2015年9月30日水曜日

北原白秋「落葉松」③

    白い月
          ――わかかなしきソフイーに

  白い月が出た、ソフイー、
  出て御覧、ソフイー、
  勿忘草(わすれなぐさ)のやうな
  あれあの青い空に、ソフイー。

  まあ、何んて冷(ひや)つこい
  風だろうね、
  出て御覧、ソフイー、
  綺麗だよ、ソフイー。

  いま、やつと雨が晴れた――
  緑いろの広い野原に、
  露がきらきらたまつて、
  日が薄すりと光つてゆく、ソフイー。

  さうして電話線の上にね、ソフイー。
  びしよ濡れになつた白い小鳥が
  まるで三味線のこまのやうに溜つて、
  つくねんと眺めている、ソフイー。

  どうしてあんなに泣いたのソフイー、
  細かな雨までが、まだ、
  新内のやうにきこえる、ソフイー。
  ――あの涼しい楡の新芽を御覧

  空いろのあをいそらに、
  白い月が出た、ソフイー、
  生きのこつた心中の
  ちやうど、かたわれでもあるやうに。

俊子との恋に苦悶していた1912年4月に作られた詩です。この年の7月、姦通罪によってり告訴された白秋は2週間、未決監に拘置されますが、上京した弟らの尽力で和解が成立し、告訴は取り下げられます。

心に深い傷を負った白秋は翌1913(大正2)年1月、死を思い立って三浦三崎へ渡ります。しかし「どんなに突きつめても死ねなかった、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかった」(「朱欒」後記)。

一方の俊子は、ホテルのバーのホステスなどをしていたようです。まわりには売春をする女たちがいたり、外国人が相手の洋妾になれとママにいわれたりしていたといわれています。

一時は、2人の仲は終わったと思っていた白秋ですが、文通がはじまると恋心は再燃してきました。当時、俊子にこんな手紙も送っています。

〈僕はあなたを高いものにしやうと思つて失敗した、たゞあなたは美しい僕の白栗鼠だ、美しい美しいお跳ねさんだ、あの人妻だつた時の怪しさ美しさ、いまでもあんな誘惑を僕に投げかける事ができるかしら、僕はね恐ろしい事だが、この頃人の細君さへ見るとあなたとの怪しい愉楽を思ひ出す、さうして一種の人妻病といふものに罹りはしないかと思ふまで、誘惑される。

かういふ恐ろしい事がまたと世の中にあるだろうか、――ああ自分たちの昔のゆめ、たつた半年前の事だが千年も経つた昔のやうな気がする。も一度あのゆめを取りかへしたい、然しもうあなたは人妻でない。

会うと思へば何時でも会へる身の上だ、それにしてもそのつまらなさを充分に償ふだけ今のあなたの生活は僕に怪しい誘惑を投げる、而して新らしい美しさを二人の昔の恋の上に輝かす。

あなたの生活が果してあなたのいふ通りか、あなたの心が果たしてあなたのいふ通り信実か、疑へば疑ふだけ苦しさと美しい好奇心とが僕の胸をかきむしる。何でもいい、焼木杭に火がついたのだ、ゆくところまで二人はゆかねばならぬ。

逢つて見たい、とは思ふが、逢つてもしや気まづい思をしたら、それこそ取りかへしのつかない不幸だ、まあ当分のうち逢はずにゐて、もつと苦しんで、逢はねば死んでしまうといふ心もちになつた時はじめてキユツと抱きしめたい――あなたはさうは思はないか。〉

こうした死ぬか生きるかの激しい色恋沙汰の騒ぎのなかにあっても、白秋の文学的な意欲は衰えを見せていません。この年、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行しています。

とりわけ、白秋が汚名の挽回をも期した『桐の花』は、直截で流麗なロマンティズムに彩られた作風で、これによって歌壇でも独特の位置を占めるようになります。

俊子とのよりは戻って同棲、やがて結婚することになります。1913(大正2)年5月父の長太郎や弟鉄雄ら一家をあげて三崎向ケ崎異人館に転居しました。しかし、長太郎らは事業に失敗。万事に派手好きの俊子と両親の間にも溝が次第に生まれ、一家は東京に引き上げます。

1914年3月、胸を病んでいた妻を伴って白秋は、小笠原父島へ渡ります。しかし、単調な島の生活にあきた俊子は6月には島を離れ、翌月には白秋も帰京することになります。

待っていたのは、両親たちと妻とのいやしがたい不和でした。そして、1年足らずの夫婦生活で、白秋と俊子は別れる道を選択します。『雀の卵』輪廻三鈔の序には次のように記されています。

「我深く妻を憫(あはれ)めども妻の為に道を棄て、親を棄て、己を棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決して相別る」

2015年9月29日火曜日

北原白秋「落葉松」②

     母

  母の乳は枇杷より温〈ぬ〉るく、
  柚子〈ゆず〉より甘し。

  唇〈くち〉つけて我が吸えば
  擽〈こそば〉ゆし、痒〈か〉ゆし、味よし。

  片手もて乳房圧し、
  もてあそび、頬を寄すれ。

  肌さはりやはらかに
  抱かれて日も足らず。

  いとほしと、これをこそ
  いふものか、ただ恋し。

  母の乳を吸ふごとに

  わがこころすずろぎぬ。
  母はわが凡て。

生まれたばかりのころの感触をよりどころに、母といものの肉体そのものをとらえた北原白秋の比類のない作品です。

白秋は、1885(明治18)年1月25日、熊本県の南関にある母の実家で生まれました。まもなく、福岡の柳川にある自宅に戻ります。父は長太郎、母はしけ。2人の間に生まれた長男は、隆吉と名付けられました。

北原家は江戸時代以来栄え、「油屋・古問屋」の屋号で九州中に知られた海産物問屋。当時は酒造を本業としていました。1887年には弟の鉄雄が誕生。この年、白秋に大きな影響を与えた乳母のシカがチフスで死んでいます。

1897(明治30)年、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高校)に進みましたが、数学の教師の陰険な管理教育に反発して幾何1科目を落として落第。そして、このころから詩歌に熱中し、雑誌『文庫』、『明星』などを濫読し、文学に熱中するようになります。

1901(明治34)年、大火で北原家の酒蔵が全焼し、家産が傾き始めます。家運を立て直そうとしていた長太郎は、息子の落第、文学狂いを許そうとはしませんでしたが、白秋は禁じられた文学書を畳の下や砂に埋めるなどして隠れ読んでいたといいます。そして、この年から「白秋」の号を用いています。

1904(明治37)年、長詩『林下の黙想』が河井醉茗に認められて『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、上京して早稲田大学英文科予科に入ります。このころ号を「射水」と称し、同郷の好で親しくなった若山牧水や友人の中林蘇水とともに「早稲田の三水」と呼ばれました。

