2015年6月25日木曜日

安水稔和「鳥」⑬

  すれちがって
  ふりむかずそのまま。
  背中できく鳥の声。
  日だまりの坂道。

  立ちどまって
  しゃがみこんでそのまま。
  眼前に見る鳥の幻。
  雨の流れる歩道の端。

  風が吹く街なかで
  ところかまわず
  両手を拡げてみる。
  羽ばたいてみる。

  鳥よ。
  わたしは鳥か。
  飛ばぬ鳥か。
  それとも。

2013年秋に出版された第21詩集『記憶の目印』に入っている「鳥歌」です。82歳で出されたこの詩集の中にも、あちこちに「鳥」がいます。詩人は、

  すれちがって
  ふりむかずそのまま。

  背中で鳥の声をきく。

  立ちどまって
  しゃがみこんでそのまま。

眼前に鳥の幻を見ています。安水は以前、朝日新聞のインタビューで「詩について」つぎのように語っています。

 〈一人の男が歩いていく。気がかりなその男の後姿を見すえることは、多くの他の気がかりを見すえることであり、気がかりはすべて見すえている私から生まれるのです。詩を書くとは、詩にかかわるとは、気がかりをはっきりと気がかりとすることなのだと思いさだめるとき、私もまた歩いていく一人の男になるのです〉(昭和50年6月13日付「朝日新聞」)

 「鳥の声」は、「鳥の幻」は、「見すえている私」から生まれてくる「気がかり」。気がかりをはっきり、気がかりとする。すなわち、「鳥の声」を、「鳥の幻」を、はっきり気がかりにしようとする詩人。その姿もまた、気がかりとなります。「鳥の声」、「鳥の幻」となるのです。

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

〈云いたいことを云う、書きたいことを書く、というふうには、詩における言葉の問題は簡単ではないようです。なにかあることがいいたいとき、いいたいことの内容が大切であるというよりは、むしろ、なにかあることがいいたいとおもうその意識のありようこそが大切なのです。

だから、詩句の表現を磨くとか、よりよい表現を求めるということが、詩における言葉の問題であってはなりません。意識のありように対応するもの(言葉)を見据えることこそ、詩における言葉の問題の大要であると、私はおもうのです〉(「鳥になれ 鳥よ―言葉の問題」)

詩人は書きつづけています。うたい続けています。生きている「意識のありよう」である言葉を。「鳥の声」を、「鳥の幻」を、そして「鳥の夢」を。

2015年6月24日水曜日

安水稔和「鳥」⑫

安水稔和は神戸の詩人であるとともに、旅の詩人でもあります。なかでも、この半世紀近く、菅江真澄(1754~1829)の足跡を追う旅をつづけています。

菅江真澄は江戸時代の紀行家です。30歳ごろ、故郷の三河(愛知県東部)を離れて、信濃(長野県)に旅立ち、以後、越後(新潟県)から庄内(山形県)を経て秋田に入り、津軽(青森県)、南部(岩手県)、仙台(宮城県)、蝦夷地(北海道)、下北半島(青森県)などをめぐっています。

48歳のときに津軽を経て再び秋田へ入ってからは秋田領内を離れることなく、今の秋田県内のほとんどの市町村に足跡をしるしました。

旅をしながら『菅江真澄遊覧記』と総称される旅日記をはじめ、随筆、秋田藩の地誌など著作は200冊以上に及びました。うち77冊12帖が近世の歴史民俗を記録した第一級の資料として、国の重要文化財になっています。

百科事典的知識しかもたない私に、菅江真澄について語る資格はありません。ただ、安水が「真澄と歩く私の旅」の中で作ったという、大好きな作品があります。『蟹場まで』(2004年)に入っている詩「大浜」です。

  行きついた崖は
  しぶきに包まれて。


  岩床が揺れている。

   岩肌に隙間なく
  身を寄せあって。
   鳥たちがひしめいている。

   風にもまれて
  鳴き交わす声。
   いきたいか いきたいか。

   風の隙間から
  かぼそい稚い声。
   いきたい いきたい。

   足もとの湧きかえる水
   沖へ走る潮の筋。
   その先は見えない。

〈真澄の文章を読んでいると事細かに書きとめられた事実にまず驚く。いくら驚いても驚きたらぬ。だが、私が本当に驚くのは、事実のなかに入っていく真澄の後姿。その眼の位置。

その書きとめる手つき。一口にいってしまえば、真澄は定住者ではない。といって漂泊者でもない。とどまらず、さすらわず、常に過ぎつつ、しかも常に住みつく者だ。

真澄の跡追い、真澄の視線たどるとき、見えるものと見えないもの、あるものとありえないもの、生きていないものと死んでいないもの、同時に見とおすことむつかしいものが同時に見えてくるようにおもわれてならない。真澄は文学者ではない。

詩人ではない。だが、真澄の方法をなんとか文学の方法・詩の方法に転化させることはできないものかと、私はひそかに考えている。〉(『鳥になれ 鳥よ』の「過ぎつつ住みつく者」)と、安水は記しています。

もう20年以上前になります。私は、宮城県北部にある国内有数の渡り鳥の飛来地「伊豆沼・内沼」の在る農村地帯に住んで、北からやってきて帰ってゆく鳥たちを1年間みつめて暮らしました。東日本大震災で、最大の揺れ「震度7」を記録したところです。

伊豆沼は田んぼの広がる農村地帯にあります。ガンやハクチョウなど渡り鳥たちが群れでやってきて沼の周りに棲みつき、イネの落ち穂やマコモなどを餌にして春まで暮らします。

農家の人たちにとって、大切に育てたイネを啄まれたり、田畑を荒らされたりする“厄介者”なのですが、来なければ、居なければ寂しい“居候”でもあります。

毎年、同じルートでやってきてそうした、奇妙だが安定した共存生活を送り、暖かくなると再び営巣地のシベリアのほうへと帰っていきます。

「定住者ではない。といって漂泊者でもない。とどまらず、さすらわず、常に過ぎつつ、しかも常に住みつく」。考えてみれば、それは「鳥」の生き方そのもののように思えます。

2015年6月23日火曜日

安水稔和「鳥」⑪

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

鳥も夢をみるのかもしれません。ふつうにこの詩を読めば、飛び立とうともがき、なりふりかまわず走る詩人の姿を描いているように思えます。とすれば、どうしてそれが「鳥」なのでしょう。

  君は鳥。
  羽を切られた鳥。
  この庭にすぎぬ
  歩くしかない
  君は鳥。
  歩いて三歩四歩
  垣根のまえに
  立ちすくむしかない
  君は鳥。
    (「鳥は君」から)

  もう一度鳥をとばそうか。
  かわいた固い掌から
  かわいた固い空へ。
  もう一度鳥をとばそうか。
  うすい今日へ。
  なんとか。
  もう一度。
    (「鳥をとばす」から)

ときに「君は鳥」であり、「とばそう」という対象にもなります。安水の「鳥」は、さまざまな立場や位相で作品の中に登場してくるのです。

「詩は言葉でつくるものだ」というマラルメ的な、象徴主義的な「鳥」に近づくこともあれば、具象的、現存する鳥の切実な姿を見せることもあります。

ドイツの大数学者ダフィット・ヒルベルトは、「点」や「直線」を「ビールジョッキ」や「机」に置き換えて、「2直線は1点で交わる」を「2つの机は1つのビールジョッキで交わる」としても同じことだ、と現代数学を表現しました。

もちろん安水の「鳥」は、「恐竜」でも「犬」でも「蟻」でもかまわないというわけではないはずです。安水は、「詩学」(1959年9月号)に寄せた「日常の詩」の中で、次のように記しています。

〈私は鳥を書きつづけたが、鳥はついに鳥ではなかった。鳥が鳥の世界をつくるはずもなかった。なにも私はあの鳥は私自身であったとかいうのではない。そんなことではない。私が鳥を書いていたとき、鳥の周囲を人間がうろうろしていたのだ。

私もその一人だった。鳥は私たちの間をぬって飛んでいた。そういうことなのだ。だから、鳥がどんなに鳥になり、どんどん飛び、あまりに鳥そのものに近づき、どんどん近づき、そのあげく、鳥になろうとするとき、鳥でなくなってひとつの象徴にかぎりなく近づくとき、私はこの手で鳥を殺さざるをえない。

鳥をとりもどさざるをえない。このような衝動・殺意を、私ははっきりと自覚せざるをえなかった。〉

安水の「鳥」を読んでいると私の頭には、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが自らの「生の理性 (razon vital)」の哲学に関して隠喩的に用いた「私は私と私の環境である」という言葉が思い浮かんでくるのです。

2015年6月22日月曜日

安水稔和「鳥」⑩

  失ったものを
  指折るのもひとつの悲しみ。
  それを忘れようとし
  あるいは忘れてしまったのは――
  深い悲しみの姿。

  失ったもの
  すべて灰のごとく
  風のなかであまりに軽かったが。
  それら風に散ったものを
  忘れ去ることは
  なおさらたやすかったが。

  意味を喪い
  生のなかに死ぬ
  われわれ。
  すでに啄まれて
  腐肉
  跡もない。

1953(昭和28)年、安水が22歳のときに作り、第1詩集のタイトルにもなった詩「存在のための歌」は、四つの章から成っていいます。これは、その第1章です。

この詩は、安水の詩人としての旅立ちの作品であるとともに、その後も彼の詩作の底にいつも通奏低音のように響きつづけているように思えます。

安水は自身の『詩作ノート』で、この詩に関して「満州事変の年にぼくは生まれた」という言葉にはじまり、次のように語っています。

〈満州事変の年にぼくは生まれた。日中戦争の始まった年にぼくは小学校に入学した。太平洋戦争の始まったときぼくは小学校五年生。そして日本が敗れたときぼくは十三歳だった。戦場へは行かず、工場へも行かず、といって集団疎開もせず、中学二年生は街のなかで焼夷弾の雨をじっと待っているだけだった。焼けた街から田舎へ逃亡したぼくはその夏、やせほそった餓えた十三回目の夏を迎えた。

戦後十年。それがつまりぼくの青春なのだろうが、それはまだ手に入っていないのにすでに失ってしまったものを追認しつづける時間であったといってもいいだろう。いったい、ひとはどのようにして年齢を重ねていくものだろうか。

ひとつひとつ獲得していくのか。ひとつひとつ獲得して充実していくのか。その頃ぼくはそうは思わなかった。逆に、ひとつひとつ喪失していくのだとおもった。だから、ひとつひとつの喪失をあやまりなく追認したいとおもっていた。成熟とはつまりは負の認識の累積ではないかとおもっていた〉

