2015年10月31日土曜日

四年半後の「駝鳥」①

いまから100年近く前、あの関東大震災が起こって間もない1923(大正12)年9月16日の日曜日、宮沢賢治は、岩手県の豊沢川に沿って、松倉、志戸平、渡り、大沢、山の神、高倉山、鉛、新鉛の八つの温泉が連なる「花巻南温泉峡」を電車で訪れています。

とはいっても、温泉に浸かりに行くのが目的、というわけではなく、大沢温泉のすぐ西にある五間森(標高569メートル)付近で立木を切るのに立ち合うという、本人はあまり気が進まない用事があったようです。

この日、賢治は次のような詩を作っています。

    〔昴〕
 
  沈んだ月夜の楊の木の梢に
  二つの星が逆さまにかかる
    (昴〈すばる〉がそらでさう云つてゐる)
  オリオンの幻怪と青い電燈
  また農婦のよろこびの
  たくましくも赤い頬
  風は吹く吹く 松は一本立ち
  山を下る電車の奔り
  もし車の外に立つたらはねとばされる
  山へ行つて木をきつたものは
  どうしても帰るときは肩身がせまい
    (ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て
     そしてスガタにいたるのです)
  腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
  この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
  それが売れてこんどは持つて戻らないのか
  そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
  電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
  市民諸君よ
  おおきやうだい これはおまへの感情だな
  市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
  東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
  見たまへこの電車だつて
  軌道から青い火花をあげ
  もう蝎かドラゴかもわからず
  一心に走つてゐるのだ
    (豆ばたけのその喪神〈さうしん〉のあざやかさ)
  どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
  わたくしが壁といつしよにここらあたりで
  投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
  金をもつてゐるひとは金があてにならない
  からだの丈夫なひとはごろつとやられる
  あたまのいいものはあたまが弱い
  あてにするものはみんなあてにならない
  たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
  そしてそれらもろもろの徳性は
  善逝〈スガタ〉から来て善逝〈スガタ〉に至る

2015年10月30日金曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑭

  わたしはわたしのうたの中で
  べこの子の背中に
  かげろうをゆらつかせ
  りんごのキモチがわかるとほざき
  めんこい小馬のたてがみを
  朝つゆでぬらした

  わたしは東京生れの東京そだち
  べこの子や小馬とくらしたことはない
  だがわたしの父母は
  ともに みちのくの生れ
  父は弘前
  母は仙台
  わたしがこのんで
  雪国のうたをつくるのは
  どうやら二人から受けついだ
  血のせいらしい 血のせいらしい

と、サトウハチローは「わたしのうた」という詩で、自嘲気味にうたっています。

1949(昭和24)年の「長崎の鐘」を最後に流行歌から退き、童謡に専念することを宣言したハチローは、1953(昭和28)年に童謡集『叱られ坊主』を出版して、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞します。

1955(昭和30)年には「ちいさい秋みつけた」を作り、2年後のレコード大賞童謡賞を受賞するなど、めざましい活躍をつづけていきます。

同時に、質の高い童謡が生まれていくために作詞料のアップなど環境づくりにも力を尽くしました。

戦争直後から約10年間にわたって東京タイムズに連載したエッセイ『見たり聞いたりためしたり』の中で、次のように記しています。

〈最近、必要があって、各レコード会社の童謡の作詩料をしらべた。調査の結果は、ボクをブンブンのカンカンにさせた。

あまりにも、あまりにもあまりにも、安すぎるからだ。各会社とも、流行歌の半分以下なのだ。いったい、こういう料金はどこから割りだしたのだ。ばかにするにもほどがある。

勿論、作品そのものも、これはと思うものはないが、そういう点からいったら、流行歌だって同じだ。いや、それ以下だ。童謡の方は、ばかばかしいウタが多く、流行歌の方は、愚劣極まるのが多い。

童謡には社会に害毒を流すというようなものは、みあたらなかったが、流行歌の方には、大分ある。書いてる作者の頭をうたぐりたくなるものがずらりとならんでいるのは流行歌で、作者自身が本体を一つもつかんでないのが多いのが童謡の方だった。

罪の軽いのは、どちらかというと、これは公平にみて童謡の方なのだ。それなのに、安いのだ。ふざけちゃいけねえや……とケツをまくりたくなるのは無理はねえやだ。〉

戦後の流行歌に対してハチローは、「社会に害毒を流す」と言葉を荒だてるほどにまで、満足のいかないものを感じていたようです。

しかし、「リンゴの唄」は、もはや単なる“流行歌”の範疇を離れ、「歴史」になっていきました。ハチローをはじめ、作曲した万城目正も、歌った並木路子も、霧島昇も、鬼籍に入ったいまも、「リンゴの唄」は歌い継がれています。

そして、敗戦の焼け野原からの復興の歩みの中で生まれた新しい世代のリンゴ「ふじ」が、いまや世界のリンゴとして輝きをはなっています。赤いリンゴに唇よせる「リンゴの唄」に、「ふじ」もよく似合う。

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

「リンゴの唄」はきっとこれからも歌い続けられていくことでしょう。日本が、自由に、生き生きと、みんなで歌える国であるならば、ですが。

2015年10月29日木曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑬

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  召されて妻は 天国へ
  別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの
  鎖に白き 我が涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

敗戦から4年後の1949(昭和24)年に、作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而作曲、歌・藤山一郎でコロムビアレコードから発売され、大ヒットした「長崎の鐘」です。

「私は、この『長崎の鐘』を作曲する時、サトウハチローさんの詞の心と共に、これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って“なぐさめ”の部分から長調に転じて力強くうたい上げた」と古関は自伝に記しています。

この歌は、長崎の原爆で妻を失い、自らも被爆しながら治療にあたった長崎医大の永井隆博士の『長崎の鐘』や『この子を残して』を読んで感動し、ハチローが作詞したもの。

ハチロー自身も、広島の原爆で腹違いの弟、節を失っています。ハチローは節を“チャカ”と呼んで、幼いころから可愛がっていました。広島中央放送局へ転勤する親友を大阪駅で見送りましたが、別れがたく、そのままついて昭和20年8月5日夜に広島へ行き、翌朝、被爆しました。

  お前がいなくなって
  俺はひとりの兄弟もなくなってしまった
  ポンプを
  押しっこして水をのみたくても
  もうのめない

  ああ 秋空だけが
  いたずらに毎日青い青い

これは、そんな弟にむけて書いた詩の一節です。

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ

「長崎の鐘」の染み入るような出だしは、弟に対する痛恨の想いから噴き出してきた言葉に違いありません。

ハチローはこの「長崎の鐘」を最後に流行歌から退き、童謡に専念することを宣言します。実際にはその後も流行歌をいくつか作詞していますが、仕事の中心が童謡に向けられるようになったことは確かでしょう。

ハチローの弟子、宮中雲子は「サトウ先生の生涯」をまとめた『うたうヒポポタマス』に、「ハチローは、詩を書き始めたときに、自ら童謡を選んだ。流行歌でヒットを出し、小唄を書いて拍手を受けたが、ほんとうに書きたいのは美しい抒情詩であり、童謡だった」と記しています。

「リンゴの唄」に始まった、敗戦で打ちひしがれた人々を励まし再起をうながす歌をとどけるという、ある意味では詩を職業とする者の使命ともいえる仕事は、「長崎の鐘」で一応やり終えたという気持ちが、ハチローのどこかにあったのかもしれません。

それにしても、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

そして、

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ

という、「リンゴの唄」と「長崎の鐘」の二つの空。見つめる想いは異なっているのでしょうが、どちらも青くすっきりと澄んでいます。

2015年10月28日水曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑫

〈もうこのあたりでいいかと見回すと、ちょうどいい具合の木が見つかりました。
よし、ここで、とロープを枝に投げたら、勢い余って指からすり抜けて飛んでいきました。何てドジなんだと思いながら、ロープを拾いに斜面を少し下りようとして目をあげたときです。月光にリンゴの木が浮かび上がっている。まるで自ら光を放ちこちらを見てくれと言わんばかりにその木は輝いていました。

 「えっ、こんなところにまだリンゴの畑があったのか」
 人の手が入らなくなって久しい見捨てられたリンゴ畑だと思ったのです。夢か幻か。もう自分が何のために山に登ってきたのかも忘れてしまいました。実はこの辺はドングリがはえる高さの限界でした。毎日、リンゴのことばかり考えていたから、ドングリの木がリンゴの木に見えたのです。

とにかくその木は自分の木とは全く違い、虫の被害もなく、見事な枝を張り、葉を茂らせていました。私はその魔法の木に一瞬にして目も心も奪われました。

こんな山の中でなぜ、農薬を使っていないのにこれほど葉をつけるのか。なぜ虫や病気がこの葉を食いつくさないのか。その木の前に呆然と立ちすくんでいました。あたりはなんともかぐわしい土の匂いに満ち溢れ、肩まである草をかき分けると、足元はふかふかで柔らかく湿気があります。

雨のせいではありません。クッションを敷きつめたような感触です。そして突然稲妻に打たれたかのように、「これが答えだ」と直感しました〉(木村秋則著『リンゴが教えてくれたこと』)

絶対に不可能といわれた無農薬・無肥料栽培を成功させ、「奇跡のリンゴ」として映画にもなった青森県の農業家、木村秋則さん。

畑すべてを無農薬・無肥料に替えて6年たっても「収穫ゼロ」が続き、親戚からは「家を出ていけ」とののしられ、周りからは「あいつはバカだから口をきくな」。万策尽き果てて、自殺を思いたって山へ入ったときの話です。

リンゴは「農薬でつくる」と言われるほど病害虫が多く、栽培が難しい果物。木村さんのリンゴ栽培への執念は、自殺を思い立ってからも、尽きることはなありませんでした。首をくくろうとしていたとき、月光に、リンゴの木が浮かび上がってきた。実は、ドングリの木だったのですが。そして、ハタと悟る。