1905(明治38)年には「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞一等に入選し、新進詩人として注目されるようになります。翌明治39年には、新詩社に参加。与謝野鉄幹、晶子夫妻、木下杢太郎、石川啄木らと知り合います。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛され、文壇に名が広まっていきました。

1908(明治41)年には、象徴詩「謀叛」を「新思潮」に発表。鉄幹の新詩社を脱退し、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加します。この会には吉井勇や高村光太郎も加わって、象徴主義、耽美主義的詩風をめざす文学運動の拠点となりました。

翌1909(明治42)年には、『スバル』創刊に参加。また第1詩集『邪宗門』を出版、官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となります。しかし、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされました。このころから、脚光をあびて登場した新進詩人の行く手に暗雲がさしはじめます。

1910(明治43)年、『屋上庭園』第2号に掲載した「おかる勘平」が風俗紊乱にあたるとされて、発禁処分になります。またこの年の9月、転居した隣家には、美貌の人妻、松下俊子がいました。

サディスティックな夫の暴行で生傷が絶えなかった俊子は、夫が連れ込んだ混血の情婦からもいびられ、乳飲み子を抱えて日夜泣き暮らすという異常な状況にありました。垣根越しの同情はやがて愛に変わることになります。俊子も青年詩人への憧れを抱くようになったのです。

1912(明治45・大正元)年、俊子の夫が白秋を姦通罪で訴え、俊子と白秋は市ヶ谷未決監に2週間拘留されます。この出来事に、「文芸の汚辱者」などと世評をあおるものもいて、白秋の盛名は一時、失墜することになるのです。

世評以上に、白秋自身の愛の苦悩、罪の意識は大きく、放免となったときは、狂気寸前の錯乱状態に陥っていたといいます。ときに白秋、27歳。『朱欒』の大正元年9月号に、次のように記しています。

「獄舎の経験は何よりの貴い省察と静思の時間を与へて貰ひました。これが為に若し今後の芸術上の作品に真に信実な感情の光と曾て見なかつた新しい思想の芽生とをもたらす事が出来たら」。

2015年9月28日月曜日

北原白秋「落葉松」①

きょうからしばらく、有名な白秋のこの詩を味わうことにしましょう。

    落葉松

    一 

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

     二

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

     三 

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

     四 

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

     五

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

     六

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

     七

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

     八 

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

北原白秋の「落葉松〈からまつ〉」は、1921(大正10)年、与謝野鉄幹がはじめた月刊文芸誌「明星」の11月号に掲載されました。このとき白秋は36歳。前年に妻と離婚し、この年4月に佐藤菊子と再婚しています。

「落葉松」は、その後、大正12年6月18日にアルスから発行された詩集『水墨集』の中に収められました。

同詩集には、〈落葉松〉として「落葉松」「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の順に5篇の詩が載っています。また、〈落葉松〉には、「落葉松について」と題して、次のような前書きがあります。

「落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ」

2015年9月27日日曜日

四年半後の「駝鳥」⑧

第1次大戦の戦需景気に沸いた反動で戦後恐慌に陥っていたところに、追い討ちをかけるように関東大震災は起こりました。失業者が激増し、決済できない震災手形は莫大な額にのぼりました。

関東大震災後の混乱を治める名目で、緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」が公布されます。この勅令の廃止と引き替えのかたちで震災から2年後の1925(大正14)年、社会主義や自由主義者、労働運動などを取り締まる治安維持法が成立しました。

「ぼろぼろな駝鳥」ができた昭和3年には、処罰に死刑が加わり、言論や思想への弾圧はいっそう厳しさを増していきます。

一方で、リーマン・ショックを境に世界的に経済は冷え込んで消費は落ち込み、金融不安で急速なドル安が進行、日本経済も大幅な景気後退を余儀なくされていました。東日本大震災が起こったのは、そんな時のことでした。

そして、関東大震災後に治安維持法が成立したのと同じ、ちょうど2年後の一昨年12月には、特定秘密の保護に関する法律(特定秘密保護法)が成立しています。国が「秘匿することが必要である」と判断すれば、特定秘密として扱われ、公にした者は罰則の対象になる危うい法律です。

そしてつい最近、多くの識者が「憲法違反」だと警告するにもかかわらず、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案が国会で成立しました。

  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。

窮乏した生活、自由にものを表現できなくなっていく行き場のない圧迫感。そんな現実のなかで「遠くばかり見て」いて、「身も世もない様に燃えてゐる」。それでも「瑠璃色の風が今にも吹いて来る」と、この芸術家は理想を抱いています。こうした理想もやがて、大きな戦争によってズタズタに打ちのめされてしまうことになるのです。

東日本大震災でわたしたちはいま、関東大震災には存在しなかった「原発」という、猛獣以上の〝化けもの〟をどうするか、という人類的課題に迫られていることも忘れるわけにはいきません。人間の手に負えない〝化けもの〟であることを思い知らされてから四年半、

  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

やがて、さらい深い苦渋を味わうことになる詩人の叫びは、いまも、突き刺さるように響いているのです。

2015年9月26日土曜日

四年半後の「駝鳥」⑦

「ぼろぼろな駝鳥」が発表される前年の1927(昭和2)年、日本の経済は第一次世界大戦による大戦景気から不況へと転じました。

さらに、関東大震災の復興のための震災手形が莫大な不良債権と化していました。

折からの不況によって中小の銀行は経営が悪化。金融不安が社会に蔓延するようになります。

「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました(実際はこの時は破綻していなかった)」。

3月14日の衆議院予算委員会における片岡直温大蔵大臣の失言を機に、一気に取り付け騒ぎが起こります。

そして、昭和金融恐慌の嵐が吹き荒れるのです。4月には鈴木商店が倒産、そのあおりを受けた台湾銀行が休業に追い込まれます。

高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を増刷するなどして不安の払拭に躍起になりました。

5月には山東出兵、6月には日米英三国によるジュネーブ軍縮会議、7月には芥川龍之介が「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である」と書き残して睡眠薬による自殺をしています。

金融恐慌によって、肖像彫刻「園田孝吉胸像」の制作を依頼するなど、光太郎を庇護してくれていた第15銀行も倒産しました。

こうした中、光太郎たちの生活も窮乏を極めています。きっと「腹がへるから堅パンも食ふ」のに近い、状態だったのでしょう。

東日本大震災から4年半になります。関東大震災から「ぼろぼろな駝鳥」が作られたのと、同じくらいの時が流れたのです。

私には、関東大震災後と東日本大震災後の日本社会には、かなり似かよったところがあるように思えてなりません。

2015年9月25日金曜日

四年半後の「駝鳥」⑥

ダチョウは、危険が迫ると砂のなかに頭を突っ込むといわれます。実際にはそうした習性はないようですが、その姿から英語では、The foolish ostrich buries his head in the sand and thinks he is not seen.(愚かなダチョウは頭を砂に埋めて、見えないと思っている)などと言われたりします。