4章にわたるこの詩には、それぞれ2行のエピグラフ(題辞)が付いています。この第1章には、

      禿鷹は飛び去った
      すでに久しい以前に

2章、3章は、

      虎が吼えるのだ
      痩せさらばえた虎が

      鳩が焼け死んだ
      眼のまえで

「禿鷹」「虎」「鳩」とつづいて第4章に置かれているのが「鳥」。そして、詩はつぎのように締めくくられます。

      鳥は常に追われる
      残酷きわまる手に

  ―さあ
  と誰かが誘う。
  ―さあ
  と誰もが応えたいのだ。

  ―さあすべて
   投げ捨て
   すべてやさしきもの
   死をうしろに
   すべてうしろに
   さあ……
   すべてうしろに
   さあ……

  誰もが誘う。
  誰もが応えたいのだ。
  ―われわれ
   なにものでも
   ありえないだろうが
   さあわれわれ
   なにものでも
   ありえないままに
   さあ

「―さあ と誰かが誘う。」ことが起こって欲しいと詩人は願っています。そして、「―さあ と誰もが応えたいのだ。」と感じます。願望を少しはみ出て、希望の光が射しているように思われます。

この詩が作られてから60年あまり。敗戦の焼け野原に代わって、今度は津波にさらわれた廃墟が、ヒロシマ、ナガサキに代わってフクシマが、大きな喪失感となって、この国を覆っています。

詩人は60年が過ぎたいま、「鳥は常に追われる」という認識を、果たしてどんなふうにとらえ直しているのでしょうか。

2015年6月21日日曜日

安水稔和「鳥」⑨

〈毎年冬になると、メジロが庭にやって来る。山に食べ物がすくなくなるのだろう、山を降りてくる。サザンカの蜜など吸いに来る。

そこで、ミカンを半分に切って庭の木の枝に刺しておくと、二羽、一羽、また二羽、次々とやって来て、交替でミカンをつっついている。

注意して見ていると、午前中に西隣から植木伝いにやって来て、ひとしきりミカンを食べて、それから下の家に移り、家伝い木伝いに山へ帰っていく。どうやら鳥の道があるらしい。

昨年は地震のあともメジロはやって来た。その鳴き声を耳にして、その姿を目にして、どんなになぐさめられたことか。やがて暖かくなると、ぱったりと来なくなった。山で巣作り子育てが始まったのだろう。またの冬には会おうね。

それが、この冬は一度その声を耳にしただけ。それっきり。年が変わっても、春めいてきても、まったく姿を見せない。どうしたのだろう。

家のまわりはまだ更地だらけ。一軒おいて西の家が、すぐ下の家が取り壊されて。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま。植木もすくなくなってしまって。

そのうえ、あたりはうちつづく取り壊し作業、補修工事、新築工事、さまざまの車が人がひんぱんに出入して、さまざまの騒音に取り囲まれて、メジロは来たくても来れないのではないかしら。家伝い木伝いの鳥の道が地震のあと、とだえたのではないかしら。

それでもとこの冬も、庭の木の枝にいつものようにミカンを刺しておいたのだが、待っても待ってもメジロは来ない。あの食いしんぼうのヒヨさえ、どうしたことか来ない。ミカンは変色して黒く小さくカラカラに乾いてしまった。

サザンカが咲いても、ユキヤナギが咲いても、ハクモクレンが咲いても、聞こえてくるのは、かん高いヒヨの声ばかり。それも時たま。サクラが咲いて、サクラが散って、木々が萌え立ち、春たけなわ。見渡せば町はまだまだ。人はこれから。

鳥よ来い。人よ戻れ。春冷えの愁いは、いかにも深い〉

阪神大震災から1年あまり経った1996年4月29日付の神戸新聞に掲載された安水の「鳥の道」と題されるエッセーです。

一瞬の天災は、すべてのものを一変させます。崩れ落ちた瓦礫、焼け跡。呆然たる喪失感から少しずつ前へと足を踏み出して、瓦礫を片づけ、やっと更地になりました。

それでも「一軒おいて西の家が、すぐ下の家が。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま」。植木もめっきり減ったままです。そして、取り壊し作業や補修工事が続いています。騒々しく、ひっきりなしに車や人が出入りしています。震災からの復興の音です。

こうした環境の劇的な変化が、影響しているのでしょう。庭に来ていた鳥たちが、来なくなったのです。詩人は、それが気にかかってしかたがありません。逆に見ると、1年たってようやくこのころには、愛する鳥をじっくりと見つめ、思いを寄せるゆとりが生まれていたのかもしれません。

発生からもうすぐ4年になる東日本大震災で、最も揺れが激しい震度7を記録したのは宮城県の栗原市でした。震度7は「立っていることができず、はわないと動くことができない」という、これ以上にないレベルの震度です。

この栗原市と隣の登米市にまたがって、日本有数の渡り鳥の飛来地「伊豆沼・内沼」=写真=があります。25年前、私は1年間ここで、何万もの渡り鳥たちを見つめて暮らしたことがあります。

北方から群れをなしてたくさんの渡り鳥がやって来て、棲みいているこの時節になると、あの震災で彼らの渡りに何か変化が起こったのだろうかと気にかかります。

でも、心配はありません。一時的にちょっぴり「道」を変えることはあっても、あの6500万年前の、隕石衝突による絶滅の危機からも生き延びた恐竜の子孫である鳥たちなのです。

そういえば、安水の詩集『鳥』の中にこんな詩もありました。

      鳥

  ねむっても
  ねむっても
  鳥は空にいた。
  めざめても
  めざめても
  鳥は空にいた。
  いつも
  いつものとおり
  風に支えられて
  鳥は空にいた。
  土や水からは遠いところを
  いつも
  いつものとおり
  飛んでいた。

少しばかり近くで見かけることがなくなったって、鳥は空にいます。いつものように飛んでいるのです。

2015年6月20日土曜日

安水稔和「鳥」⑧

あれからちょうど20年が経ちました。1995年1月17日午前5時46分。マグニチュード7.3。安水稔和のまちを、兵庫県南部地震(阪神大震災)が襲ったのです。神戸市長田区の家は半壊、九死に一生を得た詩人にとって、それは

  私たちのまちを襲った
  五十年目の戦争。
     (安水の詩「神戸 五十年目の戦争」=朝日新聞1995年1月27日)

でした。

20年前、私も西宮市に住んでいて被災しました。家の中はメチャメチャ。電気も水も無い生活が続きました。その日から1年間、新聞記者だった私は震災の報道に追われることになりました。ヘリのカメラマンから送られてくる写真からは、安水が住む神戸市長田区の街並みが、煙と炎に包まれているのが見て取れました。

  目のなかを燃えつづける炎。
  とどめようもなく広がる炎。
  炎炎炎炎炎炎炎。
  また炎さらに炎。

  目もまえに広がる焼け跡。
  ときどき噴きあがる火柱。
  くすぶる。
  異臭漂う。

  瓦礫に立つダンボール片。
  崩れた門柱の張り紙。
  倒れた壁のマジックの文字。
  みな無事です 連絡先は……。

  木片の墓標。
  この下にいます。
  墓標もなく。
  この下にいます。

  これが神戸なのか。
  これが長田のまちなのかこれが。
  これはいつか見たまちではないか。
  一度見て見捨てたまちではないか。     (同詩)

長田のまちを覆う煙を見た私たちは当初、関東大震災のことを思い描いていました。大正12年 (1923年) 9月1日に発生した関東大震災では、地震が起きた直後から火災が発生し、延々46時間にわたって延焼。犠牲者の9割近くが火災によるものでした。

阪神大震災直後、廃墟と化した神戸に設けられた遺体の仮安置所や警察署を歩き回り、私は次第にこの地震が、関東大震災とはかなり性格が違っていることに気がつき出しました。断片的な情報をつなぎ合わせていくと、亡くなった方たちの95%くらいが、地震で潰れたり倒壊した建物の下敷きになった「圧死」が原因だということがわかったのです。

炎炎炎炎炎炎炎。また炎さらに炎。長田のまちは、阪神大震災では特異的に、火災で焼き尽くされてしまいました。しかも、壊れた家の下敷きになって亡くなった人たちもたくさん出ました。そういう意味では、詩人は、被災地の中でもとりわけ凄惨な光景の目撃者だったことになります。

そのとき、安水の脳裏には、まだ中学生だった「あの日」が鮮明に浮かび上がっていたに違いありません。昭和20(1945)年6月5日、神戸の3度目の大空襲。長田の家を失った安水は幼い妹の手を引いて、焼け野原になった街の海沿いの市電道を煙に包まれて歩いていました。

そして大空襲の後、安水は一家で長田を離れ、母の実家のあった現在の兵庫県たつの市に疎開しました。しかし「五十年目の戦争」では、「見捨て」ることはありませんでした。詩人はひたすらに、言葉を刻みつづけたのです。

  神戸のまち長田のまち
  生きて愛するわたしたちのまち。
  生きて愛するわたしたち
  ここを離れず。

  焼け残った山茶花のかげにきく
  鳥の声。
  倒れた軒の下の砕けた植木鉢に開く
  水仙の花群。
     (同詩)

ここでも詩人は、鳥の声をきいています。

2015年6月19日金曜日

安水稔和「鳥」⑦

    鳥よ

  花が咲いてもとっくに散って。
  風が吹いてもとっくに止んで。
  河が溢れてもとっくに涸れて。
  水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
  声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
  声かける。

  ―鳥になれ。
   鳥よ。

1971年に出版された第8詩集『歌のように』の中にある詩です。この詩に限らす、安水稔和は、「―鳥になれ。鳥よ。」の呼びかけを、詩人は自身の作品や講演などさまざまな場面でつづけています。

〈ここでは、鳥にむかって鳥になれといっているのです。そんな馬鹿なことといってしまわずに、今一度口に出していってみてください。鳥になれ。鳥よ。海になれ。海よ。空になれ。空よ。あなたになれ。あなた。……

つまり、空が空でなくなっていて、海が海でなくなっていて、あなたがあなたでなくなっていて、つまり、鳥が鳥でなくなっていて、この二行は成立しうるわけです。鳥が鳥でなくなっているという認識があれば、なんのことはないありふれた二行なのです。

スモッグの空を空と呼ぶことはできない。ヘドロの海を海と呼ぶことはできない。このような拒否の意識から、ごく自然にこの二行は生まれるのです〉(安水稔和著『鳥になれ 鳥よ』)

  ―鳥になれ。
  鳥よ。

あなたになれ。あなた。それは、本来の鳥に、本来のあなたに戻れ、ということなのでしょうか。とすれば、本来の鳥、本来の鳥とは何なのでしょう。

それとも、鳥はこういうもの、人はこういものといったとらわれから自由になって、現存在としての“自分”を見つめよ、という実存主義的な呼びかけととるべきなのでしょうか。

安水が盛んに「鳥」を書いていたのは、工業化が急激に進んだ高度成長期、大量生産、大量消費のツケが、公害というかたちで噴出した時代と重なる。公害は、環境問題というよりグローバルで、とらえどころなく、よりいっそう困難な問題となって、私たちの前に立ちはだかり続けています。

