2015年8月31日月曜日

金子光晴「燈台」⑭

  燈台

    一

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにただよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつつたつた、
いつぽんのしろい蝋燭。
――燈台。

    二

それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
(こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
包茎。
禿頭のソクラテス。
薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
燈台はただよひ、

燈台は、耳のやうにそよぐ。

    三

こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
――神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
………………。
………………。

つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
雷鳴。
いや、いや、それは、
燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
ひつつこい蠅ども。
威嚇するやうに雁行し、
つめたい歯をむきだしてひるがへる
一つ
一つ
神託をのせた
五台の水上爆撃機。

     ◇

「天皇制」というような日本という国の本質に深く根ざした、政治的でデリケートなテーマに、まっ向から、しかも、グローバルでありながら低い目線からの確かな視座と、文学的素養を持って挑んだ詩人が、金子光晴のほかにいたでしょうか。いるでしょうか。

光晴は自らの詩人としての姿勢について、次のように書いています。

「純粋詩の主唱者たちにとっても、政治的意義を持った詩は、非詩なのである。その人たちの立場から、僕は、それを至極もっともなことと思っているし、僕が、対蹠的な立場で政治的悪臭の強い作品をつくっているからといって、ただちに、相手どって反駁する筋合いのものでもあるまい。

そして、僕にとっては詩の完成などは、まず第二段で、ある政治に抵抗するために、便宜な一方法としてふたたび詩を選んだという経緯なのだから、詩作態度のうえでも他人にまでおのれを見習うようにと強いるほどの自信を持っていない。

しかし、僕のように必要条件から、詩作をはじめるということも、僕にはきわめて自然なことのように思えるのだ。純粋な詩の動機などということは、百年待っても僕のうえには起って来そうもない奇蹟なのだ。

僕の政治への関心も、御多分にもれず、不平、不満というかたちで出てきている。やるかたない不平、不満に、若干のニュアンスをつけたものが、僕の詩だと思えば、まちがいがない。僕の不平、不満は、僕の詩のきっかけということになる。」(『日本の芸術について』)

光晴は戦後も、あいかわらずの貧苦のなか、純粋詩を書き続けます。そして、1975(昭和50)年、この世を去りました。享年79歳。一子、森乾は詩人としての父に次のように書き残しました。

「執念深いまでに詩に愛着した父の死は、最後の古いタイプの詩人が消滅したという点で反ってサバサバする面もあろうが、あんなに詩に片よった愛憎をよせる詩人ばかはもう出現しないだろうから、我が国の詩壇や詩人にとって一つの損失であることも事実だろう」

どんなに美しい、手の込んだことばを並びたてたところで、権力や権威にへつらい、真実の声から離れた詩になんの価値があるのでしょう。詩も、言論活動のなかにあるのです。

ゆく道を見失いそうになったときに、私はいつも光晴の詩を読み返す。すると、まるで真っ暗な海を航海している最中に見つけた一本の燈台のように、心強く、勇気づけられます。

2015年8月30日日曜日

金子光晴「燈台」⑬

  「犬と某々国人入るを許さず」と  
  おのが生れた土地の公園に書き出されて
  それでも黙つてゐたのはつい昨日の事だ。
  日本一たび起つて米英蘭を撃つ。
  大東亜圏内に今かかる横暴の文字無し。
  天上天下、
  アジヤの住民アジヤを護り、
  アジヤの良民アジヤをたのしむ。
  これを非とする神は此の世にいまさぬ。
  これを非とする理不尽は唯彼等の我慾だ。
  世界の選良と思ひ上つた彼等の夢が
  逐はれた彼等を歯がみさせる。
  昔日の非道に未練をすてない
  米英蘭の妄執断じて絶つべし。
  大東亜の同胞われら日本の義を知り、
  われらの神とともに彼等を撃つ。
  公明天日の如きわれらの理念と
  無比の武力と甚深の文化と
  今や世界の蒙昧をひらくのみだ。

1942(昭和17)年に高村光太郎が作った「神とともにあり」という詩です。

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。
     〔中略〕
  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

「われらの神」とともに撃とう呼びかける光太郎に対して、「燈台」の詩人は神を曳きずりおろせと叫びます。ともに美術家で、世界を旅してまわった両詩人の、戦争における姿勢はまったく正反対のものでした。

太平洋戦争が始まってから光太郎は、「十二月八日」「彼等を撃つ」など、他にも多くの戦争協力、戦争賛美詩を発表していきました。戦中、「此の大いなる日に生くる身の衷情と感激を伝へたいと思ふばかり」で、詩集『大いなる日』も出しています。

詩壇は日本文学報国会に吸収され、「詩によって君国に報ずる道」を選ばされました。村野四郎「撃滅の賦」、三好達治「捷報臻る」、西条八十「若鷲の歌」、壺井繁治「指の旅」など、光太郎に限らず多くの詩人たちが戦争協力詩を書いていきました。

1945(昭和20)年8月15日が来ます。光晴たちは、蓄音機でセント・ルイス・ブルースをかけて、狂喜のあまり踊りまわりました。「そろそろ、疎開から引き上げようか」。家族でそんな話も出ましたが、光晴たちは終戦後も1年間、疎開地にとどまります。

光太郎をはじめ詩人という詩人が戦争に協力する中で、ほとんどただ一人、発表のあてもなく反戦詩を書き続けた光晴。

その彼が、終戦とともに軍国主義から民主主義へと急転するとたちまち、今度は抵抗詩人として一躍もてはやされることになるのです。けれども、そうした世上に光晴は、逆に深い疑念を抱くようになります。

〈僕は、詩の世界で、少々過分な待遇を受けるようになったが、それに乗ってゆくには、過去の苦しみがひどすぎた。軽佻な大衆を信用できなくなってしまっていたのだ。

戦争中、戦争詩を書いていた連中は、丁度、いまの僕のように、ちやほやされた。そして、チウインガムのようにカスは吐きすてられた。僕は、おもちゃにされたくないという気持から、できるだけジャーナリズムから遠ざかって生きてゆくようにした。

僕は、僕を甘やかすもののなかに敵をみないわけにはゆかなかった。そればかりか、僕の性格は、あれほど僕がまもりつづけた筈の自由のよろこび、ヒューマニズムと名のつくものに対してさえ、猜疑の目をむけずにはいられなかった。

それがあまりにたやすく使われ、おしつけがましく横行しはじめたとき、一億玉砕の時期以上に、人間への不信が輪がかけたものになってきはじめた。〉(『詩人』)

2015年8月29日土曜日

金子光晴「燈台」⑫

1937(昭和12)年には「燈台」の入った詩集『鮫』を、1940(昭和15)年には『マレー蘭印紀行』をと、戦時下の体制が強化され国をあげて戦争に深入りしていく中でも光晴は、非協力、反戦の詩を書き続けました。

しかし「厚く偽装をこらして」発表をつづけてきた作品も、次第に危険視され、文壇からも敬遠されていきます。

1944(昭和19)年11月14日、東京への最初の空襲。光晴が住んでいた吉祥寺に近い、中島飛行機製作所に爆弾を投じていきました。以降、東京は106回の空襲を受けることになります。

「この戦争では犠牲になりたくない。他の理由で死ぬのならかまわないが……」、そんな「意地っ張り」から光晴は、山梨県山中湖畔の平野地区にある旅館の別荘を借りて疎開することに決めます。

〈落葉松の林のなかに、安い借家普請のような、その別荘と称する家も建っていた。零下二〇度の寒さで、掛布団が吐く息で凍り、インキは氷になって、櫓炬燵(やぐらごたつ)のなかでとかしてから使わねばならなかった。

さすがに空気だけは、清澄だった。障子一枚のむこうにみえている湖水は、鈍く凍りついて、晴れた陽はまぶしく照返し、胸を突きあわせるように近々と富士山が聳えていた。〉(『詩人』)

有名な詩「富士」は、この疎開中に作られました。

  重箱のやうに
  狭つくるしいこの日本。

  すみからすみまでみみつちく
  俺達は数へあげられてゐるのだ。

  そして、失礼千万にも
  俺達を召集しやがるんだ。

  戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
  誰も。俺の息子をおぼえてるな。

  息子よ。
  この手のひらにもみこまれてゐろ。

  帽子のうらへ一時、消えてゐろ。

  父と母とは、裾野の宿で
  一晩ぢゅう、そのことを話した。

  裾野の枯林をぬらして
  小枝をピシピシ折るやうな音を立てて
  夜どほし、雨がふってゐた。

  息子よ。ずぶぬれになつたお前が
  重たい銃を曳きずりながら、喘ぎながら
  自失したやうにあるいてゐる。それはどこだ?