日本のことわざでいえば「頭隠して尻隠さず」といったところでしょうか。また、ダチョウはなぜか昔から「火を食う」「石を食う」「鉄を食う」などとも言われてきました。なんでも食らう〝化けもの〟のようなイメージもどこかにあるのかもしれません。

近年は、北海道の旭川市旭山動物園など各地の個性的な動物園が人気を集めていますが、光太郎の時代の動物園といえば、なんといっても上野動物園でしょう。まして光太郎は、上野動物園のある現在の東京都台東区の住人だったのです。

関東大震災で上野動物園はどうなったのか。というと、意外にも、正門の門柱が一本倒れたほかは大きな被害はなく、カバがびっくりして水に潜ったままなかなか出てこないので心配した、という程度。動物たちはみんな無事だったそうです。

それはともかく〝猛獣篇〟では、自由で自然な猛獣に対比させるかたちで人間の卑小さをクローズアップさせています。そして、ここに出てくる「駝鳥」のように動物園に閉じこめて飼う残酷さを描くことで、人間社会を批判するのです。

「ぼろぼろな駝鳥」は、全13行のうち「……ぢやないか」でしめくくった文が八行を占めています。そして、これらの繰り返しが、たたみかけるように力強い詩のリズムを作りだしています。一見プロレタリア詩に出て来そうな「ぢやないか」という平俗な語り口が、脚韻のような効果を生み出しているのです。

島崎藤村や国木田独歩のような文語的な格調のある響きはありませんが、代わりに、開放感に満ちた親しみやすさがあります。いまからすれば「ぢやないか」は、日常ごくふつうに使うありふれた表現、若い人たちにとっては古くさい感じすらするかもしれません。

しかしこの表現が、文語詩が当たり前だった当時の若い詩人たちに与えた影響には、並々ならぬものがあったようです。伊藤信吉は、『逆流の中の歌―詩的アナキズムの回想』のなかで、次のように回想しています。

〈昭和三年末か四年はじめの冬のこと、私は酔っぱらった草野心平や小野十三郎やそのほかの人たちと、だちょう夜ふけの前橋の街をもつれあってあるいていた。ぐだぐだしたその酔っぱらいたちのからみあいの中から、そのとき小野十三郎が「よせよ、それ。ないぢゃないかなんて。」と言った。

誰かがそんなしゃべり方をしたのだ。それは高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」「上州川古『さくさん』風景」などの詩に、「ないぢやないか」という特徴的な語法がたくさん出てくることに関連していた。

たとえば「ぼろぼろな駝鳥」は「脚が大股過ぎるぢやないか」「頸があんまり長過ぎるぢやないか」「これはもう駝鳥ぢやないぢやないか」という語法で成立っている。それが私たちの会話にもぐりこんだわけで、高村光太郎の詩精神や語法というべきものは、地方都市前橋の冬の寒さの中にまで持ちこまれていたのである。〉

2015年9月24日木曜日

四年半後の「駝鳥」⑤ 

「猛獣篇」の中でも広く知られ、近代的な言葉のリズムや音の響きなどで最も成功しているといわれるのが、関東大震災から4年半ほど後、東日本大震災から勘定するとちょうどいまごろにあたる時期に発表されたのが「ぼろぼろな駝鳥」です。

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

1928(昭和3)年2月7日、光太郎が44歳のときの作品です。ダチョウは鳥の一種ですが、ふつうの鳥のイメージからはかけ離れた異色な存在です。第一、鳥なのに飛ぶことが出来ません。

もともとアフリカとアラビア半島に広く生息していました。しかし乱獲などで現在は、アフリカ中部と南部のサバンナや砂漠、低木林などと、生息範囲は限られています。頭は小さく、1メートル近い長い首をもっています。

オスの成鳥になると全長230センチ、体重135キロにも達し、現生の鳥類の中では最も大きい。また陸上動物の中で最大の直径5センチ近い目を持ち、視力も抜群のようです。

翼がヒレのようになったペンギンや、翼が退化しかかっているドードーにもある竜骨突起がダチョウにはありません。竜骨突起というのは、鳥の胸部にある竜骨と呼ばれる大きな骨の中央を縦に走る出っ張りです。

飛ぶのに必要な胸筋を支える役割を担っていますが、これが無いので胸筋は発達せず、羽毛もふわふわとしていて揚力を受けて飛ぶ構造にはなっていないのです。飛べない代わりに、脚は頑丈で俊足です。

通常、軽自動車なみの時速50キロ近いスピードで走り、時速70キロを出すこともできるそうで、羽を使って走る向きを変えたりもします。ダチョウの一歩は3~5メートル。その強力なキック力は、ライオンや人間も倒すほどだとか。

2本指の足には長くて鋭いツメがついています。いろんな年齢のオスやメスが混ざってふつう10羽程度の小さな群れで生活しています。群れを支配するオスは優位なメスと交尾。メスとオスは交代で鶏卵の25倍もの重さになる大きな卵を抱卵します。

2015年9月23日水曜日

四年半後の「駝鳥」④

「猛獣篇(第Ⅰ期)」の中で最初に発表されたのは、関東大震災から1年あまり経った1924(大正13)年11月に作られた「清廉」という詩です。

  それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
  そそり立つ岸壁のががんと大きい
  山巓の気をひとつ吸ひ込んで
  ひゆとまき起る谷の旋風に乗り
  三千里外
  都の秋の桜落葉に身をひそめて
  からからと鋪道に音を立て
  触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
  ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
  世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
  愛憐の霧を吹きはらい
  情念の微風を断ち割り
  裏にぬけ
  右に出て
  ひるがへりまた決然として疾走する
  その行手には人影もない
  孤独に酔い、孤独に巣くひ、
  茯苓〈ふくれう〉を噛んで
  人間界に唾を吐く
  ああ御しがたい清廉の爪は
  地平の果てから来る戍亥〈いぬゐ〉の風に研がれ
  みずから肉身をやぶり、
  血をしたたらし
  湧きあがる地中の泉を日毎あびて
  更に銀いろの雫を光らすのである
  あまりにも人情にまみれた時
  機会を蹂躙し
  好適を弾き
  たちまち身を虚空にかくして
  世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
  身を養ふのは太洋の藍碧〈らんぺき〉
  又一瞬にたちかえる
  あの山巓の気

「かまいたち(鎌鼬)」は、主に甲信越地方に伝えられる妖怪のことをいいます。つむじ風に乗ってやってきて、鎌のような爪で人に切りつける。鋭い傷を受けるが、痛みはない。

もともと「構え太刀」のなまりと考えられていましたが、転じてイタチの妖怪として描かれるようになったようです。ハリネズミのような毛をしてイヌのような鳴き声をする獣で、空を飛び、刃物のような前脚で人を襲うともいわれています。

関東大震災が起こった1923年9月1日の夜以降、混乱の中「朝鮮人が襲ってくる」というデマが流れ、朝鮮人に対する虐殺が繰り返されるようになります。

震災後の戒厳令下、東京の亀戸では社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10人が警察に捕らえられ、刺殺。前に書いたように、アナーキストの大杉栄、伊藤野枝らも憲兵隊に連行されて殺害されました。