「やっぱり土が違うんだ。そうだ、この土をつくればいい」

手のかかるリンゴ栽培は、毎年ふつうに実らせるだけでも農家の人たちの大変な労苦が要ります。まして木村さんのように新しい栽培法に替えたり、新しい品種に挑んだりするのは、いのちを賭けるくらいの並々ならぬ覚悟がなければ臨めるものではないのでしょう。

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘
  誰方(どなた)が言ったか うれしい噂
  かるいクシャミも 飛んで出る
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

「リンゴの唄」には、木村さんのような困苦してリンゴつくりに励む栽培農家の姿はありません。ここに出てくるリンゴは、果物屋で売られ消費者が手にしているリンゴ。なんとなく神秘的で、高級で、庶民にはなかなか手に入らないがキュートで可愛らしい都会的な果物です。

サトウハチローは、空襲にさらされていた戦時中に、東京で「リンゴの唄」を作りました。そのころのハチローは、大都会に住む売れっ子の作詞家でした。子どものころ両親の郷里の東北のリンゴ畑を歩いたといった経験はあったのでしょうが、基本的には“都会に出てきて一皮むけた”感じのリンゴを見つめて書かれた詩といえるでしょう。

「リンゴの唄」は、戦時中は「軟弱すぎる」と検閲ではねられました。うって変わって戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からは歓迎されるかたちで検閲を通り、国民に爆発的に広まります。詩は、時代や政治状況、置かれた立場などによって作られかた、読まれかたが大きく変わります。

2011年の東日本大震災の直後、被災地で「リンゴの唄」を歌おうといった歌手らの活動もあったようです。「リンゴの唄」には、戦後の焼け野原に響いたときのように、人々を励まし前向きにさせる力があります。実際、被災地で「リンゴの唄」を口ずさんで気持ちを支えた人も多いことでしょう。

でも、もしも、精魂込めて育ててきたリンゴ畑に足を踏み入れることさえできなくなったフクシマの農家の人たちの耳に、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

と、都会的で明るい歌声が入ってきたとしたら、どんな気持ちを抱くでしょう。私などの想像のおよぶ範囲ではありませんが、「心をなぐさめ励ます歌だから」と単純には割り切れないものがあったにちがいありません。

2015年10月27日火曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑪

  みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる

  黒い煙を はきながら
  お船はどこへ 行くのでしょう
  波に揺られて 島のかげ
  汽笛がぼうと 鳴りました

  何時か来た丘 母さんと
  一緒に眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる

よく知られた「みかんの花咲く丘」は、「リンゴの唄」が大ヒットしていた終戦直後の1946年8月25日にNHKのラジオ番組「空の劇場」で発表されました。加藤省吾が作詞、海沼實が作曲をした童謡です。

放送の直前になっても作品が仕上がらずに悩んでいた作曲家の海沼實が、たまたま行き会った音楽雑誌編集長の加藤省吾に即席で歌詞を作ってもらい、なんとか間に合わせたといいます。

海沼と加藤が曲のタイトルを決めようとしたとき、最初にイメージされたのは「みかんの歌」でした。が、2人には、旧知の間柄だったサトウ・ハチローのことが頭に浮かんできます。

「リンゴの唄」の二番煎じと嫌味を言われるかもしれない。というわけで、リンゴが実ならみかんは花でいこうと、あれこれ思案した後に「みかんの花咲く丘」になったというエピソードも付いています。

ところで、南国らしい駘蕩とした明るいメロディの半面、詩を読んでみるとなんとなく物悲しい。みかんの丘の道ははるかにかすむ思い出の道なのです。そして、いまはもう亡いのであろう母を偲ばせる丘でもあります。

ミカンの産地、静岡県出身の作詞家、長田恒雄にこんな詩もあります。

  歌ふのをやめよ
  僕は枝にのぼって
  そっと 皮のまま
  みかんをかじる

  ほろにがく酸っぱくあまく
  家郷が
  僕の底辺にしみる

          (「家郷にて5」)

 太陽に恵まれた南国の果物でありながらミカンには、こうした、ほろ苦さや憂いをうたった詩がけっこう多いようです。むしろ、初恋、青空といった浮き立つものとマッチして、

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔

といった弾むように前向きな明るさを生み出すイメージ力は、寒冷な厳しい風土の中で育つリンゴのほうが強いようにも思えます。

なんといったってリンゴは、あの激しい「ねぶた」の祭りを、熱情の板画家、棟方志功を、そして骨太でたくましい北のまほろば、三内丸山遺跡を生んだ地で育っているのですから。

2015年10月26日月曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑩

  雨……雨……雨……
  雨は銀座に新しく
  しみじみとふる、さくさくと、
  かたい林檎の香のごとく、
  舗石の上、雪の上。

  黒の山高帽、猟虎の毛皮、
  わかい紳士は濡れてゆく。
  蝙蝠傘の小さい老婦も濡れてゆく。
  ……黒の喪服と羽帽子。
  好いた娘の蛇目傘。
  しみじみとふる、さくさくと、
  雨は林檎の香のごとく。

         (北原白秋「銀座の雨」)

リンゴというのは、不思議な果物です。「人こひ初めしはじめなり」(藤村)と、「初恋」のシンボルになったかと思えば、銀座の雨の香も放ちます。

そういえば、旧約聖書「創世記」のエデンの園で、アダムとイヴが誘惑にまけて食べてしまった「善悪の知識の木」の「禁断の果実」も、昔から絵画ではリンゴが描かれるのが定番になっています。

というのは、ラテン語で「善悪の知識の木」の「悪の」の部分にあたる「malus」を、同じつづりの「リンゴ」の意味と取り違えたか、二重の意味が含まれていると読み取ったから、とされているそうです。

これほどまでに、「知恵の木」=リンゴというイメージが定着した背景には、リンゴという果物が持つ、美しくも神秘的な形象が画家たちの想像力をかき立てたという側面もあったに違いありません。

ギリシア神話には、不和の女神エリスが「最も美しい女神に与える」と言って投げ入れた黄金のリンゴをめぐってヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が争い、やがてトロイア戦争に至るエピソードがあります(パリスの審判)。

知恵の木といえば、近代科学を切り開いたアイザック・ニュートンが「木から落ちるリンゴを見て万有引力の法則に気づいた」という逸話はあまりにも有名です。

現代のカリスマ、スティーブ・ジョブズ(1955~2011)たちがつくったコンピューター会社の名前も、そのロゴマークも「アップル」。アップルのパソコン、マッキントッシュ(Macintosh)もリンゴの品種名「McIntosh」(日本の「旭」)から取られたものだそうです。

「アップル」の由来については、ジョブズが果食主義を実践していた、知人のリンゴ園の剪定作業から帰ってきたところで名前を決める打ち合わせをした、尊敬していたビートルズのレコード会社名「アップル」から、知恵の実でイメージが良い、頭が「A」で電話帳の最初のほうに出てくる、など諸説があるとか。

  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

古今東西の偉人たちを惹きつけ、人間の歴史や文化のさまざまなイメージを喚起するリンゴ。西洋リンゴが入ってきた明治期に育ち、好奇心のかたまりのような詩人だったサトウハチローが、その神秘的でエキゾチックで、ときにエロティックな色彩をも放つこの果物に興味を抱かないはずはなかったでしょう。

2015年10月25日日曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑨

  今日のつかれを 日ぐれの風に
  さらりとばして かえる道
  遠い昔に わが母親に
  教えてもらった 唄が出る
  ――あゝ なつかしの その唄に
    ふるさとのふるさとの 山の形が見えてくる
    母の瞳も 見えてくる

  いやな思いを 指折りかぞえ
  眉をひそめる 雨の夜
  雨の中から わが母親の
  しっかりおやりの 声がする
  ――あゝ なつかしの その声に
    ふるさとのふるさとの 家のけむりがゆれている

    母の姿も ゆれている

  ペンをとりあげ おもいのままに
  ひとり静かに 書く手紙
  文字の影から わが母親の
  やさしくみている 顔がある
  ――あゝ なつかしの その顔に
    ふるさとのふるさとの なにもかもがあふれてる
    母の匂いも あふれてる

サトウハチローの「郷愁」という詩です。ハチローは、東京に生まれ、人生の主たる活動の場も東京でした。

「リンゴの唄」を書いた戦時中も、妻子を千葉県に疎開させ、自身は東京に残って空襲の中、仕事を続けていました。

この詩の中で「ふるさとのふるさとの 山の形が見えてくる」とうたう、ふるさととはどこをイメージしているのでしょう。

ハチローの母も父も東北の出身でした。母の佐藤はるは、いまの宮城県仙台市出身で、地元の有力新聞、河北新報社の創業者の義妹にあたります。父の佐藤紅緑は、青森県弘前市の出身です。

「とにかくあの人は、デタラメな作り話ばかり私にする人でした」と妹の佐藤愛子が話していたように、ハチローはいかにも詩人らしく、その作品だけでなく言動も虚構に満ちていました。とはいえ、幼いころ何度も訪れた東北をハチローが「ふるさと」と感じていたとみるのは自然でしょう。

サトウハチローの本名の八郎という名前は、祖父の佐藤弥六(1842~1923)のネーミングでした。8番目の孫ということで名付けたようです。しかし、よく考えてみると9番目の孫だった。そこで、八九郎にしようという案も出たとか。

弥六は、幕末から大正まで活躍した弘前の名士でした。福沢諭吉の慶應義塾で学び、諭吉に学才を認められてオランダ公使に推挙されたこともあったといいますが、兄の急死で帰郷。

弘前へ戻ってからは、唐物(和洋雑貨)屋を開くかたわら、英学を教えたり、郷土史を執筆したり。さらに県会議員となって、産業振興にも尽力しました。森鴎外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場します。

弥六は、特産である青森リンゴの指導者で、功労者でもありました。西欧から入ってきたばかりのリンゴ栽培にも最初のころから携わり、大日本農会から表彰されてもいます。また、リンゴの種類や栽培法について書かれた『林檎図解』という本も出しています。