それにしても、これほどまでに「鳥が鳥である」ことが難しい時代があったでしょうか。

科学技術などが起爆力になって次々に新たなモノやメディアがもたらされ、価値観を含めて目まぐるしい速さで変わっていきます。本来の姿を見い出すことは容易なことではありません。

「鳥になれ」と呼びかけているのは詩人です。基本的には、その直感からナチュラルに出てきている言葉であって、みだりに理屈を云々すべきものではないでしょう。

とはいえ、詩人が「鳥になれ」と呼びかけている鳥とは、どんな鳥を想定したらいいのか。気になるところです。『鳥になれ 鳥よ』に安水は次のように記しています。

〈私の想像力の世界の鳥は、黒い鳥ばかりです。走っても走ってもとびたてません。いつまでも土のうえを走っています。羽根が一枚もないのもいます。赤裸です。首を泥田につっこんでいるのもいます。息絶えています。井戸にはまった鳥。首を大きな手で握られた鳥。太陽のなかへとびこむ鳥。黒こげの鳥。さまざまの、もはや鳥とはいいがたい鳥たちなのです、それは鳥です。でも、鳥ではありません。でも、鳥であってほしい。でも、鳥ではありません。鳥になれ。鳥になれ。鳥になれ。……鳥よ。

つまり、この二行から必然的に、鳥が鳥でないということがどうしても判明するのです。そして、鳥でない鳥という虚体から言葉は動いているのです。〉

2015年6月18日木曜日

安水稔和「鳥」⑥

   君は鳥。
   ぼくは鳥。
   飛ぶ意志である。
   ともに飛ぶ意志はない。
   ともに飛ぶとは
   とるにたらぬ時間のなかに
   とびちった籾殻。
   朽ちようとする世界のなかに
   ふりまかれた仮説。
   ぼくは鳥。
   君は鳥。
   時間に犯された
   意志ならぬ意志。
   ただ飛ぶことの意志。
   意志はどこに由来するともしれぬ。
   ただ想像する、
   この世界の外の
   闇のなかにあるいは
   意志するものがいるのかもしれぬと。

詩集『鳥』のなかにある「飛ぶ意志」という詩です。この詩をはじめ安水の五つの詩作品が入った「鳥について」という混声合唱組曲があります。

1959(昭和34)年に東京都立新宿高校音楽部OBやOGらによって創立され、いまも定期演奏会やコンテストなどいろんな活動をしている市民合唱団「アルベルネ・ユーゲント・コール」の創立40周年委嘱作品。

若かりしころ、この合唱団のピアノ伴奏をしたこともあるという池辺晋一郎によって作曲されました。

アルベルネ・ユーゲント・コールとは、ドイツ語で「お人好しな若者達の合唱団」という意味で、「20代から70代まで、いろいろな世代で楽しく歌っている」そうです。そんなアルベルネ・ユーゲント・コールに、安水稔和は次のようなメッセージを寄せています。

〈わたしがまだ若い頃、25、6歳の頃、鳥のことばかり書いた時期があった。原稿用紙を広げてまず鳥と書いた。鳥と書くと不思議に言葉の扉が開いた。次々と鳥が現われた。飛ぶ鳥。いつまでも飛び続ける鳥。落ちる鳥。歩く鳥。走る鳥。いつまでたっても飛べない鳥。坐りこんだ鳥。動かない鳥。羽根のない鳥。泥だらけの鳥。投げこまれた礫。さまざまの鳥たちが日常の世界を駆け抜け、非日常の世界へ飛び立った。

鳥は鳥であって、わたしであって、あなたであって、わたしたちであった。鳥は言葉であり、声であり、歌であった。そんな鳥たちを集めて詩集を作った。詩集の題を『鳥』とした。詩集に閉じこめたはずの鳥たちは、その後も、事あるごとに現われた。さまざまの姿態で、今も。

   あの鳥影に言の葉を引き結べば
   日影揺れる戸口に
   なつかしい人が立つという
   わずかに血のにおう
   あなたの眉のあたりをまた
   鳥の影が過ぎる     (「春は鳥占」終連)

このたびの合唱組曲「鳥について」の詩はいずれも1956年から7年にかけて書いたものである。
「鳥よ」3篇と「飛ぶ意志」は詩集『鳥』(1958年刊)から、第4曲「歌」は詩集『愛について』(1956年刊)から池辺晋一郎さんが選び取られた。

半世紀近く前に飛び立ったわたしの言葉たちが、池辺さんによって新しい翼を与えられ、池田明良さんとアルベルネ・ユーゲント・コールの皆さんによってあらためて飛び立つことになった〉

安水稔和の詩は、私たちの心に、脳の中に、直接に響いてきます。とやかく言う必要はないのです。その言葉そのものを、そして詩人の中にある「意志」を、受け取ればいい。歌い、その声を聴けばいいのです。

2015年6月17日水曜日

安水稔和「鳥」⑤

              鳥

  あれが鳥だ。
  大空に縛られた存在。
  動くことを強いられた
  被術者。
  世界の外から
  悪意の手によって投げこまれた
  礫だ。

いま読んでいる「鳥が夢を見た。」の「鳥」が入った詩集『鳥』の冒頭の詩です。

こちらのほうに出てくる「鳥」は、大空を飛びまわる自由な存在という私たちがふつうに抱く鳥のイメージとは正反対です。空に「縛られた存在」であり、動くことを強いられた「被術者」。

そして「悪意の手によって投げこまれた礫」でもあるというのです。自由を謳歌するどころか、主体性のない「受け身」でしかない存在としての鳥ということになります。

話はだいぶ飛びますが、私が中学生のころ、こんな歌が流行っていました。

  いま私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  この背中に鳥のように
  白い翼つけてください
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい

そう、フォークグループ「赤い鳥」が歌って1970年代に大ヒット、その後も合唱曲などとして広く歌われている「翼をください」です。

この歌が流行りだしたころ、私は中学生。がんじがらめの学校生活にウンザリし始めたころで、心に響き、大好きになりました。

でも、ちょうど同じころ科学に興味をもつようになり、中でも、アインシュタインの相対性理論なるものがあることを知って、この曲に対する感じかたが変わった記憶があります。

もちろん当時の私に微分幾何学の知識があるはずはなし、相対性理論がまともに理解できたわけでもありません。しかし、

地球は、ニュートン的な力で太陽と互いに引き合いながらまわっているわけではなく、ひときわ質量の大きい太陽の周りの空間そのものが曲がっていて、そのへこみにそって地球は進んでいるだけのこと。

私たちがどんなに速く走れるロケットをつくったとしても、光速に近づくにつれロケットの質量が増えていって加速できなくなり、光には永遠に追いつけない。

といった、相対論っぽい理屈をこねるようになっていました。そして、私たちが置かれている時空って、勝手に羽ばたいたり、飛び回ったりするようにはなっていないんじゃないかと、漠然と思いはじめたのでした。

物理学とは縁遠い話ですが、考えてみるとその後の人生経験の中で、「それ的」なものをずいぶんと体感し続けてきたように感じます。

「自由な空」ほど、とりとめなく不安で、居場所を見つけるのが難しいところはありません。自由に飛ぼうとすれば飛ぶほど、そこにはすさまじいばかりの「抵抗」が待ちかまえていて、がんじがらめにされるのがオチなのです。

私の場合、年を取るにつれて、鳥であろうが、人間であろうが、神さまであろうが、時空に「縛られた存在」以外の何者でもないという思いは深まって、冒頭の安水の詩が実感として分かるようになってきました。

数年前の春、十和田湖畔や、北海道の野付半島、サロマ湖畔で、病原性の強いH5N1亜型鳥インフルエンザウイルスによって死んだとみられれるハクチョウが見つかりました。

私は当時、北海道にいてそれを詳しく調べたのですが、専門家たちの見方を総合すると、どうも、中国大陸で流行っていた毒性の強いウイルスが、カモか何かの渡り鳥によって運ばれてハクチョウに感染した可能性が高いことがわかりました。

キョクアジサシのように、中には何万キロも移動することもある渡り鳥。きっとそれは「自由な」などという生やさしいものではないはずです。

生きていくために「動くこと」を強いられているのです。ある見方をすれば遺伝子の為すがままに、ある見方によれば宇宙の摂理によって。それは、人間でも同じことなのでしょう。

そして、自覚してか、知らずにか、「鳥インフルエンザウイルス」に現象として見られるような「悪意の手によって投げこまれた礫」となることもあるのです。鳥にしても、人間にしても。

2015年6月16日火曜日

安水稔和「鳥」④

ざっと400~500万年ほど前、われわれの祖先は、ボノボやチンパンジーなど類人猿の祖先から別れて人類になったと考えられています。人類と類人猿を分ける決定的な違いは、生物学的には、2足で歩けたかどうかにあるようです。

たとえば400万年くらい前のアウストラロピテクスは、脳の大きさはチンパンジーとほとんど変わりません。ですから知能的には、チンパンジーと大差はなかったとみられます。

しかし、骨格や骨盤、下肢の形、足跡などから2本足で直立歩行していたとことから、人類に属すると考えられているわけです。

2足歩行で、前脚、すなわち腕を歩行に使わなくてもよくなったことで、重いものを持って移動することができるようになりました。それに、物を投げたり、高度な道具をつくり、使うことも。

さらには、頭部が直立した胴体の真上に乗るかたちになり、大きな頭でも支えることもできるようになったのです。

2足歩行をする動物は決して多くはありません。前脚を歩くのに使わず2足歩行するようになった動物の元祖が、かつて1億年以上にわたって地上に君臨した恐竜です。

ヒトの場合、地面と垂直に直立して歩くのに対し、恐竜は地面と平行の姿勢でうまくバランスを取りながら歩いたと考えられています。

だいぶ前になりますが、慶応大学理工学部の、ヒトの歩き方をコンピュータ解析している研究室を訪ねたことがあります。研究室では当時、2足歩行をする姿勢によって、歩くスピードがどんなふうに変わるのかを調べていました。

モデルは、体長10~13メートル、体重約2トンの肉食恐竜アロサウルス。体を円錐状の14の節に分け、足跡から割り出した歩幅で足を振らせたらどんな動きをするかシミュレーションをしました。

すると、最も安定していたのは、体を水平にしてバランスをとる「水平型」でした。ゴジラのように直立した姿勢だと、頭や尾の振れが大きくて歩幅が減り、歩きにくいことがわかったのです。

水平な姿勢で、足と体の各部の振れが合致する自然な歩きをしたときの速さは毎秒1.68メートル、時速約6キロ。マラソン選手なみの時速13~18キロも楽々出せることが推測されました。