さらには、皇太子(後の昭和天皇)が社会主義者の難波大助により狙撃を受ける虎ノ門事件が発生して内閣は総辞職。鬱積する社会不安とともに、治安維持の名のもとに人間性を無視した暴挙が続いていきます。

「清廉」は、こうした時代の閉塞した空気のなか、猛獣と化した人間界に、かまいたちの「清廉の爪」をあびせようとしているかのようです。また、本来の人間の生を確かめ、寄りそっていこうとする理想主義者、光太郎の決意をうたっているようでもあります。

この詩を読んだ田中静三にあてた手紙に、「私として一度は通過しなければならなかつた心の過程であります故自分としては是非善悪を超えた境です。御し難い野獣をインノセントの昔にかへして更に高いものに馴致し得るオルフオイスの力を望んでゐます」と光太郎は記しています。

2015年9月22日火曜日

四年半後の「駝鳥」③

ちょうどそんなころ、賢治のよき理解者だったともいわれる高村光太郎は、大震災の混乱の真っ只中にありました。

東京の約6割の家屋が罹災したとされるなか、幸い光太郎と智恵子は難を逃れることができました。しかし当然、震災の影響は2人のアトリエにも侵入してきました。

光太郎は、下町からの震災避難者たちにアトリエを開放し、智恵子の実家から取り寄せた清酒「花霞」を人々に傾けたりしています。

それまで自己の内面へと眼差しを向けていた芸術家が、大震災が契機となって外側へ、社会のほうへと視野を広げ、現実を見つめていかざるをえなくなったのです。

光太郎は焼け失せた東京の姿を上野から見下ろして「なつかしさ堪へぬ愛人を思ふ様な涙」にぬれ、「故郷よ、故郷よ、と繰返し」ました。

そして「災厄があまり大き過ぎる時、人はもう愚痴をこぼしてゐない。愚痴をこぼすほど自己の感傷に甘つたれてゐられない。絶体絶命の境地は人の根本力を叩き起こす。人は自己の個性の奥から、もつと深い、もつと遠い人間本能の不可抗力に駆られるのを感じる。さうして防衛と再起とは同意味同時の有機的な言葉となつてあらはれる」(「美の立場から――震災直後」)と記しています。

2人は「絶体絶命の境地」の中で、自らの生のありかを再構築せざるを得なくなったのです。智恵子は「必要以外何物も有たないこと=貧乏なこと。本能の声を無視しないこと。どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。赤裸なこと」という生活信条で生きようと心に決めています。

こうした震災直後の1924(大正13)年から1928(昭和3)年にかけて、光太郎の内部から噴き出すように生まれていったのが「猛獣篇(第Ⅰ期)」と呼ばれる一連の詩群です。

それらの題名を並べていくと――「清廉」「白熊」「傷をなめる獅子」「狂奔する牛」「鯰」「象の銀行」「苛察」「雷獣」「ぼろぼろな駝鳥」「竜」という具合になります。

実在の動物や空想の生物、いろいろと出てきますが、どの詩も、人間の生や生活を抑圧するものに対する反発や怒りに満ちあふれています。

2015年9月21日月曜日

四年半後の「駝鳥」②

「ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て/そしてスガタにいたるのです」のリフレーン。何もかもあてにならないこんなご時世にあって、あらゆる徳性は如来のもとにあるのだと考えているのでしょう。そんななか突然、「市民諸君」という言葉がとび出します。

「市民諸君、我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。……」

ここに上げたのは関東大震災の後の新たな街づくりのために、ときの東京市長、永田秀次郎が「市民諸君に告ぐ」と題して行った有名な演説です。

この演説が行われたのは、震災の翌年の1924年3月のことですから、永田演説から賢治の詩の「市民諸君」が取られたわけではないでしょうが、震災直後の混乱の中で「市民諸君」といった訴えが連日つづいていたことが想像されます。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80キロを震源とするマグニチュード7・9の地震によって引き起こされた関東大震災。神奈川、東京を中心に、千葉、茨城、静岡県の東部まで広い範囲に甚大な被害をもたらしました。被災者190万人、10万5000人余が死亡あるいは行方不明とになったとされています。

「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ/見たまへこの電車だつて/軌道から青い火花をあげ/もう蝎かドラゴかもわからず/一心に走つてゐるのだ」と、詩人はいいます。「ドラゴ」は、初夏の北天に輝くリュウ(竜)座のこと。夜空を賑わす竜座流星群としても知られています。サソリ座の「蝎」や「ドラゴ」が、軌道から青い火花を散らしながら走る電車を形容しています。「この貨物車の壁はあぶない/わたくしが壁といつしよにここらあたりで/投げだされて死ぬことはあり得過ぎる」という危なっかしさにあるのです。

東京と東北の岩手。2011年3月に起こった東日本大震災のときとは全く逆の立場で、賢治は自然の異変がもたらした恐怖に気持ちを尖らせています。

それにしても、「金をもつてゐるひとは金があてにならない/からだの丈夫なひとはごろつとやられる/あたまのいいものはあたまが弱い/あてにするものはみんなあてにならない」という表現には、大震災で一変してしまった社会や生活の混乱ぶりと、そこに置かれた人間の無力感が表れているように思われてなりません。それは、わたしたちが東日本大震災で実感した思いともつながっているはずです。

栗原敦の『宮沢賢治』(NHK出版)によれば、「花巻駅前救護事務所で調べた当駅下車の罹災民は3日より12日まで707名」に達していたと、この年9月14日の「岩手日報」は報じているそうです。関東大震災は岩手県でも、とうてい他人事ではあり得なかったわけです。

賢治が花巻南温泉峡に行った9月16日には、大震災後の戒厳令下、アナキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一の3人が憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で殺され遺体が井戸に遺棄された甘粕事件が起こっています。電車の中の賢治にこの事件を知る術はなかったでしょう。

しかしこの時、私たちが東日本大震災の原発事故で感じたような底知れぬ、行き場のない不安や恐怖を、賢治も感じ取っていたに違いありません。

「東京、神奈川の中心部分を壊滅状態に陥らせた関東大震災の被害に、華やかに見える都会の放縦な文化の危うさ、頼りがたさを痛感し、自らの日々のあり方を反省して、あるべき理想の世界の探求に向かう、宗教的、社会的使命感が激しく揺さぶられる思いであったろう」と栗原は推測しています。

2015年9月20日日曜日

四年半後の「駝鳥」①

いまから100年近く前、あの関東大震災が起こって間もない1923(大正12)年9月16日の日曜日、宮沢賢治は、岩手県の豊沢川に沿って、松倉、志戸平、渡り、大沢、山の神、高倉山、鉛、新鉛の八つの温泉が連なる「花巻南温泉峡」を電車で訪れています。