けんか好きで、押し付けや筋が通らないことには食ってかかる破天荒な性格は、息子の紅緑、孫のハチローへと受け継がれていきました。同時に、郷里の宝であるリンゴへの想いもまた、弥六から孫へと伝わっていたのかもしれません。

2015年10月24日土曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑧

リンゴはもともと、中東コーカサスから、中央アジアにかけての一帯でつくられていて、それがシルクロードの商人の活動や、アレクサンダー大王の東征などで世界に広まったと考えられています。

私たちがいま食べているリンゴは、明治以降、欧米から入ってきた外来種。江戸時代から国内でつくられていた在来種(和リンゴ)がありました。

しかし、和リンゴは直径が「9寸(約3センチ)以内」と小さく、肉が薄く、味でも西洋リンゴにおよぶものではありませんでした。

宮沢賢治の作品を読んでいると、リンゴがあちこちに出てきます。表記は、「りんご」、「苹果」、「林檎」とさまざま。

現在では漢字で書くとき、リンゴ一般を「林檎」とすることが多いようですが、西洋リンゴが入って来た明治期には、和リンゴとは違う漢字を使っていました。

在来の和リンゴを「林檎」、西洋リンゴは「苹果」と書いたのです。賢治作品に出てくるのは「苹果」が圧倒的に多くなっています。詩や童話の中でさまざまなイメージを形作っていたのは、在来種ではなく主に西洋リンゴだったことになります。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

明治に日本へ入ってきた苹果のなかで、戦前から、戦後の「ふじ」が出現するまでのあいだに「赤いリンゴ」といえば、ふじの親にあたる「国光」、それにいまもアップルパイなど製菓には欠かせない「紅玉」が最もポピュラーで、これら2種が圧倒的なシェアをしめていました。

「リンゴの唄」を作詞したサトウハチローも、それを口ずさんだ終戦直後の国民の多くも、おそらく、国光や紅玉が「可愛いやリンゴ」だったのでしょう。

「国光」も「紅玉」も1871(明治4)年に、アメリカから日本へ入ってきました。 「国光」というと日本国産といったイメージを放ちますが、原産は米ヴァージニア州です。

果皮は黒ずんだ赤色で、果肉は白黄色でしっかりした歯ごたえがあります。液汁が多くて、ほどよく酸味がきいているのが特徴です。

「紅玉」は、米ニューヨーク州原産。開拓使によって導入され、1900年に命名されました。名前のように艶やかな深紅の肌、果肉は白く細やかでやや小玉。強い、個性的な酸味をもちます。

私が幼少のころも、リンゴといえば「国光」か「紅玉」でした。そして少し大きくなってからなんとなく、「国光」には大人の女性を、「紅玉」にはおちゃめな少女のイメージを抱くようになりました。

「リンゴの唄」のリンゴは、私にとっては「紅玉」なのです。

2015年10月23日金曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑦

  赤いリンゴに 唇よせて

いまの時代に「赤いリンゴ」といわれれば、おそらく大半の人たちがあのリンゴを思い浮かべるでしょう。

日本だけではなく、中国でも、韓国でも、アメリカでも、きっと多く人たちが、あのリンゴを頭に浮かべるに違いありません。

そう、甘みが強くて味がよく、歯ごたえがあってジューシー、それに日持ちがすこぶるいい。三拍子そろった世界一のリンゴ「ふじ」です。

国内のふじの収穫量は、2006年で46万トン。生産されている70種あまりのリンゴ収穫量の55%を占めています。ふじは、1980年代半ばころから、リンゴの本場のアメリカで栽培が始まったのを皮切りに、中国、韓国、ブラジルなど海外の国々へも広まっています。

2002年には、中国で総生産量の40%、韓国は80%、ブラジルでは45%を占め、世界全体で約1200万トンと、品種別でついにトップにおどり出ました。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、退潮気味の日本経済。農産物が外国から大量に輸入される時代となって、日本の農業はTPPなどでさらに自由化への脅威にさらされています。

そんな中、世界に輸出され各国で栽培されるようになった「ふじ」は、戦後日本の「リンゴの唄」に匹敵するような、日本農業の“希望の星”といえる象徴的な存在なのかもしれません。

「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町の農林省園芸試験場東北支場(現在の果樹研究所リンゴ研究拠点)で戦前の1930年代後半から育成されてきました。

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

戦争直後の荒廃の中から、リンゴづくりの現場も次第に復興を遂げていきました。試験研究機関の設備も復旧されて技術者の充足が図られ、戦前から育種試験が繰り返されてきたリンゴ畑で、みんなの力を合わせた新たな研究がはじまったのです。

戦争を乗り越え、ともに幾多の努力を重ねて結実したのが、1962(昭和37)年に品種登録された「ふじ」でした。名前は、育成地である青森県藤崎町の「ふじ」、それに「富士山」にもかけて付けられたそうです。

「ふじ」はもともと、1939(昭和14)年に「国光」と「デリシャス」の二つの品種を掛け合わせて誕生しています。そして、23歳になり“一人前”と認められて登録され、世に旅立ったわけです。

ですから「ふじ」は、「リンゴの唄」が作られ、流行っていたころは世にはまだ出ていません。「リンゴの唄」に出てくるのは「国光」など、「ふじ」の親たちの世代のリンゴと考えられることになります。

2015年10月22日木曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑥

終戦直後に封切られた映画「そよかぜ」の当時の評価は、決してかんばしいものではなかったようです。

『戦後芸能史物語』(朝日選書)によれば、キネマ旬報(再建2号)では「音楽的な感動がない」、朝日新聞(1945年10月12日付)では「ムシヅを走らせたいと思ふ人はこの映画の最初の十分間を経験しても十分である」とまで酷評しています。しかし、挿入歌の「リンゴの唄」のほうはすっかり人々の心をとらえました。

1945(昭和20)年12月10日、東京の芝田村町(いまの港区西新橋)の飛行館で公開放送されたNHKの「希望音楽会」には、多くの聴取者からの要望で並木路子が出演、「リンゴの唄」が歌われました。

ラジオで初めてこの歌が放送されたのです。並木路子は『「リンゴの唄」の昭和史』で、次のように書いています。

「田村町の飛行館スタジオでのNHKラジオの公開録音のときには、たくさんの人たちが参加しました。それこそ、物の乏しい、燃料もないこの冬をどうやって過ごそうかという、敗戦国そのものの生活でしたが、皆さん、眼をキラキラさせて私の歌を聴き、大きな拍手を送ってくださいました。

このとき私は籠にりんごを入れ、それを抱えて客席に下り、りんごを皆さんにくばりながら歌ったのですが、りんごはその頃、貴重品でしたので、会場は大変な騒ぎになりました。一個のりんごが奪い合いなんです。りんごを手にした人は、まるでその年の幸運を掴んだみたいに喜んでいました。反対に、りんごをもらえなかった人は気の毒なくらいがっかりして――。たった一個のりんごで、そんな騒ぎになったのですから、今から考えると、とても信じられないような情景だと思うのですね。

そのときのりんごの値段は一個五円で、月給二十万円という今のお金に換算すると、五千円くらいにあたるのだそうです。ただ世の中が混乱していたというだけではなく、それよりも、戦争による人手不足やら肥料不足やらで、りんごの生産量がすごく落ちていたのでしょう。そのときに使ったりんごは二箱でしたが、青森の農業会でお世話くださったものでした」

事実、戦争直後のリンゴ園は、どこも荒廃に近い状態になっていました。収穫量も、昭和17年に28万トンほどあったのが、18年には23万トン台に、19年には17万9900トン、20年には6万4600トンにまで落ち込んでいたのです。

農家では、リンゴ園を維持するための資材や肥料、農薬などすべてが、絶対的に不足。ヤミ取引に頼らなければならなりませんでした。

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

庶民にとって、こんなふうにリンゴが身近にある生活は、夢のまた夢といえる時代だったのでしょう。

2015年10月21日水曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑤

焦土のなかで終戦を迎えた日本人に、はじめて戦争からの解放感を味わわせてくれたのが「リンゴの唄」でsした。短調でありながら、こともなげな明るい曲調に、人々は戦争が終わった喜びをしみじみかみしめたのでした。

しかし敗戦の現実はきびしく、食糧・住宅不足をはじめとする多難な時代が待ち受けていました。人々は生活を再建する方途を独力で見つけていかねばならりませんでした――

ずいぶん前に買った「証言の昭和史」という、写真や絵がふんだんに入った学研の全12巻シリーズの第6巻『焼跡に流れるリンゴの唄』のリードに、こんな文句を見かけました。

戦後かなりしてから生まれた私には、「焦土のなかで迎えた終戦」を実感することは出来ない。ただ、兵庫県西宮市に住んでいた1995年に、阪神大震災で一瞬のうちに廃墟と化した街の中で「炊き出し」や「配給」といった言葉が日常的になり、「焦土のなか」とはこれに近いものではなかったか、と思った記憶はある。

敗戦日本のあちこちにあった「焼跡」。それをモチーフにした詩はたくさんあります。たとえば、

  おきすてられた舞台装置のやうに
  防火壁が夕やけの空をささへてゐる。
  横たふしになって赤銹びてゐるクレーン。
  鉄屑や鋼索や焼トタンの累積。
  雨ざらしの金庫。
  なにもかもがそのままで時がたってゐる。
  ねぢまがった鉄骨の残骸に
  コンクリの裂片をくっつけた鉄筋の網がぶらさがり
  蜘蛛の巣のやうにゆれてゐる。

           (岡本潤「廃墟2」)

こんな「廃墟」となっても、街は死んではいませんでした。

  町は眠ってはいなかった
  眠ったふりをして 目だけ働かせ
  殺気すら含んでいた
  一人の用心深い悪漢のように

  経済警察官がいないことがわかると
  男女の背中や 肩や 両手で運ばれる
  無数の軟体動物が
  焼暗の停車場にうごめき
  初発列車に殺到した
  列車は悲鳴に似た汽笛をひびかせ
  早朝の大気の中を
  ブラックマーケットのある大都会へと突進していった

