2015年7月31日金曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑦


 〈ある夏の晩に、私は兄弟や従兄等と一所に、大屋根の上の火の見台で涼んで居ました。

「お月様とお星様が近くにある晩には火事がある。」

 十歳ばかりの私よりは余程大きい誰かの口から、こんなことが云はれました。そのうち一人降り二人降りして、火の見台には私と弟の二人だけが残されました。

 「籌(ちう)さん、あのお星様はお月様に近いのね。そら、あるでせう一つ。」

 「さうやなあ、火事があるやら知れまへんなあ、面白い。」

 「私は恐い。火事だつたら。」

 「弱虫やなあ。」

 弟はかう云つてずんずん下へ降りて行きました。私はその後で唯一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で、そして此処まで焼けて来るかも知れないのであるからと心配をして居ました。

その晩の夜中のことでした。私の蚊帳の外で、

 「火事や。」

 「火事、火事。」

と云ふ声が起りました。耳を澄まして見ますと、家の外をほいほいと云ふやうな駆声で走る人が数知れずあるのです。〉

晶子の『私の生ひ立ち』の「火事」に、こんな記述があります。1歳8カ月違いの弟、籌三郎(ちゅうざぶろう)は、兄弟姉妹の中で晶子がもっとも親しみを感じていたようです。

異母の長姉の輝は早くに嫁ぎ、次姉の花も晶子が12歳のときに嫁に行きました。実兄秀太郎は6歳年長で、学者になるため東京に遊学しました。妹の里は5歳の年齢差がありました。気軽に話せるのは、籌三郎だったのです。

籌三郎は、晶子が鉄幹を慕って出奔同然の上京をしてから2年後の1903(明治36)年に結婚。23歳で家を継いで、三代宗七を名乗るようになりました。

つまり、「君死にたまふことなかれ」の冒頭のカッコで記された「旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて」の「宗七」は三代宗七のことです。

父のほうの宗七は、跡継ぎができた翌月の9月に脳溢血で死にました。その際、晶子がよんだ歌の中につぎのような一首もあります。

   二十四に成れば男とわが言ひし弟の片頬よく父に似る

晶子はどうして「君死にたまふことなかれ」を作ろうと思い立ったのか。戦争での死の危機に直面した弟の運命を嘆くのは、姉として当たり前のことかもしれません。

しかし晶子の場合には、そうした一般論には収まりきらない「弟に対する負い目、そしてそれから発する一種の自責の念というべきもの」が、この詩を作らしめたのではないかと入江春行は指摘しています。

晶子の父は、本来なら家を継ぐべき長男の秀太郎に東京で学問をすることを許しました。秀太郎は電気工学を専攻して、後に東大教授となっています。

そんな長男の代わりに晶子が、店の経営を実質的に担わなければならなくなっていたわけです。当時を回想して晶子は、

 「十二三歳から十年間店の帳簿から経済の遣繰、雇人と両親との間の融和まで自分一人で始末をつけた」(「雑記帳」)

 「わたしは夜なべの終るのを待って夜なかの十二時に消える電燈の下で両親に隠れながら讒かに一時間か三十分の明りを頼りに清少納言や紫式部の筆の跡を偸み読みして育ったのである(清少納言の事ども)」

などと述べています。

 〈従って、父親が晶子の才腕を大いに頼りとし、店を一緒にやってくれる人との結婚を望んだであろうことは想像に難くないが、それだけに、晶子の俄かの造反にあった時の一家の周章ぶりは目に見えるようである。

かくして、最も自由な立場にあった筈の末男、籌三郎にお鉢が廻って来て、1903(明治36)年、父の死によって三代目宗七を名のって戸主となるわけである。

 「君死にたまふことなかれ」に、「末に生れし君なれば/親のなさけは勝りしも」とか「旧家(老舗)を誇るあるじにて/親の名を継ぐ君なれば」とあるのは、そのような事情を指すのである。

また、父が、籌三郎が嫁を貰うのを見て安心して死にたいというので、父の枕頭で祝言をあげ、それを見て父は安心したかのように永遠の眠りについた。

 「暖簾のかげに伏して泣く/あえかに若き新妻を」とか「十月も添はで別れたる/少女ごころを思ひみよ」とあるのは、そういうことである。

 妻の名を、せいと言い、十八歳(数え年)であった。この詩が作られた時は身ごもっていて、後に女児なつを産む。

 「過ぎにし秋を父君に/おくれたまへる母君は/歎きのなかに、いたましく」とか「母の白髮は増さりゆく」とあるように、母つねはすっかり老いこんでいた。〔中略〕

さて、そうこうする中に、日清戦争後のしばらくの平和が過ぎて、日露の間に戦端が開かれ、与謝野家から程遠からぬ渋谷駅からも、来る日も来る日も出征兵士を送る歌が聞こえて来た。そして大阪では籌三郎に召集令状が来た。

その頃すでに父は亡く、鉄幹との結婚に反対した長兄秀太郎とは義絶していた。また、姉妹も他家へ嫁いだり死んだりして、晶子にとっては籌三郎だけが身近に感じられる存在となっていた。

その籌三郎がいくさに召され、所もあろうに旅順攻略戦に投入されたらしいという噂が晶子の耳に入った。〉(入江春行『「君死にたまふことなかれ」攷』)

2015年7月30日木曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑥

晶子と鉄幹の不倫スキャンダル。その切実な恋愛体験から、あふれるように出て来た言葉で歌いあげられた『みだれ髪』に世のさかしらなおとなたちは驚倒し、若者たちは熱狂的に迎えいれました。

『みだれ髪』が起爆剤になって『明星』のは若者たちが続々と集まり、「明星派」とよばれる新しい短歌革新運動のよりどころとなっていきます。そんな若者の一人であった北原白秋は次のように記しています。

「天下の俊髦(しゆんごう)才媛は翕然(きゆうぜん)として、此の新詩社に集まり、清怨瀟洒(しようしや)の画風はまた興って短歌革命の先声に交響し、溌剌として開展してゆく『明星』の新容は雑誌界にも装幀界にも驚目の生彩を輝かした」(『短歌研究』1935年5月号)

『みだれ髪』を出した翌年の1902(明治35)年11月には、長男の光が誕生します。その直後に、石川啄木が訪ねている。

1903(明治36)年5月、晶子は光を連れて関西旅行、生家を訪れました。9月には、父の宗七が脳溢血で死去、この年に結婚した弟の籌三郎が家を相続しました。

翌1904(明治37)年1月には、第2歌集『小扇』を刊行しています。その直後の2月8日、日本海軍が韓国の仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲。2月10日、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まりました。

日露戦争では、ロシアの最重要軍港である旅順の攻略が課題となりました。開戦早々、第1次旅順口閉塞作戦が実施され、3月には第2次、5月には第3次作戦が行われましたがけっきょく失敗に終わりました。

5月には、第2軍が遼東半島への上陸を開始。この月、死傷者約4400人を出して南山、大連を占領、そして大本営は旅順攻撃のため、乃木希典大将を司令官とした第3軍の編成を決定しています。

8月7日、海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始、旅順艦隊に損傷を与えました。これに対して旅順艦隊は8月10日、旅順からウラジオストクに向けて出撃。待ち構えていた連合艦隊とのあいだで海戦が勃発しました。

海戦で旅順艦隊が失った艦艇こそ少なかったものの、大きな損害を受けて旅順へ引き返すことになります。日本海軍第2艦隊は8月14日、輸送船常陸丸を撃沈するなどしたロシアのウラジオストク艦隊を蔚山沖で捕捉し、大損害を与えています。

一方、旅順艦隊は出撃をあきらめ、作戦能力を失っていましたが、日本側はそれを確認できず、8月19日、第3軍が旅順の要塞に第1回総攻撃を開始しました。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者約1万5,000という大損害を受けて失敗に終わります。

  ああ、弟よ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ。
  末に生れし君なれば
  親のなさけは勝りしも、
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと敎へしや、
  人を殺して死ねよとて
  廿四(にじふし)までを育てしや。

「君死にたまふことなかれ」の原稿は、遅くても、この第1回旅順総攻撃が失敗に終わったころには出来ていたと考えられています。

この年の6月22日には、次男の秀(すぐる)が生まれました。出産から1週間に書かれた私録「産屋日記」の24日のところに、晶子は、弟の出征について次のように記しています。

〈宇品たちし弟、今日も浪の上の上にや。一週ばかり前広島より、死と云ふ事の美くしく嬉しき由あまた書きこせし、魂なかばそが胸に残して別れこし人とも、この世ならで逢はむなどさへありき。

われ返事に、まこと死ほど好き事はあるまじ、われも願へり、命みじかき族なれば、人に先だちて死なむをよしと思ひぬ、春風ふけば桜ちりくる苔の下に、必らず来む人まつにまさる楽しさはあらじ。

されど唯一つ親子は一世のえにしなるを思ひ珠へ、八月に初声あぐる人を必ず抱だきやらむと念じ給へ、まして母世におはすを想へば悲しからずやと云ひやりき。〉

これを書く少し前に晶子は、広島の籌三郎から手紙を受け取りました。戦死を覚悟し、死を美化したものだったようです。

晶子は、弟の思いに理解を示しつつも、親子は一世の縁があること、もうすぐ生まれてくるわが子を抱きたいと思うこと、生きて待っている母にとって戦死は悲しいことなどを教え諭す返事を書いたのです。

2015年7月29日水曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑤

1901(明治34)年8月に刊行された『みだれ髪』は、『明星』などに投稿した晶子の作品を、与謝野鉄幹が編集して作られました。

当時の晶子は鳳姓で、初版本は「鳳晶子」となっています。タテ192mm、ヨコ84mm、三色刷 本文136ページ。装丁・デザインは藤島武二によりました。

 「この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」と、第3ページに記されています。

   夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ

にはじまり、全399首が、「臙脂紫」(98首)、「蓮の花船」(76首)、「白百合」(36首)、「はたち妻」(87首)、「舞姫」(22首)、「春思」(80首)の6章に分かれて収められています。

  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

  清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

  人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願い

など、『みだれ髪』のほとんどの歌は、鉄幹への強い恋慕の念が感じられます。女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風は、当時賛否両論を巻き起こしました。

ストレートな恋愛表現は、当時の道徳観からはとても受け入れられないものだったのです。

「此一書は既に猥行醜態を記したる所多し人心に害あり世教に毒あるものと判定するに憚からざるなり」(「歌の華」明治34年9月号)などと、出版早々、保守派の非難が相次ぎます。

一方で、「耳を欹しむる歌集なり。詩に近づきし人の作なり。情熱ある詩人の著なり。唯容態のすこしほのみゆるを憾とし、沈静の欠けたるを瑕となせど、詩壇革新の先駆として、又女性の作として、歓迎すべき価値多し。其調の奇峭と其想の奔放に惘れて、漫に罵倒する者文芸の友にあらず」とした上田敏のように、新しい文学の誕生として、芸術的に高く評価する声も上がりました。

 『みだれ髪』の世間の反応について、入江春行は『与謝野晶子とその時代』で、次のようにまとめています。

 〈『みだれ髪』が世に出た時の雰囲気について斎藤茂吉は「晶子の歌が天下を風靡するに至るその第一歩として讃否のこゑ喧しく(中略)歌人も非歌人も、この歌集の出現に驚異の眼を諍(みは)った」(「明治大正短歌史概観」)とふりかえっている。