  どこだかわからない。が、そのお前を
  父と母とがあてどなくさがしに出る
  そんな夢ばかりのいやな一夜が
  長い、不安な夜がやつと明ける。

  雨はやんでゐる。
  息子のゐないうつろな空に
  なんだ。糞面白くもない
  あらひざらした浴衣のやうな
  富士。

山の中の村に疎開したからといっても、もちろん、戦争から自分たちの生活が隔離できるはずはありません。敵機は幾編隊を組んで富士山をめがけてやってきました。そして一子、乾への召集令状がまた届きます。

〈二年目の子供の召集状が、山のなかにまでとどいた。平野村には七十何歳の老医師が一人いた。僕は、再度、子供を松葉いぶしにして、喘息発作を誘発し、老医者を招いて、現に病状をみせ、診断書を書いてもらうとそれをもって上京した。

三月の大空襲のあった日だった。本部まで出むいて、僕は、係官に会い、診断書をみせて、事情を話し、また一年引きのばしてもらうことにした。空襲がはげしくなってからは、招集状も届かないものが多く、軍では、あつまった人員だけをかきあつめるようにして現地に送るより仕方がなくなっていた。

それも、多くは現地へ送る船舶に不足して、主として敵上陸に備える内地防備の方へ廻されることになったらしい。子供のことが安心となれば、僕らとしては、これで一片づきだった。

だが、このことの結果が、いずれ、大きなしっぺい返しとなってかえってくることだけは、覚悟していた。最後の段階では敗戦とわかっていても、そこに至るまでに、かえって身の危険があると考えたのは、まだ、日本の軍の力を過信していた証拠であろう。

インテリのこまかいリストが作りあげられ、本土作戦の前には、そういったあいまいな分子は、大量虐殺されるというようなデマがとんでいた。ありそうなことだった。〉(同上)

「富士」が収められた詩集『蛾』のあとがきに光晴は「全篇に哀傷のやうなものがただようてゐるのは、いつ終るかもしれない戦争の狂愚に対する絶望と歎きのよりどころない気持からで、いつはりなく弱々しい心になってゐた」と当時の心境を記しています。

2015年8月28日金曜日

金子光晴「燈台」⑪

  辛子のやうに痛い、ぶつぶつたぎつた戦争にむかつてやつらは、むやみに引金をひいた。
  いきるためにうまれてきたやつらにとつて、すべてはいきるためのことであつた。
  それだのに、やつらはをかしいほどころころと死んでいつた。
  リーベンたちは一つ一つへそのある死骸をひきずつてトラックにつみ、
  夜のあけきらぬうちにはこんで川底に、糞便のやうに棄てた。
  ふるさとのあるやつも。ふるさとのないやつも。

  そのからだどもはやつぱり、塞がつたり、あつがつたりするからだだつたのに。
  いまはどれも、蓮根のやうに孔があいて、肉がちぎれて百ひろがでて、かほがくつしやりとつぶされて。
  あんまりななりゆきに、やつらは、こくびをかしげ、うではひぢに、ひぢはとなりのひぢに、あわてふためいてたづねる。
  ――なぜ、おいらは、こんな死骸なんかになつたのかしら。

  だが、いくらかんがへてみても駄目だ。やつらの頭顱(とうろ)には、むなしいひびきをたててひとすぢに、濁水がそそぎこむ。
  氾濫する水は、――「忘れろ」といふ。

  こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。
  おいらは、これで満足といふわけか。
  だが、水は、やつぱり「忘れろ」といふ。

「燈台」が入っている詩集『鮫』にある「泡」という詩の一部です。中国ではじまった戦争の無惨さに対して、単に人道主義的な叫びを上げるのではなく、実態をからだで受け止め直視しているのです。

「こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。」と腹の底からの問いを発します。そして行きついたものは、日本という国の「そらのふかさ」をつくっている理不尽な「神」の存在だったのです。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

1932(昭和7)年に、長い海外への旅から帰ってきた光晴の眼には、日本人をがんじがらめにしている天皇を頂点にした権力機構が、異様なものとして写っていたのでしょう。

「いまの日本人ほどの文化教養がありながら、いきなり飛びついてゆける天皇イズムの強力な魅力の正体について、どうしても合点がゆかないところがあった」(「政治的関心」)のです。

当時、光晴はマックス・シュティルナー(1806~1856)の思想に強い影響を受けていました。

いかなる人間的共通性にも解消出来ない自我のほかのすべてを空虚な概念として退け、自己が自らの有する力によって所有し消費するものだけに価値を認める“徹底したエゴイズム”の立場から、個人を阻害する国家などのあらゆる権力を否定する、アナキズムともいえる立場を主張したドイツの哲学者だそうです。

そうした中で、「天皇制権力機構への批判」を象徴的に歌いあげた「燈台」を作った背景について首藤基澄は、『金子光晴研究』で次のように指摘しています。

〈天皇はただに政治的な側面ばかりでなく、宗教的・倫理的な性格を帯びて日本人をしめつけていた。従って、昭和期における自我の確立は、天皇を中枢とする一切の権力を剥ぎ棄てることから始めなければならなかったわけである。

大正デモクラシーが簡単にやりすごしてしまったその問題を、スティネルに裸にされた光晴は恐れずに悪魔祓いして行ったのである。

彼は「マックス・スティルネルの影響で、政治を蛇蝎視していた時代の僕は、政治を憎まずにはいられないほど、政治にこだわりを持っていた」といっている。

われわれの心の底まで蚕食してしまう天皇制を批判する時、彼はスティルネルに習って一切の価値を否定するニヒリズムを基盤にしていたのである。〉

2015年8月27日木曜日

金子光晴「燈台」⑩

「燈台」が入った詩集『鮫』は、1937(昭和12)年8月、人民社から刊行されます。前にも見たように、その直前の昭和12年7月には、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。国をあげて戦争へとのめりこんでいった真っただ中でのことでした。

『鮫』には次のような序文があります。

〈武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は、南洋旅行中の詩、他は帰朝後一、二年の作品です。

なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが、僕は文学のために旅行したわけではなく、塩原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。

よほど腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩を作らないつもりです。

僕の詩を面白がつて発表をすすめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのしむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにと察してたのむのをやめました。〉

よほどの「腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいこと」があって作られたのでしょう。反骨心にあふれた7篇の詩が収められこの詩集は200部出版されましたが、ほとんど梱包も解かれぬまま、光晴宅と人民社の発行人の武田麟太郎宅に山積みにされました。

武田宅に置かれた詩集は昭和20年の東京大空襲で焼失しています。

それにしても、言論統制が厳しさを増していたこの時代に、偽装を施した表現を用いたとはいえ、天皇制批判や日本軍の暴状をあばく激しい言葉を投げつけた、こうした詩集が出版されていたということは驚きです。光晴は自伝『詩人』につぎのように書いています。

〈印刷のはこびになったとき、盧溝橋事件があり中日戦争の火ぶたが切って落された。やはり、来る筈のものが来たという感じだった。

前の年、通州事件があって、日本人が虐殺された。丁度那須へ避暑にゆく時で、折角の行楽がくらい気持のものになった。その秋頃深夜明け方近く、僕が勉強していると人気ない表通りに、異様な地ひびきがきこえ、それがいつまでもつづいた。

小窓を開けて、そっとみると、蜒々(えんえん)とした、みたこともない戦車の列であった。どこへゆくのか。それが、毎夜つづいては、ただごととはおもえなかった。しかし、日本国民は、おおかた、なにも気づかなかった。日華事変の突発は、前年のこのことを裏書した。

戦時に入っては、僕の『鮫』も、一まず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も、引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。

「こんな形勢になってこそ、この詩集の意義があると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったのだ。

二人で余丁町から新宿に歩いて、角筈の角にあるオリムピックという店で、夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。

『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかった。

なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『燈台』は、天皇制批判であり、『泡』は、日本軍の暴状の暴露、『天使』は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間だったのだ。

強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびられるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、枉(ま)げたりする余地のあるものではなかった。

僕らの周囲、例えば、僕の会社の上役連中にしても、日本国民としての国家への協力――それによって将来もうまい汁を吸えるようにとのはかない下心もあって、いつでも御用事業に切りかえようという態勢に出た。彼らは、大きな世界地図を壁に掛けて、新聞の報道に従って占領地に小旗を、いくつも刺していった。

御用作家たちも、続々と海をわたって、報道陣に加わった。非協力の作家のリストを、軍の黒幕になって作っている文士もあった。

金子光晴はまだ返り新参の駆出しだったので、そういうリストにも漏れていた。詩が難解ということも、僕にとっては有利だった。それに、僕の詩の鍵をにぎった連中は、概して、僕を外界から護ってくれた。

多くの正直な詩人達が、沈黙を守らされている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見まもっていてくれたのだ。

文学報国会というものがうまれ、その会員でないものは、非協力者として、文筆の仕事もできなような窮屈な時代がきて、文士全体がなにか積極的な国家の提灯持の役を引受けなければ、一括して存在を許されなくなりそうな危機に、殆んど会に出席しなかった僕の存在を大目にみてくれたことは、やはり、文人の社会なればこそと、今でも思っている。

前田鉄之助と往来でばったり会った時、前田は、「君、いい加減にした方がいいよ。当局だって、めくらばかりがいるわけじゃないんだから」と、忠告してくれた。

最初は半年位で片づくなどという楽観説もあったのが、その年の暮になっても片付かず、益々戦局は深入りしてゆくばかりになって、「不拡大」を叫びながら、政府も曳きづられて、方途がつかない状態になっていった。〉

2015年8月26日水曜日

金子光晴「燈台」⑨

      三

  こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
  ――神はゐない。
  と、おろかにも放言した。
  それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
  ………………。
  ………………。

  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

  だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
  雷鳴。
  いや、いや、それは、
  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。
  威嚇するやうに雁行し、
  つめたい歯をむきだしてひるがへる
  一つ
  一つ
  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する)とされています。

戦前、天皇制を否定する主張を者は不敬罪、治安維持法違反などで、場合によっては死刑になることもありました。

「神はゐない」と「放言した」ために、ひどい処罰を受けて身を滅ぼした人たち。

逆説的な言い方をしたりメタファーで覆い包んだりしてはいるものの、詩人のこうした暴露的な言葉も、「神はゐない」という放言と立場は同じでしょう。

神のきびしい「いましめ」に縛られたこの世に「うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。」と詩人は嘆きます。

国民の生命を「一銭五厘」のハガキ一枚、いや「赤紙」といわれた徴兵令状一枚で自由に出来ました。そんな、天皇を頂点とした軍国主義国家への鋭い反発が、言葉に込められています。