           (近藤東「眠っていない町」)

「焼跡に流れるリンゴの唄」というフレーズを聞くと私はなぜか、1994年に国内で公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を思い出します。

ナチスによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進むなか、ポーランド系ユダヤ人の収容所送りを阻止したドイツ人実業家オスカー・シンドラーが描かれたこの映画は、「戦争を記録したフィルムはモノクロだから」という監督の考えで、ほぼ全編がモノクロで作られました。

ただ、ごく一部分にカラーが採用されているところがあります。シンドラーに心理的な影響を与える赤い服の女の子や蝋燭の赤い炎です。ホロコーストの殺伐たる光景のなかに、とつじょ現れ不思議なふるまいをするその赤い服の少女は、私のなかの「リンゴ=少女」に違いないのです。

2015年10月20日火曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」④

「リンゴの唄」を歌った並木路子の『「リンゴの唄」の昭和史』によれば、サトウハチローはこの歌を「いつ終わるかわからない戦争だから、こんなときこそ、青空を見上げる気持ちの明るい歌がなければ」という気持ちで、戦争中に書かれたものだだそうです。とすれば、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

というのはやはり、私の若いころのひねくれた解釈ではなく、赤いリンゴに脣を寄せて黙って青い空を見ている、と読んだほうが自然なようです。ただし、リンゴに唇を寄せているのは、口づけを知ったくらいの少女に違いないという私の思いは変わりません。

「リンゴの唄」が挿入歌として使われた映画「そよかぜ」の中では、秋田のリンゴ畑で、主演の並木路子がまん丸いリンゴをちょっぴり齧りながら、晴れた空を見つめるような場面が出てきます。並木は、そのとき23歳。少女というよりはもう「若い女性」という年代になっていたわけですが、映画からは、健康的なまさに、

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘

といった雰囲気がわき立ってきます。

「そよかぜ」は終戦の1945年の10月10日に公開されました。監督は佐々木康。戦後のGHQ(連合国軍総司令部)の検閲を通った第1号映画として知らています。

主人公のみちは18歳の少女。母とともに劇場の裏方として働きながら、いつかは歌手にと夢見ていました。楽団員たちはみちの才能を見抜き、歌を教えます。楽団員の横山とみちはお互い意識しながら、口を開けば憎まれ口を聴く仲になっていました。

ある日、スター歌手の恵美が引退することになり、楽団リーダーの舟田は後任にみちを推薦します。みちはまずはコーラスで実績を積むことになります。

仲間たちの恋愛や結婚の話に悲喜こもごもする中、みちは横山の何気ないからかいに傷つき、姉の出産の手伝いに行くことになった母といっしょに秋田の実家に帰ってしまいます。

そんなとき、みちの実力を認めた支配人が、新番組のスターとして抜擢することを決める。喜んだ楽団員たちは総出で秋田へみちを迎えに行く。横山とのわだかまりも解けて、みちは夢に見た歌手としてステージに立つ。

そんなあらすじの、明るいサクセスストーリーです。並木路子(1921~2001)は、1936年(昭和11)年に松竹少女歌劇学校に入学、翌年に浅草国際劇場で初舞台を踏みました。

「連夜の空襲の恐怖を忘れさせる」ような明るい音楽映画を戦時中から計画していた松竹から「歌が歌えて芝居ができ、一応はかわい子ちゃん的要素もあって」抜擢されたというのが、映画初主演となるこの映画でした。ちょうど、「そよかぜ」のみちのように。

サトウハチローの詞は戦中にすでに出来あがっていました。しかし佐々木監督の早撮りもあって、万城目正の曲のほうは撮影に間に合いませんでした。

そのため、秋田のリンゴ畑で、わんぱく盛りの子どもたちや農家の人たちといっしょに歌うシーンは、実は「丘を越えて」を歌って撮影し、アフレコで「リンゴの唄」を吹き込んだということです。

それはともかく、「そよかぜ」の林檎畑のシーンを見ても思うのですが、赤いリンゴと晴れた青空とはなんともまあ、よく似あいます。そういえば、こんな詩もありました。

  いいお天気ですなあ
  とでもいひたげな
  これは
  これは
  真冬
  まつ赤な
  日向の林檎である

     (山村暮鳥「ある時」)

2015年10月19日月曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」③

「リンゴの唄」についてサトウハチローは「軍歌がひどく陰気なものばかりだったんで、ものすごく景気のいい歌があったほうがいいと思って、それで書いた」といっています。

言うまでもないことですが、「リンゴの唄」は国民が口ずさめる歌謡曲の作詞として書いたものです。ゲーテやボードレールの詩にいろんな作曲家が後から曲を付けたといった性質のものとは違います。

それを承知のうえで、邪道かもしれませんがこのブログではあえて曲から離れ、「リンゴの唄」を一つの詩として、主に文字面を読むことで味わっていきたいと思います。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

若いころ私は、この唄を聞いて、「リンゴ」は恋を知り始めたころの少女の、「青い空」はさわやかで優しい青年のシンボル(象徴)ではないかと思いました。つまり、この詩は、初めてのキスをした直後を描いているのではないかと。

純朴でかわいらしい少女に初めて脣をよせた後、青年はだまって彼女を見つめています。可愛いリンゴの少女も、なんにもいいません。でも、その気持ちを2人は分かりあえている。

少々「意訳」のしすぎ的な部分があるかもしれませんが、新聞の文章などと違って詩は、いろんな読み方ができるから面白いし、その真価があります。

「リンゴの唄」も、リンゴという、敗戦直後という特別な時期にピンと際立つ象徴的な言葉を使い、人によっていろんな聞き方がされたからあれほどの大ヒットをしたのでしょう。

私が愛用している飯塚書店の「詩の辞典」には「象徴」について、「何か類似した性質があったり、連想を呼ぶ点があって、一つのものが他のものを心に浮かばせ、暗示したりするために用いられると、それをシンボルという」とあります。

では、そのころの私がどうして、リンゴから少女へと連想を呼んだのか。いろんな要素があるでしょうが、そのころ読んでいた藤村と杢太郎の二つの詩が、私の深いところで作用していたように思われます。

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり
     (島崎藤村「初恋」)

  林檎屋の小娘が、
  今日もまた前掛で
  紅い林檎を磨いてゐる。
  息をかけては拭いてゐる。
  だがまだ林檎は堅そうだ。
  ちやうどお前の心のやうに。
     (木下杢太郎「林檎屋の小娘」)

2015年10月18日日曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」②

「リンゴの唄」を作詞したサトウハチローは、1903(明治36)年5月23日に現在の東京都新宿区市谷薬王寺町に生まれました。

父は「少年小説」で知られる作家の佐藤紅緑。母のはるは、いまの宮城県仙台市出身で、河北新報社を創業した一力健治郎の義妹にあたります。かれら2人の長男でした。

兄弟には、作家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇らがいます。3人とも母は異なり、肇は愛人の子供で同居することはありませんでした。

紅緑は子どもたちの理想を描く小説を書き続けましたが、皮肉なことに長男のハチローをはじめ同居していた4人の息子たちはみな不良少年で、道楽者。

ハチローは詩人として大成したものの、他の3人は乱脈な生活を続け、破滅的な死にかたをしています。紅緑は彼らの借金のシリぬくいに追われました。

旧制中学に入学すると、紅緑は舞台女優の三笠万里子と同棲するようになって離婚します。ハチローは父への反発で、中学を落第、退校、勘当、留置場送りを繰り返しました。

犯罪など不良行為をした児童らを収容していた感化院のあった小笠原諸島の父島で、詩人の福士幸次郎と知り合い、決定的な影響を受けます。

1919(大正8)年、福士の紹介で西條八十に弟子入り。童謡を作り始め、いろんな雑誌や新聞に掲載されるようになります。同時に、「文党」や「銅鑼」などの文芸誌にも参加。1926(大正15)年には処女詩集『爪色の雨』を出版しました。

昭和にはいると童謡や詩だけでなく、小説や映画の主題歌など仕事の幅を広げ、1938年(昭和13)年には日本コロムビアと専属契約を交わします。

1945年(昭和20)年8月6日、広島への原爆投下で弟の節を失います。ハチローは節を探しに行きましたが、遺骨や遺品は見つかりませんでした。

同年8月15日の終戦。戦後初の映画「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」を作詞します。並木路子の歌で大流行し、戦後の日本を象徴する歌となったのです。

1946年(昭和21)年から東京タイムズでエッセイ「見たり聞いたりためしたり」の連載を開始、同年12月からNHKのラジオ番組「話の泉」のレギュラー。1951(昭和26)年にはラジオドラマ「ジロリンタン物語」の原作を執筆します。

ハチローは、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、並木せんざなどさまざまな別名をもち、活躍の舞台も実に多彩でした。

童謡に「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」「とんとんともだち」など。歌謡曲も「リンゴの唄」だけでなく「長崎の鐘」「うちの女房にゃ髭がある」などヒット曲が山ほどあります。ほかに校歌、CMソングなどおびただしい数の作品を発表しています。

2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関するものだといいますが、佐藤愛子の『血脈』によれば、不良少年だったハチローは母に愛情らしきものは示したことはなく、作品にある母への思いはフィクションだとされています。

それでも、父の故郷の青森には一度しか訪れていないものの、母の故郷、仙台への訪問は50回を越えていたとか。

芸術選奨文部大臣賞、レコード大賞童謡賞、NHK放送文化賞など多く賞を受けるなど華々しい後半生を送り、勲三等瑞宝章を受章した1973年(昭和48)年11月13日、心臓発作により70歳でこの世を去っています。

2015年10月17日土曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」①

リンゴが美味しい季節になりました。きょうから気分を変えて、サトウハチロー「リンゴの唄」を詩として再読していくことにします。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘
  誰方(どなた)が言ったか うれしい噂
  かるいクシャミも 飛んで出る
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

      ――『サトウハチロー詩集』(ハルキ文庫)

