、父母の死を知ります。

死からすでに1年以上経っていました。満州へ旅立つ直前の面会日が、両親との訣別の日となったのです。その日のことを吉岡は、脳裏に鮮明に刻んでいました。

〈麻布六連隊の兵舎の草の上には、再会をよろこぶ兵と家族の群があった。まるでピクニックのような談笑と飲食の世界。私の前に父は悄然と一人できた。

電車の乗換えで、母とはぐれてしまったことをつぶやくように詫びるばかりであった。当然ながら、父は手ぶらであった。日用品、食物は母が持っているからだ。

私は父とどんな話をしたか忘れてしまったが、ただ父をなじったように思う。面会時間が終って、だいぶたってから、母が会いに来た。私と母は衛兵所の側で、立ったまま会った。

ゆでたまごを二つほど衛兵にかくれて食った。母は涙していた。目に一丁字もない母が私を尋ね当てたのは一種の奇跡に思われる。母はその一カ月後に死に、父も翌年の一月に死んだ。〉(「『花樫』頌」)

吉岡は、済州島で終戦を迎えることになります。

〈ねじあやめの咲く春の満州を出てから四ヶ月目であった。済州島は日本帝国の最後の橋頭堡であったらしい。恐らくあと一カ月戦いがつづいていたら、済州島の山の中が、私の立っていた最後の地上になったであろう。

それが反対に、死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった。済州島へ上陸以来、毎日輓馬で弾薬や食料を山の奥へ奥へと搬んでいた。そして野営をした処が新星岳だった。そのうち馬は倒れた。

食料のとぼしい時なので、倒れた馬は殺して喰べた。ろくな飼料を与えられていない馬たちの肉は、脂がなく味気なかった。〉(「済州島」)

そして、米5升とわずかな私物を持って、廃墟となった東京へと引きあげました。そのとき、出征するときに持って行った物のうち二つを持ち帰りました。

母が厄除けにとわたしてくれた白南天の一本の箸。それから、戦地で繰り返し読みつづけた北原白秋の『花樫』です。

終戦の翌1951(昭和26)年には、筑摩書房へ入社。1955(昭和30)年には、戦後10年間に書きためた作品17篇を収めた詩集『静物』(私家版200部)を刊行しています。

     静物

  夜はいつそう遠巻きにする
  魚のなかに
  仮りに置かれた
  骨たちが
  星のある海をぬけだし
  皿のうえで
  ひそかに解体する
  灯りは
  他の皿へ移る
  そこに生の飢餓は享けつがれる
  その皿のくぼみに
  最初はかげを
  次に卵を呼び入れる

詩集『静物』には、ライナー・マリア・リルケ(1875~1926) の『ロダン』から受けた「詩作という手仕事」への啓示が、決定的な影響を及ぼしています。

〈私は長いこと、新しい詩の方向を模索していた。既成概念では、陳腐な作品しか生まれないからだ。私は再び、岩波文庫のリルケ『ロダン』(高安国世訳)を手に入れ、読みはじめた。

そしてある啓示を受けた。「再び」とは、以下の経験があったからである。それは昭和十六年の夏、私は満州へ出征した。携帯を許された、わずかな私物のなかに、数冊の書物を持って行った。

翻訳書は、ゲーテ『親和力』とリルケ『ロダン』の二冊であったが、軍隊の内務検査のとき見つかり、この二冊は没収されてしまった。

リルケの詩や『マルテの手記』を愛読していたが、深遠すぎて、詩作のうえでは、影響を受けなかった。まだ私は本気で、詩を書くことを、考えてはいなかったようだ。

遊戯するように、超現実風の詩を、少しばかりつくったにすぎない。それらの詩を収めた、私の処女詩集『液体』が知己の手で、出版されたのは、大東亜戦争の始まった年の冬であった。

さて、リルケの『ロダン』であるが、巨匠ロダンへの詩人の純粋な魂が、いかに傾倒していったかの、告白の書である。しかし、私にとっては、ロダンの偉大さは、どうでもよかった。

透明な空間へ鋳こまれたような、リルケの言葉――肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根からのぼって行く、重くみのった葡萄のように房なす形象――というような陰影深い詩的文体に、私は魅せられた。

  この石にさす光はその意志を失う。光はこの石の上をすどおりして他の物へ行くことができない。光はこの石に身を寄せ、ためらい、とどまり、この石の中に住むのである。

ロダンの大理石の群像を、叙述した文のほんの一節だが、事物をみごとに捉えた、まさに一篇の詩である。

『ロダン』一巻は、リルケがロダンの精神と彫刻を讃美しながら、自己の「詩論」を展開しているように、私には思われた。だが真の啓示を受けたと、いえるのは次の章句である。

  何物かが一つの生命となり得るか否かは、けっして偉大な理念によるのではなく、ひとがそういう理念から一つの手仕事を、日常的な或るものを、ひとのところに最後までとどまる或るものを作るか否かにかかっているのです。

この言葉はおそらく、ロダンの言葉であると同時に、またリルケの理念といってもよいのだろう。私は一つの方向を指示された思いだった。

それからは、詩を書くときはつとめて、職人が器物をつくるように、「霊感に頼ることなく」、手仕事を続けてきたのである。それらの詩篇が、詩集『静物』へと生成していったのである。〉(「リルケ『ロダン』――私の一冊」)

2015年5月28日木曜日

吉岡実「僧侶」②

吉岡実は、1919(大正8)年4月15日、東京市本所区中ノ郷業平町に、父吉岡紋太郎、母いとの4人兄弟の3男として生まれました。

父は明徳尋常小学校の用務員でした。文学とはあまり縁のない、東京・下町のごくふつうの庶民の長屋で生まれ、育ったのです。

「本所業平で生まれた。おそらくドブ板のある路地の長屋であったろう。近くに大きな製氷工場があったと聞く。そこで関東大震災に遭遇した。火の海のなかで燃える氷の山。それから本所東駒形で少年時代をすごした。

塀のある二軒長屋。小さな庭で、母は小さな植木を丹精していた。水戸様(隅田公園)へ遊びに行き、透明なエビを釣ったり、隅田川の岸の石垣の間でカニをつかまえたりした。大河原屋というイモ屋で尻をカマであたためながら、ガキ大将として暮した。

篠塚の地蔵サマの縁日の夜は十銭の小遣いをたのしく使った。星乃湯の女湯をのぞいた。高等小学校のころから、厩橋に移った。奉公に行き、そして兵隊に行き、生まれ故郷本所という土地を失った。」

と、吉岡は「私の生まれた土地」で回想しています。

家には一冊の本もなく、子どものころはもっぱら図書館や友だちのところで読書をしました。

末子だったので両親に可愛がられ、浅草の宮戸座やオペラ館などに連れていってもらったといいます。

1932(昭和7)年、本所高等小学校に入学し、一家もまた東駒形の二軒長屋から厩橋の四軒長屋へと転居。

長屋の2階には佐藤樹光(のちの書家佐藤春陵)が住んでいて、彼の影響で文学や芸術に親しむようになったようです。

1934(昭和9)年、本所高等小学校を卒業し、本郷の医書出版「南山堂」の住込み店員となります。

盆と正月以外は親元に戻れない「小僧生活」でした。向島商業学校に夜間通わされましたが、中途で退学しています。

そのころ北原白秋、石川啄木、佐藤春夫、芥川龍之介、志賀直哉の作品を読み、文学に惹かれていきました。白秋の『桐の花』を模倣した短歌を作りはじめています。

1937(昭和12)年、独自の木版画技法を生み出したことで知られる版画家、斎藤清の家でピカソの詩を見て、決定的な啓示を受けます。

瀧口修造訳で『みずゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」だったと推定されているが、それが吉岡にとっての、詩との出あいでした。それは、そのままモダニズムやシュールレアリズムとの出あいでもありました。

北園克衛の『白のアルバム』や、24歳で逝った天才女性詩人佐川ちかの詩集など日本のモダニズム詩を読むようになります。

翌1938(昭和13)年には、仕事に疑問を持ち、南山堂を辞めています。この年の8月31日の日記には次のように書かれています。

〈貯金帳(八十円)と退店手当(三十円)を貰う。五年間の小僧生活の哀しさ、懐しさ。店の連中と別れの挨拶。英子は「本当は好きだった」の謎めいた言葉。

後輩二人と本郷三丁目の青木堂でコーヒーをのむ。皆に見送られ雨の中を、自転車に乗った。夕方、厩橋の家に着く。荷物が本ばかりなので、母は呆れた。〉(『うまやはし日記』)

小僧生活に別れを告げた実は、佐藤樹光宅に居候をして子どもたちに習字を教えて暮らすようになります。しかし、時代は、日中戦争へと突入していました。

1940(昭和15)年初夏、臨時召集があり、目黒大橋の輜重隊に入ります。輜重隊は、戦闘の後方支援をする陸軍の部隊のこと。教育を終えて、1カ月半で解除。この秋、詩歌集『昏睡季節』私家版100部を刊行しています。

1941(昭和16)年6月、召集令を受け取ります。遺書のつもりでまとめた詩集『液体』を兄と友人に託し、青山の東部第六部隊に入りました。外地への配属前の面会日、母から差し出されたゆで卵を衛兵に隠れてあわただしく食べたといいます。

面会日から数日して、吉岡は満州へ出征します。岩波文庫の『万葉集』、リルケ『ロダン』、改造文庫の北原白秋の自選歌集『花樫』、白水社のゲーテ『親和力』を奉公袋に入れて携えました。

この年の12月、太平洋戦争が勃発。その直後、詩集『液体』100部が、草蝉舎から刊行されます。吉岡は「No77」と番号の入ったわが詩集を、極寒の満州で受け取りました。そんな『液体』には、こんな詩も入っています。

     風景

  猿の頭に夕の灯がともり
  肺管へまいおちる花びら
  露台の夫人の指のあいだに
  ふるさとの泉があふれ
  麦稈帽子いつぱいにこもる慕愁
  単音よりも遠いひとよ
  眠りのほとりに
   布のように僕の一枚の皮膚がしずむと
   青いけむりがたち
   砂丘の尖つた寺院の鐘が聞える