2本の足を軸に、体を水平にしてシーソーのようにバランスを取る歩き方は、ある意味ではヒトの直立歩行よりずっと“省エネ”で、理にかなったものだったのかもしれません。

恐竜の子孫、いや恐竜の生き残りである鳥もたいていは、人間と同じく2本足で、ちょんちょんと器用に歩き、ときに俊足で走ります。

ただ、2本足で立って地上でひたすら頭でっかちになっていったヒトに対して恐竜は、前肢を翼に変えて空に飛び立つ道を選んだのです。ダチョウのような一部の鳥を除いて。そうして――

  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

そんな苦しみを味わうことにもなります。しかし、それでも、2本足を選んだ人間も、鳥も、飛びたち、羽ばたこうと、けんめいに走るのです。

2015年6月15日月曜日

安水稔和「鳥」③

詩「鳥」をはじめて読んだ20年あまり前、そのころ私は、カナダで開かれていた恐竜の博覧会で、一つの恐竜の化石に出逢って、すっかり魅せられていました。


シノルニトイデス。「中国の鳥に似た動物」という意味の名がついた小型の恐竜です。

寝ている鳥のように、体を縮めて丸まった形で、化石になりました。細い2本の足、3本の足指、指に鋭く曲がったつめがついていました。

シノルニトイデスは、カナダと中国との共同調査で、中国内モンゴルの1億2000万年前の地層から出てきました。

もとの姿は、長さ1.2メートル、高さ75~80センチ、体重5キロと推定されました。体に比べて頭は大きめで、口には歯がありました。小さな爬虫類や哺乳類を食べて暮らしていたようです。

詳しく調べるとシノルニトイデスは、恐竜としては大きな脳をもつ小型肉食恐竜トゥロオドンの仲間とわかりました。トゥロオドンは、絶滅しなかったら人間に進化したものもあったかもしれない、という学者もいるほど脳が発達していたと考えられています。

カナダの世界的恐竜学者、フィリップ・カリー博士が、「トゥロオドンをみても、脳を収容するスペースが鳥なみに大きい。しっかりと前の方を向くようにつくられた眼球のまわりの骨格なども、鳥とそっくり。鳥の祖先は恐竜というよりも、鳥は恐竜の一種とさえいえる」と、そのころ自信たっぷりに話してくれたのを思い出します。

当時すでに恐竜研究者のほとんどが、鳥の祖先は恐竜と考えるようになっていましたが、いまや恐竜の一部が鳥になったという認識が一般の私たちにも広まりつつあるように思われます。

鳥はもはや鳥類というよりも恐竜類、その中でも獣脚類に属するマニラプトラ目(すなわちドロマエオサウルスやオヴィラプトルを含むグループ)として位置づける研究者も少なくありません。

私がシノルニトイデスに出会った少し後に、映画「ジュラシックパーク」が公開されました。

スクリーンをけたたましく走り回るヴェロキラプトルを見て、シノルニトイデスもこんなふうに人類が現れる遥か前の地上を走り、その仲間からやがて、地上には居たたまれなくなって空へ飛び立つものが現れたのではないかと想像したものです。

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

私は、シノルニトイデスと出逢ってすっかり“鳥恐竜”に夢中になりました。そして、モンゴル・ゴビ砂漠の発掘現場、中国の博物館などいろんなところを訪ねて、恐竜と鳥との関係に思いを馳せました。そんなとき頭にあったのが、この「鳥」でした。

地上にいた恐竜が、どのようにして鳥として飛び立ったのか。木の上から繰り返し飛び降りているうちに翼が発達していったのか。それとも、地上で獲物の昆虫を取ろうと懸命に飛び回っているうちに「捕虫網」のように翼が発達していったのでしょうか。

いずれにしても恐竜たちもきっと、飛びたとうと走っても、走っても、砂をけちらし、水たまりにふみこみ、なりふりかまわず走っても、走っても、を何度も、何度も、幾世代も、幾世代にもわたって繰り返して、未知の空を手に入れていったに違いないと私には思えてならなかったのです。

2015年6月14日日曜日

安水稔和「鳥」②

安水稔和は神戸に生まれ、そこで生活を営み、創作活動をつづけている神戸の詩人です。

1931(昭和6)年9月、神戸市須磨区に生まれました。13歳のとき、神戸大空襲で被災。その際、現在の兵庫県たつの市にあった母の生家に疎開し、終戦の日を迎えています。

敗戦から4年後に神戸に戻り、長田区池田上町に居住。ここで現在まで暮らしています。

1950(昭和25)年、神戸大学文学部英米文学科に入学。その年の12月には詩誌「ぽえとろ」を創刊。本格的な創作活動に入ります。

1954(昭和29)年に大学を卒業し、地元の中・高一貫の女子校に就職。翌年には、第1詩集『存在のための歌』を刊行ました。

以後、詩作をはじめ、評論やラジオドラマ、菅江真澄研究など、旺盛な創作、文筆活動は衰えることなく現在まで続いています。

詩集だけをとっても、1954年の『存在のための歌』から『記憶の目印』までに21冊。ざっと3年に1冊のペースで、筆を折ることなく続いています。

子供のときから20回近い転居を繰り返し、大学も、仕事も、迷いに迷ってあれこれ手をつけて、いまだ然したる人生の手応えを感じられずにいる。そんな私からすると、神戸という生まれ育った地でひたすら一つの道を究め続ける安水は、何とも羨ましく、すごいと思います。

いつだったか、物理学、俳句、教育行政の“三足の草鞋”のいずれにおいても、人並みはずれた大きな業績を残している有馬朗人が「物理なら物理、俳句なら俳句、行政なら行政へ徹底的にエネルギーを投じるべきでした。ですから後輩には一芸に徹すべしと言っている」と自省の弁を述べる文章を読んで、これほどの“スーパーマン”でもそんなふうに考えているのかと驚いたことがあります。

  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

ハタから見れば順風満帆、一筋の道に打ち込む、迷いのない落ち着いた人生のように見えても、たった一つの人生を歩みつづける詩人そのひと自身にとっては、そんなオメデタイものであるはずはありません。

「鳥」はだれも、「鳥」になろうとして、飛びたとうとして、羽ばたき、けんめいに走る、なのに、飛びたてない。そんな、ながいながい、にがいにがい夢を見つつ、生きているのです。

2015年6月13日土曜日

安水稔和「鳥」①

     鳥

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

1958(昭和33)年、「くろおぺす」から出版された安水稔和の第3詩集『鳥』の第Ⅰ部、冒頭からはじまる「鳥」の連作の11番目に出てくる詩です。

安水稔和は若いときからおびただしい数の作品を発表しています。そして、高齢になっても詩作への意欲はいっこうに衰えを見せることはありません。むしろ老いていっそう、意欲や冴えをみせているようにも感じられます。

鳥の詩もたくさん書いています。まだきちんと読んではいませんが、近年出版された第21詩集『記憶の目印』にも、「鳥歌」という作品を見かけました。

鳥は、北極から南極まで地球の広い範囲に生息します。同じように、安水の長大な詩世界のあちこちを「鳥」は、ときに群がり、ときに独りで、飛びまわっているようにも思われます。

鳥はくちばしを持つ、卵生の恒温せきつい動物。たいていは体が羽毛で覆われ、歯はなく、翼をもって、飛ぶことができます。2足歩行で、大きさは5センチほどのマメハチドリから、3メートル近いダチョウまでさまざまです。

鳥には社会性があり、目でとらえるサインや、鳴き声、さえずりによってコミュニケーションをとります。群れをつくって共同で狩猟をしたり、繁殖を支えたり。道具を加工して使用することが観察されている鳥もいます。

多くは、“一夫一妻”の繁殖形態をとり、卵は巣のなかで温められ両親によって孵化させられます。しかし、夫婦関係は繁殖期ごとに替わるのがふつうで、生涯続くことはまれのようです。

鳥は、世界7大陸で1万種近くが知られ、四肢動物の中で最も種類が多いのが特徴です。飛ぶのに高度に適応した、ユニークな消化器や呼吸器を持ち、飛行機のような“鉄の塊”に乗らなくても、大空を自由にはばたけるのです。

2015年6月12日金曜日

リルケ「初期のアポロ」④

     初期のアポロ

  いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
  すっかり春めいた朝が見とおせるように
  アポロのこうべには何ひとつ
  妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

  ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
  その目を凝らすところには いまだ影はなく
  月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
  そして 時がたてば眉のあたりの

  薔薇の園から幹が高く伸びいでて
  葉は一まい一まい解き放たれ 
  震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

  くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
  ただほほ笑みながら何かをすすっている
  自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

リルケは『ロダン論』の中で、次のように記しています。

「彼は第一印象を正しいとせず、第二印象もまたその後のどの印象も正しいとしない。彼は観察し、書きとめる。彼は言うに値しない動きでも書きとめる。回転や半回転、40の短縮や80のプロフィールを書きとめる。

……彼は人間の顔を、彼自身参加している舞台のように体験する。彼はその直中にいて、そこに生じるもので彼が無関心であるものは一つもないし、何ものも彼の目を逃れられない。彼は当事者に何も語らせない。

彼は自分が眼にするもの以外何も知ろうなどと思わないのである。しかし彼は一切を見る。……この創作方法は生を構成する数百もの要素の強烈な集約へ導くのである。」

「だが我々が目前に持ち、知り、解釈し、説明するものすべては表面なのではないか。また我々が精神と呼び、心と呼び、愛と呼ぶもの、それは一切近い顔の上のわずかな表面に起こる微かな変化にすぎないのではないか」

また戸口日出夫は「新詩集におけるリルケの詩作」で次のように指摘しています。

「詩人はそこで素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った芸術事物へ造型した。

その過程は対象物を契機として主体の感覚自体が、精神自体が練磨され、純化されていく形に他ならない。

かくて事物は精神により隅々まで透過され、深く主体化される。こうなるとリルケが何を作ろうが、それは彼独自のものとなる。

この芸術の内的論理に従った第二の自然の組織化を詩人は“ Ding-Werdung ” (事物の自己実現)と呼ぶのである。」

2015年6月11日木曜日

リルケ「初期のアポロ」③

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~1926年12月29日)はプラハ生まれ。プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表していました。

当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を作っていましたが、ロシアへの旅行での精神的な経験を経て、『形象詩集』、『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだします。

1902年からオーギュスト・ロダンと交流。ロダンの芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表します。

「Früher Apollo(初期のアポロ)」も、そんな「事物詩」として位置づけられます。パリでの生活していたちょうどそのころ、有名な『マルテの手記』を執筆しています。

リルケは1898年、イタリア旅行中に、フィレンツェで画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合います。そして、1900年8月、フォーゲラーが住んでいた北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに滞在することになりました。

1901年4月、リルケはこの滞在で知り合った女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚。隣村のヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えました。同年12月に娘が生まれていますが、父からの援助が断ち切られて生活難に陥ります。

それを打開しようと1902年8月、リルケは『ロダン論』の仕事のためパリに渡ります。そして、翌9月に「地獄の門」、「考える人」などで知られるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840~1917)に会います。