日本人ならだれでも知っているといってもいい「リンゴの唄」は、戦後に公開された最初の映画「そよかぜ」(1945年10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表されました。

みなさんご存知の通り空前のヒット曲となり、戦後の歌謡曲はこの曲にはじまったとも言われています。

作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。並木路子と霧島昇が歌いました。並木と霧島は、この映画の出演もしています。

サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中でしたが「軟弱すぎる」と検閲で許可されず、終戦とともにようやく日の目を見ることになったのです。

レコードは映画公開から2カ月後の昭和20年12月14日に録音され、翌年1月に日蓄工業株式会社から「コロムビアレコード」の第1回新譜臨時発売分として売り出されました。

終戦の年の122月に行われたNHKの公開ラジオ番組で、並木が「リンゴの唄」を歌いながら客席に降りてカゴからリンゴを配ると、会場が取り合いの大騒ぎになったというエピソードも残っています。

「リンゴの唄」は、終戦直後の焼け跡の映像とともによく流れます。そして、戦争直後の焼け野原の光景や、重圧から解き放たれた解放感とうまくマッチして、憔悴しきった国民の心を癒やしたとしばしば評されます。

1960年生まれの私には、もちろん「敗戦で憔悴しきった心」を実感することはできません。この唄に親しみをもったのは、子どものころテレビの「なつメロ」番組などで何度も耳にしてからです。

そういう意味では、私はこの詩を読み切るのは不可能でしょうし、とやかく語る資格は無いのかもしれません。ただ、「なつメロ」番組でこの唄をちょくちょく耳にしていた中学生のころ、私はリンゴに夢中になっていました。

長野県に生まれ、長野県の山里で育った私の周りにはいつもリンゴの木がありました。長野は、青森に次ぐリンゴの生産県。

けれど、当時の私には、なんといってもいちばん美味しいのは青森で、甘さも、歯ごたえも青森りんごにはかなわないという印象がありました。

何ともそれが悔しくて、中学生としてはかなり無謀な試みでしたが、長野のリンゴをおいしくするにはどうしたらいいのかと真剣に考えました。

そして仲間たちと毎日林檎園に通って、土の性質によってリンゴの糖度や酸性度がどのように変わるかを調べる実験に明け暮れていました。

そのころ「リンゴの唄」を聞いて、知りたいと思っていたことがあります。

一つは、どうして父や母の世代にとってリンゴという果物が、これほどまでに魅力的だったのかということ。それから、歌詞に出てくるリンゴはいったい、どういう品種だったのだろうか、ということです。

2015年10月10日土曜日

北原白秋「落葉松」⑬

「落葉松」の入った詩集『水墨集』が出版された3カ月後の1923(大正12)年9月、東京が壊滅状態となる関東大震災が起きました。

その時、小田原の伝肇寺の竹林に建てた山荘「木菟の家」に、白秋一家は住んでいました。白秋は2階の書斎にいた。あたりは濛々とした土煙。揺れた足をとられて体を泳がせながら、離れへの渡りのところまで来ました。

妻の菊子は埃まみれ、長男の隆太郎も無事でした。その時、について震災直後に書いた「その日のこと」で次のように記しています。

〈寺の舗道へ出て見ると、一直線であつた舗石がそつくり続いたままよれよれになり、地が亀裂し、卵塔場の墓石は全部が二三間も泳いでバラバラになつてゐた。

榧の木地蔵堂などは見るかげもなく半ばからひしやげ、桃山時代の遺物だといふ山門なぞもくちやくちやにつぶれてゐた。町の方を瞰下すると、ついこの丘の下から煙が上つてゐる。それから丘の向うで盛んに火の手があがつてゐる。

閑院宮邸はと、山の上を振り仰ぐと、松林ばかり見えて、あの魏然とした円頂閣〈ドオム〉は影も形も無くなつてゐる。煙がもくもくと湧きあがつた。おそろしい事になつたと私は吐息をついた。そこへ、隣の和尚が顔の色を変へて駆け込んで来た。

「みんな無事か無事か。」
「無事です、無事です。」
「裏藪にゐます。」
私たちは叫んだ。
和尚は裏へすつ飛んで行つた。〉

生前未刊の歌集『風隠集』で次のような歌も詠んでいます。

  世を挙げて心傲ると歳久し天地の譴怒〈いかり〉いただきにけり
  この大地震〈おほなゐ〉避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
  大正十二年九月ついたち国ことごと震亨〈しんとほ〉れりと後世〈のちよ〉警め

この大震災は、以前にこの連載でもふれたように、治安維持法、金融恐慌、そして大戦と、激動の社会変動の始まりを告げる天変地異となりました。

プロレタリア文学の台頭など文学も大きく変貌するなか、歌壇でも、歌誌『日光』を中心とした歌人たちの新たな活動がはじまりました。

『日光』は、震災の翌年の1924(大正13)年に創刊。短歌結社が固定化、互いに反目対立して沈滞している状況を打ち破り、自由で明るい歌人たちの活躍の場を作ろうとしたのです。

創刊から4年後の廃刊まで主要同人として同誌にかかわった白秋は、巻頭言として「日光を仰ぎ、日光に親しみ、日光に浴し、日光のごとく健やかに、日光とともに新しく、日光ととともに我等在らむ」と記しています。

このように、白秋の40代以降、昭和に入ってからの創作の中心は、詩作より短歌のほうへと重心が移っていきます。いわゆる幽玄歌風錬磨の時代です。「落葉松」にも見られた伝統的な寂寥感を進めていけば、古代幻想に行きつく。

白秋は記紀歌謡、風土記、祝詞などの世界に分け入って古語を復活し、日本の古神道を現代詩によみがえらそうとします。叙事詩「建速須佐之男命」、長篇交声曲詩「街道東征」などは、そうした試みです。

しかし、日本的な幽玄を盛る器としては、自由詩よりも短歌のほうがはるかに長い歴史と蓄積をもっています。結局、白秋も短歌のほうに精力が注がれ、そうした壮大な現代詩の試みは、実験の範囲にとどまりました。

とはいえ、白秋でしかなしえない、自在で巧み、独特の光沢を放つ言葉の世界は、ますます洗練されたものになっていきました。1929(昭和4)年に出た詩集『海豹と雲』には、私の好きなこんな詩もあります。

     水盤の夏

  光は曲ぐる
  薔薇〈ばら〉の枝、
  水には光る水の影。

  夏は来れり、
  薄玻璃〈うすはり〉に。
  強く寂しくわれ居らむ。

2015年10月9日金曜日

北原白秋「落葉松」⑫

  われは思ふ、末世〈まつせ〉の邪宗〈じやしゆう〉、切支丹〈きりしたん〉でうすの魔法〈まはふ〉。
  黒船の加比丹〈かぴたん〉を、紅毛〈こうまう〉の不可思議国〈ふかしぎこく〉を、
  色赤〈いろあか〉きびいどろを、匂鋭〈にほひと〉きあんじやべいいる、
  南蛮〈なんばん〉の浅留縞〈さんとめじま〉を、はた、阿刺吉〈あらき〉、珍?〈ちんた〉の酒を

  見目〈まみ〉青きドミニカびとは陀羅尼誦〈だらにず〉し夢にも語る、
  禁制〈きんせい〉の宗門神〈しゆうもんしん〉を、あるいはまた、血に染む聖磔〈くるす〉、
  芥子粒〈けしつぶ〉を林檎のごとく見すといふの欺罔〈けれん〉の器〈うつは〉、
  派羅葦僧〈はらいそ〉の空〈そら〉をも覗〈のぞ〉く伸〈の〉び縮〈ちぢ〉む奇〈き〉なる眼鏡〈めがね〉を。

1909(明治42)年、白秋が24歳の年に出した第1詩集『邪宗門』の最初に置かれた「邪宗門秘曲」の冒頭の2連です。

『邪宗門』の大きな特徴は、その象徴詩的作風にあるといわれます。象徴(シンボル)とは簡単にいうと、観念的、気分的な抽象的ことがらを、具体的な事象によって暗示する修辞。伝えにくいテーマを、感性的、直感的に示そうとします。

文学の象徴主義の起源は、シャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)に求められます。

日本には、1905(明治38)年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』によって、「象徴詩」の概念がはじめて明確にされたといわれています。

日本の象徴詩は薄田泣菫の『白羊宮』(1906)、蒲原有明の『有明集』(1908)などによって、一つの完成を見ます。その後、白秋らによって大正期にかけて新たな展開を見せるが、当時は口語自由詩への変遷という問題を抱えることになるのです。

『邪宗門』に始まる白秋の詩作は、大きく三つの時期に分けられます。

①『邪宗門』から『思ひ出』(1911)、『東京景物詩及其他』(1913)に見られる都会的で、官能・唯美的な傾向②『真珠抄』(1914)、『白金之独楽』(1914)の自然を素材にした汎神論的法悦境的な時代、そして③「落葉松」が入った『水墨集』やそれ以降の詩集に見られる、芭蕉的な閑寂境に分け入るような伝統的・古典主義的傾向の時代です。

〈私の詩風も随分と変遷した。今日に於て、かの「邪宗門」「思ひ出」の狂飆時代を思ふと、あの目まぐるしい絢欄さは何処へ行つたかと思ふ。然し今さらあの青春時の詩風に還らうとは思はぬ、還れも為ない、また還つたところでそれは偽るものである。

兎に角私は此処まで到りついた。それは人としても詩の道を行ふ者としても可なりの悲惨な複雑な曲折を経てやうやうに辿りついたのである。今日の私は無論昨日の私を遥かに振り返る点まで隔って来てゐる。(これを真に知ってくれる人は少い。)

思ふにあの頃の詩風はあの頃ではまことにさうあるべきであつた。その意味で今日の境地も今の私としてはこれより外には無い。詩の香気にも様々の種別がある。寂しければ寂しいままに、何等かの、それは曾て見なかつた、却て本質としての特殊な気品は保たれるものであらう。