2015年5月27日水曜日

吉岡実「僧侶」①

さて今日から、藤村とは時代も、作風もガラッと変わって、吉岡実「僧侶」を再読することにしましょう。

     僧侶

  1

  四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる
  棒の形
  憎しみもなしに
  若い女を叩く
  こうもりが叫ぶまで
  一人は食事をつくる
  一人は罪人を探しにゆく
  一人は自涜
  一人は女に殺される

  2

  四人の僧侶
  めいめいの務めにはげむ
  聖人形をおろし
  磔に牝牛を掲げ
  一人が一人の頭髪を剃り
  死んだ一人が祈祷し
  他の一人が棺をつくるとき
  深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
  四人がいつせいに立ちあがる
  不具の四つのアンブレラ
  美しい壁と天井張り
  そこに穴があらわれ
  雨がふりだす

  3

  四人の僧侶
  夕べの食卓につく
  手のながい一人がフォークを配る
  いぼのある一人の手が酒を注ぐ
  他の二人は手を見せず
  今日の猫と
  未来の女にさわりながら
  同時に両方のボデーを具えた
  毛深い像を二人の手が造り上げる
  肉は骨を緊めるもの
  肉は血に晒されるもの
  二人は飽食のため肥り
  二人は創造のためやせほそり

  4

  四人の僧侶
  朝の苦行に出かける
  一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
  一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
  一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
  一人は死んでいるので鐘をうつ
  四人一緒にかつて哄笑しない

  5

  四人の僧侶
  畑で種子を播く
  中の一人が誤つて
  子供の臀に蕪を供える
  驚愕した陶器の顔の母親の口が
  赭い泥の太陽を沈めた
  非常に高いブランコに乗り
  三人が合唱している
  死んだ一人は
  巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

  6

  四人の僧侶
  井戸のまわりにかがむ
  洗濯物は山羊の陰嚢
  洗いきれぬ月経帯
  三人がかりでしぼりだす
  気球の大きさのシーツ
  死んだ一人がかついで干しにゆく
  雨のなかの塔の上に

  7

  四人の僧侶
  一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
  一人は世界の花の女王達の生活を書く
  一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
  一人は死んでいるので
  他の者にかくれて
  三人の記録をつぎつぎに焚く

  8

  四人の僧侶
  一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
  一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
  一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
  死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
  一人は死んでいてなお病気
  石塀の向うで咳をする

  9

  四人の僧侶
  固い胸当のとりでを出る
  生涯収穫がないので
  世界より一段高い所で
  首をつり共に嗤う
  されば
  四人の骨は冬の木の太さのまま
  縄のきれる時代まで死んでいる

それにしても、いつ読んでも、すごい詩だなと思います。

「戦後現代詩を代表する一篇」といわれる「僧侶」は、1957(昭和32)年、『ユリイカ』に発表されました。そして、翌1958年に書肆ユリイカから出版された詩集『僧侶』に収められています。

吉岡は「詩集・ノオト」(「詩学」1959年4月号)に、つぎのように記しています。

〈詩集『僧侶』は、一九五八年の十一月、ユリイカから四百部刊行。一九五六年から五八年までの詩十九編を収録。統一上〝ポール・クレーの食卓〟〝ライラック・ガーデン〟を割愛した。

ぼくにとって記念すべき長詩「僧侶」はバー・エスカルゴで飯島耕一と飲んでいる時着想し一気に書いた。「死児」はぼくなりに社会に参加しようと試みた最初の作品といえる。

伊達得夫のすすめがなかったら、まだ創られなかったろう。清岡卓行がいつか、ぼくのことを〝独身〟〝毒身〟〝涜神〟としるした。大岡信、岩田宏は雷同した。一九五九年、四十歳で結婚した。〉

2015年5月26日火曜日

島崎藤村『若菜集』から(31)

 「逃げ水」を通してもういちど読み直しておきましょう。

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府までも
     かけりゆかん

「逃げ水」について、『島崎藤村事典』で笹淵友一は次のように解説しています。

『翻案の方向は清教徒的信仰から恋愛至上主義への方向であって、それは"かみ"が"きみ"に変わるところに端的に現われている。

藤村の信仰の対象としての神が恋愛の対象におきかえられた過程は『桜の実の熟する時』にも書かれている。

この詩の構成は、宗教感情を浪漫的な恋愛感情に変質させた1、2連から出発して、第3連に〈こひこそつみなれ〉という罪意識を前提としながら〈つみこそこひ〉という意識的な異端、反宗教の態度を打ち出し、第4連に楽園を自ら拒否して、〈なつかしき君と/てをたづさへ/
くらき冥府までも/かけりゆかん〉という、終連において地獄の苦患をかけて恋に殉じようとする想念に到達している。

この終連の想像はダンテ「神曲」地獄変第5歌のフランチェスカとパオロとの恋と関連があると思う。(第4連の罪意識にもフランチェスカとパオロの恋がかげを投げていよう。)

いずれにせよ、藤村の内部にはこういう暗い情熱が潜んでいた。なお「逃げ水」という題については「行方をまどわす暗い情熱の力」を意味するという解釈がある。』

讃美歌の翻案とはいっても、八六調の心地よい響きをもった近代的な定型詩となっています。「語音の流れがひそやかで、それがこの詩のしめやかな情感を誘い出す上に効果的な働きをしている」(『日本の詩歌』島崎藤村)ともいえるでしょう。

いずれにしても、この詩には、信仰としての宗教と芸術としての文学に対する藤村のアプローチのしかたが端的に表れていると考えることができそうです。

やや中途半端ですが、このへんでひとまず、藤村の『若菜集』から離れることにします。『若菜集』の日本の近代詩や日本語に与えた影響や意味づけについては、勉強が進んだ段階で、改めてきちんと考察したいと思っています。

2015年5月25日月曜日

島崎藤村『若菜集』から(30)

 第3連は、「逃げ水」の核心部です。

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

原詩は「すぎこしめぐみを おもひつづけ/いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ」。

「すぎこしゆめぢ」は、愛する人といっしょに過ごしてきた浪漫的な恋愛の日々を暗示しています。

原詩の「いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ」という敬虔な思いを表現した1行が、「こひこそつみなれ/つみこそこひ」と、「キリスト教的感情がくるりとルネッサンス的現世謳歌にかわって」(島田謹二『近代比較文学』)しまったことになります。

『島崎藤村詩への招待』では、次のように「鑑賞」しています。

〈人間主義をもって自らの生と恋の孕む一切の情念を肯定する姿勢が大胆にうたわれているのである。

したがって「こひこそつみなれ」と一種の罪悪感を断定的に訴えても、そこには作者の罪そのものへの深い懼れやおののきが必ずしも深く自覚されているわけではない。〉

 そして4連目と5連目は――

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府〈よみ〉までも
     かけりゆかん

「たのしきそのへと/われはゆかじ」は、旧約聖書の「創世記」にあるアダムとイヴの楽園喪失の物語、すなわち「失楽園」をふまえています。

「創世記」第3章の挿話によると、蛇に唆されたアダムとイヴは神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べてしまったため、最終的にエデンの園を追放されます。

ここでは、「うれひもなやみもわたみかみに/まかすることをぞよろこびとせん」などと、神の意に任せることを「よろこびとせん」とする原詩とはまったく対照的に、「いのりもつとめも」やめて、神の国へ行くこともなげうって、恋が罪ならば罪人と呼ばれても愛する人と「てをたづさへ」て、ともに地獄の底へ墜ちて行ったほうがよいと開き直っています。

藤村には、ミルトンの「失楽園(パラダイス・ロスト)」の 翻案とされる、明治27年1月「文学界」に掲載された「草枕」という劇詩があります。この中で、

アダム「この花園ばかりが宿かいの。二人で添ふて暮すなら、あのおそろしい地獄も極楽」
イヴ「こうして添はるゝものならば、闇でもいゝ。地獄でもいゝ」

といわせているのと共通しているところがありそうです。

2015年5月24日日曜日

島崎藤村『若菜集』から(29)

「逃げ水」は、『新撰讃美歌』(植村正久訳)第四「礼拝夕」(現在の讃美歌297番「祈祷」)を、恋歌へと改作したものです。

日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久(1858-1925)は1887(明治20)年、東京の千代田区に日本一致教会(日本基督教会)の教会を設立しました。後の富士見町教会です。

翌1888年(明治21)年、植村は「ゆふぐれしづかに いのりせんとて」としてこの讃美歌を訳し、1890年には歌がつけられました。そして、明治20年代には若者たちに広く愛誦されたそうです。

ある時期、この教会に通っていたことのある藤村はきっと、この讃美歌が気に入り心に刻まれていたのでしょう。その歌詞は、次のようなものです。

1 ゆふぐれしづかに いのりせんとて
 よのわづらひより しばしのがる

2 かみよりほかには きくものなき
 木かげにひれふし つみをくいぬ

3 すぎこしめぐみを おもひつづけ
 いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ

4 うれひもなやみも わたみかみに
 まかすることをぞ よろこびとせん

5 身にしみわたれる ゆふくれどきの
 えならぬけしきを いかでわすれん

6 このよのつとめの をはらんその日
 いまはのときにも かくてあらなん

「逃げ水」の第1連と2連を、植村正久訳の讃美歌と比較しながら眺めてみましょう。

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

第1連では、「いのりせんとて」を「ゆめみんとて」に変更しただけですが、これによって宗教的な詩情が一気に、浪漫的な色取りを帯びてきます。

「よのわづらい」は、世間的に心を悩ませること、苦労、迷惑、めんどう。『日本近代文学大系15 藤村詩集』で剣持武彦は「原歌詞では物質的、功利的、世俗的なわずらわしさだろうが、この詩では、人間の自由を抑圧する世俗的な慣習・束縛を意味している」としています。

第2連でも、「かみ」を恋人である「きみ」に、「つみ」を「こひ」にと、置き換えることによって、「懺悔の歌から悲恋の詩というかたちでより多く文芸的な世界を作り出している」(神田重幸『島崎藤村詩への招待』)ということがいえそうです。

2015年5月23日土曜日

島崎藤村『若菜集』から(28)