「一銭五厘」とは、そもそも戦時中の葉書の郵便料金のことですが、実際は役場の職員が召集令状を持ってきました。臨時召集の令状は薄い赤色の紙であったことから「赤紙」と言われます。

当時、満20歳の男子は全員徴兵検査を受けました。甲種合格では2年間の現役兵としての兵役があり、乙、丙種はそのまま地域に残り、2年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者とともに「在郷軍人」として市民生活を送っていました。「燈台」ができたころは、40歳まで兵役を課されていたのです。

在郷軍人として市民生活を送っている傍らも、演習召集、教育召集、国民兵召集などいろんな色の召集令状が届けられ、有事にすぐ動けるような体制が整えられていました。

軍司令部から「赤紙」が地域の警察に運ばれ、さらに地域の役場の兵事係が手渡しました。「赤紙」には、発行年度や本人の住所や氏名のほか、出征すべき日時や場所が指示されていました。受け取り証の本人署名をする欄があって、配布時に切り取られて兵事係が預かったのです。

一人が何回も召集された例も多かったようです。職業や特技、健康状態、徴兵検査結果の優劣などによって、軍にとって有用と判断されれば、何回も「赤紙」を渡され、兵隊に行かざるをえませんでした。

召集のシステムは、軍のトップでなければ知ることはできませんでした。徹底した秘密主義のため、「赤紙」は郵便で来ると思われて「一銭五厘」と呼ばれたり、クジや役場で選抜しているという誤解も生じたようです。

国民がいかに怨嗟の声を放っても、唾を吐き、つぶてを投じても、天皇のところまでは届きません。「一銭五厘」の消耗品たちがいかに傷つこうとも、弾丸の届かないところで「なにもとどかぬたかみで、安閑として、神は下界をみおろしてゐる」のです。

詩人は弾のとどかないところで「安閑と」高みの見物をしている「神」を、権力の座から「曳きずりおろすんだ」と叫びます。

  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。

というのは、天皇を楯にして、そのまわりにはびこっている軍部の不気味な動きを表しているのでしょうか。そして最後に、日中戦争などで威力を発揮した、大量の爆弾類を搭載して水上を滑走して飛ぶ水上爆撃機が登場します。

  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

天皇の言葉は「信託」となって、戦争に駆り立て、国民と国土のうえに長く、重くのしかかっていきました。

2015年8月25日火曜日

金子光晴「燈台」⑧

      一

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

      二

  それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
   (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
  包茎。
  禿頭のソクラテス。
  薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。  めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

  神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

  神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
  燈台はただよひ、

  燈台は、耳のやうにそよぐ。

第二章へと進んでいくと「そら」に「めじろおししてゐる」神をめぐる比喩的な表現は、より具体的に、はばかることなくすさまじいまでの勢いを強めていきます。

佐藤總右は『金子光晴・さまよえる魂』で次のように記しています。

〈たとえば“そら”という皇居のふかみには「神さまたちがめじろおししている」のである。それは神国日本の実状であり、かりにもそこをのぞいたりすれば、たちまち“不敬罪”という刑罰がくだされるというのである。

そういえばその当時は、二重橋の奥にはたえず霞がたなびき、牢固としたそのやぐら門はつねに身を清めた近衛兵に守られて、われわれ市民はやぐら門の間近にさえ近づくことが出来なかった。

しかもそこには“燈台”という現人(あらひと)神の天皇が君臨させられている。だが、その“燈台”は白い一本の蝋燭であり、男性として一人前にならない包茎なのだ。

(この辺の複数のイメージは金子光晴の独壇場である。しかも、“燈台”“蝋燭”“包茎”というイメージが、“禿頭のソクラテス”にまで進展すると、もやは私はこの詩人のアイロニーの見事さに脱帽せざるを得ない。

なぜなら哲人ソクラテスは生涯インポだったという伝説が伝えられている。そのことにさえ思い当たるからである)〉

詩のなかにある「三位一体」とは、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された精霊なる神とが、唯一なる神の位格(ペルソナ)であるとする説。この三者に優劣の差別はない」と、広辞苑にはあります。

キリスト教を離れても、三つの要素が互いに結びついていて、本質において一つであること、三者が協力して一体になること、三者が心を合わせることなどを指して用いられる場合もしばしばあるそうです。

ソニーが1967(昭和42)年に開発したブラウン管「トリニトロン(TRINITRON)」。一つの電子銃から三原色分の電子線を放つこのブラウン管は、三位一体を表す英語TRINITYと電子を表す英語ELECTRONから名づけられました。

小泉純一郎が総理大臣だったとき「三位一体の改革」を唱えました。地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に、という小さな政府論を実現するため「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」をいう三つの政策を一体的に進めようとするものでした。

神も、経済も、政治も、ときに、「三位一体」であることによって、恐ろしいまでのふるまいを見せるのです。

2015年8月24日月曜日

金子光晴「燈台」⑦

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

岬の突端に、「いつぽんのしろい蝋燭(ろうそく)」のように立っている燈台。眼下には騒ぐ海が広がり、塔の上には遥かな空があります。

金子光晴は〈詩集「鮫」のなかの、燈台という詩も、白浜燈台を頭のなかに描いてつくったもので、やはりこの時の旅行の印象が深く心に焼きついていたので、内部からの発想が、象(かたち)を借りたものだと言える〉(「日本の芸術について」)と記しています。

「この時の旅行の印象」というのは、26~27歳のころ、千葉県南房総の白浜のほうへ旅をしたときの思い出のようです。

房総半島を南へと向かうと、潮風の香る海辺のまち白浜にたどりつきます。東西に全長10kmの海岸線。さわやかな海の蒼さ、陽光は飛び散るようにきらめき、すべての風景をくっきりと映し出します。

そんな白浜の近く、房総半島の最南端野島崎には野島埼灯台が立っています。高さ24メートルの、太平洋にぐるりと囲まれた白亜の八角灯台。灯台の光源であるレンズの直径は2メートル以上あるそうです。

1866年(慶応2)年5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書によって建設することになった8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。

1870(明治2)年、観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯しました。むかしもいまも野島崎は、日本の中枢、東京湾に出入りする船舶を守る最重要なポイントなのです。

ヴェルニーをトップとするフランス人技師たちの設計で建設された当初は、白色八角形のレンガ造の燈台でした。燈火までの高さは30m 。フランス製の一級のレンズが使われました。

光晴が白浜を訪れたとみられる直後の1923(大正12)年、関東大震災のため地上 6 m のところで折れて、大音響と共に倒壊しました。1925(大正14)年に現在の白色塔形(八角形)コンクリート造で再建されますが、1945(昭和20)年の太平洋戦争の攻撃で再び大きな被害を受けることになります。

燈台は、船舶の航路標識の一つで、その外観や灯光によって位置を示す光波標識の中の「夜標」として位置づけられています。遠くからでも識別できる強力な光源をもち、夜間には光源が明滅、大型のものは光源のレンズが回転して、航行する船舶が場所を識別する目印となるのです。

そもそも、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まるといわれている灯台。

紀元前279年ごろから約19年の歳月をかけて、世界の七不思議の一つともいわれる「アレクサンドリアの大灯台」が港口のファロス島に建設されます。約134m の高さがあったと言われ、796年の地震で半壊するまで使われていたようです。

日本では、839年(承和6年)に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと『続日本後紀』にあるのが、最初の燈台と考えられています。

江戸時代に入って海運が盛んになると、灯明台や常夜灯が岬や港に近い神社の境内などに設置されるようになりました。

第二次世界大戦直前には400基を数えるようになりましたが、海外の水準からすると「ダークシー」と呼ばれる状況でした。戦後は高度経済成長により飛躍的に増加し、燈台は3000基を超えるまでになっています。

2006(平成18)年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下惠介監督)の舞台となったことで知られる、日本最後の職員滞在灯台、女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、日本の全ての灯台が無人化されました。

旅で見たとき、燈台が印象に残ってたがものの、光晴に特別な感慨はなかったようです。旅から約10年後にできたこの詩で、燈台は、空、高所、雲の上などへの連想に誘う作品の舞台、主題への導入の大きな役割を演じることになったあけです。

燈台の上の深い空。その空へ私たちの目を向けさせ、そこに何があるかを語る。空は聖なるもの、神々のいるところ。詩人がここで語るのは、信仰の神々でも観念上の神々でもありません。

「現人神」としての天皇であり、その絶対権力であり、天皇を中心に築かれた絶対的な国家体制なのです。戦前の天皇は人間であるよりも神でした。「天」にある絶対的存在だったのです。

2015年8月23日日曜日

金子光晴「燈台」⑥

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

「エーテル」の語源は、燃やす、輝くといった意味をもつ、ギリシア語の“アイテール”とされます。

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古代ギリシャからありました。その「天空を満たす物質」が、エーテルです。

エーテルは17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質とされてきました。デカルトは、ブドウの樽のブドウ酒のように、あらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定。それが光を伝達させ、惑星はその渦に乗って動いていると考えていたといいます。

エーテルは、惑星の運動をはじめ、光や電磁気の振る舞い、さらには私たちの日常に起こっているさまざまな事象を成り立たせているのに欠かせないものとされてきたわけです。

ところが、エーテルを想定するとさまざまな矛盾を来たしてきます。辻褄を合わせるために、エーテルの理論は二転三転、いろんな理論武装を重ねて複雑怪奇な様相を呈することになるのです。

エーテルという“化け物”を完全否定し、「幻影」でしかないことを明らかにしたのは、あのアインシュタインです。

相対性理論によって、エーテルを含めた絶対座標系、絶対的な基準は取り払われ、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった概念が導き出されるようになったのです。

「天使」は、聖書などに登場する神の使い。英語の「Angel」はギリシア語のアンゲロスに由来し、原義は「伝令」「使いの者」。天使は人間よりも優れた知恵と能力を持った、肉体を持たない“霊”であるとされます。