妻のクララもパリに渡ってロダンに師事しましたが、貧しさのため夫妻は同居できませんでした。リルケは図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けていきます。

ロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事はリルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」をはじめ対象を言葉によって内側から形作る作風に向かわせることになったのです。

パリの現実と深い孤独。「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」といっています。

リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地で講演旅行をしました。その後、誤解がもとで不和となりましたが、ロダンに対する尊敬は終生変わりませんでした。

2015年6月10日水曜日

リルケ「初期のアポロ」②

きのう訳してみたFrüher Apollo(初期のアポロ)は、1907年に出た『新詩集(Neue Gedichte Erster Teil)』に収められているソネットです。

5脚のヤンブスで、11音節と10音節の詩行が交互に連なっています。脚韻は、abab、cdcd……。伝統的な抱擁韻などとは異なります。

リルケは、1908年には『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』という姉妹編も出しています。いずれの詩集もロダンの影響を強く受け、対象を手作業を通して造形することを目指しました。

詩行、詩節のまたぎによる自由なリズム。定型から離れようとする危うさ。比喩表現に抒情性は消え、事物的、彫刻家的な目で言葉が発せられています。意味の集積点としての対象とは何か、といったあたりに迫る巧みな比喩を使っていると思います。

リルケは、古代のアポロ像の断片を博物館で見て、その素朴で圧倒的な芸術に打たれて作ったのでしょう。

アポロは、ギリシア神話に登場する男神です。オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子。詩歌や音楽などの芸能、芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神で光明の神でもあります。

「イーリアス」ではギリシア兵を次々と倒した、冷酷さ、残忍さも持つ「遠矢の神」とされています。疫病の矢を放ち、男を頓死させた神であるとともに、病を払う治療神でもありました。

古典ギリシアでは理想の青年像とも考えられ、ヘーリオス(太陽)と同一視されることもあります。ニーチェは、理性をつかさどる神とし、ディオニューソスと対照的な存在と考えていました。

ある日、アポロはエロス(キューピット)が弓矢で遊んでいるのを見て、子供がそんなものをおもちゃにしてはいけない、とからかいました。エロスは、それに怒って、金の矢をアポロに放ちます。そして、鉛の矢を川の神の娘ダフネに射たのです。

金の矢は恋に陥る矢で、鉛の矢は恋を拒む矢。2本の矢が、2人の胸にささった瞬間から、アポロンはダフネを恋し、ダフネはアポロンを拒否するようになりました。アポロはダフネを追いかけ、ダフネはどこまでも逃げます。

ダフネは父親の川の神のところへ駆け込み、言いました。「助けてください。私の姿を変えてください」。すると彼女の姿が変化して、足元から月桂樹の木になっていました。アポロは、ダフネへの愛の記念に、ダフネの月桂樹の葉で冠を作り、生涯それを頭にかぶりました。

いわゆる「アポロとダフネの物語」です。

2015年6月9日火曜日

リルケ「初期のアポロ」①

しばし、私の好きな、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1926)のソネット「初期のアポロ(Früher Apollo)」を読むことにしましょう。まずは、私の粗訳です。

  Früher Apollo

Wenn manches Mal durch das noch unbelaubte
Gezweig ein Morgen durchsieht, der schon ganz
im Frühling ist: so ist in seinem Haupte
nichts was verhindern könnte, daß der Glanz

aller Gedichte uns fast tödlich träfe,
denn noch kein Schatten ist in seinem Schaun,
zu kühl für Lorbeer ist noch seine Schläfe
und erst später wird aus Augenbraun

hoch stämmig sich der Rosengarten heben,
aus welchem Blätter, einzeln, ausgelöst
hintreiben werden auf des Mundes Beben,

der jetzt noch still ist, nie gebraucht und blinkend
und nur mit seinem Lächeln etwas trinkend
als würde ihm sein Singen eingeflößt.


初期のアポロ

いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの

薔薇の園から幹が高く伸びいでて
葉は一まい一まい解き放たれ
震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

2015年6月8日月曜日

吉岡実「僧侶」⑬

     僧侶

  1

  四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる
  棒の形
  憎しみもなしに
  若い女を叩く
  こうもりが叫ぶまで
  一人は食事をつくる
  一人は罪人を探しにゆく
  一人は自涜
  一人は女に殺される

 2

  四人の僧侶
  めいめいの務めにはげむ
  聖人形をおろし
  磔に牝牛を掲げ
  一人が一人の頭髪を剃り
  死んだ一人が祈祷し
  他の一人が棺をつくるとき
  深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
  四人がいっせいに立ちあがる
  不具の四つのアンブレラ
  美しい壁と天井張り
  そこに穴があらわれ
  雨がふりだす

  3

  四人の僧侶
  夕べの食卓につく
  手のながい一人がフォークを配る
  いぼのある一人の手が酒を注ぐ
  他の二人は手を見せず
  今日の猫と
  未来の女にさわりながら
  同時に両方のボデーを具えた
  毛深い像を二人の手が造り上げる
  肉は骨を緊めるもの
  肉は血に晒されるもの
  二人は飽食のため肥り
  二人は創造のためやせほそり

  4

  四人の僧侶
  朝の苦行に出かける
  一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
  一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
  一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
  一人は死んでいるので鐘をうつ
  四人一緒にかつて哄笑しない

  5

  四人の僧侶
  畑で種子を播く
  中の一人が誤って
  子供の臀に蕪を供える
  驚愕した陶器の顔の母親の口が
  赭い泥の太陽を沈めた
  非常に高いブランコに乗り
  三人が合唱している
  死んだ一人は
  巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

  6

  四人の僧侶
  井戸のまわりにかがむ
  洗濯物は山羊の陰嚢
  洗いきれぬ月経帯
  三人がかりでしぼりだす
  気球の大きさのシーツ
  死んだ一人がかついで干しにゆく
  雨のなかの塔の上に

  7

  四人の僧侶
  一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
  一人は世界の花の女王達の生活を書く
  一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
  一人は死んでいるので
  他の者にかくれて
  三人の記録をつぎつぎに焚く

  8

  四人の僧侶
  一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
  一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
  一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
  死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
  一人は死んでいてなお病気
  石塀の向うで咳をする

  9

  四人の僧侶
  固い胸当のとりでを出る
  生涯収穫がないので
  世界より一段高い所で
  首をつり共に嗤う
  されば
  四人の骨は冬の木の太さのまま
  縄のきれる時代まで死んでいる

〈詩は、日頃接する、律義でまことに優しい下町の人情そのものの人間と、なぜ、かくも離れたか。彼は己の個を沈黙させ、一言もコトバを発することを禁じ、沈黙の言語たちを人格化させ、異端の、架空の劇場に登場させ、世界をさかしまに吊るし、あるいは宇宙の、人事の異風圏に荒々しく投げこんだ。〉

白石かずこは『詩の風景・詩人の肖像』の中で、素顔の吉岡と作品とのギャップについて、こんなふうにえがいています。吉岡は「僧侶」などの詩をどのように作っていたのでしょう。

〈わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。白紙状態がわたしにとって、最も詩を書くによい場なのだ。

発端から結末がわかってしまうものをわたしは詩とも創造ともいえないと思っている。だからわたしは手帖を持ち歩かない。

喫茶店で、街角で、ふいに素晴らしいと思える詩句なり意図が泛んでもわたしは書き留めたりしない。それは忘れるにまかせることにしている。

わたしにとって本当に必要であったら、それは再び現われるに違いないと信じている。わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く。いってみれば、きわめて事務的に事をはこんで行く。

だから彫刻家や画家、いや手仕事の職人に類似しているといえよう。冷静な意識と構図がしずかに漲り、リアリティの確立が終ると、やがて白熱状態が来る。倦怠が訪れる。絶望が来る。

或る絵画が見える。女体が想像される。亀の甲の固い物質にふれる。板の上を歩いている男が去る。つぎに「乳母車」の形態と「野菜」という文字が浮び出る。

キャベツや玉ネギ、ぶどう、とにかく球形体の実相のみが喚起される。そんな連想をつなげる。どうして女中や赤ん坊が不在なのか。わたしの中の乳母車は沼へ沈むべき運搬用に必要なのだ。

そのつぎに愛が来てもいいと考える。それはヘッドライトに照らされた、雨傘の二人の愛を永遠なものだと断定すればよいのだ。

しかし意識のながれは誰の中でも豊かに流れる。それを停止することが困難だ、すなわち文字の一行一行に定着させることが。発生したイメージをそのままいけどることが大切である。

わたしはそれらの方向へ一つの矢印を走らせてその詩的作品の最後を飾るだろう。詩は小さく結実してはつまらない。詩は他の次元へまで拡がって行くべきだと思っている。〉

吉岡の「わたしの作詩法」(『「死児」という絵』)によれば、こんなふうになります。とても真似はできませんが、納得できるような気はします。

結婚をした1959(昭和34)年、詩壇に大きな衝撃を与えた『僧侶』はH氏賞を受賞。授賞式で吉岡は「これからは妻の手作りの料理で少しは肥りたい」とあいさつしました。

この年、清岡卓行、飯島耕一、大岡信、岩田宏とともに同人誌「鰐」を創刊、その後、現代詩のトップランナーとして大きな足跡を残し、1990(平成2)年5月、急性心不全で逝きました。71歳でした。

生前に出版された詩集は『昏睡季節』(草蝉舎、1940年)、『液体』(草蝉舎、1941年 湯川書房、1971年)、『静物』(私家版、1955年)、『僧侶』(書肆ユリイカ、1958年)、『紡錘形』(草蝉舎、1962年)、『静かな家』(思潮社、1968年)、『神秘的な時代の詩』(湯川書房、1974年・書肆山田、1976年)、『サフラン摘み』(青土社、1976年)、『夏の宴』(青土社、1979年)、『ポール・クレーの食卓』(書肆山田、1980年)、『薬玉』(書肆山田、1983年)、『ムーンドロップ』(書肆山田、1988年)の12冊。

生きている間に、質の高い284篇の詩を作りました。それらの中でも「僧侶」は、戦後のモダニズム詩の代表的な一篇として、ひときわ高く聳え立ってきました。多くの詩人たちが影響を受け、いまもさまざまな読みかたがされつづけています。

2015年6月7日日曜日

吉岡実「僧侶」⑫

詩「僧侶」について、吉岡自身は「人間不信の詩」と位置づけ、清岡卓行は「人間の根源的な欲望や悪徳について、僧侶たちが奏でる弦楽四重奏」と評しています。

さらに、野村喜和夫は「そうした否定的な意味を貫いて、ポエジーという名の、あえていうなら快活な笑いが響いている」とも、「将来詩的ガイネーシスへと還流するグロテスク趣味が兆している」とも指摘しています。