 きょうから読むのは「逃げ水」です。

  逃げ水

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府〈よみ〉までも
     かけりゆかん

この詩は、仙台時代の「文学界」46号(明治29年10月)に「一葉集」と題して発表された「こひぐさ」9篇の「其八」にあたります。

明治30年に出版された『若菜集』では、「逃げ水」として収録されました。八六調の5連からなり、讃美歌を原典としています。

明治20年代のナショナリズムの勃興と相まって、藤村たちは日本の古典文学への認識を新たにし、そこから着想を得ることが多々ありました。

その一方で、キリスト教をはじめとする西洋の文学や思想の影響を強く受けます。

「文学界」の同人のほとんどが洗礼を受け、讃美歌の歌詞や形式が日本の伝統的な詩情にない新鮮なものとして、藤村の新体詩にも大きな影響を及ぼします。

この詩の題名の「逃げ水」とは、汲もうとして近寄ると、遠くに逃げてしまう幻の水のことをいいます。別名「地鏡」とも呼ばれ、武蔵野にあるといい伝えられてきました。

散木奇歌集(1128年ごろ)に、「東路(あづまろ)にありといふなる逃げ水の逃げかくれても世を過ぐすかな」(巻九雑上)とあります。

風がなくて晴れた暑い日に、アスファルトの道路などで遠くに水があるように見える現象のこと。近づいてみてもそこに水はなく、さらに遠くに見えるので、まるで水が逃げていくように見えるため、こう名づけられたようです。

いわゆる蜃気楼の一種で、地表付近の空気が熱せられ膨張することによって一部の屈折率が変わってプリズムとなるため、上のほうの景色があたかも道路の表面に映ったように見える現象と考えられています。

藤村は、逃げ水を地底にひそかに走る流水ととらえ、転じて地の底の水に、人目をはばかる人知れぬ恋心や悶々とした盲目的な想いを、象徴させようとしていたようです。

2015年5月22日金曜日

島崎藤村『若菜集』から(27)

 「四つの袖」の第2連と第3連は次のようになっています。

をとこの熱き手の掌〈ひら〉の
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅き口脣〈くちびる〉の
お夏の口にもゆるとき

「をとこの熱き手の掌の/お夏の手にも触るゝとき」、「をとこの黒き目のいろの/お夏の胸に映るとき」、触覚で、視覚でしる男の激しい欲情が、お夏の恋心を燃え立たせます。

そして、「をとこの紅き口脣の/お夏の口にもゆるとき」と、さらなる官能の高まりを見せていきます。同じ『若菜集』にある「おくめ」という詩の第6連は次のようになっています。

しりたまはずやわがこひは
雄々〈をゝ〉しき君の手に触れて
嗚呼口紅〈くちべに〉をその口に
君にうつさでやむべきや

「おくめ」はここで、愛情のあかしとして、口紅を相手の男の唇に残したい欲求に駆られているのです。そして、次の「おくめ」第9連では、恋心と官能が結び合わさって炎となって燃え上がります。

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎〈ほのほ〉なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋〈ちすじ〉の髪の波に流るゝ

これらと同じように「四つの袖」の3連でも藤村は、男と女の恋愛が成就し、いのちが輝く瞬間を激しく歌いあげているのでしょう

そして結びにあたる第4連では――

人こそしらね嗚呼〈あゝ〉恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎

一転、第3者的な立場になって歌われていきます。「人こそしらね」から、2人の恋は、人に知られぬ、ひそかな、さらには秘密の恋だったことがうかがえます。

そうした世間的に許されることのない間柄にある2人が、激しい恋心によってより強く結びけられていく様子が語られていきます。

「げに」は「現に」の転で、そのとおり、ほんとうにの意。「こがる」は、恋心で胸が焦がれる、「慕へども」の「慕ふ」も、恋い慕うこと。

こうした、お夏に対する切ないまでの恋心は、たとえそれが成就しても、決して絶えることなく清十郎の胸の中に募っていくということでしょうか。

最後に名前が記された「清十郎」は、主家の娘お夏との密通と、その家の金を盗んだ疑いで刑死します。ただし西鶴や近松の作品では、盗みのほうは冤罪となっています。

2015年5月21日木曜日

島崎藤村『若菜集』から(26)

 きょうから『若菜集』の「四つの袖」という詩に移ります。 

  四つの袖

をとこの気息〈いき〉のやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰〈あられ〉のごとくはしるとき

をとこの熱き手の掌〈ひら〉の
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅き口脣〈くちびる〉の
お夏の口にもゆるとき

人こそしらね嗚呼〈あゝ〉恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎

藤村が仙台へ移り住んだ直後の1896(明治29)年10月「文学界」に発表されました。「こひぐさ」の其五にあたります。

「四つの袖」は、お夏と清十郎を題材にしています。「お夏清十郎」は、寛文2 (1662)年 に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品のことで、「お夏狂乱」とも呼ばれています。

伝承による事件のあらましは次の通り。

姫路城下の大きな旅籠、但馬屋の娘、お夏は、恋仲になった手代の清十郎と駆け落ちをしますが、すぐに捕らえられてしまいます。

清十郎はかどわかしにくわえ、店の金を持ち逃げしたぬれぎぬまで着せられて打ち首となります。一方のお夏は、狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかったといいます。

姫路市内の慶雲寺に2人の墓があり、毎年8月9日に「お夏清十郎慰霊祭」が催されています。

お夏と清十郎の悲劇については、寛文年間に江戸中村座で歌舞伎舞踊「清十郎ぶし」が上演されたのを皮切りに、この事件を題材にした作品が次々と書かれていきました。

貞享3 (1686)年 には、井原西鶴が浮世草子「好色五人女」の第1章に「姿姫路清十郎物語」を書き、それを脚色して宝永4年(1707)年、近松門左衛門が世話物の人形浄瑠璃に仕立てた「五十年忌歌念仏」は、繊細な心情に迫った秀作とされています。

をとこの気息〈いき〉のやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰〈あられ〉のごとくはしるとき

ここにあげた「四つの袖」の冒頭の第1連は、先日読んだ「初恋」を思い起こさせます。「初恋」の第3連は、次のようなものでした。

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

詩「初恋」をおおっていた清純なイメージから一歩踏み出した「わがこゝろなきためいきの/その髪の毛にかゝる」という表現は、「四つの袖」では「をとこの気息のやはらかき/お夏の髪にかゝる」と、より突っ込んだ艶やかな雰囲気に仕立てられています。

「をとこ」の仕草は、愛する女(お夏)に対して常に積極的で、挑発的です。まさに「早きためいき」は「霰のごとくはし」っていくのです。

男は誘惑者であり情念を注いで挑みかかり、お夏の官能を目覚めさせていこうとしているように思われます。

2015年5月20日水曜日

島崎藤村『若菜集』から(25)

  きょうは「潮音」の後半の部分です。

しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

「しらべ」は、ここでは海の「そこにいざよふ」琴の調子、音律、調律のことでしょう。
源氏物語(松風)に「まだ調べも変はらず、ひき返し(七弦の琴はまだ調子も変わらず昔のままなので、くり返しお弾きになると)」とあります。

「もゝかは」は、漢語の「百川」の和訳で、たくさんの川のこと。

「うらゝか」は、日射しがやわらかで、穏やかに晴れているさま。詩人は、うらゝかに遠くから聞こえてくる春の潮の音、海の底の琴の音をきいています。

時がやってきて、新しい調べを奏でる琴のイメージは、芸術の世界を永遠の相につながるものとしてとらえ、新たな芸術を志していた若き藤村の思いを視覚化したものでもあるのでしょう。

明治31年に発表した「利根川だより」に、藤村は次のように記しています。

「心あるものをしてかの他界を窺ひ見るの思あらしむる海の姿のおもしろさ。こころせよ、表は潮行きかへりて大波の立ち騒ぐとも底安らかに静かなるわだつみのさまは、かの希臘の美術の姿なりといふぞかし」。

  潮音

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

最後に『島崎藤村事典』にある「潮音」についての解説を載せておきます。

「典雅で大らかな調べの中に春の潮鳴りに表象される豊かな生の充実感がある。ただその〈しほのね〉はまだ〈とほくきこゆる〉ものであり、その豊かさは憧憬的叙情の対象である。

これは同時発表の『春の歌』『佐保姫』『草枕』など『さわらび』中の外の詩にも共通する性格である。

七五形式を繰り返して最後を七七で結ぶという韻律形式は『若菜集』ではポピュラーなものであるが、この詩はこの韻律形式と意味内容とが少しくい違う点がある。

それはこの詩の想像が〈わきてながるゝ/やほじほの/そこにいざよふ/うみの琴/しらべもふかし〉と〈もゝかはの/よろづのなみを/よびあつめ/ときみちくれば/うらゝかに/とほくきこゆる/はるのしほのね〉の2部から成っているのに、――後半は前半のヴァリエーションであって、展開ではない。

――調べの上では〈しらべもふかし/もゝかはの〉とつづいていることで、そのためにこの関節がなだらかでない。

〈わきてながるゝやほじほ〉は、遙かな南溟(なんめい)から日本列島に巡って来た黒潮であり、〈そこにいざよふうみの琴〉は大海の底にゆれ動くハープの視覚的表象であろう。(文学史の会「近代詩集の探求」。)

そして〈しらべもふかし〉は、この視覚性に感覚を対照させた、藤村好みの対句である。

〈わきてながるゝ〉のヴァリエーションである〈もゝかはのよろづのなみをよびあつめ〉は、百川朝宋・百川会海などの観念に典拠があろう。

〈ときみちくれば〉以下は、『草枕』の〈春や来ぬらん〉以下と類想である。」

2015年5月19日火曜日

島崎藤村『若菜集』から(24)

次にあげるのは『若菜集』の短い詩「潮音」です。

 潮音

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

1897(明治30)年2月、「さわらび」の総タイトルで5篇の詩が「文学界」に発表されました。その冒頭にるのが「潮音」です。『改刷版藤村詩集』では「生のあけぼの」に、『早春』では「仙台雑誌」の一つとして収録されています。

この年、藤村は25歳。「自分の内部に芽ぐんで来るものを重んじ育てなければ成らない」(「昨日、一昨日」)と文学や人生への思い新たに、明治29年9月に仙台の東北学院へ赴任しました。この詩は、こうして仙台に滞在するようになったときに書かれた作品です。