たとえば一方では「鳳晶子が才情の秀絶は吾人認むるところ、其歌詞新たにして高く、情清くして濃、慥(たしか)に一家の風格を具へたり」(高山樗牛)と絶賛する人がいるかと思えば、「娼妓、夜鷹輩(よたかばら)の口にすべき乱倫の言を吐きて、淫を勧めんとする。(中略)猥行醜態を記したる所多し、人心に害あり世教に毒あるものと判定す」(「蘇張生」という筆者名になっているが佐々木信綱のことらしい)などと口をきわめて罵倒する人もいた。

 若山牧水が、中学生時代の思い出として、ある日英語の先生が教室で晶子の歌を和文英訳の教材にしたので、あとでその先生に、もっとたくさん晶子の歌を教えて下さいとねだったら「他の先生に見つかるなよ」と言ってたくさん書いてくれたというエピソードを紹介している(「古い村」)が、このエピソードは晶子の歌に対する両極端の反応を象徴している。

では、賛成する人も反対する人もどこに着目したかというと、性愛というタブーに女でありながら挑戦したと見られる点である。たとえば、

  乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き

という歌。これは、羞恥心を抱きながら、まだ見たことのない世界へこわごわと入って行ったらそこはすばらしい世界であった、という意味で、はじめて知る性愛のよろこびを形象化した歌である。

  みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神に乳おほひあへず

の歌では、はじめての体験を前にしてのためらいと決断の間にゆれる気持ちが表現されている。

  春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

  いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春

などもそうであるが、晶子は、性愛を、淫靡なものとしてではなく、すばらしいものとして描いているのである。

そこが賛否の岐(わか)れるところであるが、晶子は性愛のよろこびを男は口にしてもよいが女は口にしてはいけないというのはおかしい、なぜなら子供を持つことがよろこびであるならその前提となる行為は女にとってもよろこびでなければならない、と考えた。〉

 『みだれ髪』を出した翌月の9月、晶子は、木村鷹太郎の仲人で鉄幹と結婚式をあげ、翌1902(明治35)年1月13日、与謝野家に入籍しています。

2015年7月28日火曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」④

明治初めの歌壇は、高橋正風ら御歌所派とも呼ばれる宮廷歌人的な人たちが支配していました。

しかし近代化の流れのなか、貴族の遊びごとから和歌を解放して短歌革新を目指す動きが出てきます。

1893(明治26)年4月、落合直文は「あさ香社」を創立、実弟の鮎貝槐園ら多くの俊秀を集めて、新派和歌の基礎を築きました。

1898(明治31)年には、佐佐木信綱が『心の花』(初期には『こころの華』などと表記)を創刊。

 「広く、深く、おのがじしに」の主張のもとに個性尊重の方針をとりました。当時は、優雅で調和的な信綱の歌を慕って、上流階級の子女たちが多く集まったといわれています。

 明治31年2月には新聞「日本」紙上で、手紙形式の評論『歌よみに与ふる書』の連載が始まっています。

 和歌の規範ともされていた古今集を「くだらぬ集にて有之候」と言ってのけたこの書は、雑誌「ホトトギス」などで俳句の近代化を進めていた正岡子規が、短歌の改革にも乗り出した決意表明ともいえるものでした。

こうした中、与謝野鉄幹もじっとしてはいられなかったのでしょう。自らのめざす新しい文学理念を結実するため、結社をつくり、機関誌をもちたいと考えるのは当然のことでした。

こうして1900年(明治33年)4月、鉄幹を中心に創刊されたのが『明星』でしたが、その資金の多くは、妻の滝野の実家に仰いでいました。発行人に、林滝野の名があるのも当然のことだったのです。

激しい恋の末にいっしょになったものの、律義でまじめな性格の滝野は、詩人の自負に酔って千人の恋人をもっても当然とうそぶくような夫に次第に違和感を感じ、冷ややかに見つめるようになったていきました。

 「恋をしたまえ」。鉄幹(寛)が晶子や登美子と出会い、熱い語らいをしていたのはそんな明治33年、『明星』創刊の直後のことです。さて、ふたたび、田辺聖子の『「みだれ髪」の女』を読むことにしましょう。

 〈秋十一月、寛は再び西下して、晶子登美子と、京都の永観堂に遊んで紅葉を賞で粟田山に泊まった。登美子は家から強く縁談をすすめられていて拒みきれず、この粟田山の旅を思い出に故郷へ帰っていった。晶子に、師・鉄幹への恋をゆずって。

   それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草摘む(登美子)

 明けて命じ三十四年(一九〇一)一月、晶子は寛にさそわれて、粟田山の宿で泊まった。晶子は二十四になっていた。両親にいつわって、妻ある男を、その宿で待った。

   黒髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

 ためらいつつ迷いつつ、思いみだれつつ、晶子はやっぱり寛を待った。おそくに来た寛は、恋にやつれ世俗とたたかって貧にやつれていた。晶子にはもう、師弟のへだてはなかった。やつれたかわゆい男であった。人生でめぐりあったただ一人の運命の男であった。

 寛にとっても、晶子は強い支えだった。一見、強固にみえる寛は、弱いもろいところがその裏にあり、妻に去られようとして男の誇りを傷つけられているのだった。

この宿に二夜泊まった。晶子は寛の腕の中で、朝靄の中の京の町を見た。宿は高台だったから、南禅寺の山門も黒谷の塔も見え、晶子は夢うつつで、それらを寛に指さして教えられた。寛という男は、そのあいまにも、東京の妻にあてて手紙を書くのであった。

 「徳山の舅が何といおうとも、僕はあれと別れたくない。しかし僕の愛を、あの女はわかってくれないのだ」

晶子は打たれたように怯んだ。何という残酷なことを平気でいう人であろう。女心にかけては、さっぱり分からない男なのだ。しかし晶子はもう引き返せなかった。恋におちたのだ。

 寛が東京へ去ってから、晶子は手紙を書きつづけ、歌を寄せつづけた。歌は噴きこぼれるようにできた。粟田山の二夜の思い出が凝っては珠のような歌になってほとばしり落ちた。

   春の国恋の御国の朝ぼらけしるきは髪か梅花のあぶら

  道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る

寛もまた『明星』誌上で恋の恍惚境を謳歌する詩を発表した。滝野は妻として致命的に感じて、離別の決心を固めた。

その春は、寛にとって打撃の連続であった。『文壇照魔鏡』という怪文書が文壇に流れて寛を攻撃したのだ。低劣で悪意ある憎悪にみちた文章だった。それらは事実無根のことであったり、かなり歪曲されたものであった。

 寛は激怒したが、世間や文壇はその卑しい人身攻撃を信じて『明星』と寛に冷罵を浴びせた。『明星』は読者が激減し、女性会員は脱退するものが多かった。滝野もまた子を連れて寛のもとを去っていった。

 堺で焦燥しつつ寛を恋している晶子は、ついに、六月五日、単身上京した。もとより両親には無断の家出である。二十四年自分を育んでくれた両親もふるさとの山河も家も弟妹も、晶子は捨ててきた。

 幾度も思い返しまた気をとり直し、今ならばまだこのふるさとで平和に生涯を終えられるものを、と思いながら、ついに恋と歌にわかい命を賭けて、晶子は東京へ奔った。

   狂ひの子われに焔の翅かろき百三十里あわただし旅

   今ここにかへりみすればわがなさけ闇をおそれぬめしひに似たり

「新詩社」の同人たちの中でも、晶子と寛をよくいわぬ者たちが多かった。妻子を追いやって情人を引き入れる、道ならぬ恋にふけるみだらな男と女のように、寛と晶子は非難された。寛は追いつめられていた。窮地に立たされた自分と『明星』を支えてくれるものは、晶子であるように思われた。

 「晶子。お前の歌集を出そう。僕たち二人は、なみの人間のように、義理の世間体のと、下らぬことにあたまを使うのはよそう。お前のように美しい歌をよむ歌人は、かつて現れたことがなかった。お前の歌は百年のち、いや、千年のちまでもきっと人に愛されるよ。

――お前の歌は爆弾だ。世間の因襲を破壊する美しき爆弾だ。みろ、きっと世間は震駭して『照魔鏡』の筆者なんぞ、ふっとんでしまうだろう」〉

1901(明治34)年8月、歌集『みだれ髪』が、東京新詩社と伊藤文友館の共版で刊行されます。晶子と鉄幹が初めて会ってから、たった1年しかたっていないころのことです。

2015年7月27日月曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」③

〈もし晶子が、与謝野鉄幹という一人の天才詩人に出会わず、恋をせず、そして彼によって才能を触発され、刺激されていなかったならば、――あるいは古い堺の町の、羊羹屋「駿河屋」のいとはんとして静かに老いていったかもしれない。「若いころは歌も作りました」と笑いながら話す婆さんになっていたかもしれない。〉

 田辺聖子は、晶子の小伝『「乱れ髪」の女』にこう記しています。

1899(明治32)年、晶子は、浪華青年文学会に入り、その中心メンバーだった河野鉄南らと交わようになります。鉄南は堺にある正中山覚応寺の息子。色白でイケメンのやさしい僧でした。晶子は鉄南に恋文のような手紙も送っています。

  やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 有名な晶子の歌の「道を説く君」は、鉄南だとする説もあります。鉄南は、当時売り出し中の新進詩人で、与謝野鉄幹の幼なじみ。晶子と鉄幹の出会いを取りもつことになります。

与謝野鉄幹は1873(明治6)年、現在の京都市左京区に、西本願寺支院願成寺の僧侶だった与謝野礼厳の四男として生まれました。子どものころから才気煥発、美しい顔立ちだったようです。

1889(明治22)年西本願寺で得度の式をあげると、山口県の徳山に住む兄、赤松照幢の寺に赴き、照幢が経営する女学校の教員となります。

ところが、教え子の浅田信子と恋愛関係になり、妊娠、出産するという“事件”を起こします。さらには、やはり女子生徒だった林滝野とも関係を持って同棲生活をはじめ、もはや教師生活を続けられなくなるのです。

1892(明治25)年、無一物で上京し、落合直文の門に入ります。1894(明治27)年、短歌論『亡国の音』を発表。1896(明治29)年には歌集『東西南北』、翌年には『天地玄黄』を世に出し、その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれて評判になります。

1899(明治32)年、東京新詩社を創立。この年の秋には最初の妻、浅田信子と別れて2人目の妻、林滝野と暮らし始めます。1900(明治33年)年4月、月刊文芸誌『明星』を創刊。そして、晶子との運命的な出会いが待っていました。

 『「乱れ髪」の女』には次のようにあります。

 〈明治三十三年、鉄幹は「明星」の新会員を開拓する意図もあって、大阪で講習会を催すべく西下した。八月四日、北浜の平井旅館に投宿している鉄幹を、晶子は鉄南に連れられてはじめて訪れた。

 油けのない銀杏がえしに髪を結い、紺絣の単衣に、紫繻子と紅入友禅の腹合わせ帯といういでたちで、町娘らしく、うしろには乳母のうたが従っている。

 鉄幹は涼風の通る二階座敷の上座にゆったりと坐って、床柱に背をもたせていた。晶子は「お坊さんのようだと第一印象を受けた。

 僧家に人と成って、僧侶となるべく教育を受けてきた鉄幹だから、そんな感じも無理ないかもしれないが、白絣の着物に、黒い絽の夏羽織で、長身白皙のさわやかな美青年である。