キリスト教では悪魔は、堕落した天使。もともと神によって善きものとしてつくられたものの、神にさからって地獄に堕ち、人間に悪を行うことを薦めるようになったとされます。

「鷹」は、古くから支配者の権力の象徴的な存在として扱われてきました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在します。

日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという記録があります。

平安時代にも天皇は代々鷹狩を好み、狩をする鷹場がは禁野として一般の出入りが制限されていました。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残し、その技術の書『新修鷹経』を編纂させています(818年)。

金子光晴が「エーテル」に対してどのような認識をもっていたかは分かりません。

ただ、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年。それを拡張させて、一般相対性理論が出たのが1915~1916年のことです。

光晴がヨーロッパなどを放浪していた時期に、化けの皮が剥がされた「エーテル」が一般の間でも、世界的に大きな話題になっていたことは想像されます。

古くから天空を満たしていると信じられながら、それが幻影でしかなかった「エーテル」。幻でしかないのに「飴のやう」であるエーテルに、神の使いである霊的な存在である天使の「腋毛」が、そして支配者の象徴である鷹の「ぬけ毛」が、リアルにただよっているのです。

この場面、じっくりと味わいたい強烈なメタファーだと思います。そして、さらに畳みかけるように「青銅」がつづきます。

青銅は主成分が銅で、スズを含む合金。中国から製法が伝わったことから、青銅は唐金(からかね)とも呼ばれています。

青銅の使用は、紀元前3000年ごろ、初期のメソポタミア文明であるシュメール文化の時代までさかのぼるそうです。青銅は銅などに比べて硬く、鋳造や圧延などの加工ができたので、斧、剣、壷などに広く使われてきました。

より安価な鉄の製造技術が確立すると多くの青銅製品は鉄製品に代わりますが、大砲の材料としては19世紀ごろまで用いられています。大砲のような大型製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからだそうです。

日本へは紀元前4世紀ごろ、鉄とともに九州に伝わったと考えられています。紀元前1世紀ごろ、国内での生産が始まり、2世紀には大型銅鐸が作られます。

鉄とともに伝来したため、日本で青銅で作られたのは祭器が中心でした。「神さま」を神さまとするための道具として使われたのです。

秤〈かんかん〉は、車の重さなどを測る大型の秤のことでしょう。重さを量ること、あるいはそのために使う台秤を意味する「看貫(かんかん)」という言葉に由来します。

「飴のやうなエーテル」には、神さまたちの「はだ」から発せられる、祭器や大砲の材料に使われてきた青銅が灼けるやうな凄じい「にほひ」が漂います。

そして、そこには大砲の重さを計ることもできるであろう、大きな秤が置かれているのです。

2015年8月22日土曜日

金子光晴「燈台」⑤

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

地上から見上げたとき、頭のうえにひろがっているる「そら(空)」。

地球をおおう大気圏だとその「ふかさ」はざっと1000キロにもおよんでいます。

高気圧や低気圧、雲ができたり消えたりする対流圏だと、9~17キロです。

太陽の光は、大気中の酸素、窒素、水蒸気などの分子や、微粒子にぶつかって散乱します。青っぽい光は散乱されやすく、赤っぽい光は散乱されにくい傾向があります。

光が大気中をどのように進んで、目に届くかによって空の色は変わり、さまざまな表情を見せるのです。

東のほうに朝焼け、暗い空が赤く染まります。陽が昇っていくと晴れていれば青色になり、日没が近くなると西のほうはオレンジ色の夕焼け。雲は白く、曇りなら灰色。夜中は真っ黒、空は星の世界に変わります。

空と空以外が作り出す境界線を“スカイライン”と言います。空と海面とのスカイラインが水平線、空と大地との境界が地平線です。

よく知られた柿本人麻呂の歌「さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ」(夜は更けたらしい。雁の鳴く声が聞こえる空に月が渡っていくのが見える)など、万葉人たちも空を扱った歌をたくさん作っています。

もっとずっと昔、たとえば縄文人は、空をどんなふうに見つめていたのでしょう。考古学者の小林達雄らの研究によれば、次のように位置づけるようです。

恒久的な人工建造物である竪穴住居に住むようになって縄文人には、イエの「ウチ」と「ソト」の意味ができてきた。イエのソトには狩猟などをする仲間のイエが何軒か集まったムラの世界が広がる。その外にあるのが、ハラ。

旧石器人は自然の中に溶け込んで生きてきたが、縄文人はムラという人工スペースを確保してムラとハラをはっきり区別した。彼らにとってハラは対立するものである一方で、食物を手に入れる場所であり道具の材料を提供してくれるところでもあった。

ハラの外にはヤマ。ヤマの向こうにはソラが広がっている。イエを抱えるムラはヒトの世界、ハラはヒトと自然の共生の世界、ヤマは自然そのもの、ソラはヒトや自然をこえた神の世界。生きて行くことのできない「アノ世」でもあった、というわけです。

「空」という漢字は、「穴」という字と、つきぬける意味を含む「工」が組み合わされてできています。つきぬけて穴があき、中になにもないことを示しているのです。

一方、空のことを、しばしば「天」と呼びます。天という漢字は、人の姿を現す「大」の上に、「一」を置いて、人の上方、すなわち空の方向を示す。人の上方という意味では「空」という字と重なるわけです。

二つの文字を組み合わせれば「天空」。「空=天」は神の住むところとされてきたので、派生的に「天」だけで神を意味することもあります。死後に人の霊がゆく、人が達することができる、神の世界に近いところにある天国。

嬉しくて仕方ないと「天にも昇る心地」になります。しかし、そんな「そら」の「ふかさ」を、詩人は「のぞいてはいけない」といいます。「神さまたちがめじろおししてゐる」、そんな「そらのふかさ」を「のぞいてはいけない」というのです。

2015年8月21日金曜日

金子光晴「燈台」④

光晴がパリから、シンガポールへと渡って4ヵ月ほどマレー半島を旅した後、帰国したのは1932(昭和7)年6月のことでした。

新宿の界隈を放っつきあるいて見つけた連れ込み宿に居座り、貸布団を借りて朝も、晩も、ねむりつづけた。そのころについて『詩人』に、つぎのように書き残しています。

〈東京の街は、相変らず、東方的殷津を極め、消費生活の面がいやにけばけばしく、刺戟的だった。殊に僕の住んでいる周囲は、女給や、その他の水商売の女の巣で、彼女たちの私生活のなかにいっしょになって、ごたごたくらしているようなもので、わずかなあいだにも、目まぐるしい事件が展開していった。

僕の宿でも、検挙があったり、心中があったりした。宿直属の高等淫売が、我家のように通ってきていて、僕のところへ来る客の応対までしてくれ、僕の妻とまちがえるものもあった。旧い友ですぐ昔通りの友交が結ばれたのは、正岡容と国木田虎雄だった。〉

国木田独歩の息子の虎雄は、光晴のスーツケースの中から〈シンガポールを出るとき、乱雑に書いておいた〉という詩を見つけました。

  コークスのおこり火のうへに、
  シンガポールが載つかつてゐる。
  ひび入つたゐ焼石、蹴爪の椰子。ヒンヅー・キリン族。馬来(マレー)人。南洋産支那人(パパ・ナンキン)。それら、人間のからだの焦げる凄愴な臭ひ。
  合歓木(スナ)の花と青空。
  荷船(トンカン)。

  檳榔の血を吐く――赤い眩迷。

  鮫は、リゾール水のなかで、鼻っぱしらが爛れかけてゐる。
  奴らの眼は紅く、ぽっと腫れあがってゐる。

といった、全6章からなる長大な詩「鮫」です。

国木田がこれを中野重治に見せたところ興味を持ち、改造社から出ていた『文芸』という雑誌に「鮫」は載ります。この詩は「その頃の詩壇の主流からは、なんの反響もなかった」ものの、帰国のあいさつがわりにはなったといいます。

帰国を知った実母の「父母の揃った生活の幸福を孫に味わせたい」という配慮から、光晴は実妹が設立した化粧品製造会社「モンココ洗粉」に入って、「一カ月五十円」の給料をもらうようになります。

〈僕の生活は、平坦な道に出ていながら、僕らの肌にふれるその時代の空気は、なんとしても息苦しかった。パリを出発するとき、丁度、満州事変がはじまっていた。満州事変に対する、ヨーロッパ市民の一般の意見は非難的だった。

世界のどこへ行っても、日本人はいづらい立場になりはじめていたが、日本人同士は強気だった。南方の華僑のあいだでは、一層、抵抗が大きく、はっきりした排日の態度をとった。

シンガポールの裏町では、大道の講釈師が人力車夫などをあつめて、「白川大将大敗亡」などというみだしの号外を前において、忠勇馬占山の張飛趙雲まがいの豪傑談を得々と弁じ、聴衆を熱狂させていた。

上海では上陸が出きなかった。上海事件というのがはじまって、瑪頭から揚樹浦の方向へかけてバリケードが築かれ、銃剣をもった陸戦隊の兵士が並んでいて、無理に上陸したものも、舟へとってかえさねばならなかった。呉淞の方向に、砲声がきこえた。

そんな、海外世界の空気を身につけてかえってきた故国日本は、最初のうち、あまり事もなげにみえた。だが、やがて、僕も、そのことなげな故国に底流する、ただごとでないないものにふれ、すこしづつ何事か理解することがあるようになった。

銀座や、新宿には、なにかあると、未曾有の群衆が流れあるいた。日々の享楽にとりつかれたそれらの群衆が、いったいどこへゆくのだろうかとおもうと、僕の心もいっしょに、大きな倦怠、目的のない蕩尽の場面につきあたった。〉