この詩に描かれているのは、孤独な「自分の内部」に渦巻くような荒涼とした海ではありません。あかるく駘蕩として包容力のある豊かな海がうたわれています。

〈信濃の木曾山のやうな深い森林地帯に生れたわたしは、少年時代から海といふものに特別なあこがれを持つてゐた。〉

『早春』には、こんな一節があります。信州の山奥で育った私もわかるような気がするのですが、藤村にとって「海」をうたうとことには、特別な意味あいがあったのでしょう。

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴

2行目の「やほ」は、八百。数の八百、あるいは数が非常に多いことをいいます。ここでは「潮(しほ)」の接頭語尾として用いられています。

「八百日行く浜の沙も我が恋に豈まさらじか沖つ島守(八百日もかかって行く長い海浜の砂つぶが無数にあろうとも、私の恋の激しさには決してまさらないだろうね、沖の島守よ)」(万葉集・3・345)

「やほじほ」(八百潮)は、幾重にも重なり合って流れる波、あるいは、たくさんの潮流のことでしょう。

賀茂真淵『万葉考』の「柿本朝臣人麿は(中略)言は大うみの原に八百潮のわくが如し」をふまえているという指摘もあります。

「わきてながるゝ やほじほの」と、海の豊穣な生命力を表現しています。「いざよふ」は、漂うようにゆらゆらと流れ動くこと。ためらうこと。

海の「そこ(底)」に「いざよふ うみの琴」とは、藤村たちが生み出そうとしている新しい芸術を意味しているのでしょう。

この詩の「琴」は、日本の琴よりも西洋の竪琴をイメージしたほうがよさそうです。藤村が「韻文に就て」や「亡友反古帖」に書かれた「エオリヤン」の琴を強く意識しているという指摘もあります。

エオリヤン・ハープ(Aeolian Harp)は、ギリシャ神話の風神アイオロスに由来する、自然に吹く風により音を鳴らすとされる弦楽器。

シューマンが、ショパンの「練習曲Op.25-1」を聞いて「まるでエオリヤンハープを聞いているようだ」と感想をもらしたことから、この曲の愛称としても知られています。

木製の筐体と弦のみで構成され、弦を通過した空気がカルマン渦を発生させ、それを原動力となって弦が共振し、筐体で共鳴させます。

弦は、ここちよく聞こえる和音の組み合わせになっています。音色は調律にはほとんど左右されず、弦の直径と風速で決まる特徴があります。

ギリシャ時代からあったといわれますが、近代ではアタナシウス・キルヒャーがこれを再現して、18~19世紀にかけて使われました。

2015年5月18日月曜日

島崎藤村『若菜集』から(23)

きょうは「初恋」をしめくくる第4連を見てゆきます。この連では、初恋を回想しています。

  林檎畠の樹〈こ〉の下に
  おのづからなる細道は
  誰〈た〉が踏みそめしかたみぞと
  問ひたまふこそこひしけれ

「おのづからなる」は、ひとりでに、他からの影響なしに、自然と、といった意味。ここでは、自然とできた「細道」という意味でしょう。

「かたみ」は、昔の思い出となるもの。しるし。ですから「誰〈た〉が踏みそめしかたみぞ」とは、誰が踏みはじめたしるしとして残されたもの。つまり、あなたが踏みしめてできた道ですよね、ということになります。

「誰が踏みそめしかたみぞ」と問うたことがあったこともまた、いまでは「こひし」い思い出になってしまったのです。

吉田精一は次のように鑑賞しています。

〈林檎畠の樹〈こ〉の下に
 おのづからなる細道は

もちろん、恋人の面影を慕って、忍び寄り、やがてはあひびきのためにと恋の忍び路に使ったために、自づから踏み作られたかたみであろう。

それも今はなつかしい思ひ出である。「……あの道はどなたがお作りになったの……」と、楽しい逢瀬のむつごとにささやく彼女の細い声もきこえさうな田園にめばえた可憐な純情の恋愛風景といふべきであらう。〉(『藤村名詩鑑賞』)

この結句「こひしけれ」も『早春』では「うれしけれ」に改められています。が、こちらも初出のほうが良さそうです。「初恋」はそのものが懐かしく、また恋しくもあるのですから。

最後に、詩「初恋」に関する『島崎藤村事典』の笹淵友一による解説を載せておきます。

西欧的感覚をもつ恋愛詩で、初恋という主題にふさわしい雅純かつ甘美な情調をもっている。藤村の幼年時代の経験が素材になり、それに詩的想像を加えたものといわれる。

第1連の〈前にさしたる花櫛〉の童女の髪風俗は多分実写であろうが、その印象がいかにも偶然の出あいのように描かれているのは創作的意図を含むもので、ダンテの「新生」に示唆されたものかもしれない。

3連を除いて各連に点出される林檎が異国情緒を醸している。「雅歌」などに示唆をえたものであろう。(林檎に性への禁断を読みとる解釈もある。)

第3連は青年期の情熱的かつ官能的な恋愛感情に近づいて、1、2連との調和を破っている。同時発表の『四つの袖』の

  をとこの気息(いき)のやわらかき
  お夏の髪にかゝるとき
  をとこの早きためいきの
  霰のごとくはしるとき

の官能性にそれは近い。(もっともその想像の核になったのは幼年期の童女抱擁の経験である。)

第4連は現時点からの回想であるが、その想像は「伊勢物語」の〈築地の崩れより通〉った男の一段の連想であろう。第3連を除けば、初恋という題にふさわしい雅醇な恋愛詩である。

2015年5月17日日曜日

島崎藤村『若菜集』から(22)

 「初恋」の第3連では、恋を語り合ったのちのことが描かれています。

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

「こころなし」は、「思慮がない」「不注意である」といった意味で使われますが、「わがこゝろなきためいき」というのは、恋をして、不注意にも我知らずもれてしまうためいきといった感じでしょうか。

「たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな」とは、自らの恋の思いがとどいて「こゝろなきためいき」が、「たのしき恋」へと変貌を遂げたということでしょう。

つまり、思いあまって隠しきれずに打ち明けた恋心を、幸いにも彼女は受け入れてくれたのです。

「わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき」に、恋をした青年のもだえ、苦悶が込められ、後半の「たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな」で、その恋が成就した喜びがうたわれています。

「たのしき恋……」の婉曲的な表現には、西洋の詩人たちの影響がうかがえます。

この第3連は、後の『早春』では省かれて、第2連からすぐに第4連へとつづいています。これについて吉田精一は次のように指摘しています。

「これはこの四行が初恋より少し成長した感がある為かも知れない。この連を省くことによって、この詩が必ずしも悪くなったとは考へられない。却ってすっきりとした観があるかもしれない」。

しかし、こうした肯定的な受け止めかただけでなく、初出のかたちを支持する意見も少なくありません。

「この官能的な一節を省いたのでは『初恋』ならびに『こひぐさ』全九篇の主旨は十分に表現されない」(『日本近代文学大系15 藤村詩集』頭注)

「確かに、一篇の詩としての首尾は初恋の幼さ、ういういしさを強調して、よりととのったといえるかもしれない。しかし、その整合性は詩篇の奥ゆきを浅くした。初出形のあざやかな抒情のきらめきを消して、作品の味わいを淡々しく希薄なものにしたのである」(三好行雄)

わたしも、どちらかというと3連目を省かない初出形のほうに魅力を感じています。

2015年5月16日土曜日

島崎藤村『若菜集』から(21)

 ひきつづき「初恋」を読んでいきます。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

「初恋」では、実体としても、シンボルとしての意味合いでも、「林檎」が重要な位置を占めています。

リンゴはもともと、中東コーカサスから、中央アジアにかけての一帯でつくられていて、それがシルクロードの商人の活動や、アレクサンダー大王の東征などで世界に広まったと考えられています。

旧約聖書に登場するアダムとイヴが、蛇にそそのかされて食べた「善悪を知る果実」(禁断の果実)はリンゴだとされます。

あわてて飲み込もうとしたアダムが善悪を知る果実をのどにつかえさせ、これがのどぼとけの始まりであるという故事から、男性ののどぼとけは「アダムのリンゴ」ともいわれます。

実のところ、食べたのがリンゴ、というのは後の時代に創作された俗説で、当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、また当時のリンゴは食用に適していなかったとか。

ギリシア神話には、「最も美しい女神に与えられる」と言われた黄金のリンゴを巡ってヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が争い、遂にトロイア戦争に至るというエピソードがあります(パリスの審判)。ヘラクレスの12の冒険の中にも、ヘスペリデスの園から黄金のリンゴを取ってくる話があります。

私たちがいま食べているリンゴは、明治以降、欧米から入ってきた外来種です。江戸時代から国内でつくられていた在来種(和リンゴ)がありました。

しかし、和リンゴは直径が「9寸(約3センチ)以内」と小さく、肉が薄く、味でも西洋リンゴにおよぶものではありませんでした。

現在、漢字で書くときには、リンゴ一般を「林檎」とすることが多いようですが、西洋リンゴが入って来た明治期には、和リンゴとは別の漢字を用いていました。在来の和リンゴを「林檎」、西洋リンゴは「苹果」と書いたのです。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

「初恋」のリンゴには雅歌的なイメージが残り、サトウハチローの「リンゴの唄」のような現代的な新しさはありませんが、「林檎のもとに見えし」「林檎をわれにあたへしは」といった若々しく、甘くも酸っぱくもある恋愛感情が伝わってきます。やはり海外から入ってきたばかりの西洋リンゴでしょう。

現代のリンゴの定番「ふじ」が現れるのは戦後のことですから、その先祖にあたる、1871(明治4)年に、アメリカから日本へ入ってきた「国光」か「紅玉」を思い浮かべたいところです。

2015年5月15日金曜日

島崎藤村『若菜集』から(20)

つぎは、『若菜集』のなかでもひときは有名な一篇「初恋」を読んでいきます。

 初恋

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛〈はなぐし〉の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅〈うすくれなゐ〉の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

林檎畠の樹〈こ〉の下に
おのづからなる細道は
誰〈た〉が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