とはいっても、温泉に浸かりに行くのが目的、というわけではなく、大沢温泉のすぐ西にある五間森(標高569メートル)付近で立木を切るのに立ち合うという、本人はあまり気が進まない用事があったようです。この日、賢治は次のような詩を作っています。

    〔昴〕
 
  沈んだ月夜の楊の木の梢に
  二つの星が逆さまにかかる
    (昴〈すばる〉がそらでさう云つてゐる)
  オリオンの幻怪と青い電燈
  また農婦のよろこびの
  たくましくも赤い頬
  風は吹く吹く 松は一本立ち
  山を下る電車の奔り
  もし車の外に立つたらはねとばされる
  山へ行つて木をきつたものは
  どうしても帰るときは肩身がせまい
    (ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て
     そしてスガタにいたるのです)
  腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
  この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
  それが売れてこんどは持つて戻らないのか
  そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
  電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
  市民諸君よ
  おおきやうだい これはおまへの感情だな
  市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
  東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
  見たまへこの電車だつて
  軌道から青い火花をあげ
  もう蝎かドラゴかもわからず
  一心に走つてゐるのだ
    (豆ばたけのその喪神〈さうしん〉のあざやかさ)
  どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
  わたくしが壁といつしよにここらあたりで
  投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
  金をもつてゐるひとは金があてにならない
  からだの丈夫なひとはごろつとやられる
  あたまのいいものはあたまが弱い
  あてにするものはみんなあてにならない
  たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
  そしてそれらもろもろの徳性は
  善逝〈スガタ〉から来て善逝〈スガタ〉に至る

「昴」は、おうし座の散開星団であるプレアデス星団の和名です。距離410光年にある約130の星の集団で、誕生したばかりの高温の青い星で構成され、母体となったガスがまだ残っています。

肉眼でも、輝く5~7個の星の集まりを見ることができます。そのため昔から多くの記録に登場し、いろんな星座神話が作られてきました。

清少納言の『枕草子』に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星)。よばひ星(流れ星)、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて(尾をひかなければもっとよいのだが)」と記されているのもよく知られています。

賢治は、用事を終えた日暮れ時、「山を下る電車の奔り」の中にいるのでしょう。

「山へ行つて木をきつたものは/どうしても帰るときは肩身がせまい」と、木を切るという行為が、自身の自然保護や仏教の考えと相いれないものがあったのか、何か居ごこちが悪く後ろめたいものを感じているようです。

「善逝〈スガタ〉」は、梵語のSugataの漢訳。智慧の力で煩悩を断ち、世間を脱して悟りの世界に到達した人のことをいいます。また、仏陀と同じ意味で用いられる10種の称号「十号(じゅうごう)」の一つでもあります。

2015年9月19日土曜日

スカイツリーとアリ社会⑨

そそくさと働きまくり、地球に繁栄しているアリ、そして人間。詩人は、それらを同類の生きものとして、アリである自分の眼で眺めています。

アリも人間も「コロニイとコロニイが武力衝突する」「国と国 民族と民族が戦争するのも そっくりさ」といいます。

そうしたコロニイをつくりわけているのは、「分泌物と匂いという武器」。そして人間の場合は「言葉」でもあるのです。

「民族は言葉から神にむかう あるいは神の母胎から言葉が生れる」。そんな「言葉」について隆一は、「創めに言葉ありき」(1991年)というエッセーの中で、次のように述べています。

 〈文化の基本になるのは言葉だ。生活を変えたいと思うならば、言葉を組替えてみよう。すぐにも新しい生活がはじまるだろう。

なぜコピー・ライターがもてはやされ、その落ちこぼれが詩人になるようになったか、そう考えていけばわかるはずだ。詩は私の内部に入っていく。

ところがコピーは目に見えない大多数の者にむかっている。あくまで消費者に購買力を喚起させるのがコピー・ライターの仕事なのだから。

企業サイドから考えればコピー・ライターの成功した一行は一千万円でも安いかもしれない。それによって一億、十億の売上げが上れば。ところが詩人の一行は一銭にもならないだろう。

そこが僕はあくまで詩とコピーの違うところだと思う。かえって一銭にもならない方がいいのかもしれないではないか。詩はまず「私」を感動させるものだ。

そうしなければ他者を感動させることはできない。自分を感動させればその自分とは何かというところに必然的に入っていくだろう。〉

ついこの間、世紀末を迎えたと思ったら、いつのまにか21世紀ももう15年が経ちました。

そんな都会のまっただ中で、「人間の世紀末」が残した「電子工学」の最先端技術が放つ世界一の電波塔の照明を、働きアリのように動き回るたくさんの人々に混ざって、「蟻のように眠っ」たまんまの私も、仰ぎ、見つめていました。

それにしても人間という動物は(アリもそうなのかもしれませんが)、高くへ、高くへと、よくもまあ飽きもせず、また「眠りこけて」いることもなく、競い、しのぎあい、つくり続けているものだと感じ入りながら。

2015年9月18日金曜日

スカイツリーとアリ社会⑧

詩「1999」が発表されたのは、隆一が58歳のときです。15歳で詩を書きはじめて40年余り、〝働きアリ〟のように、詩や文学をよりどころにしながら書くことに追われてきた人生。

そんな〝働きアリ〟である自身の「精神異常の診断書を書いてみたい」というのは意外に、詩人の本音だったのかもしれません。

「1999」は1900年代の最後の年、ケタを上げれば1000年代の最後の年でもあります。そして20世紀の世紀末です。詩人は当然、世紀末としての「1999」も強く意識していたでしょう。

詩「1999」が発表されてから七年後、1988(昭和63)年5月号の「現代詩手帖」のインタビューで隆一は、「今後」について「『1999』という詩集だな。僕は21世紀は生きたくない。皆さんにお任せする」と語っています。不思議なことに、その言葉は現実のものとなりました。

1996(平成8)年2月、肺炎を起こして入院。一時は意識不明に陥ります。同年7月、声帯ポリープを切除するため再び入院。以後、入退院を繰り返します。

きっと、いよいよその時がきたなと意識していたのでしょう。翌1997(平成9)年の1月から1年間『すばる』に連作詩「1999」を連載。翌98年5月には、17年前の詩で予告していた詩集『1999』が刊行されました。死の3カ月前のことでした。