『文芸』に載った詩を見て中央公論の畑中繁雄(1946~1947年同誌編集長) が光晴に詩を頼みにきました。こうして出来た作品が「燈台」でした。

「燈台」が『中央公論』に掲載されてしばらくたった、雪の寒い朝のことです。国木田が〈蒼ざめた顔をしてぶるぶるふるえながら〉やってきました。

〈「たいへんだよ。光ッちゃん」といって、軍人たちがクーデターをはじめて、内閣の閣僚は皆殺されたと報道した。二・二六事件だった。僕も、来るものが来た、という感じがした。〉

2015年8月20日木曜日

金子光晴「燈台」③

金子光晴の生涯の「相棒」となる森三千代は、1901(明治34)年愛媛県生まれ。光晴より6歳下でした。

上京して東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学して小説家修行をしていましたが、光晴との結婚、出産して学校を退学。結婚後も多くの恋愛遍歴を重ねるとともに、女流作家として活躍しました。

「新しいあいてができたら、遠慮なくお互いにわかれることだった」というのが一緒になるときの条件だったという二人。貧乏生活のなか、1926年(大正15年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわします。

翌年にも、兄の独歩の印税が入った国木田虎雄らと上海を再び訪れ3ヵ月ほど滞在しました。しかし旅行中に、三千代は美術評論家の土方定一と恋におちいってしまいます。

生活苦と三角関係を打開するため、1928(昭和3)年9月に東京を出て、東南アジア、ヨーロッパへのあてのない放浪を始めます。出発時の所持金は、光晴の4円と三千代に入った原稿料の10円だけでした。

上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を工面し、1929(昭和4)年5月には香港へ渡ります。6月にシンガポールへ到達し、風景小品画展を開いて、ジャカルタ、ジャワ島へも旅行。11月、1人分のパリまでの旅費が貯まったので、三千代を先に旅立たせます。

当時の東南アジアにはすでに、多くの日本資本が、ゴム園や鉱山などに進出していました。日本の経済人や地元の農園主らに絵を売るためにジャワ島やマレー半島を歩きまわるうちに、光晴はそこに住む人たちと風景に魅せられていったのです。

「僕は長年のあひだ、洗面器といふうのは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊(カンピン)や、魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しやぼりしやぼりとさびしい音を立てて尿をする」

そんな前書きが付いた有名な詩「洗面器」もこのころ作っています。

  洗面器のなかの
  さびしい音よ。

  くれてゆく岬(タンジヨン)の
  雨の碇泊(とまり)。

  ゆれて、
  傾いて、
  疲れたこころに
  いつまでもはなれぬひびきよ。

  人の生のつづくかぎり
  耳よ。おぬしは聴くべし。

  洗面器のなかの
  音のさびしさを。

パリへと三千代を送り出した後、光晴は1カ月ほどマレー半島を旅した後、三千代を追う。その船旅の様子を描いたもののなかに次のような文章もあります。

〈僕の寝ている下の藁蒲団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。船に馴れて船酔に苦しんでいるものはなかった。僕はからだをかがむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。

腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引きぬいて指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない、強い糞臭がした。同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされておかしかった〉(『どくろ杯』)

自分の生理感覚で肉体を通して人間を語ってゆく。光晴ならではの言葉の世界を、このころ手に入れていたのでしょう。

1930(昭和5)年1月、パリで三千代と合流。額縁造り、旅客の荷箱作り、行商など「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」がついにパリに居られなくなり、翌年にはパリを離れて、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せます。

日本画の展覧会を開いて旅費を稼いで、1932(昭和7)年1月、シンガポールへ渡り、4ヵ月ほどマレー半島を旅行した後、6月に帰国。実妹の設立した化粧品会社に広告担当のようなかたちで入り、生活費を得るようになりました。

こうした海外での長い放浪生活を通して光晴は、過酷な植民地支配に虐げられる東南アジアの人々を肌で知り、過酷な収奪をつづける西欧の帝国主義とキリスト教文明のエゴイズムを目の当たりにしました。

1937(昭和12)年に刊行された、「燈台」などが入った詩集『鮫』には、そうした旅を通して、生々しい人間の生の視点から世界を見つめた、批判精神がほとばしる言葉に満ちています。

2015年8月19日水曜日

金子光晴「燈台」②

  いつからか幕があいて
  僕が生きはじめてゐた。
  僕の頭上には空があり
  青瓜よりも青かつた。

  ここを日本だとしらぬ前から
  やぶれ障子が立つてゐて
  日本人の父と母とが
  しよんぼり畳に坐つてゐた。

  茗荷の子や、蕗のたうがにほふ。
  匂ひはくまなくくぐり入り
  いちばん遠い、いちばん仄かな
  記憶を僕らにつれもどす。

金子光晴の『人間の悲劇』という詩集にある「NO.2」というタイトルの詩の冒頭部分です。

金子光晴は、1895(明治28)年12月25日、現在の愛知県津島市に生まれました。日本が日清戦争に勝ち、帝国主義の基盤を築いた年である。生まれて2年後には父が事業に失敗し、店をたたんで名古屋市の知人方に移っています。

光晴が遊んでいると、たまたま建築業「清水組」の支店長をしていた金子荘太郎の若妻の目にとまります。そして、夫妻の養子になることになるのです。そのころ、について光晴は自著『詩人』で、次のように書いています。

〈親戚の女髪結いのもとにあずけられて、無心であそんでいた三歳の僕を、髪結いにきた女たちが、かわるがわる抱きあげてあやした。色が白く、骨なしのようにやわらかいそのあかん坊は、すでにバカボンドの素質をもっていたものか、抱くあいてが誰であっても気にとめないで、三白眼でじっと眺めたり、ぬきうちに、大人とおなじ口をきいて、あいての度肝をぬいたりした。

うまれつきのように画が好きで、壁という壁に、爪で絵を刻りつけた。「坊さん、大きくなったら、なにになるの?」とあいそうに人がたずねると、その子供は、シニックな、おどけた表情をつくって、「手ぬぐいをかぶって」とかたちをしながら、「お尻をはしょって、屋根をみし、みし」と、さんざん気をもたせたあげく、「泥棒になるの」と言った。

えらい画家になるとでもいうのだろうと期待していたあいては、返事のしようもなくて、鼻白んでしまうのだった。そんな僕を抱いたまま、手放すのが嫌になった十六歳の若妻がいた。建築請負「清水組」の名古屋支店長の金子荘太郎の妻のすみだった。

子供のような若妻は、髪を結いに来て、ふと僕を抱いてから、ふたたび下へ置こうとはしなかった。人形を買うつもりで、僕の実父母に交渉し、僕を養子の籍にうつした。実父母は、前途の方策に迷っていた時なので、子供の一人口を減らすことで、それだけ行動が身がるくなるので、手離す気になったものらしい。

十三しか歳のちがわない養母は、疳性で、我儘で、派手好きな、まだ娘と言った方がふさわしい女性だったが、異常なまでの好悪と、美醜の差別感が強かった。彼女は、着せかえ人魚のつもりで、僕をおもちゃにした。髪をのばしておたばこ盆に結い、またくずして、稚児髷に直した。

つくるきものは、女の子の仕立で、柄も、鶴の丸や、雪輪もようの友禅染の女柄だった。弱いから、女装で育てるとよくそだつというのが口実だった。三歳から五歳まで、そんなわけで僕は、女の子のように育てられ、あそびにくる友達も女の子ばかりで、てまりや、きしゃごや、おはじきであそんだ。〉

こうした特異な幼少期をおくった光晴のその後の人生も、放浪に明け暮れた、波乱に富んだものとなるのです。

養子になった光晴は、養父の転勤に伴って京都市へ。そして1906(明治39)年には、東京本店転任で銀座の祖父宅に転居する。銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼を受け、浮世絵師小林清親に日本画を習います。

1907(明治40)年11月には、12歳の光晴は友人と渡米を企てて家出、横浜、横須賀と20日ほど転々とします。放浪中の不摂生で体をこわし、翌年3月まで床に臥せることになります。

1909(明治42)年、夏休みには、徒歩で房総半島を横断旅行。中学の校風に反発し、翌年には長期間学校を休んだため留年となります。関心は現代文学に向かい、小説家を志望。1912(明治45/大正元)年には同人誌を発行し、級友に回覧しています。

1914年(大正3年) 4月、早稲田大学高等予科文科に入学しますが自然主義文学の空気になじめず、翌年2月には中退。4月には東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学するものの、8月には退学。翌9月には慶應義塾大学文学部予科入学と、入退学を繰り返します。当時のすさんだ生活を振り返って光晴は後に、「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。

肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学して、1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめます。ボードレール、北原白秋などの詩を読みふける。7月には、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行します。

1918(大正7)年12月、養父の友人とともに2年余にわたるヨーロッパ遊学に旅立ち。その間の1919年1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行しています。

1924年(大正13年) 1月には、東京で小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係に。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(お茶の水女子大学)を退学して、室生犀星の仲人により結婚することになります。

困窮した生活にあえぎながら、二人の世界をまたに掛けての放浪生活がはじまるのです。このとき、光晴は29歳でした。

2015年8月18日火曜日

金子光晴「燈台」①

   燈台

    一

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにただよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつつたつた、
いつぽんのしろい蝋燭。
――燈台。

    二

それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
 (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
包茎。
禿頭のソクラテス。
薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
燈台はただよひ、

燈台は、耳のやうにそよぐ。

    三

こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
――神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
………………。
………………。

つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
雷鳴。
いや、いや、それは、
燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
ひつつこい蠅ども。
威嚇するやうに雁行し、
つめたい歯をむきだしてひるがへる
一つ
一つ
神託をのせた
五台の水上爆撃機。