初出は、1896(明治29)年10月の『文学界(46号)』。総題は「一葉舟」とされ、その中の「こひぐさ」9篇の"序曲"にあたります。

「こひぐさ」の他の作品は「狐のわざ」「強敵」「東西南北」「四つの袖」「いきわかれ」「蓮花舟」「逃げ水」「月光」です。

七五調4行4連からなるこの詩は、4連目の「林檎畠の樹の下」に自然にできた細道を見つめる時点から初恋の思い出を回想するかたちになっています。

第1連の1行目では、それまで、おかっぱのような童髪だったのを、桃割などの髪に結い上げたばかりの前髪をした女性が登場します。

藤村は『桜の実の熟する時』で、女性が成長する様子を髪型の変化で次のように描いています。

「あの樽屋の内儀さんが自慢の娘のまだ初々しい鬘下地なぞに結って踊の師匠の許へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た」

「花櫛」は、造花で飾ったさしぐしのこと。『若菜集』の詩「佐保姫」には、

やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ

と、「うめのはなぐし」が出てきます。

「花ある君」とは文字通り、花のように美しいと讃えているのでしょう。この詩のモデルになったのは、藤村の幼友達で同じ年の女性だったそうです。

2015年5月14日木曜日

島崎藤村『若菜集』から(19)

 きょうは、「草枕」の最後、第4部「早春」にあたる第26連から30連です。

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼〈あゝ〉めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音〈はつね〉か鶯の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上〈へ〉に

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の辺〈べ〉に

磯辺に高き大巌〈おほいは〉の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲〈しののめ〉の
潮〈しほ〉の音遠き朝ぼらけ

秋、冬と季節の移り変わり、ここでは「春きにけらし春よ春」というリフレインにみられるように「春」を待望する思いがうたわれています。「春」がやってくることによって、これまでの重苦しい心の状態から脱して、心の「春」を得ようと期しているようです。

「海の音」は、波のうねりが海岸を打つために起こる海鳴りのことでしょう。「うら」は心の意で、「うらわかき」は若々しい、おさないといった意味になります。

「初音」は、鳥がその年に初めて鳴く声のこと。特にウグイスやホトトギスについていいます。「年月をまつにひかれて経る人にけふうぐいすの初音きかせよ」(源氏・初音)

「春きにけらし春よ春……」からは、春が来たようだ、といううきうきした気分が伝わってきます。「春」は人生の春をも暗示しているのでしょう。新古今和歌集の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」(夏・175、持統天皇)をふまえていることがうかがえます。

「梅が香ぞする海の辺に」。梅は鶯との組み合わせで、春を象徴しています。「梅が香」を「海の辺」にもって配合は新鮮です。

「大巌」は、かたくて動かしがたいものの象徴たる大きな岩。「東雲」は、夜が明けようとするころ。明け方、暁のこと。つぎの行頭の「潮」と頭韻を踏んでいます。「潮の音遠き」の「遠き」には、遙かなるものを待ちこがれる思いが込められているような気がします。

この詩では、ヨーロッパの文学の影響とともに、和歌や俳諧の伝統を受け継いで自然感情によって詩人の思いがうたわれていきます。そこに、日本ロマン主義の一つの成果である藤村詩の特徴と限界があるという見方もできそうです。

最後に、『島崎藤村事典』にある「草枕」に関する笹淵友一氏の解説を以下、あげておきましょう。

仙台への旅によって迎ええた「生の曙」の感動がモチーフになっている。七五、4句を1連とし、30連から成り、藤村詩としては長編に属する。

その叙事的内容は「漂泊」「宮城野」「冬の海」「早春」の4部に分けられる。

この構成が示すように、その大部分は「人生の冬」の叙事と叙情とに向けられ、その焦点は〈心の宿の宮城野よ/乱れて熱き吾身には/日影も薄く草枯れて/荒れたる野こそうれしけれ〉

〈ひとりさみしき吾耳は/吹く北風を琴と聴き/悲しみ深き吾目には/色彩なき石も花と見き〉にあると見てよい。

この2連において詩人の悲哀と寂寥とが〈荒れたる野こそうれしけれ〉その他の逆説的情緒にまで深められる。

ただ叙述・叙情の大部分がこのような〈人生の冬〉に向けられたため、「生の曙」の感動とのバランスを失って、肝心のモチーフが付けたりのような形になっている。

今一つ発想上の問題は人生体験を自然体験のアナロジイとしたことである。そのために悲哀と寂寥との「人生の冬」は「自然の冬」と重なり合い、「人生の春」は「自然の春」によって招来されることになる。

こうして人生感情は自然感情の中に埋没し、「生の曙」という人間性回復の感動は、〈春やきぬらん東雲の/潮の音遠き朝ぼらけ〉という自然回帰の喜びという間接的なものに近づくのである。

藤村の詩情における自然感情の比重の大きさを示したものといってよい。

2015年5月13日水曜日

島崎藤村『若菜集』から(18)

きょうは第3部「冬の海」としてくくられる、20連から25連までを見ておきましょう。望郷ともいえるロマンチックな詩情が展開されます。

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺〈うみべ〉の石の上〈へ〉に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤〈なみ〉ばかり

暮はさみしき荒磯の
潮〈うしほ〉を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

暦〈こよみ〉もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり

「野のさみしさに堪へかねて」以降にあらわれてくる「海」の描写は、バイロンやブラウニングから学んだロマンティックな詩情、と指摘する研究者もいます。

「都のかたを望めども」というのは、東京をさしているのでしょう。単に故郷を思う郷愁に浸っているのではなく、青春の夢と挫折、さらには作家として名を成し、成功したいという野心がかなえられるところでもあるのです。

「潮」は、一定の時間に海水が高くなったり低くなったりすること。海水そのものをさすこともあります。

「おとなふ」は、音を立てる、ひびく、音がするという意。「鶏もいづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに」(源氏・総角)

「波路」は、波の上の船の通る道筋のこと。航路。「波の方にいつから先に渡りけむ波路はあとも残らざりけり」(古今・物名・458)。これに対して、「砂路」は砂浜の道筋か。

「暦もあらぬ荒磯の」は、唐詩選の太上隠者「答人」にある「山中暦日なし」(山中に閑居する人は歳月が過ぎていくのを忘れる)がもとになっています。「山」を「磯」に変えて、海辺の荒涼とした情景を表しているのです。「あらぬ」と「荒磯」は頭韻ふんでいます。

2015年5月12日火曜日

島崎藤村『若菜集』から(17)

  きょうは「草枕」の第9連から。第2部の「宮城野」です。

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩〈いろ〉なき石も花と見き

あゝ孤独〈ひとりみ〉の悲痛〈かなしさ〉を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲〈ふゆぐも〉に覆はれて
身にふりかゝる玉霰〈たまあられ〉
袖の氷と閉ぢあへり

「道なき今の身」とは、生きるための道を見失っているいまの自分自身のこと。

「心の宿」は、精神が休むところ。自らを旅人であるととらえるため、「迷ひ」ながらたどり着いた宮城野とその荒野を「宿」としてとらえています。

「宮城野」は仙台市東部の広瀬川の河岸段丘と低平な扇状地一帯にあった原野。宮城野原ともいいます。宮城県の名称はここから生れたとされています。古くは多賀城に向う東海道 (あづまかいどう) の道筋にあたり、軍事上の拠点でした。

「うれし」は、満足で快い。喜ばしいこと。「乱れて熱き」詩人は、宮城野の「荒れたる野」こそが満足で快いといいます。

「孤独の悲痛を 味ひ知れる人」は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の「孤独になじむものあらば たちまちひとりにならん。人はみなおのがじし命と恋を楽しみて、人の痛みを思わず」(高橋健二訳)などの影響がある、という指摘もあります。

「玉霰」は、その形が玉に似ていることからついたあられの美称です。「閉づ」は、水などが動きをとめて氷やつららになること。この場合は、ふりかかった霰が袖についた氷と連なるという意味か。

さらに、第2部「宮城野」の後半の14連から19連はつぎのようになっています。

みぞれまじりの風勁〈つよ〉く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

啼いて羽風〈はかぜ〉もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝〈なれ〉も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は

うれしや物の音を弾〈ひ〉きて
野末をかよふ人の子よ
声調〈しらべ〉ひく手も凍りはて
なに門〈かど〉づけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

「羽風」は、鳥や虫が羽を動かすときに起きる風。舞う人の袖の動きが起こす風。「求子(もとめご)舞ひてかよる袖どものうち返す―に」〈源・匂宮〉

「かさゝぎ」すなわちカササギは、スズメ目カラス科の1種で、穀類や昆虫、木の実などを食べる雑食性である。古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられますが、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、知られることとなりました。

鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける

と、奈良時代の歌人、大伴家持は七夕伝説に取材してカササギを歌っています。

現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り、繁殖したものだとされます。

「汝も」は、あなたも。

「人めも草も枯れはてゝ」は、人にもあえず、草も枯れ果てているという意味。

「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば(山里は特に冬がよけいに寂しさの増す季節だ。人の行き来も途絶え、草も枯れてしまったなあと思うと) 」(源宗于『古今集』冬・315)を踏まえているとの指摘もあります。

「物の音を弾きて」は、三味線などを弾いて旅する芸人をイメージしているのでしょう。

「忍び音」は人知れず泣くこと。声を抑えて泣くこと。

「門づけ」は、日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能の総称。発祥の根本には、季節に応じて神が祝福に訪れるという民間信仰がありました。

『和名類聚抄』(934年ころ成立)には、「乞児」(ほかいびと)の文字で解説されており、物乞いであると10世紀の時点で定義されています。

「門づけの身」は、門づけ芸人のようにおちぶれた身の上ということでしょう。

「まだ初恋のまじりなく」は、初恋のような初々しい感じすらまだない、おさない親しみの情をさしています。

2015年5月11日月曜日

島崎藤村『若菜集』から(16)

詩「草枕」には、きのうまで見たような藤村の苦悩に満ちた現実と、仙台への旅によって迎えることになる「生の曙」の感動がモチーフになっています。

全30連のこの詩は、内容から「漂泊」「宮城野」「冬の海」「早春」の4部構成になっています。きょうは第1部の「漂泊」、1~8連を読みましょう。その前半4連は次のようになります。すでに見た第1連から、行き場のない悲哀が語られていきます。

夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉〈あしは〉を洗ふ白波の
流れて巌〈いは〉を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

「蘆葉を洗ふ白波」からの第3連は、新古今和歌集<春上・二六>「夕月夜潮満ち来らし難波江の蘆の若葉に越ゆる白波(夕月の光に照らされて潮が満ちて来るらしい。難波の入り江の蘆の若葉を越えて寄せてくる美しい白波よ)」(藤原秀能)をふまえています。

「思ひあまりて」の思ひあまるは、堪えがたいほどに思う、思い悩んで心の中だけで処理できない、思案に余ること。人生という旅路における苦悶を、いくつもの嶮しい巌にあたり、砕け散る白波に託しているのでしょう。

「道なき森に分け入りて などなき道をもとむらん」は、下記のようなダンテ『神曲』の冒頭部分をふまえています。

人のいのちの道のなかばで、
正しい道をふみまよい、
はたと気づくと 闇黒〈あんこく〉の森の中だった。
ああ、荒涼と 棘〈とげ〉だって たちふさがる
この森のさまは 口にするさえ せつないことだ。
思うだけでも 身の毛がよだつ!
その〔森の〕苦しさは 死にまさるともおとるまい。
ただ、その森で おもわずうけた僥倖〈しあわせ〉にふれるためにも、
そこで見たくさぐさのことを わたしは語ろう。(三浦逸雄訳)

さて、 第1部「漂泊」の後半の4連はつぎのようになっています。

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭〈たにかげ〉に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

想〈おもひ〉も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行〈ゆく〉へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄〈ひるがへ〉り
朝の黄雲〈きぐも〉にともなはれ
夜〈よる〉白河を越えてけり

「われ」もそうなのです、なげき悲しんでいるのです。野の果て、山、谷の蔭に、見るべきわけもない朝夕に、光もなくて、なんとも寂しく秋が暮れていくというのです。

「想いも薄く」とは、もっている考えかたや思想もまずしく、足りなく、といった意味。

「黄雲」は、黄色い雲、金色の雲のことで、天気が悪くなる前兆として現れるとも考えられています。

「白河」は、古代、白河の関が置かれたことで知られる、福島県南部、都から陸奥国に通じる東山道の要衝。六国史に白河が初めて出たのは、718年5月2日に陸奥国から白河など5郡を分割して石背国を設置するという記事。

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだとされています。

1800(寛政12)年、白河藩主松平定信の考証では、白河神社の建つところを白河の関跡と論じています。白河関にちなんで東北、北海道をまとめて「白河以北」ということもあります。白河を越えれば、そこは奥州、東北なのです。

2015年5月10日日曜日

島崎藤村『若菜集』から(15)

  夕波くらく啼く千鳥
  われは千鳥にあらねども
  心の羽をうちふりて
  さみしきかたに飛べるかな

  若き心の一筋に
  なぐさめもなくなげきわび
  胸の氷のむすぼれて
  とけて涙となりにけり

「草枕」の冒頭の2連です。詩は、重々しく暗い雰囲気ではじまります。「夕波くらく啼く千鳥」の「夕波くらく」は、鳴く「千鳥」の暗い感じを醸し出しているだけでなく、「われ」の心の中の重苦しさも表しています。

すなわち「心の羽をうちふりて さみしきかた」に飛ぶ、詩人自らの心のありようでしょう。そこには、重苦しい現実に立ち向かった仙台時代の藤村の深い思いが投影されているようです。

ここで、『島崎藤村詩への招待』(神田重幸編)を参考に、仙台に至るまでの藤村の足取りをふたたび整理しておくことにしましょう。 

明治24(1891)年6月、明治学院を卒業した藤村は、横浜伊勢佐木町にあった雑貨店マカラズヤの店番を手伝いました。しかし、文学を仕事と定めていたため、やがて巌本善治が主宰していた「女学雑誌」の編集の仕事につきます。そこで翻訳などの仕事に従事したのが藤村の文学活動の第一歩となったのです。

明治25年2月、「女学雑誌」に掲載された北村透谷の「厭世詩家と女性」に感銘、それ以降、藤村は透谷との交友を重ね、文学的、精神的に大きな影響をうけることになります。この年、明治女学校の教師になります。

藤村はここで、佐藤輔子に出会います。輔子を愛しますが、輔子は教え子であり、彼女にはすでに婚約者がありました。藤村は自責の念などから明治26年には明治女学校を退職。教会の籍からも退きます。

精神的に不安定ななかで透谷らと「文学界」を創刊するものの、同年2月には関西へ漂泊の旅に出ます。そして11月下旬、東京浜町の吉村忠道方に落ち着くまで各地を転々とし、自殺も考えたようです。

翌27年に明治女学校に復職するものの、透谷自殺という衝撃が襲います。さらに長兄の秀雄が不正事件で逮捕されます。このため家の重荷を背負い、生活の現実と対峙しなくてはならなくなったのです。

28年には札幌に嫁いだ輔子が死去するなど、藤村にとって重苦しい出来事は続きます。透谷没後の「文学界」同人たちとの疎隔は、文学的、精神的孤立感を深めることにもなりました。

そんな中で、ふたたび明治女学校を辞職。同校の同僚だった小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に勤めることになります。

藤村に『春』という小説があります。明治41(1908)年4月7日から8月19日まで135回にわたって東京朝日新聞に連載。同年10月〈緑蔭叢書〉第2編として自費出版されました。

明治26(1893)年7月22日東海道の宿場町吉原に、東京から青木、市川、菅、関西の旅から帰った岸本の4人が集まりました。

主人公の岸本は正月来「恩人の家庭」を捨てて、「西の方の旅」を続けてきたという、藤村をモデルとしていると考えられます。

年かさの青木が数えの26、最年少の市川が21歳でした。青木の「物を視る目付、迫つた眉、蒼ざめた頬、それから雄々しい傲慢な額なぞの表情は、傷つけ破らざれば休まずとでも言つたやうな、非常に過激な神経質を示して居た」

岸本の「傲岸であると同時に柔弱な、過激であると同時に臆病な、感じ易いと同時に愚図々々した」性格は、「彼の容貌を沈鬱」にさせている。青年たちの話題は、岸本の苦しい旅の話であり、恋愛談、女性観であり、文学の話でした。

こんな感じで話が展開していく『春』のなかで藤村は、自身の「生」への問いかけを、東北への旅立ちの汽車の中で主人公の岸本に、次のように語らせています。

「汽車が白河を通り越した頃には、岸本は最早遠く都を離れたような気がした。寂しい降雨の音を聞きながら、何時来るとも知れないやうな空想の世界を夢みつつ、彼は頭を窓のところに押付けて考へた。

春と考へるには、自分の若い命はあまりに惨憺たるものであつた。吾生の曙はこれから来る――未だ夜が明けない。

『ああ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。』斯う思つて、深い深い溜息を吐いた。」

2015年5月9日土曜日

島崎藤村『若菜集』から(14)

きょうから「六人の処女」を離れ、詩集『若菜集』の「草枕」を読みます。藤村は同じ題名の戯曲も作っています。

詩のほうの「草枕」は、1897(明治30)年2月「文学界」50号に「さわらび」の一篇として発表されました。七五調で4句を1連として、30連からなる次のような長行詩です。

 草枕

夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉〈あしは〉を洗ふ白波の
流れて巖〈いは〉を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭〈たにかげ〉に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

想〈おもひ〉も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行〈ゆく〉へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄〈ひるがへ〉り
朝の黄雲〈きぐも〉にともなはれ
夜〈よる〉白河を越えてけり

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩〈いろ〉なき石も花と見き

あゝ孤独〈ひとりみ〉の悲痛〈かなしさ〉を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲〈ふゆぐも〉に覆はれて
身にふりかゝる玉霰〈たまあられ〉
袖の氷と閉ぢあへり

みぞれまじりの風勁〈つよ〉く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

啼いて羽風〈はかぜ〉もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝〈なれ〉も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は

うれしや物の音ねを弾〈ひ〉きて
野末をかよふ人の子よ
声調〈しらべ〉ひく手も凍りはて
なに門〈かど〉づけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺〈うみべ〉の石の上〈へ〉に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤〈なみ〉ばかり

暮はさみしき荒磯の
潮〈うしほ〉を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

暦〈こよみ〉もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼〈あゝ〉めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音〈はつね〉か鶯の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上〈へ〉に

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の辺〈べ〉に

磯辺に高き大巌〈おほいは〉の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲〈しののめ〉の
潮〈しほ〉の音遠き朝ぼらけ

「草枕」とは、旅先で草で仮に編んだ枕の意から、旅寝すること、旅先でのわびしい宿り、草のまくらなどのことを言います。

「君をのみ恋ひつつ旅の草枕露しげからぬ暁ぞなき(あなただけを恋しく思いながら旅をするその旅寝には、露がたくさん降りないような暁はありません)」(拾遺・別)
「衣うつ音を聞くにぞ知られぬる里遠からぬ草枕とは」(千載・秋下)

また「たび」「たご」「ゆふ」などにかかる枕詞としても使われます。
「家にあれば筍〈け〉に盛る飯〈いひ〉を草枕旅にしあれば椎〈しひ〉の葉に盛る(家にいる時は食器に盛る飯を、旅先なので、椎の葉に盛ることよ)」(万葉・2・142)

「草枕」というと、やはり夏目漱石の小説を思い出すかたが多いでしょう。

「山路〈やまみち〉を登りながら、こう考えた。智〈ち〉に働けば角〈かど〉が立つ。情に棹〈さお〉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」の有名な書き出しではじまる、著者いわく「非人情」の世界を描いた初期の名作です。

漱石の「草枕」は1906(明治39)年、『新小説』に掲載されました。藤村の詩「草枕」が『文学界』に載ったのは、1897(明治30)年のこと。漱石の小説の9年前に出ていたことになります。

2015年5月8日金曜日

島崎藤村『若菜集』から(13)