 鉄幹は親しげに晶子を招き、「鳳さん、山川登美子さんを紹介しましょう」と、そばにいた登美子を引き合わせた。

白いうすものを着た美少女はなつかしげに寄って、「いつも『明星』のお歌を拝見していますからはじめてお会いしたような気がしなくって。おねえさまと呼ばせて下さいまし」といった。

このとき晶子二十三歳、登美子二十二歳、鉄幹二十八歳、わかい師弟である。短歌改革の情熱にもえている鉄幹は、そのころ「新派若武者」と呼ばれる風雲児だった。

 「短歌はわが心のもゆるままにうたう、我流の歌、個の歌、自我の歌でなければならぬ、まことの心をうたいあげぬものに何の見所があろう、歌の約束ごとや基準は一切無意味である。まことの人生を赤裸々にさらしてうたうのこそ、新時代の歌であります……」

 鉄幹の語る力強い短歌論は、大阪の若者たちの心を打った。晶子と登美子が互いにきそうように鉄幹に敬慕の気持ちを抱いたのも、無理からぬことだった。

 六日には、浜寺公園の寿命館という料亭で、鉄幹を迎えて歌会がひらかれることになった。二人の若く美しい女弟子に「先生、先生」と慕い寄られて鉄幹も満足だった。

 白妙青松の浜をそぞろあるいて、一同は話も弾み、宴の興はたかまった。九日にはみんなで住吉大社に遊び、蓮池の蓮の葉に歌を書いたりした。鉄幹は、恋に政治に革命に奔走したバイロンやゲーテを賛美する。

 「恋をしなけりゃいけない、現代の日本には、真の恋、いや、真の自我すら、ないじゃないか。人々の心は眠り、自我も恋も卑しめられ、おとしめられている。そんな暗い暗い日本に、いっぱい窓をひらいて光と風を入れるのこそ、われら詩人歌人の任務じゃないか。

もう、昔ながらの旧派の和歌には僕たちの情熱や自我の叫びは盛りこめないんだ。鳳くん、山川くん、恋をしたまえ。『新詩社』に集まる若者は世俗の陋劣に反抗したまえ。明治の世の窓をあけようじゃないか。僕たちはえらばれた星の子なんだ」

 登美子も晶子も、いまは熱愛にちかく鉄幹を慕うようになっていた。二人にとって鉄幹は師であり、星の子であって、まだ恋の対象には擬していなかったけれど、それはいつ恋へなだれてゆくかしれない、危いものだった。

   あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なむとぞ思ふ(登美子)

   星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ(晶子)

 「われはつみの子に候」と、晶子は鉄幹に恋をしてしまった自分をそういって、河野鉄南に手紙で報告している。晶子の熱狂ぶりは、大阪や堺の同人仲間のあいだでも評判になっていたが、このころ登美子も夢中だった。二人は会うと師の鉄幹を賛美しあい、寄せ書きで手紙を書き、恋歌にちかい詠草を『明星』に送った。

 「つみの子」――鉄幹に恋を抱くのは罪といってよかった。彼には妻があった。『明星』の発行人として名を出している、林滝野である。

 鉄幹は東京へ帰ってからも二人の少女にしばしば手紙をやっていた。それがぱったり来なくなったと思ったら、滝野に男の子が生まれていたのだ。彼は萃(あつむ)と名付けて喜んだ。

 「萃は父よりも美しき子に候、そのうち写真をまゐらせむ」

 彼は晶子にそんなことを手紙で言ってきた。恋歌を送って熱狂している女弟子に、そして自分もまた、それをさらに煽るごとき手紙を書いておきながら、同時に、子の自慢を平気でいえるような神経の男なのだった。

 晶子は彼の、正直といえば正直だが、あまりに自己中心すぎて客観性のない、大人の平衡感覚のなさに苦しんだ。それでも恋の火は消しがたくなって、大きくなるばかりだった。〉

2015年7月18日土曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」②

  われの名に太陽を三つ重ねたる親のありしとも思はれぬころ

1924年5月に出版された歌集『流星の道』の一首です。与謝野晶子は、1878(明治11)年12月7日、大阪府堺市の老舗、羊羹「夜の梅」で有名な駿河屋の三女として生まれました。

名は晶(しょう)。「しょうとはん」の愛称でよばれました。当時は、普通名と公式名の二つを使う風習があったようで、戸籍名は「志よう」といいます。その生い立ちについて、田辺聖子の『「みだれ髪」の女』には次のようにあります。

〈大阪と和歌山をむすぶ、紀州街道の堺は、古い町である。近世のはじめは自由都市として経済力を誇り、また千利休や、小唄のはじめである隆達ぶしの隆達を生んだ土地だけに、学問・遊芸がさかんだった。

しかし古い町はそれなりに、因襲に強くしばられている。晶子の生まれたのは明治十一年(一八七八)である。

 父は鳳宗七(ほうそうしち)、貸家のあるじというよりも学問好きで、本の蒐集家でもある趣味人だった。

 長男を東大工学部に学ばせ、晶子を堺女学校に、その妹を京都府立高女の専攻科へ進学させている。明治の二十年代の商家としては、破格の教育である。経済的にもゆとりがある暮らしであったろう。

 晶子の母はつねといって、宗七の二番目の妻だった。先妻は、しっかり者の祖母の気に入らずに、二人の娘をおいて離婚したのである。だから晶子は、宗七の三女になる。

その下に籌三郎(ちゅうざぶろう)という弟、さとという妹もできた。晶子は小学校のころから本好きだった。『めざまし草』や『文学界』など手あたり次第に読んだ。

 蔵の中へ入って、父の蔵書の古典を片はしから読みかじり、やがて次第に難解な王朝文学をも読み漁るようになった。『源氏物語』などは註釈書の『湖月抄』をたよりに、全部読み上げてしまった。

まだ少女の晶子はお煙草盆(少女の結う髪のかたち)に結って結界(帳場格子)に坐り、大福帳の整理や、売り上げの算盤(そろばん)を入れる。

 二人の異母姉がそれぞれ結界に坐り、次々と嫁に行ってしまうと、次は、晶子の番なのであった。駿河屋は堺の甲斐町にある。紀州街道に面していて「練羊羹所 本家駿河屋出店」と筆太に染めぬかれた紺の暖簾がかかっている。


晶子の祖父が考案した、小豆をちりばめた黒い羊羹「夜の梅」は、市内はむろん、京大阪まで評判で、「駿河屋」は有名なのだった。

 「嬢(とう)さんは本の虫やな」と、店の者にわらわれるぐらい、晶子は結界の中にいても、夢中で本を読んでいる。晶子は頭のよい娘だった。

 小学校時代から女学校まで、ずっと数学が得意であった。これは算数に明るかった母つねの血筋らしく、晶子は母から明晰な頭脳と、父から文雅の才能を享(う)けたのであろう。

そんな少女に、環境は心みたされないものだった。女学校は家政方面の授業がほとんどで、それも半ば以上は裁縫の時間である。兄は東京へ遊学しているというのに、なぜ、自分ももっと勉強したり、本を読んだり、できないのであろう。

 「そら、女と男とちがいますがな。女は学問なんか要りまへん」と母にいわれる。晶子は何とはない不満に隈どられた野心を秘めながら、出口のないエネルギーをもてあましている。本を読むことで辛うじて鬱屈をまぎらし、乙女となっていったのだった。

 町の漢学塾で樋口朱陽という漢学者に学び、漢学の手ほどきをうけ、また新しい文学、藤村や鴎外や一葉にも心おどらせた。晶子はまだ見ぬ東京の、中央文壇のめざましい文学活動を、片田舎にいて、ひしひしと感ずる。

ことに、樋口一葉というわかい女流の小説を読んで、晶子はライバル意識を煽られずにはいなかった。

『文学界』に載った「たけくらべ」、『文藝倶楽部』に発表された「にごりえ」……。

 (ええなあ。なんとすばらしい小説やろ。こんな若い女の人が、こんなのを書いて発表できる世の中になったんや……うちはまだ、何にも力がない。けど、何かやってみたい。このまま埋まれとうない)

 晶子が地元の、堺敷島短歌会へ入って、習作の古めかしい歌を発表したのは十九のとしである。この頃、大阪の文学青年たちが集まって「浪華青年文学会」をつくり、『よしあし草』という同人雑誌を出していた。

 小林政治、中村吉蔵、高須芳二郎といった青年たちで、彼らは『文庫』や『少年世界』に投書して勉強してきたのだった。晶子はこの会に加えてもらい、二月号にはじめて新体詩が載った。〉

ここでいう「新体詩」とはヨーロッパの近代詩の影響を受けた、和歌や俳句、漢詩などとは違う新しい詩のことです。1882年(明治15)年に矢田部良吉、外山正一、井上哲次郎によって刊行された『新体詩抄』で広く知られるようになりました。

井上の発案は「在来の長歌、若しくは短歌等とは異なった一種新体の詩なるがゆえ」「昔より在り来りの詩歌に異なりたる詩的の作は皆之を称して新体詩と謂わむとするのが我々の考えでありました」と述べています。

このころの新体詩とは、基本的に文語定型詩。同人雑誌『よしあし草』(1899年2月号)にはじめて載った晶子の新体詩というのは、つぎにあげる「春月」のことです。

   別れてながき君とわれ
  今宵あひみし嬉しさを
  汲みてもつきぬうま酒に
  薄くれなゐの染めいでし
  君が片頬にびんの毛の
  春風ゆるくそよぐかな

  たのしからずやこの夕
   はるはゆふべの薄雲に
  二人のこひもさとる哉
   おぼろに匂ふ月のもと
  君こころなきほほゑみに
  わかき命やささぐべき

この年、晶子は21歳。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき」の「初恋」などで知られる島崎藤村の『若菜集』が出たのが1897(明治30)年。藤村詩の影響を強く受け、模倣した感じの作品です。

2015年7月17日金曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」①

安全保障関連11法案が、衆院を通過しました。そんなご時世でもあり、ここでしばらく、与謝野晶子の有名な詩を読み返しておきたいと思います。

    君死にたまふことなかれ   
        (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)  

  ああ、弟よ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ。
  末に生れし君なれば
  親のなさけは勝りしも、
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと敎へしや、
  人を殺して死ねよとて
  廿四(にじふし)までを育てしや。

  堺の街のあきびとの
  老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
  親の名を継ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ。
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家の習ひに無きことを。

  君死にたまふことなかれ。
  すめらみことは、戦ひに
  おほみづからは出でまさね、
  互(かたみ)に人の血を流し、
  獣の道に死ねよとは、
  死ぬるを人の誉れとは、
  おほみこころの深ければ
  もとより如何で思(おぼ)されん。

  ああ、弟よ、戦ひに
  君死にたまふことなかれ。
  過ぎにし秋を父君に
  おくれたまへる母君は、
  歎きのなかに、いたましく、
  我子を召され、家を守(も)り、
  安しと聞ける大御代(おほみよ)も
  母の白髮(しらが)は増さりゆく。

  暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
  あえかに若き新妻を
  君忘るるや、思へるや。
  十月(とつき)も添はで別れたる
  少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
  この世ひとりの君ならで
  ああまた誰(たれ)を頼むべき。
  君死にたまふことなかれ。