     ◇

「燈台」は、1935(昭和10)年12月に、『中央公論』に発表されました。金子光晴はこの年、40歳。喘息の発作で苦しむことが多くなっていたころの作品です。

翌年2月には、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483人の兵を率いてクーデターを試みた「二・二六事件」が起こっています。

その翌年、1937(昭和12)年7月には、北京の南西15kmの盧溝橋で、日本軍と中国国民革命軍が衝突。これが引き金になって、日中戦争が勃発します。

盧溝橋事件が起こった直後の昭和12年8月、金子光晴は詩集『鮫』(人文社)を刊行します。「燈台」は、「鮫」「おつとせい」「紋」などとともに、その中に収められました。

2015年8月6日木曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑬

詩「君死にたまふことなかれ」で、「乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と罵倒されたり、この詩も入った、晶子、山川登美子、増田雅子の「新詩社三才媛」による合同詩歌集『恋衣』で、登美子と雅子が自宅謹慎になったり。

そうした騒動が巻き起こったのは、裏返して考えれば、鉄幹を中心にした『明星』がそれほどまでに世間の注目を浴び、若い層を中心に大きな影響力を持っていたということでしょう。

 「天下の俊髦(しゆんごう)才媛は翕然(きゆうぜん)として、此の新詩社に集まり、清怨瀟洒(しようしや)の画風はまた興って短歌革命の先声に交響し、溌剌として開展してゆく『明星』の新容は雑誌界にも装幀界にも驚目の生彩を輝かした」(『短歌研究』1935年5月号)

北原白秋がこんなふうに述懐した『明星』の新詩社の隆盛は、「君死にたまふことなかれ」論争のころにピークを迎えていました。

日露戦争は1905年9月5日に締結されたポーツマス条約によって講和し、終結します。「君死にたまふことなかれ」の弟、籌三郎も無事、戦地から引き揚げてきました。

しかし、戦争に勝ったにもかかわらず、講和条約の内容は、ロシア帝国から賠償金を取れないなど国民にとって想定外の厳しい内容でした。

それは人々からロマンの夢を醒めさせ、現実へと目を向けさせます。日比谷焼打事件など各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれる事態になったのです。

戦後の厳しい世情にあって、新詩社が掲げた浪漫主義的な歌や詩に対する熱は急速に冷めていきました。

代わって、リアリズムを求めて事実を細かく観察し、あらゆる美化を否定する自然主義文学が若者たちの心をとらえたるようになります。

自然主義は、エミール・ゾラの学説のもと、19世紀末にフランスを中心に起こった文学運動です。日本では、かつて「遂に新しき詩歌の時は来りぬ」と青春と恋をうたっていた島崎藤村の『破戒』(1906年)や、田山花袋『蒲団』(1907年)がその支柱を成すようになりました。

1908(明治41)年1月、北原白秋ら7人が新詩社を脱退。若者たちをつなぎ止めておくことができなくなった『明星』は、同年11月、ちょうど100号をもって終刊すことになります。

1909(明治42)年には、死別した夫から感染した結核がもとで、山川登美子が29歳の若さで逝ってしまいます。鉄幹は、

   君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さへ砕けはつるか

という悲痛な歌を残しています。『明星』や登美子とともに、若き日の夢や青春、さらには自身の人生さえ終わってしまったような気持ちになったのでしょう。

その後の鉄幹(寛)と晶子はどんな行路を歩んでいったのか。田辺聖子『「みだれ髪」の女』には次のようにまとめられています。

 〈寛の主な仕事はなくなってしまった。それに引きかえ、晶子はジャーナリズムに華々しく迎えられ、女流歌人としての盛名は寛を凌ぐようになっていた。一家の生計はすべて晶子の肩にかかっていた。そのため晶子はもとめられると評論も小説もお伽話も書いた。

鬱屈した寛を慰めるために、晶子は寛にパリ遊学をすすめた。その留学費を捻出するのは女の細腕でたいへんなことであった。

明治四十四年(一九一一)十一月、寛はパリへ旅立った。

現在のように半日の飛行時間で飛ぶのとわけがちがい、海を渡ってゆく洋行は容易なことではないが寛を発たせたあと、晶子は夫恋しさに耐えられず、ついにあとを追って半年後、みずからもパリへ行った。フランスの野はひなげしで、一面赤かった。

   ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)

晶子は三十五歳の古妻で、すでに子は七人あった。しかし海を越えて夫と会うとき、彼女はそのかみ、はじめて寛と会った少女の日のように、心は喜びにふるえた。

夫とともにパリに遊び、あるいはロダンに会ったりする日々はいかばかり楽しかったであろう。行き詰まった夫婦関係も、わだかまりが解け、寛の文学的転機ともなり、晶子も見聞をひろめ、女らしい直観から、さまざまの考察をふかめることができた。

しかし晶子は情の濃い女であった。夫と離れていると夫が、子供と離れていれば子供が気にかかった。モンソオ公園の雀を見ても子らを思い、ついに寛より一足はやく帰国した。

そのあいだに、年号はかわって大正となっていた。

晶子は作家活動ばかりでなく、大正年間、評論にも筆をふるい、卓越した意見を示しつづけた。国粋主義の蒙昧を嗤い、家族制度に反撥(はんぱつ)した。

世界的な視野をひろめた晶子から見ると、日本の男性は、家父長の権限を乱用して女の人格を圧迫し、女性はまた向上意欲を欠いて怠惰であるように思われた。晶子は婦人問題や教育問題、夫婦関係について、性急に、するどく、日常の生活感覚から訴えつづけていった。〉

女性の解放運動にも熱心に取り組むようになります。晶子は、平塚らいてうらによる女性文芸誌『青鞜』の創刊号に、こんな詩を寄せています。

      山の動く日

   山の動く日きたる、
   かく云へど、人これを信ぜじ。
   山はしばらく眠りしのみ、
   その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
   されど、そは進ぜずともよし、
   人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
   すべて眠りし女、
   今ぞ目覚めて動くなる。

2015年8月5日水曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑫

  ああ、弟よ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ。
  末に生れし君なれば
  親のなさけは勝りしも、
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと敎へしや、
  人を殺して死ねよとて
  廿四(にじふし)までを育てしや。

  堺の街のあきびとの
  老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
  親の名を継ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ。
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家の習ひに無きことを。

  君死にたまふことなかれ。
  すめらみことは、戦ひに
  おほみづからは出でまさね、
  互(かたみ)に人の血を流し、
  獣の道に死ねよとは、
  死ぬるを人の誉れとは、
  おほみこころの深ければ
  もとより如何で思(おぼ)されん。

  ああ、弟よ、戦ひに
  君死にたまふことなかれ。
  過ぎにし秋を父君に
  おくれたまへる母君は、
  歎きのなかに、いたましく、
  我子を召され、家を守(も)り、
  安しと聞ける大御代(おほみよ)も
  母の白髮(しらが)は増さりゆく。

  暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
  あえかに若き新妻を
  君忘るるや、思へるや。
  十月(とつき)も添はで別れたる
  少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
  この世ひとりの君ならで
  ああまた誰(たれ)を頼むべき。
  君死にたまふことなかれ。

「君死にたまふことなかれ」は、8行5連の七五調で統一されています。さらに、各連に「君死にたまふことなかれ。」という強い響きリフレーンを入れることで、確固たるリズムと迫りくるような説得力を生み出しています。

東京・渋谷村の丘の家で、晶子は灯下に筆をとりました。

 「ああ、弟よ君を泣く」

そう書き捨てて、もう死んでしまったかのような文句を書いてしまったと、急いで筆を取り直し、

 「君死に給(たま)ふことなかれ」と書き添えた――。

鉄幹、晶子の弟子だった佐藤春夫は『晶子曼陀羅』で、そんなふうに描いています。

1998年7月26日の朝日新聞日曜版に、「100人の20世紀」という企画として〈与謝野晶子 反戦詩は「返歌」だった〉という記事が載りました。

当時、敵国ロシアでは『戦争と平和』などで知られるトルストイ(1828~1910)が、「ロシア人民よ、日本人民と殺し合うな」と呼びかけていました。晶子の詩は、文豪への「返歌」だったというのです。

〈ロシアの文豪トルストイが1904年6月、日露戦争批判の長大な論文を英紙「タイムズ」に発表した。こう訴えている。

 「なんじ殺すなかれ」の戒めに背き、人と人が野獣のように殺し合うとは、そも何事か。この戦争は、宮殿に安居し栄誉と利益を求める野心家らが、ロシアと日本の人民を犠牲にしているのだ――。

 庶民の立場からの反戦の理が、トルストイと晶子の間で、見事に呼応している。

トルストイ論文の日本語訳は週刊「平民新聞」の同年8月7日号に掲載され話題を呼ぶ。東京朝日新聞にも杉村楚人冠の翻訳で「トルストイ伯 日露戦争論」と題し、同年8月2日から20日まで連載された。

 与謝野家は、朝日新聞を購読していたとみられる。「明星」の原稿締め切りは同月20日ごろだった。

 晶子がトルストイの反戦論文を読んで「君死に……」を書いたことは、ほぼ間違いがないだろう。

 庶民の娘に育った晶子は、敵国内部からの勇敢な反戦の訴えに直感的に共鳴し、日本からも誠実に応じようと決意したのではなかったか。非難に屈せず、翌年刊行の詩歌集にも「君死に……」を再掲した。

 実生活でも、物静かだが、しんの強い女性だった。生涯に11人の子を育てる。「明星」終刊で仕事を失った鉄幹を励まし、自らの筆で一家の生計を支えた。

 買い物はいつも高島屋のつけ買いだったという。「安い衣料品をひっくり返して次々に子供服を見つくろうんです。『あ、晶子さんだ』と人が見ていても母は平気でした」と、四女の宇智子さん(87)。