詩集『僧侶』のなかに、次にあげる「苦力」という詩があります。

  支那の男は走る馬の下で眠る
  瓜のかたちの小さな頭を
  馬の陰茎にぴつたり沿わせて
  ときにはそれに吊りさがり
  冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
  排泄しながらのり越える
  支那の男は毒の輝く涎をたらし
  縄の手足で肥えた馬の胴体を結び上げ
  満月にねじあやめの咲きみだれた
  丘陵を去つてゆく
  より大きな命運を求めて
  朝がくれば川をとび越える
  馬の耳の間で
  支那の男は巧みに餌食する
  栗の熱い粥をゆつくり匙で口へはこびこむ
  世人には信じられぬ芸当だ
  利害や見世物の営みでなく
  それは天性の魂がもつぱら行う密議といえる
  走る馬の後肢の檻からたえず
  吹き出される尾の束で
  支那の男は人馬一体の汗をふく
  はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
  赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
  黄色い砂の竜巻を一瞥し
  支那の男は病患の歴史を憎む
  馬は住みついて離れぬ主人のため走りつづけ
  死にかかつて跳躍を試みる
  まさに飛翔する時
  最後の放屁のこだま
  浮かぶ馬の臀を裂く
  支那の男は間髪を入れず
  徒労と肉欲の衝動をまつちさせ
  背の方から妻をめとり
  種族の繁栄を成就した
  零細な事物と偉大な予感を
  万朶の雲が産む暁
  支那の男はおのれを侮蔑しつづける
  禁制の首都・敵へ
  陰惨な刑罰を加えに向う

この詩について吉岡はこう記しています。

〈これは兵隊で四年間過ごした満州の体験である。「支那の男」とは、当時の満人である。満人というより「支那の男」の方がスケールが大きいと思ったからである。彼らは裸馬を巧みに乗りこなしていた。馬は満馬といって、小形であるが、大変気質が激しく、乗りにくい。

わたしたち輜重兵は、馬運動と称して、毎日のように、馬にのって遠くの部落まで、高梁畑を越して行った。冬は刈られた高梁が、まさに鎗先を揃えて、どこまでも続く。万一にも落馬したら、腹にでも顔にでも突きささるだろう。そんな恐怖感があった。

「瓜のかたちの小さな頭」とは、彼らの頭が小さいわけではないが、裾の長い藍衣を着ているので、そう見える。それと、兵隊はいつも飢えていたから、部落で食う瓜がとてもうまかった。内地のマクワ瓜の味より格別にうまい。

夏はそれで渇をいやしたものだ。そこで瓜と頭が結びついた詩句になる。「排泄しながらのり越える」とは、兵隊とはいえ、わたしたちの中には、排泄の場所は習慣として、一定のところへするが、満州では、満人部落の周辺といわず、曠野に道に、排泄物がちらばっている。

もちろん家畜のものもあるが、排泄物こそ彼らの力であるように思えた。極寒の兵舎の厠のぞっとする底で、火山の噴出物のような排泄物の氷った塊の山をつるはしで崩していた満人の見えない顔。

またここに「支那の男は巧みに餌食する」とある。餌食は「エジキ」だから、“餌食にされる”“餌食にする”が正しいが、この一行のときは、どうしても「ジショクする」と発音していたのである。

これは誤りであるが、わたしにとって“餌食する”は“ジショクする”でなければならない。今では別に“餌食(エジキ)する”でよいと思っている。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打する。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。

わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ栗粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。

その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。

楊柳の下に、豪華な色彩の柩が放置されているのも、異様な光景だ。ふたをとって覗いて見たらと思ったが、遂に見たことはない。びらんした屍体か、白骨が収まっているのだろう。みどりに芽吹く外景と係りなく。やがて黄塵が吹きすさぶ時がくるのだ。

反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。「万朶の雲が産む暁」、この詩章こそ、満州の曠野と遠い高い空をあらわしているとひそかに自負する。

「万朶」につづく言葉は、恐らく「桜」しかないであろう。わたしは、あえて比類ない華麗な満州の夕焼雲を「万朶」の下へつけた。彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。〉(『「死児」という絵』)

  四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる

「僧侶」の舞台としても、「万朶の雲が産む暁」は、よく似合うような気もします。

2015年6月6日土曜日

吉岡実「僧侶」⑪

1958(昭和33)年11月、詩集『僧侶』が書肆ユリイカから刊行されます。「僧侶」をはじめ、「喜劇」「告白」「島」「仕事」「伝説」「冬の絵」「牧歌」「単純」「夏」「固形」「回復」「苦力」「聖家族」「喪服」「美しい旅」「人質」「感傷」「死児」の19篇が収録されています。

これらの詩篇のほとんどは、ある失恋をきかっけにできたようです。吉岡の散文集『「死児」という絵』のなかには、次のような一節があります。

〈ある日、私は自殺した友人Yの知り合いだという女から電話を受けた。Yのことを聞きたいから、ぜひお会いしたいと――。

私と彼女はおたがいの特徴、とくに服装をおしえ合った。私はとまどいながらも一種の好奇心をかきたてられた。その晩、私は指示した新宿の武蔵野茶廊で、彼女と会った。

一瞥しておたがいを認めた時、一種の交感があったからだろう。後日、彼女は「あのとき、これは不幸なことになる」と思ったと述懐した。

死んだ無名画家Yの詳細をはなし、次の日曜には、Yの墓参をいっしょにした。それから彼女の家庭、住所も不明のまま、彼女からの電話の一方交通でのミステリーじみた交際がはじまった。

そして、一年の絶縁状態をおき、四年近い恋愛がつづいた。その間に住所もわかり、人妻であることも知った。彼女の家出、彼女の心変り、私は徹底的な打撃をうけた。

話合いで別れたという形だが、私はあきらかに失恋したといえる。それを契機に、しばらくしてまた詩に没頭した。それらの殆どが《僧侶》として形成された。〉

失恋を癒やしてくれたのは、近にありながら気づかないでいた愛でした。「身辺ちかくにいる女のよさを再認識するのに私は永い年月をかけた」と吉岡は振り返っています。

「身辺ちかくにいる女」とは、職場の同僚だった和田陽子のことです。『僧侶』には、陽子にあてたこんな詩も入っています。恋人に捧げたにしては、「僧侶」に似た雰囲気をもつ、奇妙な詩です。

     夏――Y・Wに

  蝋びきの食物の類をみて歩く
  女たちの脇毛は甘い先験の夏を輝かせ
  肥満家族は跳ねまわる
  ぼくは恥ずべき小さな西瓜をもつ男
  タイヤ型の夕方の海岸にきて
  赤と灰色の縞をつけたテントの入口を探す
  ぼくと同じ不具性の女を求め
  一廻り二廻り
  紡錘形の骨格のうえにタオルを巻き
  みじめなシステムの砂に穴をあける
  ぼくは吃るばかりだ
  次の水死者を慰める不揃いの藻の毛を撫で
  ぼくの精神の塩を波が引いてゆく
  毎年ぼくを冒涜する夏
  夜の砂の情事
  間近にみる果実のフォルム
  夥しい未成年の魚の裸体
  そのうえ外観から収縮してゆく水
  ぼくの陵辱本能がぼくの眼から
  全ての生物へ伝染し
  実用の陸地を見失わせる
  ぼくは女を触覚し
  子供用の浮袋を首へ徐々にはめこむ
  いまこそぼくは笑う
  心の帆の傾むく支柱へ向き
  ぼくのプライドを砕き
  ぼくの肉声と大脳を晒しつづける
  内省の夏の海
  暁の板の海
  違い段の沖へ
  ぼくは生臭い風を受け
  自己の血を狩りに出る

1959(昭和34)年5月9日、吉岡実は和田陽子と結婚しています。

〈私はこの春五月、四十歳で結婚した。世間の人は晩婚だというが、私には晩いとも早いとも思えない。たぶん丁度よい時期だと信じている。

とにかくまわりの幾人かが祝ってくれた。その人たちにささやかでも心のこもったものを配りたいと思った。私たちにとっても、他の人たちにとっても生涯記念になるものを。

私の未刊の詩を小冊子しようかとも考えたが、いささか特異にすぎてふさわしく思えなかった。そこで二十代前後期につくった短歌で現存している四十七首を文庫判の小冊子にした。

貧しくも父と母と暮らしていた幸せな日々にうまれた、この幼稚な短歌に《魚藍》と名付けた。それは私家版七十部限定(非売)で、結婚披露の日を発行日とし、妻となるねき人を刊行者とした。〉

『魚藍』には、次のような歌が入っていました。

  ゆきずりの女をしたうてさりかねし白き舗道に春もゆくめり
  さみしさは黄なる真昼に眉をひく娼婦の乳房のつかれたるいろ
  白鷺の一声啼きてよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる
  人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝ぐるしさかな

2015年6月5日金曜日

吉岡実「僧侶」⑩

それにしても「僧侶」に出てくる僧は、どうして4人なのでしょう。

「四の字」(しのじ)は、漢字文化圏では「四」と「死」が同音あるいは近い音となるため、忌み数とされて、不吉と見なす迷信が根強くあります。また「4」は、死後の世界に通じる数とも言われています(四界 = 死界)。

死の連想を嫌う病院では、「4」にとりわけ神経質です。203号室の隣が205号室になっていたり、病室の番号や階数に「4」の数字を使うことを避ける傾向があります。また、4階に集中治療室や手術室を配置していないことが多いそうです。

ナンバープレートの一連指定番号では、下2桁が「42」、「49」のものは「死に」、「死苦」または「轢く」を連想させるため、要請がない限り出されないとか。

日本では平安時代から四を忌避することがありました。『小右記』天元五年(982年)三月十一日の条に、四人を忌んで五人にしたという記述があります。

大永二年(1522年)に足利義晴が祇園会を見物したときの記録『祇園会御見物御成記』の献立には、「二、三、よ、五」と記されています。

また、重箱は四段のものが正式ですが、上から順に一の重、二の重、三の重、与の重(よのじゅう)と呼び、四の重(しのじゅう)とは呼ばないそうです。

江戸時代になると、「むつかしや四の字をきらふ旦那様」、「四の字でも小つぶ四つは気にかけず」といった雑俳が詠まれ、「しの字嫌い」という古典落語も作られています。

しかしその一方で、仏教、宇宙、世界、歴史、人間、生命など、森羅万象を語るうえで「4」は重要な指標を与えるキーワードになっているようにも思います。

仏教で、天に住む4人の守護神、持国天、増長天、広目天、多聞天 のことを「四天王」といい、この四天王が住む天は、四王天、あるいは四大王衆天ともいわれます。

世界の中心にそびえ立つとされる須弥山。その頂上に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を支配し、その中腹でともに仏法を守護するのです。

天に住む者の身長は半由旬(1由旬は、牛車の1日の行程にあたる。7 マイルとも9マイルともいわれる)、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当するというから、スケールは壮大です。