ただそれがおのづからのまことのものか否かで詩としての価値は極るのである。兎に角その時代時代をひたぶるに生かしきるものにこそ真の恩寵を見、生かしきつたものにこそ最後の歓呼は聞かされるであらう。生かしきりたいものである。〉

『水墨集』の跋で、白秋はこのように記しています。三木卓は自著『北原白秋』で、この部分を引用したうえで「かれがいっていることに、わたしは心打たれた」として、次のように続けています。

〈ほんとうに、あの「目まぐるしい絢爛」とはどうなってしまったのであろう。それを一言でいえば、モチーフの消耗ということになるだろう。すでに述べたように、白秋という人は、得たモチーフは書き続けられだけ書き続けなければ気が済まない人だった。

それは童謡や歌謡にのみ当てはまるものではない。『邪宗門』『思ひ出』も例外ではなかった。両者ともその厚さ、篇数の多いことでもきわだっているが、再刊の機会があると、詩集に入れなかった作品を拾う増補という形で蘇らせたりしている。

かれは興が乗れば、目下関心のあるモチーフはどこまでも書き尽くす、というはなはだいさぎよい詩人だった。おいしいおやつを、そっとしまっておいて、あとで食べようなどというさもしい考えは持ち合わせていなかったのである。

『邪宗門』には若い野心と天性の才能にまかせた力業が、『思ひ出』には人にとって決定的な「生まれた場」という唯一無二のものがあった。『桐の花』には生死のかかった恐ろしい体験があった。そのどれも一度限りの場である(実際、章子に裏切られるという深刻な事態が、俊子のときほどのモチーフにはなり得なかった。白秋にとってはもはや、決定的な体験ではなかったのであろう)。

そのいずれをも白秋は、見事な、それも最大級の文学的結実に結びつけることに成功したのだから、ふつうの芸術家だったら、それで大いによしとするところである。しかし、かれは書きつづけなければならなかった。

そうしている間に、詩壇は象徴詩を置いていってしまった。詩壇は口語詩の時代となり、民衆詩派が前面に出てくるようになった。弟子である、犀星や朔太郎が大いに注目された。白秋は、詩の前線から取り残され、時代遅れになっていたはずである。〔中略〕

おそらくそのときの白秋は、出発時に自分が持っていると意識できたモチーフは、すでに使い果たしていた。あると思えばすべて費消してしまうのが、白秋の創作だからである。かれが「水墨」という世界をここへ持ちだしてきたのは、あらたな美学を自らのうちから掘り起こさなければならないと思いそれを開始した、ということである。

もともと言葉を使うことに対して、白秋は比類ない才能をもっていた。日本語であるかぎり、どのような文体も書き分けることができた。そして常に現在を信じ、現在が最高の表現者であると自分に言い聞かせて、仕事をしていったのだと思う。書き手とは、そう思って仕事をするものなのだ。〉

2015年10月8日木曜日

北原白秋「落葉松」⑪

     八

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

最後の第8連は、それまでとは趣を異にして最後に一種の観想を加えたもので、詩に一種の深みをもたせています。

世の中は「あはれ」なのです。「あわれ」は、深く感動したときに使う日本語の特徴的なことば。しみじみとした情趣がある。趣が深い。といった意味でふつう使います。ここで趣が深いのは「常なけどうれしかりけり」といいます。

「常」とは、変わらないこと、永久不変なこと。だが「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる(この世の中にはいつまでも変わらないものなど何もない。昨日は深い淵だった飛鳥川が今日は浅瀬になるのだから)」(古今集)というように、仏教的な人生観では、この世は「常無し(無常)」とみなすのです。

「常なけど」には、諸行無常、いってみれば「あきらめ」的な気持ちが込められているわけですが、にもかかわらず「うれし」といいます。つまり、この世は無常だけれど、それが喜ばしい、満足で快いと肯定的に感じているのです。

  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

渓流には渓流の音があり、カラマツにはカラマツの風が吹く。森羅万象さまざまなものに違いがあり、個性があり、変化がある。「落葉松」の林の中で詩人は、それらを積極的に受け入れているのです。

「落葉松」が入っている『水墨集』のなかには、次のような詩があります。

     境涯の讃

         朝顔にわれは飯食ふ男かな  芭蕉

  句はおのづからのもの、
  境涯のもの、
  松ゆゑに松の風、
  椎ゆゑに椎の涼〈すず〉かぜ。

「境涯」とは、「この世に生きてゆく上で置かれた、人それぞれの立場。身の上。境遇」と広辞苑にはあります。

詩の前書きにある芭蕉の句は、其角の「草の戸に我は蓼〈たで〉くふほたる哉」を受けたもの。「自らを蓼食う蛍にたとえた君と違い、私は朝顔の花を見ながら飯を食べる男なのだ」といった意味です。

奔放磊落な其角の個性と句風を認めたうえで、平凡で無骨な生き方のなかにも俳諧の道があること示した句ともいわれています。

芭蕉は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といい、「乾坤の変は風雅のたね也」(『赤冊子』)として、天地のさまざまなものの変化が俳諧の根源にあることを説いています。

この世は、常に変化してやみません。しかし、これを突きつめていけば、それぞれが、それぞれのかけがえのない個性を発揮し、万物が変化流転してやまないことこそが、宇宙の本源ともいえるのです。

  薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク。

  ナニゴトノ不思議ナケレド。

     (『白金之独楽』の「薔薇」)

白秋にとって自然は、感覚的な対象ではなく即物的であり、また、自らと交響しあい生を享受しあう存在でした。

「落葉松」が発表になった1921(大正10)年に出された歌集『雀の卵』には次のような歌もあります。

  この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風

2015年10月7日水曜日

北原白秋「落葉松」⑩

恩田逸夫の解説(『北原白秋』)にしたがって、詳しく「落葉松」をみてみましょう。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

冒頭の第1連でまず、詩人の位置や詩想の焦点を示す。カラマツの林を歩いて「過ぎ」、カラマツを「しみじみと」眺めていった。この観照によって、自然と人生の「さびし」さに思いいたります。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

第2連ではカラマツの林をつぎつぎに通ってゆく歩みを述べ、1~2連で作品の輪郭が手際よく示されています。「しみじみ」「さびし」「細く」などの語感も、これから展開する主想を暗示しているのです。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

第3、第4連の中心は「道」です。「また細く道はつづけり。」(第2連)を受けて、「道」が6回繰り返されます。「からまつの林の道」は、「われ」がゆく道であり、「ひと」も通る道。そして、「雨」や「かぜ」と交流する道でもあるのです。

自然も、人生も、「からまつの林の道」に集約されています。「ほそぼそと通ふ」「さびさびといそぐ」のは、カラマツ林の道であるとともに、当然、人生の行路も意味しているのでしょう。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

第5、第6連では、ふと立ち止まります。それまでゆるやかに進んできたリズムが一時中断し、印象が新たになります。「歩みひそめつ」「けぶり立つ見つ」の「つ」の完了の助動詞も、「ぬ」でなく、短切な完了という語感を示しているといいます。

以前にも少しふれたところだが、「からまつとささやきにけり。」は、「われ」と「からまつ」とがささくのか、それとも「からまつ」同士がささやいているということなのか。恩田は次のように説明しています。

〈「風」の幽かなささやきや「から松」の幽かなささやきが、作者の幽かな微妙な心の動きと同じであるというのであるから、ここは、から松の幽かなひびきの意味を作者が理解すること、すなわち作者が自然との一体感を覚えることであろう。

つまり、から松に当たるかすかな風のひびきの中に、風やから松やその他万象を生み出し統一支配している、宇宙の根源的生命力の存在を直感しているのである。

このように、から松も自分も、ともにこの根源力・神の力によって生かされていると直感するところに、この力を媒介とする、から松と作者との連帯感が生まれ、「風とそのささやきはまた我が心のささやきなるを」「からまつとささやきにけり」ということになるのである。

「浅間嶺にけぶり立つ見つ」は、いままで歩いていた林の道を出はずれて、急に視界の開けた感じがよくあらわれている。それに、単に一般的なから松の林でなく、浅間山という具体的な固有名詞を出して印象を強めている。

なお、この詩句を二度くり返している声調には、謡曲の詞章の気分が感じられる。この詩が、中世的な幽玄の気分を主調としているためかもしれない。〉

そして最後の二つの連では、「中世芸術の、美の伝統を受けつぐ、芭蕉的閑寂境が中心となる」といいます。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

第7連は「憂き我を淋しがらせよかんこ鳥」「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」の句境をふまえて、かんこ鳥や時雨の音、8連目の川の音やからまつに吹く風など、聴覚的要素で統一、それまでの歩行による運動感覚や視覚と対照している。最後に自然と人生を統合した世界観を述べて、全篇の結論としているとしています。

2015年10月6日火曜日

北原白秋「落葉松」⑨ 

〈純粋に詩集としては本集こそ「白金の独楽」以来のものである。「白金の独楽」以来、いろいろな事情の下に私は単行の詩集公刊の機会を失つて了つた。三崎詩集「畑の祭」その他がそれである。

綜合詩集には兎に角収拾は為たが、単行詩集の気品はまたさうした別種の味があるので、何となく済まぬ心もちで今日に到ったのであった。

小唄、民謡、童話集はその前後を通じて可なり公刊したが、「畑の祭」以後、私は主として短歌の製作に専心したので、純粋の詩作は極めて少なかつた。葛飾、動坂で少々、小田原お花畑で少々、天神山の生活で「観相の秋」ぐらゐのものであつたろう。

十年の十月、突然の感興が湧いて「落葉松」第二十五章の詩が成つた。これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た。それ故に特に「落葉松」数章は私にとつて忘るべからざるものとなつた。〉

詩人であり、歌人であり、童謡作家であり、白秋ほど詩歌の広い世界で、次々に新しい境地を切り開いていった作家は、近代日本でほかに見あたりません。

詩集に関しては『白金之独楽』を1914(大正3)年に出してから、「落葉松」の入った『水墨集』を1923(大正12)年に刊行するまで、10年近い間隔があります。きわめて多作な白秋からすれば、30代のこの時期、詩作から遠ざかる、ある意味ではスランプの時期だったといえるかもしれません。