あらためて言うまでもないかもしれませんが、与謝野晶子(1878~1942)が、戦地にある愛する弟に「戦死するな」と大っぴらに呼びかけた、歴史的ともいっていい作品です。

日露戦争さなかの1904(明治37)年、『明星』9月号に発表。翌明治38年1月に刊行された山川登美子、増田雅子との合同詩歌集『恋衣』にも掲載されました。『与謝野晶子詩歌集』(白鳳社)で西垣脩はこの詩を次のように「鑑賞」しています。

〈国運を賭してたたかいの最中、しかも旅順攻略がはかどらず、非常な犠牲をはらって攻撃をくりかえしている最中に、これだけ思いきった戦争批判のことばが吐露されたからには、問題にならずにはすむまい。

非難の火の手は、37年10月の雑誌『太陽』の文芸時評欄にあがった。筆者は大町桂月で、「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也」とのべ、裸体画よりも世を害するものだと論じた。

晶子はただちに「ひらくぶみ」(『明星』11月号)と題する公開状をもって応酬し、「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候(そうろう)こと、又なにごとも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却(かえつ)て危険と申すものに候(さうら)はずや」と言い、歌はまことの心をまことの声に出してつくるもので、出征兵士の見送りに「無事で帰れ、気を付けよ」と口々に言い「万歳」と叫ぶのは、そのまま「君死にたまふことなかれ」ということではないか、と論じている。

この論争はやがて新詩社同人と桂月との対決にまで発展し、ついに桂月をして晶子は「乱臣也、賊子(ぞくし)也、国家の刑罰を加ふべき罪人也」(『太陽』38年1月号)と評させるにいたる。

しかしそれが結局文壇での論争程度でおさまったのは、明治という時世のおおらかさにもよろうし、読者の範囲もかぎられていて、今日ほど人心に大きな影響力をもたなかったからであろう。『明星』の発行部数も当時多いときで千二百ぐらいだったらしい。

また、晶子の思想にしても政治的イデオロギーからの反戦思想でなく、人間の真情をひたすらうたいあげることが詩人の使命だという信念に発しており、人間性の否定に抵抗し偽善をにくむことにおいて勇敢だったとしても、決して複雑なものではなかったと思われる。

しかし、何はともあれ、戦時のさなかにあって戦争の悲惨をあからさまに批判し、音吐(おんと)朗々とヒューマニスティックな真情をうたいあげた詩は、他に例を見ない。

作者にとっても、日本の詩史にとっても、ひいてはわが国の近代精神の発展史の上でも、記念すべき作品であることにまぎれはない。〉

2015年7月16日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑭

長谷川龍生は、私が頭に描いている「現代詩」というものを体現している天性の詩人の一人です。伝統的な短歌、俳句の抒情をまっ向から批判した「歌とは逆に歌に」の詩人、小野十三郎に学び、これまでにない新たな詩空間を築くことによって、小野の志を受け継ぎ開花させました。

小野十三郎の理論は明快で、大きな刺激を受けました。しかし小野の詩を読んでいても、その理論の意味するところがどう表現に結びついているのか、20代の私には読み取るのが困難でした。一方で、長谷川の詩を読んではじめて小野の主張するところの表現を見た気がしました。

伝統的な抒情とは異質の、物質的で張りつめた言葉の力学ともいえる詩空間が構築できることを知ったのです。

喩えは相当に飛躍するが、それは非ユークリッド幾何学の一つとして確固たる理論の骨組みを備えていたリーマン空間が、アインシュタインの相対性理論に使われることによって、肉を得、血流がゆきわたって行ったのと似ているように思えました。

「長谷川龍生のユニークさは、世界をその自然的な影や彩りや美の形においてではなく、そして勿論文学プロパーのことばとしてであるが、世界を〈論理的に〉とらえることのできる詩の構造を、初めてといっていい程の新しさでつくり上げたところにある。いわば世界観の新しさが、同時に詩の方法論上の新しさとして成立しているところが、前記の詩人達(中野重治や谷川雁=筆者注)との構造上の違いである。自然発生的な美に対する人間主体的な美を、自然構造的な論理の代りに人工的な論理を、世界をその衣装においてでなく、その本質を貫く運動としてとらえること、これらの発想を、全く新鮮な方法上の後ずけをもって行ったところに、長谷川龍生の詩の革命的といってよい意味がある」

と、岡庭昇は指摘している。

  しだいに潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。
  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

伝統的な抒情詩とは異質の、こうした長谷川ならではの詩作の具体的な方法の一つが、「理髪店にて」の中にも、そのエッセンスが凝縮されている「シュールドキュメンタリズム」でしょう。将来、長谷川の別の詩を読むときに、シュールドキュメンタリズムについてはあらためて考えてみたいと思います。

20代のとき、「理髪店にて」が入っている『パウロウの鶴』を読んで、大きな衝撃を受けました。しかし同時に、何事にもネガティブな性癖の持ち主の私にとって、なんとなく憧れがあった文学から遠ざかる契機となった苦い一冊ともなりました。

長谷川のような想像力をもち、言語空間を築くのは、私の能力では到底なしうることができないと観念したのです。そして、創作の道を断念し、一会社員として生きていこうと考えるようになりました。

長谷川は『パウロウの鶴』の後も、「理髪店にて」に垣間見られるような、伝統的な抒情とは異質で独自な幻想、妄想的な要素を含んだ、新たな言語空間を築く努力を続けていきます。

政治や社会、歴史、人々の心情や思いの根底にある「物理」までも徹底的に探ろうとする姿勢は、他の詩人の追随を許さない独創的なものとなりました。

アインシュタインの出現には、ニュートンから200年の歳月が必要でした。同じように、長谷川の後を追い、その先をも視野に入れるのは常人にたやすくできることではないでしょう。

しかし、長谷川龍生を「もはやどの詩人も手の届かない最高峰」などと持ち上げて、過去へと追いやってしまうような気持ちには私はなれません。

  変わりはてた異邦の港湾で
  元型の女 永遠の女を待っている
  自由な愛の取引は終わった と
  ドックの監視員が叫んでいる

  かつての愛の斥候であった一兵士の死骸
  冒されたざん濠 くびられた人家
  津波がさらっていった暮しの舟
  砲弾が崩していった詩稿の束

  全世界を相手にしている男の親和力
  その一すじの火縄だけをたよりにする
  戦友が倒れている 倒れた詩人の背後に
  集落があり 統制地が見え 国家がひそむ

2002年に出た詩集『立眠』の中の「遭遇こそ」という詩です。その実績や名声がどうであれ、より深く、より鋭い世界観へとつながる言語空間を探れば探るほど、その詩人の道のりは、より困難を増し、より孤独に、迷いだらけに、そして挫折の繰り返しとなります。

長谷川龍生は80歳を過ぎても迷い、失敗し、そしていまも求めつづけているのです。

2015年7月15日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑬

二つの連から成る「理髪店にて」は、これまで見てきたように、1連目と2連目のまったく異なった鮮明な映像が対比的に現れ、それらが切れ味のいい強烈な活断層となって響いてきます。

1連目は致命傷を負って海に沈んだ軍艦であり、2連目は客である潜水夫の荒んだ黒い肌を滑る西洋刃物です。

しかし理髪店にて、理容師と客とのやりとりに出あった第三者、すなわち散髪の順番待ちをしているのか、偶然この場に居合わせたと想定されるこの詩の作者の立場からすれば、時間はつながっているのです。

その見ているものの時間の連続と、場面の断絶が、比類のないドキュメントを生み出しているわけです。

赤と青のサインポールの扉を開けて順番待ちの長いすに座ってしばらくすると、鏡の前に座った後ろ姿の客の声が耳に入ってきました。がっしりした肉体労働者らしき男だ。なんやら、遠い異国の海のなかに沈んだ軍艦の話らしい。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

耳に入ってくる話にぐんぐん興味をそそがれてゆきます。それが、待っている作者の想像を掻き立て、頭のなかにクリアな映像を作っていきます。

ふっと我に返って、潜水夫らし客のほうに目をやります。すると、見えてくるのは「正面に篏った鏡の中」の客の姿です。

遠い海のなかに潜って、藻に包まれた軍艦の残骸を見渡して値踏みをしていた潜水労働者。それが、いま首から下をケープで閉ざされ、鏡のワクのなかに嵌っています。

目に入って来たのは鏡のなかに映し出された、唯一の資本である肉体をよりどころに働く労働者だったのです。それは港湾労働者などとして、各地を転々として働いていた詩人自身の姿でもあったのではなかったのでしょうか。

海に潜って、軍国主義の遺物を眺めて値踏みしている。そんな一見、たくましく、したたかで、若々しい強さを持った労働者であっても、ひとたび雇い主に首を切られればたちまち生きるすべを失ってしまいます。

国家という得体の知れない化け物は、ひとたび暴走を始めると「なめらかだが光なみうつ西洋刃物」のような切っ先をありふれた労働者や庶民に向けてきます。

それを戦中、戦後、肌身で感じていた天性の詩人は、鏡の中の姿から、剃首を後に折った生身の客のほうへと次第に視線を移ってゆきます。

すると、理髪師の骨のあるきゃしゃな手に握られた西洋剃刀が、いままさに客のまぶたへと迫っているのです。ひとつ間違えれば、ふたたび目を閉ざされる闇の中へと連れいかれるかもしれぬ危うさを秘めて。

長谷川とほぼ同時代の詩人、川崎洋は「理髪店にて」についてつぎのように指摘しています。

「昭和二十六年、連合国軍最高司令官がマッカーサーからリッジウェイに代わったころから、〈逆コース〉といわれた一連の動きが始まりました。第九条戦争放棄条項を含む憲法の見直しと再軍備。公職追放の解除。破壊活動防止法。電気・石炭業のスト規制法。その他、戦後民主主義から、もとに逆もどりし始めたような世の中となりました。沈められた重巡洋艦がやがて引き上げられる。そのことは、水面下のミリタリズムが、もう一度姿を現そうとしている、復活しようとしている、復活しようとしているという事を、詩の中で暗にほのめかしている。そんなふうに感じ取ることができ、そのことに、西洋刃物がいままさに瞼の下に斜めにかかったような不安感がある――とこの詩は告げています」

それは、なにも戦争直後だけの話ではありません。一見、平穏におもえても、生身に刃物があてられているゾッとするような危うさをいつも身に感じて生きるしかない時代と社会に、現にいま私たちは置かれているのです。

2015年7月14日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑫

  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

青みどろは、ホシミドロ科に属する淡水性の藻類の総称です。繁殖力が強く、池や水田を緑色に覆っているのが、どこでも見られます。

細胞が一列に並んで糸状になり、枝分かれせずに根本から先っぽまで太さがそろっているのが特徴。触るとぬるぬると滑る、つまりヌメリがあります。

池ができればすぐにアオミドロが発生し、池の中の見通しが悪くなります。多量に発生すれば、底の方の藻体から死んで汚泥状となります。まさに「青味泥」です。

ぬるぬるした「青味泥」が、アジアの片隅の小さな島国の、ボロボロになって沈んだ軍艦を覆っている。小さな島国ではあっても世界の列強に交じって覇権を争い、領土や資源を求めてアジアへの侵略を繰り返した軍国主義国でした。

帝国主義と呼ばれる時代だったのです。レーニン的にいうなら、資本主義の独占段階。帝国主義に従って列強が、領土(植民地)を拡張していけば、いずれは覇権を争ってぶつかり合い世界大戦となります。それは当然の帰結でした。