仏教の「四天王」から転じて、ある分野における有力な四人組(カルテット)を、俗に「○○四天王」と呼ぶようになりました。

ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ=セレーゾは、サッカー界の黄金のカルテットですし、江青、張春橋、姚文元、王洪文は、中国の文化大革命を主導した悪名高き四人組。

生命の遺伝をつかさどるDNAは 4 種類の塩基分子(チミン、グアニン、アデニン、シトシン)の配列によって遺伝情報を保存、伝達しています。

物質を細かく分けていったときの素粒子の間で働いているのは、強い力、電磁気力、弱い力、重力の四つの力です。

加法、減法、乗法、除法で四則。春、夏、秋、冬で四季。東、西、南、北、あるいは前、後、左、右の四方を手がかりに人は方角を知ります。

仏教に於ける根本的な苦は、生・老・病・死の四苦。ヨーロッパでは、古代ギリシャから、この世界は、地、水、火、風の四大元素からなると信じられていました。

ワールドカップやオリンピック、アメリカの大統領選挙や、日本の都道府県知事選挙、市町村長選挙など4年ごとに行われています。

なぜ「四人の僧侶」なのか、について野村喜和夫は『現代詩の鑑賞101』で、次のようにまとめている。

〈「人間の根源的な欲望や悪徳について、僧侶たちが行為で奏でる弦楽四重奏」とは、清岡卓行の卓抜な比喩的見解だ。さらには天沢退二郎のように、実は一人なのだとするラディカルな解釈もあるが、ふつうに考えるなら、三人の場合生じる関係の弁証法的収束が嫌われたのだろう。

余計な一人が必要だったのだ。その余計な一人は死んでいて、しかしゾンビのように、生者よりも自由だというように、生の側にまぎれこみ、生をシュミレートしたり、からかったり、無意味にしたりしながら(「一人は死んでいるので鐘を打つ」「一人は死んでいるので/他の者にかくれて/三人の記録をつぎつぎに焚く」「一人は死んでいてなお病気」といった背理のおかしさが効果的である)、最後には他の三人にも死をゆき渡らせて、「世界より一段高い所で/首をつり共に嗤う」に至らしめる。

となるとこの詩は「メメント・モリ」(ラテン語で「死を忘れるな」の意味)の、あるいはそれを寓意的に図像化した中世ヨーロッパの「死の舞踏」の、シュルレアリスティックな日本現代詩版ということになろうか。戦争の死者たちの記憶を踏まえた戦後社会批判、という面もあるかもしれない。〉

いずれにしても、四人のカルテットだからこそ、生も死も、男も女も、場所にも時間にもとらわれない、いかがわしくも、こっけいな特異な空間が演出されたのでしょうし、4人が9節で繰り広げる「49(しく)」の世界もしっくり決まります。

2015年6月4日木曜日

吉岡実「僧侶」⑨

ひきつづき、『現代の詩人1 吉岡実』(中央公論社)の「鑑賞」をよりどころに読んでいきます。

  7

  四人の僧侶
  一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
  一人は世界の花の女王達の生活を書く
  一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
  一人は死んでいるので
  他の者にかくれて
  三人の記録をつぎつぎに焚く

〈「四人の僧侶」の学問あるいは執筆風景。僧侶には学問僧という一面もある。しかし、彼らの書くものはおよそいかがわしい。

「一人」の「書く」「寺院の由来と四人の来歴」のいかがわしさは見てきたとおりだし「一人」の「書く」「世界の花の女王達の生活」=女優たちの伝記も、「一人」の「書く」「猿と斧と戦車の歴史」=戦争の歴史も反僧侶的だ。

「死んでいる」「一人」は「三人の記録をつぎつぎに焚く」ことで彼らの書くもののいかがわしさを駄目押しする。いや、彼らの書くものでなく、書くという行為そのものがいかがわしいというべきか。〉

  8

  四人の僧侶
  一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
  一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
  一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
  死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
  一人は死んでいてなお病気
  石塀の向うで咳をする

〈「四人の僧侶」の分娩風景。このありうべからざる光景において彼らのいかがわしさは極まった。なお、「死んでいてなお病気」という表現も、作者は以後の制詞としている。〉

  9

  四人の僧侶
  固い胸当のとりでを出る
  生涯収穫がないので
  世界より一段高い所で
  首をつり共に嗤う
  されば
  四人の骨は冬の木の太さのまま
  縄のきれる時代まで死んでいる

〈「四人の僧侶」はついにいかがわしい聖域を捨て、そして自殺する。自殺がすでに最も涜神的な行為だが、その涜神行為を「世界より一段高い所で」おこない、「共に嗤う」ことで、彼らの反宗教性、反世界性が定着する。

彼らの反宗教性、反世界性は「縄のきれる時代まで」、世界終末の日までつづくだろう。なお、「固い胸当」は尼僧服を連想させ、彼らのいやらしい両性具有性を暗示する。〉

ところで、前に見たようにもともと僧侶とは、仏教の戒律を守る、男性の出家者である比丘、女性の出家者である比丘尼の集団である「僧伽(そうぎゃ)」のことをいいました。

とすれば、この詩に出てくる僧侶たちは、男なのでしょうか、女なのでしょうか。

「尼」としていないところを見ると4人とも男なのか。

「千人のかくし児を産んだ」僧もいるわけだから、男女が混ざっているのでしょうか。

本来的に、出家者には結婚や性行為は認められていなかったはず。ということは、僧とは、男とか女とかいう世界を超えた「一段高い所」に居る、あるいは“両性具有”的な存在なのでしょうか。

両性具有と聞いて私がまず思い出すのは、プラトンの『饗宴』のなかでアリストパネスが語ったとされている演説です。

アリストパネスによれば、むかし、手足が4本ずつ、顔と性器も二つずつある両性具有者がいた。しかしゼウスがそれらを二つに分けたため、手足が2本ずつ、顔と性器が一つずつの「半身」2人となった。

だが、それぞれがもう一つの半身に恋い焦がれ、結びあいたいと求めあった。そのため、男は女を、女は男を求める事になった。それが男女の愛だ、というのです。

世界がはじまったころの人間は両性具有だった、という神話は各地にあります。ギリシャ神話では、ニンフのサルマキスに恋されて強制的に一体にされたヘルマプロディートスの話が知られています。

ヘルマプロディートスは、ヘルメースを父に、アプロディーテーを母に生まれた美少年でしたが、水浴びのさなかにニュムペーのサルマキスに強姦され、一つに合体して両性具有者となります。

ヘルマプロディートスは、ギリシア彫刻にもとりあげられました。中でも、ヘレニズム時代に製作された通称『眠れるヘルマプロディートス』はよく知られています。

ルーヴル美術館でこの彫刻を見た、ヴィクトリア朝の英国詩人アルジャーノン・スウィンバーン(1837~1909)が作った「ハーマフロダイタス」とういう詩には、次のよう一節もあります。

  男の姿をよそおい女の嘆きをいやすがいい
  男を喜ばせるために女の姿をとるのもいい
  なんと妙な目的のために奇妙な神は良しとしたのか
  実を結ぶことのない二輪の花がともに咲きほこるのを?

ちょっと脇道にそれましたが、「四人の僧侶」、たとえ「神」が良し」とした両性具有だったとしても、なんともまあいかがわしい。


2015年6月3日水曜日

吉岡実「僧侶」⑧

ひきつづき、『現代の詩人1 吉岡実』(中央公論社)の高橋睦郎の「鑑賞」をよりどころに「僧侶」をながめていきましょう。「鑑賞」からの引用は、「〈 〉」のなかです。

  4

  四人の僧侶
  朝の苦行に出かける
  一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
  一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
  一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
  一人は死んでいるので鐘をうつ
  四人一緒にかつて哄笑しない

〈「四人の僧侶」の「苦行」の内容は三人までが反僧侶的。というよりも魔術的。涜神的。残る一人がかろうじて僧侶的だが、その「鐘をうつ」行為も「死んでいるので」というにすぎない。

四人はかたちの上で連帯生活を送っているものの連帯心などさらさらない。すなわち「四人一緒にかつて哄笑しない」〉

  5

  四人の僧侶
  畑で種子を播く
  中の一人が誤つて
  子供の臀に蕪を供える
  驚愕した陶器の顔の母親の口が
  赭い泥の太陽を沈めた
  非常に高いブランコに乗り
  三人が合唱している
  死んだ一人は
  巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

〈「四人の僧侶」の労働風景。「畑で種子を播く」のだが、「一人が誤って/子供の臀に蕪を供える」。だが、ほんとうは「一人」だけか。ほんとうに「誤って」のことなのか。

文字どおりに信じるとしても、その「一人」の行為によって「四人」ぜんたいの労働が涜れたものになってしまったとはいえよう。

「子供の臀に蕪を供える」行為はジル・ド・レの幼児姦、さらにはヘロデ大王の幼児虐殺を思わせる。なお、「驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた」という二行は卓抜。

最後の四行は姦死させられた子供への、あるいは女に殺された僧侶への挽歌の擬態か。〉

  6

  四人の僧侶
  井戸のまわりにかがむ
  洗濯物は山羊の陰嚢
  洗いきれぬ月経帯
  三人がかりでしぼりだす
  気球の大きさのシーツ
  死んだ一人がかついで干しにゆく
  雨のなかの塔の上に

〈おもてむきは「四人の僧侶」の洗濯風景だが、じつは性的風景でもある。九つのパートすべてが性的風景だともいえるが、このパートはやはり特別。

「山羊の陰嚢」と「洗いきれぬ月経帯」の取合せは獣姦的イメジというより、僧侶たちの異教的・半獣神的側面を示すものだろう。

終了した「洗濯物」は「死んだ一人」によって、「雨のなかの塔の上に」運ばれる。つまり濡らすために「干」される。

山羊の陰嚢と洗いきれぬ月経帯の対比は矮小なものと膨大なものの滑稽な対比という面から見ることもできる。〉

いまでも時おり使われる「井戸端会議」という言葉があります。

かつて長屋の女たちが共同井戸に集まり、水くみや洗濯などをしながら世間話やうわさ話に興じたさまからきているそうです。

長屋の庶民たちにとって、水を供給する井戸は日常生活に欠かせない共同設備。飲料水はもちろん、炊事、洗濯、行水をするための水、さらには、あれこれの情報までやりとりする女たちの場でもありました。