しかし、せわしない暮らしの中でふと、こんなことも娘に教えた。「反物を選ぶときは、その上に自分の手を置いてみるの。手がきれいに見えるものを選びなさい」〉

と記事にはあります。トルストイの「日露戦争論」と晶子の「君死にたまふことなかれ」の類似性に関しては、本間久雄『続明治文学史』下巻(1964年)、木村毅『ドウホボール教徒の話』(1965年)など、かなり以前から指摘されていたようです。

〈木村毅氏は、晶子の「君死にたまふこと勿れ」は、トルストイの「日露戦争論」(爾曹悔改めよ)と、内田魯庵訳載の「ドウホボール教徒の話」の二つを読んで、「その感化影響のもとにできた作に相違ない。」とみている。晶子の詩と「ドウホボール教徒の話」の関連では、教徒が、

  我等は皇帝に忠ならざるに非れども、人を殺せと教ゆる勅命をいかんぞ奉ずるを得べき

と晶子詩第1連の、

  親は刃をにぎらせて
  人を殺せと敎えしや

と吻合する、と指摘されている。また「日露戦争論」の中に、再三旅順の名があがっていることからも、トルストイから「暗示を受けたもの」とされる。

木村氏は、「日露戦争論」の、

  汝、心なき露国皇帝、(中略)汝自らかの砲弾銃剣の下に立てよ。われらはもはや行くを欲せず

と、兵士は要求する、と代弁し、

  露人も日本人も等しくこれ人間にして、既に真理の光に浴せるに、なお野獣の如く、いな野獣よりも一そう悪く、彼等はたがいに出来得るかぎり多くの生命を絶たせんとて、専心一意努力しつつあり

と、トルストイが糾弾している言葉を、「晶子が巧みに七五調の詩語に翻案したのではないか、」と類推されている。〉(中村文雄『君死にはまふこと勿れ』)

2015年8月4日火曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑪

大町桂月との激しい論争の渦中の1905(明治38)年1月、晶子、山川登美子、増田雅子の「新詩社三才媛」による合同詩歌集『恋衣』が出版されています。

この中に「君死にたまふことなかれ」も収められていることからも、世間からどんなに非難されようと、晶子はこの詩に自信を持ち、取り下げる気持ちなど毛頭無かったことがうかがえます。『恋衣』は、

  髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ

という歌にはじまる山川登美子の作品、次に増田雅子の歌、最後に晶子の詩歌の順で並び、

  よみのくら戸はひらかれて
  恋びとよよといだきよれ、
  かの天(あめ)に住む八百星(やほぼし)は
  かたみに目路(めぢ)をなげかはせ、
  土にかくれし石屑(いしくづ)は
  皆よりあひて玉と凝れ、
  わが胸こがす恋の息(いき)
  今つく熱きひと息(いき)に。

という晶子の詩「冥府のくら戸は」でしめくくられています。合同歌集の出版に際して、後に「『恋衣』事件」ともよばれる騒動が起こっています。

本の出版を事前に知った日本女子大学の当局が、英文科の学生だった登美子と国文科の学生の雅子を、正式の処分が決まるまでの自宅謹慎を命じたのです。

本が出ていないうちからの処分するということは、書名の『恋衣』などから大学側がハナから、学生が戦争のさなかに恋歌を発表するなど不謹慎だと判断したのでしょうか。

「乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と、世に知られた文筆家、桂月が糾弾している晶子とともに本を出すことなどもってのほか、ということだったのでしょうか。

『恋衣』がどういういきさつで企画されたのか。入江春行の『与謝野晶子とその時代』によると――

〈晶子は、すでに述べたように、登美子が親の決めた人と結婚するために晶子の前から姿を消した時、もうこの人とこの世で会うことはあるまいと思った。

 登美子は、親が娘の不幸をねがうわけはないし、人生経験豊かな親が選んだのだからいい人に違いないと、自分に言い聞かせて、恋も文学も忘れ去ってその人と添いとげようと思ったのであるが、結婚生活二年足らずで夫が結核であっけなく世を去った。登美子は、

   いかならむ遠きむくいか憎しみか生れて幸に折らむ指なき

と運命を呪った。

子供もなかったので婚家からは出て行けがしに扱われ、復籍して帰郷するのであるが、田舎の人々の偏見と好奇心とに耐えかねて東京で自活することを考えた。

教師になりたいと思ったのだが、そのためには資格が必要なので、梅花女学校の時の恩師、成瀬仁蔵が校長をしている日本女子大を選んだ。一人では淋しかったのか、増田雅子を誘った。

雅子は大阪の相愛女学校を中退、実家は大阪・道修町の薬種問屋である。登美子が夫と死別してから、交換日記のような形で短歌をやりとりしていた。学科と寮は別々であったがお互い心強かったと思われる。

登美子の身の上を知って鉄幹は『明星』への再入会を勧め、登美子ももう皆さんには追いつけないと思いつつも、それに応じて再び『明星』に作品を寄せるようになる。

鉄幹は登美子を励ます意味で歌集を作ってやることを考えたが、ブランクのあった彼女には単独の歌集を作れるほどの作品はないので、それならいっそ「三才媛」ということで売り出そうというわけで作ろうとしたのが『恋衣』である。〉

「何分の沙汰あるまで自宅謹慎を」と大学当局は命じたものの、結局のところ正式な処分は出ずにおわったようです。

文学を学ぶ学生たちが、熱心に文芸活動に勤しむ。誉められこそすれ、罰せられる筋合いのものではないはずです。さすがに、かえって世の笑いモノになることを大学側も自覚したのでしょう。

この「事件」を憤る歌を登美子は幾つも残しています。そんな一首、

  歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに

世の中では戦争に勝った勝ったと栄光に輝いているようにいうけれど、恋の歌をつくった女学生に罪があると自宅謹慎にするような時代なんですよ、千年後の人たちよちゃんと見てください。歌の意味は、そんなところでしょう。

2015年8月3日月曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑩

「君死にたまうことなかれ」に対する大町桂月の攻撃に対して、「この御評一も二もなく服しかね候」として「ひらきぶみ」(『明星』1904年11月号)で示した晶子の考えについて、入江春行は九つの要点にまとめています(『与謝野晶子とその時代』)。

①戦場に赴く子供や夫、弟などに対して「無事で帰れ、気を附けよ」と祈るのはすべての人の気持であり、権力の末端を担う者も例外ではない。

②真に国を愛する者は「我こそは愛国者である」と声高に叫んだりはしない。

③教育勅語などをひいて天皇のため天皇のためと言いつのる者ほど天皇に対する反感を抱かせるから、その方が却って天皇にとっては危険な存在である。

④天皇のために死ぬことが日本人の本分であると日本開闢以来きまっているというのは作り話である(日本の古典のどこにもそのようなことは書いていない、「軍記物語」にさえ書いていない)。

⑤女はすべて戦争嫌いである。だから早く終わってほしい。

⑥「まことの心」「まことのなさけ」「まことの道理」をうたうことこそ詩歌の生命である(詩人と称する大町桂月がそういうことも知らないのは「ひと不思議」)。

⑦今この詩を撤回すれば楽になるだろうが、後世の笑い者になるだろう。その方が私にとってはこわい。

⑧戦争のための重税のために民衆は喘いでいる。

⑨我が育った家では「なさけ知らぬけものの如き人に成れ」という家庭教育はしていない。

ちなみに、明治時代の軍事予算は平時でも国家予算の3割ほどに及んでいましたが、日露戦争の時には5割にも達していたといいます。

おまけに1904年には、いまの消費税のように、ほとんどの商品に1割前後の税がかけられるようになっていたというのですから、庶民にとってはたまったものではありません。

ところで、「君死にたまふことなかれ」に対する桂月の批判がエスカレートするのを見かねた鉄幹は、明星派として直接、桂月と対決すべきと考えました。

鉄幹は1905(明治38)年1月8日、明星派の論客で大逆事件などで活躍した弁護士、平出修を伴って桂月宅を訪れました。

この会談の記録は『明星』1905年2月号に掲載されています。『与謝野晶子とその時代』によれば桂月の意見はおおむね次の6点にまとめられるといいます。

①「君死にたまふことなかれ」は、内容が「悪感情」であるとともに、表現の仕方も露骨である。

②「悪感情」も人の同情を惹くようにうたえばよいが。大塚楠緒子の「お百度詣」や「先代萩」の正岡のように泣けばよい。その点晶子はかわいげがない。

③「悪感情」の最たるものは、皇室や戦争を呪うことである。

④平和な時に戦争がおこらないようにとねがうのは許せないこともないが、はじまってしまった戦争を呪うのは許せない。

⑤中国では昔から戦争を呪った詩が名詩として愛謡されているということは知っているが、それはその戦争に大義名分がないから許されるのである。日本の戦争は常に正義の戦争である。

⑥詩歌の価値はそれが社会に及ぼす影響とは一応別であるという考えもあるが、戦時下である今は社会に与える影響をまず考えなければならない。

こうした意見を聞いて呆れた明星サイドは「貴下は吾等の所謂文芸の士にあらざるは明白なり。貴下既に吾等に対して自ら批評家になるの資格無きを名言す」と断じ、「吾等は貴下が此際断然文芸批評の筆を焚かれることを切望して止まざるもの也」と述べて桂月宅を後にしました。

桂月の晶子批判は、桂月対剣南の論争となって燃え上がります。「ひらきぶみ」に記された晶子の反論の内容を、桂月がきちんと頭に入れていたかどうかはかなり疑問ですが。

それにしても両者の主張を比べたとき、少なくともいま見るかぎり、「君死にたまふことなかれ」論争は、明らかに晶子のほうに軍配が上がっているように思えます。

「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。〔中略〕彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」(「ひらきぶみ」)

歌や詩に対する晶子のほとばしるような信念は、微動だにもしていないのです。しかし、「君死にたまうことなかれ」の思いは、戦争のなか運動をつづけていた社会主義者らの非戦論とはまったく質を異にしたものでした。

〈このとき『平民新聞』に拠る幸徳秋水や堺利彦らは、あいつぐ発売禁止と演説会解散命令に妨害されながら、非戦運動をつづけていた。

「吾人は戦争すでに来るの今日以後と雖(いえど)も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし」

しかし晶子はこれら社会主義者らの思想に同調して、反戦歌をつくったわけではなかった。晶子は皇室尊崇の心を持っていた。社会主義者の思想は、晶子に身震いするように忌まわしく感じられるのである。

女心の直観だけで「まことの心」を謳いあげたのだったが、それに理論の裏打ちはなかった。そこが晶子の強さでもあり、弱みでもあった。〉と、田辺聖子『「みだれ髪」の女』にはあります。

2015年8月2日日曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑨

1904(明治37)年9月に『明星』に「きみ死にたまうことなかれ」に掲載されると、翌10月号の『太陽』で大町桂月(1869~1925)が、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべきで罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と非難します。

桂月は当時、さまざまな雑誌に随筆や評論を書き、美文家として脚光をあびていました。『太陽』に記された晶子に対する批判について、中村文雄は著書『君死にたまふこと勿れ』で次のようにまとめています。

 〈戦争を非とするもの、夙(つと)に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之(これ)を韻文に言ひあらわしたるものあり。晶子の「君死にたまふこと勿れ」の一篇、是也。

と書きだし、晶子詩を非戦、社会主義者との関連でとらえ、第五連「暖簾のかげに伏して泣く」を引用し、「こはなほ実況にして可憐也。」と好評もしている。ところが、第三連

  すめらみことは、戦ひに
  おほみづからは出でまさね
  かたみに人の血を流し
  獣の道に死ねよとは
  死ぬるを人のほまれとは
  大みこころの深ければ
  もとよりいかでおぼされむ

に大きな傍点○までつけて引用し、

さすがに放縦にして思ひ切った事言ふ人も、筆大にしぶりたり。されど、草莽(そうもう)の一女子、「義勇公に奉ずべし」とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非難す。大胆なるわざ也。(全傍点略)

と、教育勅語や宣戦詔勅を引き合いにだして、こうした天皇の意思表示の言葉(勅語)を非難しているのは大胆だというのである。皇室を崇拝し、教育勅語を信奉する晶子にとっては、桂月のこの批難は想像もできなかったことであろう。

さらに桂月は、晶子詩第二連

   堺の街のあきびとの
  旧家をほこるあるじにて
  親の名を継ぐ君なれば
  君死にたまふことなかれ
  旅順の城はほろぶとも
  ほろびずとも何事か
  君知るべきやあきびとの
  家のおきてに無かりけり

を引用し、

家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。(全傍点略)

と、家や妻が大切で国は滅亡してもよい、商人は戦争をする義務はない、という物おじしない言葉だ、と桂月は解釈するのである。また桂月は、『明星』が裸体画で発売禁止になったことがあるが、裸体画よりも世の中を害するのは、晶子のこのような思想だという。

つづけて晶子詩の字句の用い方にふれ、「調(ととの)はぬふし多し。」と抽象的に述べ、晶子の特長は短歌で、文章や新体詩ではない。「妄(みだ)りに不得手なる事に手を出さゞるは、本人にありても得策なりとす。」と高踏的に批判する。〉

こうして見ると、桂月の言い分は当時の、常識的、多数派的な見方を示した感じで、それほどエキサイトしているようでもありませんが、この一篇の詩をめぐる論争はその後、エスカレートし泥沼化ていきます。

『太陽』に桂月の批評が載った翌月の『明星』(1904年11月号)に晶子は、夫鉄幹への手紙の形式で書いた「ひらきぶみ」で、次のように反論しています。

〈私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそ)れおほき教育御勅語(ごちよくご)などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。

 私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏(おそ)れおほく勿体もつたいなきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。〉

これを、新聞などに文芸時評を書いていた剣南こと角田勤一郎(1869~1916)が、読売新聞(11月13日付)で取り上げ、晶子を次のように擁護します。

〈晶子、その弟の遠征を送るに『君死にたまふこと勿れ』の歌を以てす、桂月子これを国家的観念を貘視(ばくし)せしむべき危険なる思想の表示となす、晶子曰く、無事で帰れ気をつけよとて征人を送るのは人情なり、まことの声なり、まことの心を歌によむ何の不可かあらんと、言い得て好し。〉

これに対して桂月は、『太陽』の12月号で「情にも、公情あれば、私情あり。風俗を壊乱する情もあれば、社会の秩序を破壊する情あり」と反論。

今度は、剣南が「理情の弁――大町桂月子に与ふ」と題する読売新聞(12月11日)の記事で応ると、桂月は、翌1905(明治38)年の『太陽』1月号に「詩歌の骨髄」という長い批判文を寄せました。

桂月は、「ひらきぶみ」について触れることなくもっぱら剣南を相手に晶子の詩を論じ、「乱臣なり、賊子なり」と極言するまでになっていました。

2015年8月1日土曜日

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」⑧

日露戦争が始まった1904(明治37)年。3月末には、旅順口閉塞戦を海軍省が詳しく報じて、広瀬武夫中佐らの戦死が美談としてもてはやされました。

籌三郎が出征したころ、第1軍は鴨緑江を渡り、九連城を占領します。第2軍も遼東半島に上陸を開始、5月には南山、大連を占領しました。

東京では市民大祝捷会が開かれ、10万人が集まった。提灯行列の人々が熱狂して馬場先門前で、死者が出るほどの大混乱になります。

「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊……」。負けてばかりで勲章くれんたい(もらえない)。昔、大阪の歩兵第8連隊について、こんな俗謡が流れていたそうです。

口数が多く、損得勘定ばかりが先に立ち、おまけに反権力的。そうした、かなり偏見がまじった“大阪商人気質”からきているのか、大阪の兵隊は弱いと人々から見られていたのです。

実際の第8連隊は、そんなに負け戦を重ねていたわけではありません。むしろ、西南戦争の際、明治天皇から戦功をたたえる詔勅を受けるなど、さまざまな戦で奮戦勝利したつわものぞろいだったようです。

晶子の弟、籌三郎が入隊したのは、こうした第8聯隊か、あるいは司馬遼太郎が「河内国を中心とした聯隊区を持つ」(「昭和五年からの手紙」)などと推測する第37聯隊が有力視されています。

しかし、これらの聯隊が所属した第4師団は第2軍の一部を形成し、その先頭部隊は南山を占領したものの、旅順攻撃には参加せず北上していたことが専門家によって明らかにされています。つまり、実際のところ籌三郎は「旅順の攻囲軍」にはなかったことになります。

とはいえ、当然、軍の行動が大っぴらになっているはずはありません。籌三郎は、出征先を詳しく告げることは無かっただろうし、彼自身わかってはいなかったのでしょう。

晶子はきっと、旅順攻略戦に投入されているらしいという噂を信じて「君死にたまふことなかれ」を書いたのです。

次にあげるのは、弟が出征した3カ月半ほど後に書かれ、1904年の『明星』11月号に掲載された「ひらきぶみ」の一部です。

〈こちら母思ひしよりはやつれ居給いたまはず、君がかく帰し給ひしみなさけを大喜び致し、皆の者に誇りをり候。

おせいさんは少しならず思ひくづをれ候すがたしるく、わかき人をおきて出いでし旅順(りよじゆん)の弟の、たびたび帰りて慰めくれと申しこし候は、母よりも第一にこの新妻(にいづま)の上と、私見るから涙さしぐみ候。

弟、私へはあのやうにしげしげ申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。〔中略〕

私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪(わろ)く候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛めで候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。

堺(さかい)の街(まち)にて亡(な)き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。

まして九つより『栄華えいが』や『源氏げんじ』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代(みよ)なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。

さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。

御国のために止(や)むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。

提灯(ちようちん)行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。

馬車きらびやかに御者馬丁(ぎよしやばてい)に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末(すえ)が致してもよきほどの手わざ、聞(き)こえはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひや)やかなりと候ひし嘲(あざけ)りは、私ひそかにわれらに係(かか)はりなきやうの心地(ここち)致しても聞きをり候ひき。

君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑(うたがい)なき勇士にて候べし。

さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。

学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげしげ妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。〉

中村文雄はその著『君死にたまふこと勿れ』のなかで、「ひらきぶみ」から、次のようなことを「察知することができる」としています。

 〈「わかき人をおきて出いでし旅順の弟」とは、新妻せいをおいて旅順に出征した籌三郎ということで、旅順に出征とばかり晶子は思っていた。また、戦地便りと関連して、

  弟、私へはあのやうにしげしげ申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。

と述べているところから、籌三郎は実家の母や新妻せいには手紙をあまり書いてなく、晶子にはよこしていたことがうかがわれる。

さらに「ひらくぶみ」では、晶子のみた籌三郎は、「召されて勇ましく彼地へ参り候」となっており、「万一の時の後の事などもけなげに申して行き候」となっている。手紙の内容については、「学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は」、

  あのやうにしげしげ妻のこと母のこと身ごもり候児のこと、君(この場合鉄幹)と私との事ども案じこし候。

といっている。籌三郎は戦地でも、母・妻・姉夫婦のことを気遣う、「人間の心もち候」人であった。〉