そんな成れの果て、壊滅した帝国主義国家の手先ともいえる軍艦の残骸を「青みどろに揺れる藻」が覆っているのです。

レーニンのいうとおりなら、世界大戦の結果として、資本主義体制は破局へと向かっていたはずでした。ところが、時代はどうもそんなふうには進んでいかなかったのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

ぬるぬるとした「青味泥」が覆う、帝国主義的軍事国家の遺物である軍艦。そんな海の化石となりつつある残骸を、取り立てた感慨を持つわけでもなく、潜水夫である一労働者らしきが「ざっと二千万と見積って」見つめています。

そのころの二千万とは、いまなら十億くらいに値するかもしれません。一人の労働者が、ことによると「資本主義体制の破局」の象徴になったかもしれない、沈没した軍艦の値踏みをしているのです。

戦後、資本主義体制は無くなるどころか、更なる新たな展開を遂げてきました。資本主義はその本性を際立たせ、ますますわたしたちの生活に根を張っています。労働者の敵であるはずの資本家の姿は、すっかり見えずらくなってきました。

個人が大量の株を保有して会社を支配するというより、企業間で株式持ち合い、直接関係のない法人が会社を支配するようになった。資本家がモノと化するにつれて、団結して戦う労働者も減っていっきました。

私は30年ほど前、大学で経済学を勉強していました。通っていた大学の経済学部はまだ、マルクスの資本論を基礎に置く「マル経」と、消費者の行動や市場の構造を数学的に分析する「近経」の二つにはっきり分かれていました。「経済理論」と題された講義も「マル経」と「近経」で別々に2種類用意されていたのです。

長谷川龍生は若いときに新日本文学会に入り、「列島」などに参加して、どちらかというと社会性の強い詩を書いてきました。ですからなんとなく共産党的、マルクス主義的な詩人という烙印を押されることもあるようです。

しかし私には、「マル経」よりもはるかに「近経」的な思考をする詩人に思えます。「近経」のミクロ理論は基本的に、お金やモノ、サービスを得たいと欲する個々の人間が、市場の中で、価格の変動などに伴っておこなう合理的な行動をもとに成り立っています。

長谷川の詩には、労働がどうの、資本がどうの、賃金がどうのというよりも、なんやかんや理屈や主義主張を振りかざしたところで所詮は、カネやモノへの欲求や執着、打算で動いてゆく“人間というもの”のきわめて合理的な行動に興味を持ち、それに冷徹ともいえる眼差しを向けているものが多いように思うのです。

もっとも、彼が唯物論的、科学的なものの見方をする詩人という意味では実にマルクス主義的であるといえるかもしれません。長谷川龍生は国家や理念などといったものは信じません。確かなのは、巷にうごめくカネでありモノであり、それから人間に秘められている怨念なのです。

2015年7月13日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑪

以前にも少し見ましたが、長谷川龍生は、この詩を作ったころの20代、日傭い労働者、港湾労働者、日傭いセールスマン、業界新聞の記者など、さまざまな職に就いていました。それは、生活のためであるとともに、「ほんとうの人間の詩を、生活する場から発見したい」からだったのでしょう。

もっとも詩人の言にしたがえば、閉ざされた「私」の壁を何んの制約もなくすり抜けていくことができる長谷川龍生の「亡霊」が、「社会への唯一の交流媒体」として、労働に勤しんでいたというほうが正確なのかもしれません。

港湾労働者などとして肉体労働に汗を流していたこうした若き日々に、龍生は、「理髪店にて」に出てくる潜水夫のような人と出会ったのでしょうか。それとも当時は、巡洋艦「鳥海」のような軍艦のサルベージが盛んに話題にのぼっていたのでしょうか。

言うまでもないことですが、この世の何が「現実」で何が「幻影」であるのか、何が「実在」で何が「亡霊」なのか、はたまた何が「真実」で何が「虚偽」かなんて、そうたやすくはかり知ることができるものではありません。

ましてや「あくまでも、自己の言葉でもって、自己の意味でもって、自己だけにのみ可能である世界を構築しなければならない。そのためには、つねづね、洗練された感覚に、客体化の光を放射しなければならないのである」(長谷川龍生「自分の天職とは逆の方向に美をもとめて」)とうい詩人ともなれば、なおさらのことでしょう。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

それにしても、この潜水夫からは、無惨に破壊されて沈んでいる祖国の軍艦に対する感傷、無念さ、痛恨な思い、祖国愛といった、戦前、戦中の愛国教育を受け、国のために戦った多くの人々が持ちあわせているであろう感情は微塵も感じられません。

ただ、「なんぼくらいになるやろ」という商売人的、あるいは日傭い労働者的、プロレタリアート的な、合理でしたたかに残骸を見つめる視線があるだけです。この詩を読んだとき、私にはそれが実に爽快で気持ちよく、いつしかこの潜水夫は長谷川龍生という詩人そのものではないかと思うようになりました。

「根っから、この日本の国を信用していない」という長谷川龍生に、祖国愛は薄いといいます。「悪い国家というものの実体が判っているだけで、理想の国家像、ほんとうに大衆の住みよい、くらしよい国家像が判らないために、愛情のありかが判らない」(同上)からだそうです。

青年の日々を送る詩人の現実は、「私のまわりで、激しい変化を見せながら流動していたのであるが、私は、あまり、その波浪にはまかれなかった。唯、その波浪の恐怖を〈見る〉という行為にとどめただけで、私は、つねに、空白の意識に、閉じ込められていたのである」。

詩人は、潜水夫になって、その閉じ込められている空白の意識の海の中へと潜り込んでいます。すると、「〈見る〉という行為と、〈見ている自分が見られている〉という自意識とが、奇妙に重なって」現実が幻影化し、そこにイメージが乱出してくるのでしょう。

そうしたイメージの中から、現実とのかかわりあいのうえで、のっぴきならない〈私の存在〉を中核に材料を選択していった。そんな作業の中で、詩人の視界に現れてきた「ドキュメントという証拠物件」が、この場合には巡洋艦「鳥海」だったのではないでしょうか。

それは、「幻影といえども、現実との深い擦過点を求めた」(同上)ものだったのです。

2015年7月12日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑩

    剛よい羽毛をうち
    飛翔力をはらい
    いっせいに空間の霧を
    たちきり、はねかえし
    櫂のつばさをそろえて
    数千羽という渉禽の振動が
    耳の奥にひびいてくる。
     たんちょう類か、姉羽鶴こうのとりか
    どちらとも見わけのつかない
    奇妙なパウロウの羽ばたきが
    夜の、静かな大脳の空に、
     ひらめくとびの魚の
    胸鰭の水さばきのように
    皮膚の上から、連続的に
    ひびき、わたってくる。

「理髪店にて」が入っている第1詩集のタイトルでもある、有名な詩「パウロウの鶴」の冒頭です。

“パウロウ”は、犬のほおに管を通して唾液の分泌量を測定 する条件反射の実験で、大脳の生理機能を明らかにしたことで知られるロシアのイワン・ペトローヴィチ・パブロフに由来するとも言われています。

長谷川龍生は、自閉症だった(である)そうです。自閉症は、内気な性格や引きこもり、さらにはうつ病などと混同されがちですが、それらとは根本的に異なり、生まれつき脳の機能に障害を持つ、発達障害のひとつと考えられています。

症状には①人とのかかわりに質的な障害がある②コミュニケーションが取れない③活動や興味の範囲に著しい偏りがある、などがあげられます。

医師の診断を受けてのことか、それとも一種の「詩語」として使っているのか、長谷川がどういう意味合いで自らを「自閉症」と言っているのかを断定することはできません。

しかし、自閉症の要因を自身の血脈や、生まれあわせた広い意味での環境の中に求めていたことは間違いないでしょう。

長谷川家には墓所はあるが、家はない。明治初頭の西南の役で戦病死して血筋が途絶えた長谷川家を、縁もゆかりもないカップルが引き継いだ。それが龍生の母イクであり、父カナメだったといいます。

「私は、小さい時から、この長谷川家をぶきみな呪いのかかっている家筋として、うすうすは知っていた。誰が、どのような方法で、この長谷川家に呪いをかけたのか、それは、余り言いたくはないが、とにかく、一族中に呪いをかけた奴が存在したのである。私は、単純に、その呪いから少しでもレーダー距離を置きたかった。単に意識の距離である。距離を置きながら、一族中の最大の焦点であり、呪われた最大の癌である私の父親〈長谷川カナメ〉のくたばるのをひたすらに待った」(長谷川龍生「自閉症異聞」1968年)

どういういきさつかは知りませんが、母のイクは戦前の、龍生がまだ8歳のときに「明らかに栄養失調」で死んでいます。また父カナメは、その30年後に「徳島県の片田舎」の病院で、行路病者として誰にも見とられずにこと切れました。

このとき龍生はすでに、福井県・三国町の、縁もゆかりもない名谷家へ養子に入っています。筆名として残しているだけで、「長谷川」からは縁が切れていたことになります。

龍生は7人兄弟の五男でした。長男は一高、東大卒の数学の秀才でしたが昭和初期に変死、三男は25歳の若さで流浪の果てに栄養失調死、四男は大阪信貴山の山麓で拾われたが20歳で病死、というように、長谷川一族はほとんどが行路病死、変死の家系だといいます。

「私は、小さい時から、そのような環境の中で、自らと世の中との通路を閉ぢた。明らかに自閉症として、詩人の道をえらんだ。しかし、自閉症としては生きていくことはできない。私はそこで亡霊を創造した。現在、街をあるいたり、会社に勤めたり、他人と会話したりしているのは、私の亡霊である。亡霊だけが、自閉症の壁を、何んの制約もなくすり抜けていくことができ、社会への唯一の交流媒体として働いている」(同)

2015年7月11日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑨

《喉から頬、顎、額などを剃った後、喉の柔らかい部分がどうしてもうまくいかぬ。こだわり尽くした彼はその部分を皮ごと削ぎ取りたいような気がした。肌理の荒い一つ一つの毛穴に油が溜まっているような顔を見ていると彼は真からそんな気がしたのである。若者はいつか寝入ってしまった。がっくりと後へ首をもたせてたわいもなく口を開けている。不揃いな、汚れた歯が見える。

疲れ切った芳三郎は居ても立ってもいられなかった。全ての関節に毒でも注されたような心持がしている。何もかも投げ出してそのままそこへ転げたいような気分になった。もうよそう!こう彼は何遍思ったか知れない。しかし惰性的に依然こだわっていた。

……刃がチョッと引っかかる。若者の喉がピクツとうごいた。彼の頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。で、その早いものは彼からすべての倦怠と疲労とを取っていってしまった。

傷は五厘ほどもない。彼はただそれを見詰めて立っていた。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起こった。

かって客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打克つ事が出来なくなった。

……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと喉をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。

ちょっと間を置いて血がほどばしる。若者の顔は見る見る土色に変わった。

芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を落とした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。眼をねむってぐったりしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。全ての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた》

志賀直哉が、青年時代の1910(明治43)年に書いた短編小説『剃刀』の最後の部分です。現在の東京・六本木の理容店「辰床」の主人、芳三郎は珍しく風邪をひいて、忙しい盛りではあったが寝込んでいました。