そんな井戸端にはどうにも不釣り合いな僧侶たちが、井戸にかがみ込んで洗濯をしています。山羊の陰嚢や洗いきれないほどの月経帯を3人がかりでしぼっています。

山羊の陰嚢を私は見たことがありません。が、「ヤギの陰嚢」(ボックスボイテル)と呼ばれるドイツのワインを飲んだことがあります。

袋のような丸みを帯びた扁平の瓶に入ったフランケンワイン。むかし、山羊の陰嚢で保存したら美酒が生まれたという伝説もあるとか。

ドイツワインというと甘口のイメージですが、「ヤギの陰嚢」は異色です。キリッとひきしまった、辛口の男性的な味わいでした。

かつて皇族女性随一の美人といわれた梨本宮伊都子妃は、1909(明治42)年、ヨーロッパ旅行の時に見た月経帯の図を日記に書き留めていたといます。

月経帯は、この頃から大正、昭和と使われた生理用の下着。数知れない女性たちが、繰り返し、繰り返し、洗濯して使われました。

死んでいるもう一人の僧侶は、シーツを干しにゆきます。気球の大きさというから、数十メートルもあるであろう巨大なシーツを、不条理な雨の塔へと。

2015年6月2日火曜日

吉岡実「僧侶」⑦

法然の弟子で、平安末から鎌倉時代初めにかけて活躍した遵西(じゅんさい、安楽上人)という僧がいました。

達筆で、法然の『選択本願念仏集』を口述筆記したことでも知られています。

音楽的才能にも恵まれ、同門の住蓮とともに六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たしたともいわれています。

しかし、1207年、後鳥羽上皇の女房たちが、遵西たちに感化されて出奔同然に出家してしまうという事件が起こります。

俗説には、美男子だった遵西は女性信者たちの人気の的で、その中に後鳥羽上皇の愛妾だった松虫、鈴虫という美人姉妹がいたともいわれています。

結局、遵西は、羅切(らせつ)のうえ、弟子とともに斬首刑に処せられます。そして、この事件がきっかけとなって、法然が讃岐に、親鸞が越後に配流された承元の法難につながっていくのです。

羅切というのは、男性の外部生殖器すなわち男根を切断すること。

男性器を仏教では、修行の妨げになるという意味でインドの悪魔(マーラ)に由来する「魔羅」という隠語で呼ばれました。

魔羅を切断するから羅切と呼ばれるようになったというわけです。前回見たように、具足戒のでうちで最も罪の重い「波羅夷」のなかに、婬戒(いかなる性行為も行なわない)があります。

もともと、セックスを断つ戒めを纏っていた僧侶。しかし現代的に見れば、遺伝子の“運び屋”としての側面をもつ生物の一員である人間である以上、ふつうは、性欲を抑えきれるはずはありません。

禁欲を戒めとするような生物が、人間以外にあるようには思えません。なればこそ、婬戒を身に負った美しい若い僧がいたとすれば、松虫や鈴虫でなくとも、そこに底知れないエロティシズムを感じ、夢中になるのも当然といえるでしょう。

さて、詩の話に戻ります。そもそも、人間というものを描いているのであろう詩「僧侶」を書いた詩人は、どうして人間の中でも僧侶を主題に選んだのか。

『現代の詩人1 吉岡実』(中央公論社)の「鑑賞」で、高橋睦郎は、次のように記しています。

〈僧侶という存在が神と人間のあいだに立ち、人間にむかっては神の神聖を集約し、神にむかっては人間の汚辱を収斂する者だという規定は、ひとつの参考にならないだろうか。僧侶という極限存在を得ておこなったさまざまなデッサンの試み、と考えることもできる。〉

詩「僧侶」は、魔羅、すなわち男根の暗喩からはじまっている。しばし、高橋睦郎の「鑑賞」からの引用付きで、もう一度「僧侶」をながめてみます。

  1

  四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる
  棒の形
  憎しみもなしに
  若い女を叩く
  こうもりが叫ぶまで
  一人は食事をつくる
  一人は罪人を探しにゆく
  一人は自涜
  一人は女に殺される

〈「四人の僧侶」の登場。「四」という不吉な数。「庭園をそぞろ歩き」という一見何でもない表現を考えてみれば不吉、祈りと労働に日夜を送る修道僧に目的のない「そぞろ歩き」などあるはずはないからだ。

はたせるかな、つぎに出てくるのは「ときに黒い布を巻きあげる/棒の形」、あきらかに僧衣の下で勃起した男根の隠喩である。

「罪人を探しにゆく」という僧侶的行為と「自涜」、「女に殺される」という反僧侶的行為の並列がこの僧侶たちのゆがんだありようを表わしている。

四つの行為はかりに四人に分担されているが、たがいに交換可能、また、四人がそのときどきに四つの行為を兼ねると考えてもさしつかえない。〉

  2

  四人の僧侶
  めいめいの務めにはげむ
  聖人形をおろし
  磔に牝牛を掲げ
  一人が一人の頭髪を剃り
  死んだ一人が祈祷し
  他の一人が棺をつくるとき
  深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
  四人がいつせいに立ちあがる
  不具の四つのアンブレラ
  美しい壁と天井張り
  そこに穴があらわれ
  雨がふりだす

〈「四人の僧侶」の「めいめいの務め」はすべてとりつくろったように僧侶的。

しかし、「深夜の人里から」「分娩の洪水」が「押しよせる」とき、一見「美しい壁と天井張り」に「穴があらわれ/雨がふりだす」、しかも、それに対処するのに「不具の四つのアンブレラ」しかない。

いや、そもそも四人のありようが「不具の四つのアンブレラ」なのだ。〉

  3

  四人の僧侶
  夕べの食卓につく
  手のながい一人がフォークを配る
  いぼのある一人の手が酒を注ぐ
  他の二人は手を見せず
  今日の猫と
  未来の女にさわりながら
  同時に両方のボデーを具えた
  毛深い像を二人の手が造り上げる
  肉は骨を緊めるもの
  肉は血に晒されるもの
  二人は飽食のため肥り
  二人は創造のためやせほそり

〈「四人の僧侶」の「夕べの食卓」風景。二人は積極的に食事に関わり、「他の二人」はそうではない。「二人は飽食のため肥り/二人は創造のためやせほそり」、だがどちらも人類の未来に何の関係もない。〉

2015年6月1日月曜日

吉岡実「僧侶」⑥

そもそも僧侶、僧とはどういうものなのか。広辞苑には「出家して僧門に帰した人。また、その集団」とあります。男性を僧侶、僧とよぶのに対し、女性は尼僧、尼(あま)と呼ばれることが多い。

僧はサンスクリットの「サンガ」の音写語。僧伽(そうぎゃ)とも書きます。サンガはもともと、集団、共同体といった意味。「僧伽に属する人々」の意の「僧侶」が転じて、個々の修行者を僧侶、僧とよぶようになったそうです。

仏教では三つの宝物、仏、法、僧の三宝に帰依することで仏教徒とされます。三宝のひとつである僧は、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示します。さらに、弟子を教育し、教法を次代に伝える役割を担っています。

教団の構成員は、出家修行者たる比丘(びく)、比丘尼(びくに)と、在家信者である優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の4種に分かれ、合わせて四衆とよばれています。

仏教の出家者である僧侶には、本来、順守すべき戒律があります。ふつう「具足戒」と呼ばれているもので、だいたい次の8種類に大別されます。

「波羅夷」(僧団追放の大罪)、「僧残」(波羅夷に次ぐ重罪)、「不定」(女性と2人きりになること)、「捨堕」(禁止物の所持、獲得)、「波逸提」(様々な好ましくない行為)。「提舎尼」(食物の授受に関する禁則)。「衆学」(服装、飲食、説法などにまつわる禁則)。「滅諍」(僧団内の紛争収拾にまつわる規則)。

具足戒のうちで最も罪の重い「波羅夷」は、

 ①婬戒(いかなる性行為も行なわない)
 ②盗戒(盗心をもって与えられていないものを取らない)
 ③殺人戒(殺人を犯さない)
 ④大妄語戒(その境地に至っていないのに悟りを得たなどと嘘をつかない)

といった戒律。これらを犯すと、僧伽を追放されることになるのです。

具足戒をうけた出家修行者である比丘、比丘尼は、もともと「乞食」を意味する言葉だったそうです。かれらは出家者として生産に従事せず、人々から布施されるものによって生活を維持しているのです。

日本の仏教では、奈良時代に律宗の鑑真によって唐からもたらされた法蔵部の「四分律」と、それに基づく戒壇、授戒制度によって僧伽が成立したとされます。

平安時代には、中国から天台宗を移植した最澄が大乗経典の「梵網経」を独自に解釈して、簡易で道徳遵守的な戒律を提唱しました。そのため、日本に具足戒を持たない宗派も生まれていきました。

鎌倉時代には、末法の世には細かい戒律は必要がないという末法無戒を主張し、肉食妻帯も許される浄土真宗のような宗派もあらわれます。具足戒を守るはずの宗派でも、男色や妻帯する僧侶も少なくありませんでした。

江戸幕府のもと、政治的に統制が厳しくなると、僧職者の肉食、妻帯が一般に禁じられ、最低限の規律は守られるようになりました。しかし、具足戒を厳格に守るところまではいかなかったようです。

近代に入ると、明治政府が「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」を布告し、僧侶の妻帯、肉食などが公的に許可されました。

僧侶に対する縛りは無くなって世俗化し、本来の得度の意義や戒律は形骸化、儀式だけが残ることになります。僧侶は職業となり、世襲されるのがあたりまえになっていきました。

   1

  四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる
  棒の形
  憎しみもなしに
  若い女を叩く
  こうもりが叫ぶまで
  一人は食事をつくる
  一人は罪人を探しにゆく
  一人は自涜
  一人は女に殺される

  2

  四人の僧侶
  めいめいの務めにはげむ
  聖人形をおろし
  磔に牝牛を掲げ
  一人が一人の頭髪を剃り
  死んだ一人が祈祷し
  他の一人が棺をつくるとき
  深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
  四人がいつせいに立ちあがる
  不具の四つのアンブレラ
  美しい壁と天井張り
  そこに穴があらわれ
  雨がふりだす

  3

  四人の僧侶
  夕べの食卓につく
  手のながい一人がフォークを配る
  いぼのある一人の手が酒を注ぐ
  他の二人は手を見せず
  今日の猫と
  未来の女にさわりながら
  同時に両方のボデーを具えた
  毛深い像を二人の手が造り上げる
  肉は骨を緊めるもの
  肉は血に晒されるもの
  二人は飽食のため肥り
  二人は創造のためやせほそり

  4

  四人の僧侶
  朝の苦行に出かける
  一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
  一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
  一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
  一人は死んでいるので鐘をうつ
  四人一緒にかつて哄笑しない

  8

  四人の僧侶
  一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
  一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
  一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
  死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
  一人は死んでいてなお病気
  石塀の向うで咳をする

「僧侶」の四人の僧たちは、それなりの役割を担いながら「めいめいの務め」にはげみ、「朝の苦行」にも出かけます。そこには、何らかの行動原理がありそうですが、戒律にしばられている様子はまったく見られません。

それどころか、性的快感をえるため手淫(自涜)にふけり、「若い女を叩」き、「殺戮の器具」を運んできます。おまけに「千人のかくし児」を産んだりもするのです。

四人の僧侶たちは、時空も、善悪も、生死や性の境も、なんのわだかまりもなく平気でこえてゆきます。