『1999』に収められている詩は14篇。アリが登場する詩ではじまり、「蟻」という詩で終わっています。詩「蟻」の3連目はこうなっています。

  ぼくは半裸体の漁師のペテロ
  ぼくは廃屋の三階建てをたった一人でツルハシをふるっている青年
  ぼくはペスト コレラ エイズ まだ持ち札はたくさんある
  ぼくはマドロス・パイプをくわえた貨物船の船長
  ぼくは熱帯にも寒帯にもコロニイをもっている蟻
  蟻 おお わが同類よ
  宇宙から観察したら 身長3ミリの蟻と
  一七五センチのぼくとたいして変らない
  蟻と人間だけが一億二千万年も生きながらえてこられたのは
  分泌物と匂いという武器でコロニイをつくりわけられたからだ
  人間は言葉
  コロニイとコロニイが武力衝突するのも
  国と国 民族と民族が戦争するのも
  そっくりさ
  人種は遺伝子
  民族は言葉から神にむかう
  あるいは神の母胎から言葉が生れる
  蟻のコロニイはカースト制で
  女王蟻を頂点に生殖専門の雄蟻
  三位の多数の蟻は労働 戦力 餌の蒐集
  おまけにゼネコンの下請け
  若い兵士の戦死率はきわめて高い
  おなじコロニイの死者は土葬にする これも
  昔の人間とそっくりだ
  コロニイは共同体というよりも「非個性」という絶対値で形成されていて
  コロニイそのものが固体であり
  たえず巨大化にむかって地下に王国をつくる

2015年9月17日木曜日

スカイツリーとアリ社会⑦

20年くらい前になるでしょうか。シロアリの研究で知られた京都大学の安部琢哉教授(当時)から、「シロアリは地球上でもっとも繁栄している動物なんだ」と聞いて、びっくりした覚えがあります。

残念ながら安部教授は、2000年3月にメキシコ・バハカリフォルニア沖で調査中、ボートの転落事故に遭って帰らぬ人となってしまいました。安部さんが残した著書『シロアリの生態』に次のような記載があります。

 「現在、地球上でもっとも繁栄している動物は文句なしにヒトであろう。生物の繁栄度をはかる一つの尺度として現存量を用いると、人口密度の高いところ、たとえば日本ではヒトの現存量が1平方メートル当たり10グラムを越える。

これに匹敵する現存量をもつ動物群は温帯ではミミズ、熱帯ではシロアリ(森林とサバンナ)と草食哺乳類(アフリカのサバンナ)だけである。単位面積当りの現存量はこれらより少ないが、その分布の広さから、アリももっとも繁栄している動物群に含めてよかろう」。

ヘルドブラーとウィルソンの『蟻の自然誌』にも、同じようなことが書かれていました。

「アリの数の多さは驚くべきものだ。働きアリ1匹の大きさは人ひとりの100万分の1より小さい。しかし集団になると、地上の優勢な生物としてアリは人類と肩を並べる。たとえば、どこかの樹にもたれかかったとき、はじめに身体に這い上がってくる生き物はたぶんアリだろう」

「種によって違うが、一匹の働きアリの重さは平均すれば1~5ミリグラムだ。世界のアリを全部合計すればおよそ人類全体の重さに匹敵する。しかしこの大きな現在量(バイオマス)は、とびきり微小な個体へ分割されて存在し、陸上環境を満たしている」。

「人類と肩を並べる」といっても、この地球上で積み重ねてきたアリたちの実績を考えれば、誕生からせいぜい500万年の新参者で、原爆や原発事故でいつ滅びるかもしれない人類では、とうてい太刀打ちすることはできないでしょう。

アリは1億2500万年ほど前、スズメバチの祖先から分化したと推定されています。9000万年ほど前のコハクの化石からはアケボノアリやヤマアリ、ハリアリの仲間も見つかっているそうです。

地上の恐竜が滅んだ約6500万年前の巨大隕石衝突による環境の大異変をも生きのびました。というより、コハクの中に残されたアリの含有量などからすると、この環境危機に際してむしろ勢力を拡げていったようです。

「ウロウロ」と「さも忙しそうに 活力にあふれて」怠けている。そんなアリの生態と社会システムのなかに、地球上で真にサステナブル(持続可能)に生きつづけていくヒントが隠されているのかもしれません。

2015年9月16日水曜日

スカイツリーとアリ社会⑥

北海道大学の研究者たちが、シワクシケアリという体が大きいアリ150匹ほどが暮らす巣を観察。幼虫のエサやり、掃除など周囲の役に立つ行動を「労働」とみなし、自分の体をなめるといった労働以外の行動と分けて、その頻度を比べてみました。

すると、労働の回数が1割以下のアリが10%、四割以上と特によく働くアリは10%以下だったそうです。詩「1999」にあるように、働きアリなのにほとんど働かないアリがいるのは事実のようです。ただし、それらのアリは必ずしも根っからの〝怠け体質〟もっている、というわけでもなさそうです。

北大の研究では、ほとんど働かない約2割のアリだけ30匹を集めると、そのうち約2割は働かないままだったものの、残りはよく働くようになったそうです。逆に、よく働くアリだけを集めたグループを作っても一部は働かなくなったといいます。

一見、働いていないように見えても、社会の中で欠かすことのできない役割を果たしている人は少なくありません。よく働くアリが疲れて動けなくなったときのために、余力を残したアリを予備として常に置いておくような社会システムができているのかもしれません。

少なくとも、すべての人たちがひたすら効率的な生産活動に励むギチギチした社会よりは、エサは運んでこないけれども「活力にあふれて怠け」ながら「観念的な叫び声」をあげている、いってみれば詩人のような〝人種〟がどこかにうろついているほうがナチュラルな社会であると、願望も込めて思いたい気はします。

  それに
  もっと驚くべきことは
  蟻の睡眠時間である
  たった二時間だけ目をさましていて
  たっぷり二十二時間眠りこけている
  「1999」
  という詩集が出してみたい
  もしそれまで生きていられたら
  たっぷり十八年間 ぼくは
  蟻のように眠っていて
  黙々と餌を運びつづける一匹の蟻の
  精神異常の診断書を書いてみたい

詩「1999」を読んだとき、あまり働かない働きアリがいることはある程度納得できたのですが、「二十二時間眠りこけている」というのは、私にはちょっと信じられませんでした。本当なのか、いつか専門家に聞いてみようと思いながら、まだ果たしていません。

いずれにしても「1999」からは、ユーモアやイロニーに交じって、〝働きアリ〟である詩人の実際の〝冬眠〟願望が、切々と伝わってくるように感じられます。

2015年9月15日火曜日

スカイツリーとアリ社会⑤

  蟻の話をどこかで聞いた
  蟻は働き者の象徴だと思いこんでいたのに
  それがまったく違うのだ

こまめに動いて餌を運んでくるアリを「働き者の象徴」とする見方は古今東西、かなり普遍的にあるようです。そんなアリについて、多くの人たちが頭に浮かべるのは、イソップ寓話の「アリとキリギリス」でしょう。

アリは夏の間、冬用の食料を蓄えるためせっせと働き続けます。しかしキリギリスは、バイオリンを弾いて歌って過ごす。冬がきました。キリギリスは食べ物を探すが見つかりません。

アリたちに頼んで食べ物をわけてもらおうとしますが、アリは「冬は踊っていたらどうだい」と拒まれ、キリギリスは飢え死にしてしまいます。

あるいは、それだと残酷なので、アリが食べ物を恵んで「夏に遊んでばかりいたからこうなったのですよ」と告げて、キリギリスは心を入れかえて働くようになるという話に変えて語られることもあります。