芳三郎はもともと、この床屋の小僧ですが、前の主人がその剃刀の腕前に惚れ込んで1人娘の婿に迎えました。

芳三郎は剃刀の扱いは名人クラスだが癇の強い男で、客の肌を撫でて少しでもざらつけば毛を1本1本押し出すようにして剃らねば気が済みませんでした。客は芳三郎にあたってもらうと1日延びがちがうと言い、彼は10年間、客の顔にキズをつけたことがないことを自慢にしていました。

2人の使用人は頼りにならなかった。芳三郎は熱で苦しい身を横たえながら床の中で1人いらいらしていました。剃刀を研ごうとしても、熱で手が震えて思うようにいきません。

そんなところに、景気良く硝子戸を開けてせいの低い二十二三の若者が入ってきました。イキがった口のききようだが田舎者。節くれ立った指や凸凹の多い黒い顔から、昼間は荒い労働についていると察せられます。

剃り始めたものの思うように切れない。手も震える。水洟が垂れてくる。切れない剃刀で剃られながらも平気な顔をしている若者は無神経さが癪に触る。それでも、少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起こってくる。そして、冒頭にあげた場面になるわけです。

子どものころの私は、床屋へ行くのが怖かった。あの、剃刀があるからです。床屋に入ると、その日の機嫌を探るように理容師のおじさんの顔を覗き込むのが常でした。

さすが小説の神様、志賀直哉の描写も見事です。が、あのゾッとする瞬間を、

  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

と、5行で表現しきる詩人もまたすごい。無駄な表現が削ぎ落とされた、なんという驚くべきリアリティでしょう。

「理髪店にて」をはじめて読んだときの20歳くらい私は、この詩人は剃刀のように鋭く、冷たく、そして怖い人に違いないと思い込んでいました。

2015年7月10日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑧

最近では、男性が美容院でパーマネントウエーブをかけるのは当たり前ですし、シェービングや美顔のために女性が理容店を利用するケースも多くなっています。

しかし「理髪店にて」のころは、理容店のあの、赤青白の3色が螺旋状に回るサインポールが置かれた入口から入るのは、男に限られていたはずです。

理容(理髪)は先史時代からありました。青銅器時代の紀元前3500年ころの剃刀も見つかっているそうです。『旧約聖書』にも理容のことが書かれていますし、釈迦の10大弟子の1人ウパーリは、出家前には釈迦族の理髪師でした。

近世のヨーロッパでは、理髪師は外科医と同種の職業として扱われていた国も多かったようですが、日本では江戸時代の「髪結い」の流れをくみ、明治時代にかけては「理髪業従事者」と総称されました。伝統的な髪型が対象の理容について、「髪結い」の呼称はいまも残っています。

また江戸時代、鬢(びん)や月代(さかやき)を剃り、髪を結うことを仕事にした髪結床は床屋とも呼ばれていました。床屋という呼び方は、理髪業従事者とその店の俗称としていまも通用しています。近代的な理髪店は、文明開化の折に横浜に開業したものが第1号といわれます。

  春は早ようから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋で ござる
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

  小蟹ぶつぶつ  石鹸(シャボン)を とかし
  おやじ自慢で  鋏(はさみ)を 鳴らす
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

1923年に発表された北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「あわて床屋」では、新たな時代の理髪店で使われるようになった、文明開化を象徴する道具の一つといってもいいハサミをモチーフに、白秋らしい発想と巧みなオノマトペで歌っています。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

ハサミの普及で理髪店の主役だった剃刀は、少しずつ補助的な道具に変わっていきました。しかし「理髪店にて」の時代、もしくはこの理髪店においては、まだまだ剃刀が頑と主役を張っているように思えます。それも、「なめらかだが光なみうつ西洋刃物が」。

戦後のドサクサから経済復興へと経済が激しく動き出したころ、時代の変化に動ずることなく安定した収入が得られる理容師は人気の職種で、競争も激しかったようです。きっと、いまのカリスマ美容師と似たようなところもあったのでしょう。

そんな時代の、激動する大都会の象徴、新宿の理髪店を訪れた常連らしき潜水夫の「荒んだ黒い顔」を剃刀が滑っていく。80~90キロもあるヘルメット潜水の重い潜水服を着て、海中を這いずり回る百戦錬磨のたくましい肉体労働者。といえども、理髪師のきゃしゃな骨張った手がもしも、グサリといけば、一巻の終わりなのです。

2015年7月9日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑦

流氷の海の下を潜ってみたい、と思い立って学生のころ、ライセンスを取るためスキューバ・ダイビングの講習に通ったことがあります。北海道の海でも大丈夫なように、厚さ1センチ余りの厚めのウエットスーツを買い、積丹半島の海に通いました。

ところが、山育ちでろくに泳げもしない私には、海に潜るという作業は想像以上にハードルが高かった。エアタンクを背負い、浮力に負けないための重りをつけるとけっこう動きずらい。潜るにつれてのしかかる水圧に対処するための「耳抜き」がうまくいかず、耳がつぶされるように痛みました。

なによりも、海中にいるという閉塞感が先に立って、レギュレーター(自動調整器)から適度に送られてきている呼吸ガスがどうにも息苦しくてパニックのような状態になります。結局、向いていないなと観念し、講習の途中でやめてしまいました。

そんなのは海に向かない素人の話。スキューバなど潜水技術が進歩した現代では、訓練を積んだプロなら、思いのままに海中を動き回り、沈没船の引き上げ、救助などの困難な作業にもあたれるようになっています。

しかし「理髪店にて」のお客である戦後間もない時期の潜水夫が、映画「海猿」の海難救助にあたる海上保安官のようなイメージで、スルスルと海に潜り、サルベージの作業にあたっていたとは考えにくいようです。

スキューバは1943年にフランスで考案されたもので、海中での作業やスポーツのため世界に普及し始めたのは1950年代になってからのこと。それまでは、いわゆる「ヘルメット潜水」でした。

ヘルメット潜水は、ゴム引き帆布などの防水素材で作られた潜水服と、ガラス窓のついた主に真鍮製のヘルメットを使って、水上からホースでヘルメットに空気を供給する送気式の潜水方法です。

1900年前後に基本的なシステムが確立され、以来、水中土木作業や軍事、漁業用にも広く利用され、スキューバが普及し始めるまで実用的な潜水法としてはほとんど唯一のものでした。

潜水服はゴム引きの帆布などの防水素材で作られ、首のところが大きく開く。ここからダイバーが服の中に入り、台座を取り付けヘルメットを固定します。

ヘルメットには、空気供給ホースの接続口や排気バルブ、水上と交信するための電話装置などが取り付けられ台座に固定されているため、首はほとんど動かせません。そのため、外を見るためのガラス窓が取り付けられているのです。

潜水服やヘルメットの内容積が多く、大きな浮力がかかるので胸や背中などに重い鉛の重りをつけたうえ、直立姿勢を保てるように靴にも鉛が内蔵されています。そのため装備の総重量は80~90キロに達しました。

水上の空気供給設備さえ稼動していれば何時間でも海中にいられるわけですが、空気供給ホースが水中の障害物に引っ掛かる危険性が常につきまとい、ダイバーの水中行動は極度に制約されていました。

スキューバのように空気の給排気がダイバーの呼吸に応じて自動的に調整されるわけではないので、ダイバー自身が空気供給ホースの調整バルブとヘルメットの排気バルブの双方を操作して調整しなければなりません。操作を誤ると、窒息死や潜水服が水圧で押しつぶされて傷害を負ったりすることもありました。

身につける装備が重いため、水上では一人で移動することは困難です。水中でもフィン(足ひれ)を使って泳ぐことはなく、ほとんど水底をはうように歩いて移動する必要がありました。

わたしたちがいま抱く潜水のイメージよりも、むしろ、様々な装置がつながれた大きな膨らみを持った宇宙服を着て、ぎこちない感じの足取りで月面を歩いたアポロ宇宙飛行士の姿に近いものだったのかもしれません。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

「理髪店にて」をはじめて読んだとき私は、冒頭「しだいに 潜ってたら」の「潜ってたら」がなんとなく気になっていました。「潜ってたら」ではなく、「潜っていったら」と表現したほうが潜水の動きが出てくるのに、どうして「潜ってたら」なのだろうかと。

だが、当時の潜水事情を考えてみると、納得します。水中を人魚のようにゆらゆらと潜って行くなどという動作はできなかったのですから。

野武士のような体つきをした頑健な労働者が、決死の覚悟で水底を這うように歩いて移動する。まさに「潜ってたら」だったのです。

2015年7月8日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑥

「理髪店にて」が入っている龍生の第1詩集『パウロウの鶴』が出版されたのは1957年。敗戦の年から12年が経っていました。

この間に、大戦で海に沈んだ軍艦を引き上げ回収する計画や試みがどれくらいあったのか。沈んだ軍艦を利用する事業や商売があったのか。あったとすれば、どのようなものだったのか。私には把握できていません。

いま私にできるのは、良く知られた戦艦「陸奥(むつ)」の引き上げから推し量ることくらいです。

「陸奥」は1921(大正10)年10月に完成し、戦前の学校の教科書に描かれるなど日本海軍の象徴として国民に愛されました。

大戦中は、戦地に赴かず温存されていましたが、1943年(昭和18)年6月8日、広島湾沖柱島泊地で原因不明の爆発事故を起こし、沈没してしまいます。

乗員1474人のうち助かったのは353人だけ。死者のほとんどは溺死でなく爆死でした。

爆沈直後から海軍は再戦力化に向けて「陸奥」引き上げを検討していました。しかし調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されて諦めました。

占領下の監視のため終戦直後には浮揚作業はできず、1948(昭和23)年になってから、西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。

しかしこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こって作業が中断されてしまいます。「はぎとり事件」とはどいういうものだったのか。それを知る手がかりとして、少し長くなりますが、1952(昭和27)年6月30日の衆議院本会議における当時の内藤隆・行政監察特別委員長の発言を引用しておくことにします。
     
 《国有財産管理処分に関する事件の第三に、山口県岩国市の沖になぞの爆沈を遂げた軍艦陸奥のはぎとり事件と称せられるものであります。

これは、西日本海事工業株式会社が、山口県知事の許可を得て、搭載物資たる燃料、食料品、繊維品、非鉄金属類の引揚げを企てたことに端を発するものでありますが、当時陸奥は、連合軍からわが国に返還されていなかつたので、極東海軍司令部から抗議が来たために、一時この計画は中止されたのであります。

その後、建設省が主体となり、あらためて搭載物件の引揚げ及び処分をその責任において実施することの許可を得たので、建設省にその実施監督を山口県知事に委任し、引揚げた物件は一般の返還軍需物資、すなわち特殊物件の処分方法により、政府の指示に従つて売却するということになつたのであります。

ここにおいて、山口県知事は、あらためて前述西日本海事工業と契約を結び、引揚げ作業が再開されたのでありますが、この作業継続中、朝鮮事変が勃発して、金属類の価格が暴騰し、また陸奥の艦体有体が連合軍からわが国に返還されるに至つたのであります。

今までは引揚げ許可を受けた物件だけが特殊物件として返還されたのでありますが、今度は艦体そのものも返還されたのでありますから、建設省の所管においての引揚げ物件の範囲、すなわち搭載物件は何ぞやということが問題となつて来たのであります。

大蔵省、建設省、山口県当局の見解は、艦と一体をなす機械類、裝備品は搭載物件ではないとしているのでありますが、会社側はこれをきわめて広義に解し、艦体をどんどん破壞して、重要機械類、裝備品を引揚げ、またこれを無断で処分してしまつたのであります。

しかるにかかわらず、山口県の監督の任に当つている係員は、県が搭載物件でないとしている物件の引揚げを黙認記し、また無條件に契約量を超過する引揚げを認め、火薬に対しても申請通りの数量の使用を許可しているのであります。

これは、県と会社とが共謀して、特殊物件の名のもとに国有財産を窃取横領したのではないかとの疑いも起りますので、本委員会はこの点を追究しましたところ、結局搭載物件に関する見解の相違と、県がこの仕事を一係長にまかせ切りであり、この係長がまつたく傀儡的存在となつて会社側に翻弄されていたことが判明したのであります。

なおこれに加うるに、建設省が三回目の期間延長に際し、何ら実情を調査しなかつたことが、不正行為にさらに拍車をかけた結果となつたことも否定しがたく、中国財務局もまたその所管となりた後、單に一片の書類による警告を発しただけで、全然現地調査をしていないというように、行政官公署の事務懈怠が禍因をなしていることも否定できないのであります。

山口地方検察庁は、本年四月十五日、西日本海事工業社長武岡賢に対し、業務上の横領罪で起訴しておりますが、大蔵省、建設省、山口県当局は、損害の共同調査を遂げ、西日本海事工業に対し求償すべき責任があるというのが、本委員会の結論の一つであります。

なお、本件調査中、陸奥艦内には約一千柱と推定される多数の英霊と殉職者の尊き遺体が眠つていることが判明いたしましたので、関係官庁を証人として喚問し、英霊に対する事後の行政措置につき、その善処方を要求したのであります。遺家族多数より、委員会に対し、激励と感謝のり書状が参つております》

長谷川龍生が「理髪店にて」の着想を得たころはきっと、こうした陸奥の「はぎとり事件」のような軍艦のサルベージ作業を巡るあれやこれやが話題になり、新聞などが盛んに取りあげていたのでしょう。

「陸奥」の乗組員の遺族たちは、それでも諦めることはなく、1955(昭和30)年5月には2度目の陸奥遺体引揚請願書を国会に提出。翌1956年には、浮田信家・元海軍中佐が遺族会代表宅を訪れ、「多くの軍艦が沈んでいるので陸奥だけを引き揚げるのは出来ない」旨を知らせますが、引き揚げ運動は粘り強く継続されます。

そして1970(昭和45)年、ようやく深田サルベージ株式会社の主導でサルベージが再開され、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収。1971(昭和46)年には艦尾の浮揚にも成功し、第4砲塔も引き揚げられて中から遺骨数体が回収されています。

2007年には、第6管区海上保安本部の測量船の探測機が「陸奥」の船影を捉えています。このころまでに7割程度が浮揚されたましたが、いまも艦の前部など一部はは海底に残ったままです。

ついでだが、「陸奥」の鋼材が、思わぬところで重宝がられているエピソードがあります。現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦にコバルト60という放射性物質を含ませて、そこから出るガンマ線によって破損箇所を調べるシステムを取っています。

そのため、放射性物質の一部が鉄に混入してしまいます。しかし戦前に造られた「陸奥」の鉄材には、そうした放射性物質は含まれていんません。このため引き揚げられた「陸奥鉄」は、精密な放射線測定機の遮蔽材などに最適というわけです。

「陸奥」が沈没したのは国内の、浅い瀬戸内海の海底でした。それでも、サルベージは困難を極めるたいへんな作業だったと考えられます。なんといっても巡洋艦「鳥海」が沈んだのは、遠くフィリピンのサマール沖なのです。「理髪店にて」に出てくるサルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店のお客は、そんな遙かな異国の海に潜ったということになります。

  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

つまり、5基10門が搭載されていたと思われる「鳥海」の口径20センチの大砲は「八門までなく」、4基積んでいたはずの3センチ口径の高角砲(仰角の大きな機関砲)などひとつもないほど、ひどくやられていたのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

それにしても国内でも大変なのに、遙かな異国の海で大がかりなサルベージ作業をするというのはただならぬことです。前述したように「鳥海」の乗組員は全員死亡しましたが、それは駆逐艦「藤波」に乗り移った後でのこと。「鳥海」に、亡骸が残されているはずもないのです。

とすれば、その時代の最先端の技術の粋を集めて造られた軍艦は、たとえ海に沈んでしまっても「宝の山」的な要素をたくさん持ち合わせていて、それをねらってもぐったということでしょうか。

サルベージ会社の潜水士とおぼしきお客は、秘かに潜って見つけた巨大な鉄の残骸に搭載されているであろう燃料、機械類、食料品、繊維品、それに艦体の鋼材などの「はぎとり」をしていったら2000万円くらいにはなりそうだとざっとはじき出し、ちょっぴりほくそ笑みながら、海面のほうへと上っていったのでしょうか。

2015年7月7日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑤

サルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店の客がしだいに潜って見つけた巡洋艦「鳥海」の巨体。それは、

  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし

でした。理髪店の客は、三菱長崎で誕生したばかりの「鳥海」を見ていた。そしてまた、海に沈だ「鳥海」の最期の姿をもまのあたりにしているのです。

三菱長崎というのはたぶん、いまも長崎県にある三菱重工業長崎造船所のことでしょう。

長崎造船所は1857年(安政4)年、日本初の艦船修理工場である「長崎鎔鉄所」として誕生しました。1887(明治20)年には、明治政府から三菱に払い下げとなり、その後、民営の造船所として多くの艦船を建造しました。

特に民間で建造された初の戦艦である1915(大正4)年竣工の「霧島」や1942(昭和17年)の 戦艦「武蔵」がよく知られています。

また、「鳥海」と同じ重巡洋艦の「古鷹」「青葉」「羽黒」「三隈」「利根」「筑摩」も造られています。

「理髪店にて」が収められた詩集『パウロウの鶴』は、敗戦から10年あまり経った1957年に、書誌ユリイカから出版されています。長谷川龍生が29歳のときのことです。

同詩集の中に、「造船の夕暮」という作品があります。

  第四船台をぬけて
  夕ぐれのなぎさに立つ。
  なみ、たちせまる彼方
  飾磨の海空はくもっている。
  あらい縞げむりの吐きむらがるところ
  あれが広畑だと三菱の友がいった。
  ある秋たけた夕ぐれの海だった
  国籍不明の貸船が岸壁に近づくや
  木っぱになったスクラップの山を
  そのままごっそりと陸揚げし
  霧の海路を去っていった。

大阪市船場に7人兄姉の末っ子として生まれた龍生は、終戦前後にあたる10代後半から20代にかけて、さまざまな労働に携わりながら各地を放浪し、「詩を考えること」に終始する生活を送っていました。

「若いころ、港湾地帯の俗に言う“一本かつぎ”の重労働に従事したことがある。天秤棒のしなるリズムとしなるリズムと、足もとの水の上をわたしてある送り板の揺れ、腰力の切り方、左右のバランス、腰そのもののはこびが、たいせつであった。そのときは、労働がきびしくて、むだな“ことば”も交わせず、もくもくとして一日がうちすぎていった。いまからおもうと、そのような細密な肉体のうご
きは、からだの“ことば”ではなかったかとおもう」(1976年12月『国文学・解釈と鑑賞』の「“ことば”と体験」)

「造船の夕暮」は、そんな、阪神工業地帯で労働者として働いていた時の作品です。

この詩について、『パウロウの鶴』のあとがきで長谷川は「十数年経って、最近、それらの工業地帯をあるいて見て、日本の基幹産業の技術革新がもうれつな勢いで成長しているのを目の当りに見た。私は、もう一度、重工業地帯に目をすえて詩を考えようと思っている」と記しています。

龍生自身が、長崎造船所に行ったことがあるのか、「鳥海」が沈んだ現場を訪れたことがあるのかどうかは分かりません。しかし『理髪店にて』を書いたころ、「造船の夕暮」にもあるような三菱の関係の友人があり、そちらの方面の情報をかなり持っていたことが予想されます。

そして当時の重工業の象徴的存在だった「造船」というものに、軍艦をはじめとする船に対して、一方ならぬ興味を抱き、その本質を労働者として体で見極めようとしていたことは間違いありません。

2015年7月6日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」④

1932(昭和7)年に就役した「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」の高雄型重巡洋艦4隻は、太平洋戦争で各地を転戦、多くの戦果を挙げました。しかし4艦そろって参加したレイテ沖海戦で、「高雄」を除く3艦は相次いで沈没します。

高雄型で唯一生き残った「高雄」も、レイテ沖海戦のときの修理が済まない航行不能の状態で、シンガポールで終戦を迎えることになります。

レイテ沖海戦は、1944(昭和19)年10月23日から25日にかけて、フィリピンとその周辺海域で起こった日本海軍とアメリカ海軍など連合国軍との一連の海戦。この戦いの結果、日本海軍の連合艦隊は事実上壊滅し、太平洋戦争の趨勢は決したともいわれています。

そのころになると巡洋艦の主要な敵は、「鳥海」や「高雄」が造られたころ想定されていたような魚雷ではなく、航空母艦などから飛び立つ飛行機になっていました。

戦艦に代わって航空母艦が主力になると、それを護衛する防空艦も必要となります。米国では防空巡洋艦がたくさん造られ、日本軍は巡洋艦を防空巡洋艦に改造しようと計画しましたが思うようには進みませんでした。

さらに、米国ではすでに戦前に造った巡洋艦への魚雷搭載を廃止していたのに、日本は依然として魚雷戦に固執した装備しか持ち合わせていなかったのです。日本軍の巡洋艦は、時代の趨勢に逆行していたわけです。

詩「理髪店にて」の前半の主人公、重巡洋艦「鳥海」は、そんな宿命を背負ってフィリピンの中部にあるサマール島沖合の海へと進撃し、最期を迎えることになります。

「鳥海」がレイテ沖海戦に突入した1944(昭和19)年10月23日、高雄型4艦すべてが米潜水艦の攻撃を受けるものの、「鳥海」だけは被害を受けずに済みます。翌24日の米航空機部隊の攻撃でも損害はありませんでした。

しかし、25日のサマール沖の海戦では、米駆逐艦の砲撃や護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃を受け、右舷船体中央部に被弾。甲板に装備していた魚雷が誘爆して、機関と舵が破壊される致命傷を負います。

さらに艦載機部隊の攻撃では、機関室前方に500ポンド爆弾を受け、火災とともに大破。そして、この日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷によって処分されています。乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」も空襲で撃沈され、両艦の乗組員全員が死にました。

沖合が海戦の舞台になったサマール島は、フィリピン中部にあるヴィサヤ諸島の一つ。面積約1万3000平方キロで、ルソン島、ミンダナオ島に続いてフィリピンで3番目に大きい島。南西にあるレイテ島とは、最狭2キロの幅の狭い海をはさんで隣り合っています。

さて、このへんで「理髪店にて」にもどることにしましょう。

  しだいに
  潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。

冒頭の5行、句点で括られた一つの文からすれば、鏡を前に椅子に座って散髪してもらっているお客は、沈没した船を引き上げる仕事をしているサルベージ会社の潜水夫ということになるでしょう。

「鳥海」が海中深く、藻に包まれてどうと横になっていた。ということは、戦艦「武蔵」など多くの艦艇が沈み、約1万人が犠牲になったとされるレイテ沖戦の悲劇の海の深みへと、この潜水夫は潜って帰ってきたばかり、あるいは潜水作業に携わった特別な経験の持ち主ということになります。

2015年7月5日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」③

長谷川龍生の詩「理髪店にて」に出てくる「鳥海」は、高雄型と呼ばれる4隻の重巡洋艦の一つです。高雄型は、大日本帝国海軍が“最後の重巡洋艦”として計画建造されました。

巡洋艦というのは、「大和」に象徴されるような大型で鈍足の戦艦と、魚雷や砲撃など機動性に飛んだ駆逐艦の中間に位置する軍艦をいます。スピードでは戦艦に勝り、総合的な攻防力や耐波性では駆逐艦を凌駕するそうです。

巡洋艦はもともと、電波による通信がまだ発達していなかった時代に、情報を伝達したり、敵の在処を探ったりしたコルベット船やフリゲート船のような役割を担うものでした。

しかし水雷艇や駆逐艦が生まれてからは、それらより大型で遠洋航海能力が高く、艦砲を主装備している軍艦をさすようになりました。

巡洋艦のなかで大型のものを、重巡洋艦といいます。1930年のロンドン海軍軍縮条約では、砲口径6.1インチ(155ミリ)を超え、8インチ(203ミリ)以下の艦砲を搭載する1万トン以下の巡洋艦を指しています。

高雄型は、前身の妙高型を引き継ぐ重巡洋艦で、藤本喜久雄造船大臣が設計を担当しています。

本艦の主砲は「50口径3年式20センチ砲」と呼ばれているもので、砲口の初速は毎秒870メートル。110キログラムの砲弾を仰角45度で、29400キロまで到達させることができたといいます。

据えられた新型の砲塔は、最大仰角が70度に及び、対空砲弾用に専用の揚弾機を備えていました。

とはいえ、実際のところ、砲弾が重すぎて砲弾の射撃間隔が長くならざるを得ず、発射速度も遅くて、実践で十分威力を発揮できるものではなかったようです。

前のタイプである妙高型の「足柄」が1937年、英国王戴冠記念の観艦式のため欧州へ派遣されたとき、乗艦した英国の新聞記者は「私はきょう初めて軍艦というものを見た。いままで見てきたのは客船だった」と評しとか。

これくらい、当時の重巡洋艦は船内で暮らしの居住環境は劣悪だったのです。

高雄型は、悪評をかった狭い居住区域を広くするなど、乗組員のすみやすさに配慮されました。艦隊の指揮能力を高めるため、ブリッジの大型化するなどの改良も施されました。

龍生の詩に出てくる「鳥海」は、高雄型のなかでもとりわけ内装が豪華だったとも言われています。

「鳥海」をはじめ「高雄」「愛宕」「摩耶」の高雄型4隻は、1932(昭和7)年に就役。、1934年11月には、4隻で海軍第二艦隊第4戦隊を構成します。

それは、詩人がまだ、小学校へ入ったばかりのころでした。

2015年7月4日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」②

詩「理髪店にて」は、前半13行と後半8行の2連から成っています。舞台は「新宿のある理髪店」。散髪の客が鏡の前に座って、何やら話をしながら理髪師に剃刀をあててもらっています。

その話の内容が、いきなり誘い込むような書き出しで1連目の13行で語られます。客が口にしていた「そんな話」は、いまの感覚からすると、床屋の世間話にしてはなんとも重苦しい。

「潜って」いたら、海に沈んで「青みどろに揺れる藻」に包まれて横たわる「鳥海」という巡艦を見つけた、というのです。

1連目の主役は、その「鳥海」。2連目のほうは、後に折った剃首の肌を滑っていく「なめらかだが光なみうつ」西洋刃物でしょう。

海の中にある重々しく巨大な残骸となった軍艦と、生きている人間の首をすっすっすうっと走ってゆく危うい刃物が、言葉を通して鋭く交わりあいます。

戦後、だいぶ経ってから生まれた私にとっては、戦艦といわれて姿形をなんとなく察することができるのは情けないかな、「大和」くらいなものです。そもそも「鳥海」とは如何なるものだったのでしょう。

「鳥海」は、全長204メートル、全幅19メートル、排水量1万3千トン、乗員760人の重巡洋艦だ。名前は、山形と秋田の県境にある火山、鳥海山(2236メートル)に由来しています。

長谷川龍生が生まれた昭和3(1928)年に、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。昭和6(1931)年に進水、昭和7(1932)年に就役しています。

昭和17(1942)年、ガダルカナル島へ向け出撃し第1次ソロモン海戦に参加。昭和19(1944)年にはマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参戦した後、10月25日のサマール沖海戦でアメリカ艦隊と交戦して最後を迎えました。

米駆逐艦、護衛駆逐艦からの砲撃と護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃で、右舷船体中央部に被弾、甲板に装備した魚雷により機関と舵が破壊され、戦列を離脱。

さらに、艦載機部隊の攻撃で、機関室の前方に500ポンド爆弾を浴びて大破。その日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷で処分されています。

乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」もその後の空襲で撃沈。両艦の乗組員全員が戦死しています。

2015年7月3日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」①

  理髪店にて

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。

私にとって、10代のときに決定的な影響を受けたのが宮沢賢治の『春と修羅』なら、20代で最も大きな衝撃を受けたのは、この詩が入っている長谷川龍生の『パウロウの鶴』でした。

ふとしたときに、いまもしばしば読み返すこの詩集の「理髪店にて」をここで、再び読むことにします。

『パウロウの鶴』は長谷川の第1詩集で、1957年に書肆ユリイカから出版されています。3部構成、50編あまりからなるこの詩集の第2部のまん中あたりにあります。

賢治は、私が生まれたときにはすでに偉人として伝記になった人。その、恐れ多くもある伝説を一枚ずつはがしながら読んでいかなければならないようなところがありました。

しかし長谷川は、まだまだ書き続けている現代を代表する詩人のひとりです。私にとっては、ちょうど父にあたる世代で、20年以上にわたって教えを受けてた師でもあります。

詩の中身に入る前に、ウィキペディアから「長谷川龍生」について整理しておきましょう。

【長谷川龍生】 はせがわ・りゅうせい。1928年(昭和3年)6月19日~。大阪文学学校校長。元日本現代詩人会会長(1997-2000年)。「歴程」同人

個人の内部にある素朴な意識を即物的かつ幻想的に表すことのできる異色の詩人として、18歳でデビュー。その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は貫徹しており、抒情のみに流されず真実を徹底して追究していく姿勢は、デビュー時より今日まで全く変わらない。

関係妄想を駆使した詩や、ドラマの中に動的なダイナミズムを感じさせる、この詩人ならではの作品を数多く書いている。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。

主な詩作方法として、自ら打ち出した「移動と転換」、「シュールドキュメンタリズム」を採用している。

大阪府大阪市船場出身。七人兄姉(五男二女。兄四人は夭折)の末っ子として誕生。 幼少の頃より失語症に陥る。母の死、父の失踪などを経て多感な青春時代を過ごす。

異常な読書家で、小学校を卒業する頃には夏目漱石全集などをすでに読破していたという。得意科目は数学。国語の成績は決して良くなかったという。

15歳頃から創作を始め、当初は小説家を志して作家の藤沢桓夫への弟子入りを試みるが、藤沢から「きみは詩のほうに向いている」と詩作を薦められ、そこで後に師となる小野十三郎と出会う。

その後、病身・貧窮など困難にあたりながらも勉学を続けるも大学進学は断念。全国各地をくまなく巡る放浪の旅に出る。

1948年浜田知章の個人雑誌「山河」に参加。その後50年「新日本文学会」に入会、52年には関根弘、菅原克己、黒田喜夫らの同人誌「列島」に参加、57年には第一詩集『パウロウの鶴』を書誌ユリイカの伊達得夫の尽力で世に送り出し、第8回H賞(現H氏賞)の次点となる。

58年には鮎川信夫、関根弘らの「現代詩」にて編集長を務める。60年には安部公房らと「記録芸術の会」を結成、詩人に留まらず多くの芸術家と交流を持った。特に花田清輝には多大な影響を受ける。この頃、安部公房に新宿の中華料理店に倉橋由美子と共に招かれ、後に安部の傑作『砂の女』のモチーフとなる話をする。

63年の冬から翌年の初春にかけて、日ソの作家交流を兼ねて初めての海外旅行でソ連各地(モスクワ、レニングラード、カリーニングラード、リガ、ミンスク、キエフなど)に3ヶ月ほど滞在。

この旅がきっかけでその後、世界各国を旅行(長谷川はこれを「遊行」という言葉をもって示す)するようになり、この頃から長谷川の作品の傾向は、急激に世界へと視線が注がれていく。

詩人としてのみならず、57年の処女作『パウロウの鶴』をもって電通専属のコピーライターに抜擢され働いていたこともある。また、東急エージェンシーの広告企画部長としても幅広く活躍した。とりわけコピーライティングにはその抜群のセンスが発揮された(クリスマス当日の新聞における「今日のサンタはパパだった」など)。

70年大阪万博では、サミー・デイヴィスJr.、マレーネ・ディートリッヒ、スヴャトスラフ・リヒテルなど、外国人ゲストのコーディネーターを務め、成功を収める。

その後、万博の終幕と共に会社を終われ、詩作に集中するようになるが、書き上げる詩は「(早くも戦後詩集の代表作ともなった)『パウロウの鶴』の自己模倣に過ぎない(飯島耕一)」と指摘されることもあり、苦難の日々が続いた。

40代を過ぎてもう一度「新人」として書き上げた、78年の『詩的生活』で第9回高見順賞受賞。 その後、アメリカやヨーロッパ、中東などを一人旅し続けながら、旅行時に世話になったあるフランス人女性をモデルにした『バルバラの夏』や、自身の怪奇体験をもとにした『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』などで、よりドラマティックな傾向を強めると共に、『知と愛と』、『泪が零れている時のあいだは』などでは、人間の純粋な精神志向を強く描き出していった。

02年には、13年の沈黙を破って『立眠』を刊行。その磨き抜かれた批評によって保たれる詩的世界はもはやどの詩人をしても手の届くものではなく、これをもって「現在における日本詩人の最高峰に立つ(平林敏彦)」と評価されている。(『立眠』は一度、その年度を代表する詩集に与えられる現代詩人賞の最有力候補として上げられたが、長谷川は辞退した)

映画『おくりびと』の原案となった『納棺夫日記』の著者青木新門にその本を書くきっかけを与えたのは長谷川である(『納棺夫日記』あとがきより)。

【著作】
『パウロウの鶴』(1957年 書肆ユリイカ H氏賞次点)
『虎』(1960年 飯塚書店)
『長谷川龍生詩集』(1967年 思潮社)
『現代詩論6』(1972年 晶文社 片桐ユズルとの共著)
『泉(ファンタン)という駅』(1975年 サンリオ出版)
『直感の抱擁』(1976年 思潮社)
『詩的生活』(1978年 思潮社 高見順賞受賞)
『バルバラの夏』(1980年 青土社)
『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』(1982年 造形社 画・赤瀬川原平)
『知と愛と』(1986年 思潮社 藤村記念歴程賞受賞)
『マドンナ・ブルーに席をあけて』(1989年 思潮社)
『泪が零れている時のあいだは』(1989年 思潮社)
『立眠』(2002年 思潮社 現代詩人賞受賞辞退)