以前にもみたように、『白金之独楽』を出した年に最初の妻俊子と離婚、『水墨集』刊行までに、章子との結婚と離婚、佐藤菊子との結婚と私生活で落ち着かない出来事がつづきました。菊子との結婚で、はじめて平穏な家庭生活を手に入れることができたわけです。

菊子との結婚は、白秋の作風にも大きな影響を与えます。「これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た」という「落葉松」も、軽井沢のカラマツ林を菊子と散策したのがきっかけで生まれた詩です。

穏やかさと広がりを加え、いっそうおおらかで、自由な白秋ならではの境地を展開することになるのです。

閑寂さを深め、洗練されていぶしのかかった華やかさもただよいます。「水墨」の名のとおり、閑寂淡彩な世界でもあります。

詩「落葉松」は、最終連を除いて第7連までどれも「からまつの林」という書き出してはじまっています。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

第1連では、「からまつの」「からまつを」「からまつは」と冒頭の3行にわたって「からまつ」を連ね、「の」「を」「は」の助詞を使い分けながら、動いてゆく微妙な音感を示しています。そして、3行目と4行目で「さびしかりけり」を重ねて、落ち着きを与える。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

さらに第2連も、最初の3行で「からまつの林」が繰り返されます。「出でて」「入りぬ」「入りて」と、少しずつ変化する動作をあらわす3音の動詞によって、連続的な動作が足元をフィルムで見るように映し出されます。落葉松の道は、「わが通る」人生の道でもあるわけです。

第3連では「けり」「なり」「なり」と、切れのある助動詞が続き、「霧雨のかかる道なり。/山風のかよふ道なり。」といった対句を随所にもりこむことで、韻律的な表現効果を高めています。

恩田逸夫は『北原白秋』の中で、「落葉松」について「類似の表現が多いので、作品の展開は、一見まとまりがないように思われるが、実は、細かく配慮された緊密な構成である。

二連ずつが一組で、序(第一、二連)から展開部(第三~六連)を経て結論(第七・八連)に至る経路が整然としていて、しかもその各部はゆるやかなリズムで接続している」としています。

2015年10月5日月曜日

北原白秋「落葉松」⑧

白秋は生涯にわたって、自分の作品の推敲や修正を加えつづけたことで知られています。

「落葉松」も、1921(大正10)年の『明星』には前の7章で発表されましたが、1923(大正12)年の『水墨集』には、全体の順序を変えるなどしたうえ、最後の8章が加えられています。

「この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし、響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。

何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから」(大正11年9月『詩と音楽』創刊号)と書いています。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

4行8連、計32行の詩のなかに、「からまつ」という言葉が、ひらがなで17回登場してきます。

からまつ林を通り過ぎながら、詩人は、すぎゆく木々をしみじみ見つめた。わきたってくるさびしさ。それは、出あい、別れる、旅のさびしさ。人生のさびしさ。

からまつ林を抜けても、その先にはまだ、からまつの林。そこに細々と道が、奥のほうまでつづいている。霧のように細かな雨が、降りそそぐ道。山から吹き下ろす風が、通り抜けてゆく道。

その道は、私だけでなくだれもがたどる道。どうにかこうにか、ひきつづき通ってゆく道。さびしい心を抱きながら、いそいで通る道。

からまつ林を通り過ぎ、ふと歩調をゆるやかにする。山風にかすかに音をたてるからまつたち。そんな、からまつ林のささやきと、詩人の心が共鳴してゆきます。

からまつを抜けると、そこにあるのは浅間山。林のうえ、火口付近から煙を立てているのを見ます。

霧雨はさびしく(「さびしけ」は形容詞「さびし」の已然形の古い形だという)降りそそぎ、あたりはいよいよ静まりかえる。ただカッコウ(かんこ鳥)が、鳴くだけ。からまつは濡れつづけるだけ。

人の世は、しみじみとした情感のあるもの。さだめなくはかないけれど、心なぐさめられるもの。山の渓流には、渓流の音。からまつには、からまつの風がある。万物には、それぞれの趣があるのです。

2015年10月4日日曜日

北原白秋「落葉松」⑦

  からまつの はやしをすぎて
  からまつを しみじみとみき
  からまつは さびしかりけり
  たびゆくは さびしかりけり

  からまつの はやしをいでて
  からまつの はやしにいりぬ
  からまつの はやしにいりて
  またほそく みちはつづけり

  からまつの はやしのおくも
  わがとおる みちはありけり
  きりさめの かかるみちなり
  やまかぜの かよふみちなり

「落葉松」の最初の3連を、試しに、すべて平仮名にするなど書きなおしてみました。ご覧のように、五音、七音の順番で繰り返す「五七調」で書かれていることがわかります。

万葉以降、日本の詩歌は、五音と七音がの基本単位になってきました。五七調は、五音に七音が続く二句がまとまりをなすときの調べ。七五調は、七音に五音が結合するときの調べです。

五・七・五・七・七が基本形の短歌の場合、2句目あるいは4句目で切ると、五・七/五・七/七となって五七調に、1句目や3句目で切ると五/七・五/七・七と七五調になります。

万葉集では、初め短い五音と次の長い七音の「五・七」2句が韻律的にも意味的にもまとまりをもち、切れる五七調の歌が多い。その後、平安期に入ってからできた古今和歌集では、逆に七・五調の歌が主流になってきます。

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の  辺(へ)にこそ死なめ

これは、太平洋戦争中の戦果発表のラジオ放送で、玉砕を伝えるとき冒頭でよく流されたという軍歌『海行かば』です。『万葉集』の大伴家持の歌からとられていますが、確かに五七調です。

  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉(し)くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
  日に溶けて淡雪流る

島崎藤村の有名な「小諸なる古城のほとり」(落梅集)も五七調。一方、

  春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
  巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝(え)分け出(い) でし
  昔の光今いづこ

土井晩翠作「荒城の月」は、七五調で書かれています。

一般に、五七調は素朴で力強く、重厚な感じを与え、これとは対照的に七五調は、軽妙な響きをかなで、優しく優雅な感じを与えるとされます。明治以降に作られた詩や唱歌には、五七調より七五調のほうが多いようです。

詳しいことは知りませんが、韻律論的にみても、五七調に比べて七五調のほうがずっとリズミカルになるようです。

五七調は2拍の繰り返しが2回しかなく、十分リズムに乗りきらずに「七」に移るため重たい感じになるが、初めに2拍を3回繰り返す七五調では、十分に助走がつけてから「五」でコンパクトにまとめることができる。

そんな説をどこかで目にした覚えがあります。逆に考えると、七五調にすると、リズミカルで調子がよくなりすぎて、場合によっては軽薄な感じになってしまうこともありそうです。

とすれば、荘重な自然を歌う「落葉松」のような作品には五七調のほうが向いているといえるのでしょう。

「落葉松」が収められている詩集『水墨集』には、〈落葉松〉というタイトルで、「落葉松」のほか「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の四つの詩が収められています。

     ふる雨の(一)

  ふる雨のひとつひとつも
  こまかには観る人ぞなき。
  ひとすぢの雨はひとつぶ、
  松の葉に玉とむすぶを。

のように、五つの詩どれもが五七調です。そこには、きっと白秋の無言のメッセージが隠れているのでしょう。

2015年10月3日土曜日

北原白秋「落葉松」⑥ 

カラマツは、マツ科カラマツ属の落葉針葉樹。日本の固有種で、日当たりのよい乾燥した場所が生育に適し、東北地方南部から、関東、中部地方の亜高山帯から高山帯に分布しています。

中国の絵画である唐絵のマツに似ているのが名前の由来です。日本の針葉樹のうちで、唯一の落葉樹であることから、白秋のように「落葉松」と書くこともあります。

樹高20-40m、幹の太さは1mに達します。枝は長枝と短枝という二形性を示し、長枝は10-50cmになります。短枝はひとつの芽だけからなり、1-2mmしかありません。葉は針形。白い粉に覆われた薄い緑色で、長さは2-5cm。

秋には葉を黄金色に染め、北海道や信州などの秋の景色を美しく彩り、晩秋になると、褐色の冬芽を残して葉を落とします。

樹皮は灰黒色から暗い赤褐色。表面は短冊状に剥がれます。

松かさは長さ2.0-3.5cmで、中に30-50個の種子を生産します。松かさははじめ緑色ですが、受粉後4-6ヶ月して十分に熟すと茶色に変化して、種子を散きます。古くなった松かさは樹にそのまま残り、鈍い灰黒色に変色しています。

白秋の「落葉松」の舞台になった軽井沢の開発で欠かせない人物として、前回も名前を出した雨宮(あめのみや)敬次郎(1846-1911)あげられます。

近代化のうねりのなか、「天下の雨敬」「投機界の魔王」などと言われ、養蚕、鉄道、製鉄などいろんな分野で活躍した大実業家です。

雨宮は山梨の名主の息子として生まれ、生糸、養蚕業で財を成し、1876~1877年、生糸貿易を世界に展開しようとアメリカからヨーロッパへと渡りました。

外遊の際のアメリカ大陸横断旅行で、不毛の地が開墾によって生まれ変わる姿を目の当たりにし、荒野を開拓植林して都市を作る壮大な事業を、浅間山麓で実現しようと考えました。

1883(明治16)年、現在の軽井沢ゴルフやプリンスホテルがある中心部から、人気の別荘地である上ノ原や、千ケ滝近くまで、当時は避暑地の片鱗すらない軽井沢の原野を購入。山麓に邸宅を構えて、ワイン用のブドウ栽培に乗り出したり、近代農場の開拓を試みたりします。

しかし、寒冷で耕地に適さない土地に阻まれてことごとく失敗。やむなく落葉松を植林したところ、これが環境にあった。そして、700万本の植林事業化に成功したのです。雨宮は次のように述懐していたといいます。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。

「(カラマツの)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。

私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」

戦後になってからも、将来の需要を見込んで、全国各地で木材資源として適しているスギやヒノキなどの大規模な植林活動が展開されました。木を植えることは将来に向けて貯金するのと同じ、と言われ、急峻な斜面を登って苗木を植え、育てていったのです。

海抜が高い地域や痩せ地では植林に適した樹種が見あたりませんでした。その中で選ばれたのがカラマツでした。育苗が簡単で、根付きも良く、成長も速い。そのため、大量に生産する樹種としては最も適していたのです。

長野県では、造林面積の半分はカラマツで占められました。私の父は、長野県の営林局に勤めていて、県内の山地のあちこちを転勤して回っていました。どこに住んでも、私の近くには、遊びの空間であり、底知れない宇宙に誘ってくれるような神秘の場でもあったカラマツ林が広がっていました。

ブナ帯ではスギの植林は成功しにくく、美林には仕立てにくい。浅間山麓のような火山灰の痩せ地も同様です。このような立地でも生育が比較的良好なカラマツが注目されたわけですが、植栽した時点で、十分な用材利用の見通しがあったわけではありません。

カラマツ材は、割れや狂いが出やすく、当時の技術水準では板材として使いにくいので、将来は炭鉱や工事で使う杭木や電信柱として使う計画でした。

ところが、収穫期を迎えるようになったころには、電信柱の材料には、鋼材やコンクリートがもっぱら使われるようになっていました。杭木の用途はなくなり、せっかく成熟したカラマツも用途は極めて限られることになったのです。

最近の木材の利用・加工技術の進歩などによってようやくカラマツの欠点が克服され、積極的にカラマツ材を使う動きがでてきました。主に合板としての用途が多いものの、強度があって、比較的廉価なので梱包材としても利用されています。

さらには、腐朽しにくく適度な弾力性をもつ木質から、ガードレールなどの材料として、また、寸法の小さい板材を接着剤でつなぎ合わせて作る「集成材」という加工技術を使い、建築材としての用途も広がっています。

2015年10月2日金曜日

北原白秋「落葉松」⑤

菊子と結婚した1921(大正10)年の1月、白秋は、画家の山本鼎、文芸評論家片上伸、口演童話の岸辺福雄とともに『芸術自由教育』という雑誌を創刊しています。

その巻頭言で白秋は、次のように述べています。

「予は詩を以〈もつ〉て児童の世界を極楽たらしめる。児童本来の稟質〈りんしつ〉は詩そのものだ。神秘の蔵だ。

自由、正直、無邪、天真、而も俊雋〈しゆんしゆん〉限りなき感覚のピンだ。彼等は単純だ。然〈しか〉し此の単純は既に成人の種々相を包含した光り輝く感性の酵母体だ。

予は詩の無き教育を極端に排斥する。詩の無き処に自由は無い。教育は初め母のその子に乳房を含ますが如く真の愛と滋味とを滴らすことだ。子守歌の温かさだ。揺籃のリズムだ」

そして、同年8月には「自由教育夏期講習会」を、軽井沢の星野温泉で開きました。

星野温泉は、軽井沢西部、中軽井沢地区から北軽井沢地区へ国道146号線を1.5キロほど北上した浅間山の麓にある温泉地。

美しいカラマツ林に囲まれ、日本3大野鳥繁殖地に「野鳥の森」に隣接した、鳥のさえずりが聞こえる閑静な避暑地にある名湯です。

夏期講習会には、講師として鈴木三重吉、巌谷小波、島崎藤村、弘田竜太郎、それに飛び入りで内村鑑三が参加しました。講習会の印象について白秋は次のように記しています。

「此度の星野温泉の講習会は全く楽しかつた。非常に親しく飾り気がなくて、活き活きとしてゐて面白かつた。

何より第一気に入つたのは、あの材木小屋の会場で挽〈ひ〉きつぱなしの無雑作に造らへた講壇や卓に、それから土間一面に鋸屑〈のこくず〉が敷いてあつた事だ。

講壇に上がつて見ると左手の窓に新鮮なキャベツ畑が目に入つたのも嬉しかつた。

右手の落葉松〈からまつ〉山もよかつたが、何にしても明けつぱなしで日光は明るいし、風は吹き通すし、渓川の音、蝉時雨、時たまにはがらがら通る幌馬車の軋〈きし〉りなどまことにさすが山の中の温泉地らしくてよかつた」(『芸術自由教育』大正十年九月号編輯後記)

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

「落葉松」は、この講習会での滞在中に、軽井沢の「落葉松山」のカラマツ林を散策して生まれたとされています。

なお、「材木小屋の会場」は、軽井沢高原教会として、現在まで受け継がれることになったようです。同教会のホームページには、次のように書かれています。

〈ここ軽井沢高原教会は、1921(大正10)年に開かれた「芸術自由教育講習会」を原点に誕生しました。前身であった質素な講堂に、キリスト教者であり思想家である内村鑑三をはじめ、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文化人が集い、「真に豊かな心」を求めて、熱く語り合ったのです。

「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。芸術自由教育講習会からひとつの理念が芽生えました。遊んで楽しむ、大いに結構、心から楽しいと感じればそこからまた何かを学び取れる、素晴らしいことではないか。

何事においても慎みが求められた時代にあって、芸術自由教育講習会は、感じたことを感じたままに表現し、自由に討論できる空間でした。

その空間をこよなく愛した内村鑑三は「星野遊学堂」と名づけ、布教の場としました。そして、芸術自由教育講習会の理念は、この地で受け継がれていくこととなったのです。〉

ところで、白秋を作詩に駆り立てた軽井沢のこの高原には、天然生のカラマツすなわち天落葉はあまりありません。明治初期、農用林野として用いられていたため、毎春、野火がつけられて野草地になっていたからです。

そんなところに、1883(明治16)年、甲州財閥の雨宮敬次郎が、官有地500町歩、民有地600町歩を買い入れて、700万本におよぶカラマツを植林しました。1921(大正10)年に白秋が見たカラマツ林は、植林から40年近くたった雨宮の人工林だったのかもしれません。

2015年10月1日木曜日

北原白秋「落葉松」④

「我はこれ畢竟詩歌三昧の徒」と称した白秋。俊子との短い結婚生活で、三崎、小笠原と転々とする中でも、文学的な収穫には、相変わらず豊穣なものがありました。

俊子と別れた直後の1914(大正3)年の12月には、こんな序にはじまる詩集『白金之独楽』を刊行しています。

〈苦シミハ人間を耀カシム、空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇豆ノ如シ。大海ノハテニ煙消エズ、地上ニ鳩白日交歓ノ礼ヲ成ス。林檎ハジメテ音シ、水ハ常ニ流レテ真実一路ノ心ヲアヤマラズ。麗ラカナルカナ、十方法界。ワガ身ヲ周ルハ摩羅ヲ頭ニイダク摩暹仏、麦酒樽ヲコロガス落日光ノ男。桶ノ中ニ光リツメタル天ノ不二。……〉

人間的な悲痛から脱却しようとする一念から、一気に書き上げた詩集でした。部屋に閉じこもったまま食事もしない兄を案じて、そっとにぎりめしを障子の外に置く妹に、次にあげる「白金ノ独楽」をはじめ、出来たばかりの詩を朗々と読んで聞かせたといいます。

  感涙ナガレ、身ハ仏、
  独楽ハ廻レリ、指尖ニ。

  カガヤク指ハ天ヲ指シ、
  極マル独楽ハ目ニ見エズ。

  円転、無念無想界、
  白金ノ独楽音モ澄ミワタル。

翌1915(大正4)年には、弟の鉄雄と阿蘭陀書房を創立して、雑誌『ARS』をはじめます。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』を出版しています。

1916(大正5)年、生活は苦しいものの、心にようやく安らぎを得るようになった白秋は、詩人の江口章子と知り合い、再婚。葛飾に移り住みます。

「今度の妻は病身だが、幸い心は私と一緒に高い空のあなたを望んでゐてくれる。さうして私を信じ、私を愛し、ひたすら私を頼つてゐる」と友人に書き送り、章子も「北原はほんとうに痛痛しい赤ん坊です」と理解を示していました。

1917(大正6)年、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立します。この時期、白秋は詩よりも短歌のほうに情熱を注ぎ、推敲に明け暮れして新たな原稿をほとんど書きませんでした。

  咳すれば寂しからしか軒端より雀さかさにさしのぞきをる

家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病みました。1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の要請で『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当することになって新たな道が開けます。

新しい感覚の童謡を次々と発表するようになるとともに、1919(大正8)年には、処女小説『葛飾文章』、『金魚』を発表。ようやく生活に落ち着きをみせはじめます。

  ゴンシヤン ゴンシヤン 何処へ行く。
  赤いお墓の曼珠沙華〈ひがんばな〉、
  曼珠沙華、              
  けふも手折りに来たわいな。

  ゴンシヤン ゴンシヤン何本か。
  地には七本血のやうに、
  血のやうに
  ちやうどあの児の年の数。

この年、よく知られた「曼珠沙華」などが入った、最初の童謡集『とんぼの眼玉』も出版しています。

それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付けました。1920年(大正9年)には『雀の生活』を出し、『白秋詩集』の刊行も始まりました。

そんな折、伝肇寺境内の自宅の隣に山荘を新築した建前の祝宴で、“事件”が起きます。小田原の芸者出という派手さに、白秋の生活を支えてきた弟らが反発し、章子を糾弾したのです。

それに対して、着物のほとんどを質入れするなどしてきた章子は、非難されるいわれはないと反発。その晩、章子は出入りの新聞記者と行方をくらましてしまいます。白秋は不貞を疑い、章子と離婚することになるのです。

翌1921(大正10)年、白秋は、国柱会会員で、田中智學のもとで仕事をしていた佐藤菊子と3度目の結婚をします。この年、信州滞在に想を得て、「落葉松」を発表することになるのです。