もともとは「アリとセミ」だったのが、ヨーロッパの北部ではセミはあまりなじみがないため、翻訳されていく間にセミがキリギリスになっていったようです。

  怠け者よ、 蟻のところに行って見よ。
  その道を見て、知恵を得よ。
  蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが
  夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。   
  
と、アリの働き者ぶりは旧約聖書(新共同訳)にも描かれています。

アリは、ハチ目アリ科に属する体長1ミリから3センチほどの昆虫。熱帯から寒冷な地域まで、森林でも草原でも砂漠でも陸上のあらゆる地域に分布し、世界で一万種以上が知られているそうです。

ハチ目に属しているように、アリとハチは、その社会構造も含めてよく似ています。スズメバチは、ミツバチよりアリに近縁ですし、羽アリはハチと区別するのが困難です。

産卵をする少数の女王アリと、育児や食料の調達などを担当するたくさんの働きアリなどで大きな群れを作ります。繁殖行動をする雄アリと雌アリには翅があり、働きアリと形態的にはっきり区別できます。

働きアリが圧倒的に多いので、私たちはふつうアリに翅はないという印象をもっているのです。雄アリと女王アリが交尾し、その後は女王が単独で営巣、産卵し、ふ化した子が成長すると働きアリとなります。

女王が働きアリを産み続けることで、群れは大きくなっていくのです。外でエサを探しているアリはたいてい〝年寄り〟のアリで、〝働き盛り〟の働きアリは、巣の中にとどまって食料の備蓄などの役目を果たしているようです。

2015年9月14日月曜日

スカイツリーとアリ社会④

田村隆一は1923(大正12)年3月18日、東京府北豊島郡巣鴨村(いまの豊島区南大塚)に生まれました。生家は祖父の代から鳥料理専門の割烹「鈴む良(すずむら)」を経営していました。10歳ころまでは大病の連続だったそうです。

1935(昭和10)年、東京府立第三商業学校(いまの都立第三商業高等学校)に入学。同学年に北村太郎や加島祥造、国語の教師には「いぬのおまわりさん」の作詞などで知られる佐藤義美がいました。在学中に北村や加島らと同人誌を発行たりしています。

1940(昭和15)年に同校を卒業。東京瓦斯に就職が決まっていましたが、1日も出社せずに退社。同じようにして横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を辞めた北村太郎といっしょに研数学館(予備校)に通いますが、こちらも長続きはしませんでした。

1941(昭和16)年、明治大学文科文芸科に入学。講師陣には小林秀雄、中野好夫、土屋文明、萩原朔太郎らそうそうたる文人がいました。堀田善衛は『若き日の詩人たちの肖像』で当時の田村隆一を「冬の皇帝」と呼んで、こんなふうに描いています。

「もっとも難解な、しかも抒情皆無で膠質な、角ばった詩を書く冬の皇帝は、ぞろりとした大島の着物を着て襦子の足袋を光らせ、雪駄をはいていた」「冬の皇帝の高笑いは、自我愛と自虐の両の電極からスパークして来る。白い花火を現前するものであった。誰もその笑い声を愉快なものとして耳にすることは出来なかった」。

隆一が明治大学に入った年の12月、ハワイ真珠湾攻撃によって、太平洋戦争が勃発します。翌1942(昭和17)年には、森川義信がビルマで戦病死、鮎川信夫が近衛歩兵第四聯隊に入営するなど、「戦争」が隆一の眼前に迫っていました。

そんな中、隆一は古典落語に熱中しています。「背が高すぎる」といわれて噺家になるのはあきらめたものの「桂文楽の会」や「可楽を聴く会」に通うなど、落語熱はいっこうに冷めません。実家の料亭に堀田らを招いて「素人鰻」を演じたこともあったようです。

『若き日の詩人たちの肖像』によれば「鰻がヌルヌルと逃げまわるのをとりおさえようという、きわめて高度な身振り手振りの必要な、むずかしい出しものであったが、そいつをこの絶望的な詩人である冬の皇帝が」見事に演じていたのです。

戦争が激しくなった1943(昭和18)年12月には、学徒出陣で北村太郎とともに横須賀海兵隊に入り、軍隊生活が始まりました。翌年2月には土浦海軍航空隊へ入隊。

しかし搭乗員試験の精密検査で不合格となり、2週間後、飛行要務士官としての教育訓練を受けるため、桜島や錦江湾を望む鹿児島海軍航空隊に転出しました。

9月には、滋賀海軍航空隊に予科練の教官として着任。1945(昭和20)年の正月に帰京した際は、葬式用の写真を撮って家族に別れを告げました。

ところが、同期はつぎつぎ特攻基地へ赴いたものの、田村は敗戦まで滋賀海軍航空隊から転出することはありませんでした。

7月、本土決戦に備えて陸戦隊が結成され、噴進砲中隊の中隊付士官として舞鶴市の神宮寺に駐屯。神宮寺のラジオで玉音放送を聞くことになります。

こうした彼の人生をたどってみると、寝転がったイタリック体にした「1999」が、詩に出てくる蟻の列のようでもあり、田村が所属した「陸戦隊」の兵隊のようにも見えてきました。

2015年9月13日日曜日

スカイツリーとアリ社会③

田村隆一のアリの詩といえば、私は真っ先に「1999」を思い出します。
 
  蟻の話をどこかで聞いた
  蟻は働き者の象徴だと思いこんでいたのに
  それがまったく違うのだ

  たとえば
  餌をせっせと運んでいるのは
  十匹のうち
  たった一匹で
  あとの九匹は前後左右をウロウロしているだけ
  さも忙しそうに
  活力にあふれて
  怠けているんだって

  ぼくも蟻になりたくなった
  九匹の蟻の仲間に入って
  ときどき
  観念的な叫び声をあげればいい

  それに
  もっと驚くべきことは
  蟻の睡眠時間である

  たった二時間だけ目をさましていて
  たっぷり二十二時間眠りこけている
  「1999」

  という詩集が出してみたい
  もしそれまでに生きていられたら
  たっぷり十八年間 ぼくは

  蟻のように眠っていて
  黙々と餌を運びつづける一匹の蟻の
  精神異常の診断書を書いてみたい

  今日の仕事はこれで終り
  では
  おやすみ

『ユリイカ』の1981(昭和56)年7月号に発表された、田村隆一が58歳のときの作品です。翌82年に青土社から出版された第9詩集『スコットランドの水車小屋』のいちばん最後に収められています。

前にあげた死の3カ月前に刊行された第21詩集のタイトルも『1999』です。ちなみに全集によれば、詩集のタイトルは「1999」。

詩の中では「1999」とイタリックになっています。いずれにしても隆一は、アリという生物、そして、1999という数字に特別な意味合いを感じていたようです。

2015年9月12日土曜日

スカイツリーとアリ社会②

昨年のノーベル賞授賞式があった夜、たまたまスカイツリーの近くを通りかかった私は、赤、緑、青、そしてそれらを掛け合わせてできる白の四色共演を、なんとなく昂揚する気持ちで仰ぎ見ていました。そしてふと、ある詩の一節が頭を過りました。
 
  さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
  人間の世紀末
  1999

1998(平成10)年5月に集英社から出版された田村隆一(1923~1998)の生前最後の詩集『1999』のいちばん最後に載っている詩「蟻」の、そのまた最後にでてくる一節です。100行近い長編詩「蟻」の最後の2連は次のようになっています。

  地上にも蟻塚がある
  フィンランドのヨーロッパエゾアカヤマアリの巨大な塚
  身長3ミリの蟻にとっては目もくらむような超高層ビル
  そのビルも全体で呼吸していたのだ
  処女の女王蟻のハニー・ムーンは劇的である
  乾いた膜状の翅をつけて無数の雄蟻をつれて飛行する
  生殖がおわると若い女王蟻は翅を切断し
  地上におりると新しいコロニイの建設にとりかかる
  彼女は長く生きのびて二十数年にいたるものもある
  その期間に排卵し遺伝子をつたえ成長させる子どもたちの数は
  まさに天文学的数字である
  そこへいくと雄蟻の運命は悲惨そのもの
  自らの死せる身体と遺伝子だけ残して数時間
  長くて一日のうちに息たえる
  三つのカースト
  女王蟻も激しい戦いに生き残ったものだけが君臨し なかには
  姉妹 娘から追放される哀れな女王蟻もいる
  雄蟻はもっと悲惨だ ただ生殖のために生きているようなものだ それも
  外敵と闘い 生き残ったただ一匹の蟻の数分間の生涯 生殖器だけは巨大である
  働き蟻にいたっては ただ働き交戦し餌の採集と保管 若い働き蟻ほど戦死 過労死 地下深く綿密に設計されたコロニイの技師であり建築労働者 そして翅もなく生殖器も退化している
  全世界に分布している蟻は一万種 人種の総人口よりはるかに多い

  ギリシャ神話では
  アイギナ島の住宅が疫病で全滅したとき
  ゼウスは蟻をその住民に変えたという
  さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
  人間の世紀末
  1999

アイギナ島は、エーゲ海、サロニコス湾の中央にあるギリシャ領の島です。いまはリゾート地として知られていますが、古代ギリシアでは、アテナイに対抗する都市国家(ポリス)の一つでした。

ギリシア神話では、アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき、ゼウスは王の敬虔さを償うため、アリをその住民に変えたといわれています。そんなギリシアはいまや、財政危機の長いトンネルの中で喘いでいるのです。

ヒトの遺伝子の全塩基配列を解き明かすヒトゲノム計画は、DNAの二重らせん構造の発見から半世紀後の2003年に完了しました。

私たちの生命やがんなどの病気、さらには田村隆一の愛したミステリーのストーリーまでも、この詩に登場する「遺伝子」をキーワードに語られるのが常となりました。

〝夢の医療〟といわれる再生の研究で注目を浴びている京都大学の山中伸弥教授らが作ったiPS細胞も、皮膚などの体細胞に数種類の「遺伝子」を導入することによって、いろんな細胞に分化する万能性をもつのです。

「電子工学」はといえば、「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」と賞賛されたノーベル賞の技術が、世界一のタワーを彩っているのです。

そしていまや、パソコンやスマートフォンを通じて、「全世界に分布している蟻」に負けないくらいの世界的広がりをもった、ネットワークという「コロニイ」の雲(クラウド)のもとで私たちの暮らしは成り立っています。

2015年9月11日金曜日

スカイツリーとアリ社会①

今年も、もうすぐノーベル賞が決まる時節になりました。昨年は、ノーベル物理学賞に3人の日本人が選ばれて、列島が沸きました。

青色発光ダイオード(LED)を開発した日本の研究者、赤崎勇・名城大学教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大学教授です。

いまや照明やディスプレーなどに広く使われるようになった、少ない電力で明るい光を発するLEDの発明と実用化に貢献、世界の人々の生活を変えて新しい産業を創りだした業績が高く評価されました。

授賞式に合わせて東京スカイツリーでは、年末、「光の三原色」の特別ライティングが催されました。

困難とされてきた青色LEDが赤崎さんらによって開発され、光の三原色(赤・緑・青)がそろったことにちなんで、赤、緑、青と、それらを掛け合わせてできる白の四色がスカイツリーを美しく彩りました。

墨田区押上1丁目に電波塔と観光・商業施設やオフィスビルが併設された東京スカイツリーが開業したのは、2012年5月のことです。全高(尖塔高)634メートル、軒高(塔本体の屋上の高さ)497メートル。

2011年11月に、世界一高いタワーとしてギネス世界記録の認定を受けました。構想の段階では世界一高い「建造物」を目指していましたが、アラブ首長国連邦ドバイに2010年1月に、高さ828メートルの超高層ビル「ブルジュ・ハリーファ」が建って、夢は潰えました。

タワーの水平方向の断面は、地上では一辺68メートルの正三角形ですが、高くなるにつれてだんだん丸みをおびた三角形に変わっていきます。そして地上約320メートルでほぼ円になるというデザイン。

「起(むく)り」や「反り」の曲線など日本の伝統建築の発想を生かし、見る方角によって傾いているようにも、裾が非対称になっているようにも見えるそうです。

法隆寺の五重塔を参考にして、心柱によって地震の揺れを抑える心柱制震構造なども取り入れられています。

ライティングの機材や調光はパナソニックが請け負い、スカイツリーに備え付けられた1995台の照明にはすべてLEDが使われています。

昨年のノーベル賞では「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」と、3人の研究の重要性が讃えられました。LEDは1960年代に赤色が開発され、緑色も実現しましたが、最後に残った青色の開発は困難を極めました。

品質のよい青色LEDの材料を作るのが難しく、世界中の企業が取り組みましたがうまくいきません。そのため、あらゆる色の光を作り出せる「光の三原色」がそろわず、「20世紀中の実現は不可能」とまでいわれていたのです。

そのカベを打ち破ったのが赤崎さんと天野さんでした。2人は「窒化ガリウム」という材料を使って明るい青色を放つのに成功。

さらに中村さんは、これらの成果を発展させて安定して長期間光を出す青色LEDの素子を開発し、量産化の道を開きました。こうしてLEDによるフルカラー表示が可能になったのです。

電気を直接光に変えるLEDはエネルギーの損失が少なく、素子そのものが光るので電子機器の小型・軽量化にも役立ちます。薄くて省エネのディスプレーなど、デジタル時代の幕開けにも大きな寄与をしたことになります。

白熱灯や蛍光灯がLED照明に変われば、地球温暖化を防ぐ切り札の一つになるのでは、という期待も高まっています。こうしたわけで、ノーベル賞記念の特別ライティングのテーマは「光の三原色」だったのです。