短き笛の節〈ふし〉の間〈ま〉も
長き思〈おもひ〉のなからずや

七つの情〈こゝろ〉声を得て
音をこそきかめ歌神〈うたがみ〉も

われ喜〈よろこび〉を吹くときは
鳥も梢に音ねをとゞめ

怒〈いかり〉をわれの吹くときは
瀬せを行く魚も淵〈ふち〉にあり

われ哀〈かなしみ〉を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ

われ楽〈たのしみ〉を吹くときは
虫も鳴く音をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪〈にくみ〉をわれの吹くときは
散り行く花も止〈とゞま〉りて

慾〈よく〉の思〈おもひ〉を吹くときは
心の闇の響あり

「おさよ」のつづき、14から22連までです。一管の笛の音を極め、求めんと強い意志で邁進する未婚の音楽家、おさよ。その笛が奏でる音は「七つの情」におよびます。

七情は、7種類の感情。礼記(らいき)では、喜、怒、哀、懼(く)、愛、悪、欲を、仏教では、喜、怒、哀、楽、愛、悪(お)、欲をいいます。

「七つの情声を得て 音をこそきかめ歌神も」と、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛、にくしみ、欲という人間の業をさまざまな音色で吹き奏でます。

すると、「鳥も梢に音ねをとゞめ」「瀬せを行く魚も淵にあり」「獅子も涙をそゝぐらむ」「虫も鳴く音をやめつらむ」「流るゝ水のたち帰り」「散り行く花も止〈とゞま〉りて」「心の闇の響あり」と、自然界のあらゆるものを感化できる。

さらには「歌神」ですら耳を傾けるだろうというのです。なんとも気宇壮大な、大げさ過ぎるとも思える表現になっています。

歌神はミューズの意味。ギリシア神話で、詩、劇、音楽、美術など文芸を司る女神たちのことです。パルナッソス山に住み、ミューズたちを主宰するのは芸術の神アポローンとされています。

日本では北村透谷がミューズを「詩神」と訳していますが、日本女性のおさよに合わせて藤村は、和歌をつかさどる神の意もある「歌神」としています。

「われ哀を吹くときは」からの3連は、藤村が好きだったシェイクスピアの詩「ヴィナスとアドニス」からヒントを得たと考えられています。藤村は「夏草」という題で、これを浄瑠璃調に次のように訳しています。

「知らぬかや、その花の姿を見ては、獅子も吼りをやめつらむ。竹に威を張る虎さへも、其声音を聞くときは、やさしの涙をそそぐらむ。されば小河に影のうつりては、瀬を行く魚も淵にあつまり、樹下の影にいこひては、空行く鳥も落ちてくるらむ」

 そして、「おさよ」の最後3連は――

うたへ浮世〈うきよ〉の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾友よ
しばしは笛の音に帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

いずれも情熱的な「六人の処女」を扱った中で、第3番目に登場する「おさよ」は、芸術に情熱をそそぐ未婚の音楽家です。6人の中でもひときは思いの激しさが際立っているように思われます。そこに、詩人としての藤村自身の、芸術に対する物狂おしいほどの強い心情を投入しているから、ともいえそうです。

「浮世」は、もともとは形容詞「憂(う)し」の連体形「憂き」に名詞の「世」が付いた「憂き世」です。漢語「浮世(ふせい)」の影響で、定めない世をいうように変化して「浮き世」と書かれるようになりました。

仏教的厭世観から、いとうべき現世、辛いことの多い世の中をいいます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ浮世になにか久しかるべき」(伊勢物語・82)

「浮世の一ふし」は、笛の音の一曲であるとともに、浮き世の「一節」をも意味しているのでしょう。浮き世は、笛の一ふしにも似て短くはかないもの。笛の音にはかない世をたくした縁語的表現でしょう。

「きゝね」の「ね」は希望の意を表す上代語に使われた終助詞で、助動詞の未然形につきます。「…てほしい」「…てくれ」など、他に対して願い望む意を表します。

何はともあれ、魂のなぐさめとなるべき生き方を見出したおさよの姿が静かにうたわれて、詩が締めくくられます。

2015年5月7日木曜日

島崎藤村『若菜集』から(12)

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女〈をとめ〉とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思〈おもひ〉

流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱れてものに狂ひよる
心を笛の音〈ね〉に吹かむ

「おさよ」の第3連から第7連までです。第3連では「をかしくものに狂へり」と、風変わりな狂人じみた女性だとあざけられている自分を客観的にうたっています。そして「げに狂はしの身なるべき」と自嘲気味に第4連に入ります。

おさよが何歳なのかははっきりしませんが、当時は数えで20歳を過ぎれば「年増」と呼ばれていた時代。「この年まで」と言うからには、23、24歳、20代半ばより上であると想像できます。

「むすぼほれたる」は、『万葉集』(18)に「懇(ねもころ)に思ひむすぼれ嘆きつつ」とあるように、気がふさいで晴れ晴れしない、ふさいでいるといった意味でしょう。

それは「うれひ」が深く、「手もたゆい」すなわち疲れゆるんでだるいためですが、そもそもそれが何の憂いによるものなのかははっきりしません。

「流れて熱きわがなみだ」の第6連以降は、森鴎外主宰の「新声社」同人による訳詩集『於母影』(1889年刊)の「笛の音」(少年の巻)、

おもふおもひのあればこそ
夜すからかくはふきすさべ
あはれと君もきゝねかし
こゝろこめたる笛のこゑ

といった詩句が影響しているとも言われています。近代的な意味での憂愁の心持ちに似た「乱れてものに狂ひよる 心を」笛の音にたくそうとする強い想いには、藤村ならではの新鮮な味わいがあります。さらに、第8連から13連までは――

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十〈とを〉の指

音にこそ渇〈かわ〉け口脣〈くちびる〉の
笛を尋ぬる風情〈ふぜい〉あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹〈をだけ〉や曇るらむ

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息〈いき〉を聴け

力をこめし一ふしに
黄楊〈つげ〉のさし櫛〈ぐし〉落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

第8連の「笛をとる手は火にもえて」という情熱的な激しい表現にはじまり、「笛」にたくした物狂おしいような、おさよの思いが、さまざまな音色を放ちながら切迫した調子でうたわれていきます。この詩のクライマックスでしょう。

「髪は乱れて落つるとも まづ吹き入るゝ気息を聴け」とさそっておいて、「力をこめし一ふしに 黄楊のさし櫛落ちてけり」と、女性の美しくも神秘的でもある所作を浮かび上がらせます。「黄楊のさし櫛」はまさに日本女性の美の象徴でしょう。

「黄楊」は、ツゲ科の常緑小喬木。材は黄褐色で、極めて緻密です。櫛のほか、数珠、将棋の駒、印材、版木など、さまざまな用途に使われています。

櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(く)し」「霊(くし)び」が語源とされます。髪を梳くことから女性の象徴的な物品として扱われるとともに、呪術的な意味あいも有しています。

「吹けば流るゝ流るれば 笛吹き洗ふわが涙」からは、芸のもつ霊肉一致の境地、奥深さを感じとることもできます。

2015年5月6日水曜日

島崎藤村『若菜集』から(11)

「おえふ」と同じく「文学界」48号(明治29年12月)に総題「うすごほり」と題して発表されたうち、きょうから読むのは「おさよ」です。

冒頭に出てきた「おえふ」のつぎのつぎ、「おさよ」は3番目に置かれています。1連が七五調2句、計25連から成り立っています。

  おさよ

潮〈うしお〉さみしき荒磯〈あらいそ〉の
巌陰〈いはかげ〉われは生れけり

あしたゆふべの白駒〈しろごま〉と
故郷〈ふるさと〉遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女〈をとめ〉とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思〈おもひ〉

流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱れてものに狂ひよる
心を笛の音〈ね〉に吹かむ

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十〈とを〉の指

音にこそ渇〈かわ〉け口唇〈くちびる〉の
笛を尋ぬる風情〈ふぜい〉あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹〈をだけ〉や曇るらむ

髮は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息〈いき〉を聴け

力〈ちから〉をこめし一ふしに
黄楊〈つげ〉のさし櫛〈ぐし〉落ちにけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛の節〈ふし〉の間〈ま〉も
長き思〈おもひ〉のなからずや

七つの情〈こゝろ〉声を得て
音〈ね〉をこそきかめ歌神〈うたがみ〉も

われ喜〈よろこび〉を吹くときは
鳥も梢に音をとゞめ

怒〈いかり〉をわれの吹くときは
瀬を行く魚も淵〈ふち〉にあり

われ哀〈かなしみ〉を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ

われ楽〈たのしみ〉を吹くときは
虫も鳴く音〈ね〉をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪〈にくみ〉をわれの吹くときは
散り行く花も止〈とゞま〉りて

欲の思〈おもひ〉を吹くときは
心の闇の響ひゞきあり

うたへ浮世〈うきよ〉の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾友〈わがとも〉よ
しばしは笛の音ねに帰〈かへ〉れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

  ◇

詩の冒頭では「潮さみしき荒磯の 巌陰われは生れけり」と、おさよの出生が語られています。

藤村は1896(明治29)年9月上旬、東北学院の作文の教師として単身赴任しました。そのころ、仙台の荒浜海岸を散策した際のイメージが、下敷きにあると考えられます。

また、「巌陰われは生れけり」は、モーリス・ド・ゲラン(1810-1839)の散文詩「ル・サントール(Le Centaure)」の平田禿木訳「われはこの巌の岩窟に生まれぬ……」が反映しているともいわれています。

このシチュエーションにはやはり、木曽の山の中に生まれ育った藤村の海に寄せる思いも詰まっていることでしょう。

「あしたゆふべの白駒と」の「白駒」は、白い馬のこと。

この句は『荘子』知北遊篇の「人生天地之間 若白駒之過郤 忽然而已(人、天地の間に生くるは、白駒の郤を過ぐるがごとく、忽然たるのみ)に依拠していると考えられています。

郤は隙と同義で、「人生は白駒の隙を過ぐるがごとし」。すなわち、月日が経つのははやく、人生はつかの間のできごとにすぎない、という意味合いです。

2015年5月5日火曜日

島崎藤村『若菜集』から(10)

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に来て見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづ〉かにて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命に堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな

「おえふ」の最後の3連では、姉の死によって宮中からの外出が許され、生まれ育った地である大川端で目にした風景とその感慨を描いています。

久しぶりに訪れた、懐かしい江戸川。でも、白すみれが咲く若草をしいて、夢を抱いて空想にふけったむかしは、もはや戻ってはきません。

そこにあるのは「桜の霜葉黄に落ちて」という秋の寂しい眺めなのです。

「おのれも知らず」は自覚することもないままに。「若き命に堪へかねて」は若々しい生命の衝迫をおさえかねるという、この詩人らしい表現です。

川の岸辺に草を敷いて物思いにふけるという発想は、藤村の詩によく見られます。この「草」は、2連目にあった「若草」と同じように、若き青春の日々を象徴しているように思えます。

吉田精一は『声でよむ現代詩』の中で、次のように鑑賞しています。

〈若いおとめの身として、外面ははなやかで実は複雑な法式にしばられて自己を発揮することのできない宮中生活をしているのであるが、うら若い女性の本能・欲求・理想は、はけ口を求めて、たえきれないほどに心にも身にもこもっている。

積極的にそれを打開する道を知らない、清純なおとめであってみれば、方向のない、はっきりした対象のない欲求、救いようのない空虚な感じ、みたされない心――それを笑ってよいか泣いてよいかわからないのであり、それが「若き命に堪へかねて」「微笑みて泣く吾身かな」である。思春期に生きる女性のなやみとあこがれが、ここにたくみに表現されていると思う。〉

しきたりばかりの閉ざされた宮仕えのなかに「世を経」てきた身には、うら若い女性ならではの、ときめくような恋愛や開放感を求めるべくもありません。

それで「若き命に堪へかねて」と、うずくような青春の欲求を抑え込むことができず、晩秋にもかかわらず「岸のほとりの草を藉き 微笑みて泣く」。

そうしたわが身をいとおしむ乙女の哀感が、ゆったりとしたリズムでうたわれ、実感となって響いてきます。こうした個人として抱く情感がうたわれるのは、近代の産物たる所以なのでしょう。

「微笑みて泣く吾身かな」というのも、藤村ならではの詩情豊かなしめくくりになっています。『島崎藤村詩への招待』で、神田重幸はこの詩についてつぎのように指摘しています。

〈詩想において劇的な面は乏しいが、明治の現実と王朝の幻想というかけ離れた世界をあえて「夢」と「現実」としてつむぐことで、若い処女の嘆きに仮託し、人生の哀しみをうたうことは、そのまま詩人の生命をうたうことであり、それは藤村詩の新しい抒情の形式を象徴したものと言えよう。〉

2015年5月4日月曜日

島崎藤村『若菜集』から(9)

 「おえふ」の6連目から9連目まででは、宮中での経験とその栄枯盛衰をうたっています。

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる暁星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名の夕暮に消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲〈ゆふぐも〉とほき友を恋ふ

「さばかり」は、たいそう、「ときめきたまふ」は、よい時にあって栄えるという意。

「きらめき初むる」からの第7連と「天つみそらを」からの第8連は、対照をなす対句的な構造になっています。イギリスのロマン派詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley、1792-1822)の「ひばりの歌(Ode to a Skylark)」によっているともいわれています。

「あした」は、朝の意味。「暁星」は、明けの明星、すなわち金星のこと。「御園生」は宮中の庭園を言っているのでしょう。

「天つみそらを渡る日の 影かたぶけるごとく」は『万葉集』(巻二)の山部赤人の「不尽山を望める歌」の「富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影もかくろひ 照る月の」をふまえているのでしょう。

「花に隠れて人を哭き 秋のひかりの窓に倚り」では、一般の社会から閉ざされた宮中にあって、おおっぴらに泣くことも笑うことも許されない境涯を嘆いています。それは、当時の藤村の心境を写しているのかもしれません。

「夕雲とほき友を恋ふ」には、『古今集』(巻十一・恋歌一)の「夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて」(読人しらず)の影響がうかがえます。

2015年5月3日日曜日

島崎藤村『若菜集』から(8)

「おえふ」の生い立ちをうたった最初の3連をもう一度、読みなおしておきます。

処女ぞ経ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば

水静なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり

都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな

この部分について、吉田精一は『藤村名詩鑑賞』で、つぎのように解説しています。

〈最初の3連は、夢多い幼少年の時代が、それにふさわしいほのぼのとしたことばとしらべをもって歌われている。

  処女ぞ経ぬるおほかたの
  われは夢路を越えてけり

という物語的な歌い出しも、この場合ふさわしい。その次の、

  わが世の坂にふりかへり
  いく山河をながむれば

というのは、あとにあるように平穏な、破綻のない生涯を展開するのであるから、幾らかものものしすぎる表現である。しかし山必ずしもけわしいとはかぎらず河もまた激流とはかぎらぬから、多く非難するにも当らない。とにかくこの第1連で、彼女の半生を絵巻物のようにくりひろげる準備をしたのである。次の、

  水静なる江戸川の
  ながれの岸にうまれいで
  岸の桜の花影に
  われは処女となりにけり

  都鳥浮く大川に
  流れてそゝぐ川添の
  白菫さく若草に
  夢多かりし吾身かな

は、多少重複する所もあるが、桜や、白菫によそえられるこの女性の美しさは、さこそと想像されるであろう。平凡に似ているが、私はこの2連を美しいと思う。「岸の桜の花影に」人となり、「白菫さく若草」をかりてうっとりと夢見勝ちな日を送ったおえふは、心もおっとりとした、ゆたかな家の生れであることが思われる。〉

さて「おえふ」の第4連からは、宮中に仕えての生活が描かれていきます。

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

詩は「雲むらさき」すなわち紫雲たなびく宮中へと導かれます。むかし中国では、王城の門を九重にしたため、「九重」は宮中の別称としても用いられますが、ここでは大宮内(宮中)を強調するための修飾語として九重を用いています。

「清涼殿」は、平安京の内裏にある殿舎のひとつ。平安中期には天皇の御殿とされるようになり、日常の政務のほか、四方拝、叙位、除目などの行事も行われました。建物は九間四面で、屋根は檜皮葺の入母屋造。

「雲を彫め濤を刻り」というのは、浜に寄せる波のように雲がかたちを浮きぼりにさせながら寄せてくる様子を、「霞をうかべ日をまねく」は、漢詩文のイメージを生かし、自然の景にたくして、豪華な宮殿の高くそびえる何層もの高楼のさまを表現しているのでしょう。

「玉の台」(たまのうてな)は、玉台すなわち、天帝の住まいにある美しい楼台のこと。広壮雄大な宮殿を形容しています。

2015年5月2日土曜日

島崎藤村『若菜集』から(7)

「おえふ」は七五調の1連4行12連からなる物語詩的な作品です。おえふは、お葉の仮名書き。当時は、女性のごく一般的な名前だったようです。詩は、この架空の未婚少女の生い立ちから始まります。1連目は、次のようになっています。

  処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
  われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
  わが世の坂にふりかへり
  いく山河〈やまかは〉をながむれば

最初の2行は、世の中のたいていの少女たちが過ごすような夢多き日々を、わたしも重ねてきましたという述懐でしょう。

「われは夢路を越えてけり」の「て」は、後の『早春』では「に」に改められ、「われは夢路を越えにけり」とやわらかな響きになっています。

「わが世の坂にふりかへり」とは、けわしい人生行路のなかで、過去をかえりみることができるような一つの「峠」に至って、そこから眺めているのでしょう。

「いく山河」というのは山あり谷ありの人生行路。それは、おえふの言葉であるとともに詩人自身の人生を見つめたものでもあるのでしょう。

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女〈をとめ〉となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮く大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草に
夢多かりし吾身かな

「おえふ」の2連目と3連目です。「江戸川」は、隅田川にそそぐ神田川の上流を指します。「大川」は、東京湾に注ぐ全長23.5kmの隅田川のこと。こうした生い立ちに関する川べりの描写は、青少年のころ隅田川のほとりの浜町で過ごした藤村自身の想いが託されているのでしょう。

「都鳥」は、現在の和名でミヤコドリと呼ばれる鳥ではなく、古来から和歌に詠まれているように、ユリカモメを指していると考えられます。『伊勢物語』の「九段 東下り」には、

なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

とあります。隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤く、シギくらいの大きさ、魚を食べる水鳥とすれば、藤村のこの詩にもぴったり合いそうです。

「白菫」すなわちシロスミレは、スミレ科の多年草。スミレに似ていますが葉数は少なく2枚ほどで、地面から伸びる花柄に直径2センチほどの白い花をつけます。

2015年5月1日金曜日

島崎藤村『若菜集』から(6)

藤村の第1詩集『若菜集』は、ひらがなで綴られた次のような「序」にはじまります。五七調のゆったりとしたリズムで、4行1連、3連構成です。

こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ

ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ

そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと

さらに序詩につづいて、次のような前書きがあります。

「明治29年の秋より30年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は若葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若葉なるをや。」

1896(明治29)年の秋から翌1896(明治30)年の春にかけて、ということは、藤村が東北学院に赴任して仙台に居たときに作った詩を集めたことになります。

1896年10月には母の死に直面し、故郷を再認識した時期でもありました。『若菜集』が春陽堂から出版されたのは1896年8月のこと。

それは「若葉のかげ深きころ」ではあるけれども「吾歌はまだ萌出しまゝの若葉」であるという思いが込められた詩集だったのです。

『若菜集』の冒頭に出てくるのは「おえふ」という詩です。この詩は『文学界』48号(明治29年12月)に、総題「うすごほり」と題して発表された6篇(ほかに「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)の最初に置かれています。

『若菜集』に収録された際には総題は省かれましたが、大正6年に出された『改刷版藤村詩集』には「六人の処女」という総題が付けられ、昭和11年の『早春』には「六人の処女一~六」として収められています。

   おえふ

処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河〈やまかは〉をながむれば

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮うく大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草〈わかぐさ〉に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿〈せいりやうでん〉の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる曉星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名なの夕暮ゆふぐれに消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲ゆふぐもとほき友を恋〈こ〉ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に來きて見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづか〉にて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命いのちに堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな