2015年11月30日月曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑧

待望の結婚生活に入ることができたのもつかの間、そのころ貘が生計のよりどころとしていた温灸器販売の店が倒産し、またまたの失業状態になってしまいます。

〈新婚早早失業に見舞われ、夫婦がかりで貧乏をかかえてしまってみそかそばも食えない年の暮をくぐって、餅ひとつも飾れない正月をむかえて、ぼくの結婚生活がはじまったのである。〉

放浪こそ終わったものの相変わらずの貧乏生活でしたが、結婚の翌1938(昭和13)年には、国文学雑誌『むらさき』編集長の小笹功の尽力で、もう一つの念願だった詩集『思弁の苑(その)』を出すことができました。

少年のころから、詩を作ることが生きることだった貘。飽くこと知らずに推敲を繰り返し、一篇を作るのに200枚、300枚の原稿用紙を書きつぶすこともザラでした。

こうしてできる詩は年に4、5篇。20年近くのあいだに作った詩を全部集めても、59篇だけでした。詩集の序文に金子光晴は「日本のほんとうの詩は/山之口のやうな人達からはじまる」と書きました。

貘は詩集が出た喜びを、後に次のようにうたっています。

     処女詩集

  「思弁の苑」というのが
  ぼくのはじめての詩集なのだ
  その「思弁の苑」を出したとき
  女房の前もかまわずに
  こえはりあげて
  ぼくは泣いたのだ
  あれからすでに十五、六年も経ったろうか
  このごろになってはまたそろそろ
  詩集を出したくなったと
  女房に話しかけてみたところ
  あのときのことをおぼえていやがって
  詩集を出したら
  また泣きなと来たのだ

詩集を出した翌年の1939(昭和14)年、貘は東京府職業紹介所に就職し、36歳にして初めて定職を得ることができました。時代は日中戦争のまっただ中。就職活動がみのったというより、戦争による人手不足であぶれていた失業者がすくい取られていった。貘もその一人だったのでしょう。

抜けだせない泥沼へとつき進んでいく戦争。沖縄県人としての差別の眼にさらされ、ずっと社会の底辺で這うように生きてきた貘は、「聖戦」などというのが嘘っぱちであることは、誰よりも肌で感じていたはずです。

次のような、すごみのある風刺詩も残しています。

     ねずみ

  生死の生をほっぽり出して
  ねずみが一匹浮彫みたいに
  往来のまんなかにもりあがっていた
  まもなくねずみはひらたくなった
  いろんな
  車輪が
  すべって来ては
  あいろんみたいにねずみをのした
  ねずみはだんだんひらたくなった
  ひらたくなるにしたがって
  ねずみは
  ねずみ一匹の
  ねずみでもなければ一匹でもなくなって
  その死の影すら消え果てた
  ある日 往来に来て見ると
  ひらたい物が一枚
  陽にたたかれて反っていた

2015年11月29日日曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑦

待望していた結婚は貘にとって、かがやきにあふれたものだったにちがいありません。16年ぶりに、たたみのうえで寝る生活がはじまったわけです。

〈金子光晴は色々と心配してくれて「結婚するとなればばくさん、間借りでもしなくてはなるまい」と牛込区弁天町のあるアパートの一室を見つけてくれたのである。

ところが、ぼくにはその部屋に置くべきなにものもなかったのである。そこでまた金子光晴が息子の使い古した落書だらけの机をぼくに寄越した。

その上、どてらを一枚、そして夫人の森三千代さんが一枚の座蒲団をつくってくれて、「これは少し寸詰りなんだけれど、さし当りの間に合わせに」とつけ加えたのである。

それでぼくの持ち物は、この寸詰りの座蒲団と、おさがりのどてら一枚と小さな古机と、原稿を入れた古鞄とそれだけなのであった。やがてこの部屋に、彼女のところから新しい桐の箪笥と新しい鏡台などが届けられた。〉(「ぼくの半生」)

貘は、こんな詩も作っています。

     結婚

  詩は僕を見ると
  結婚々々と鳴きつゞけた
  おもふにその頃の僕ときたら
  はなはだしく結婚したくなつてゐた
  言はゞ
  雨に濡れた場合
  風に吹かれた場合
  死にたくなつた場合などゝこの世にいろいろの場合があつたにしても
  そこに自分がゐる場合には
  結婚のことを忘れることが出来なかつた
  詩はいつもはつらつと
  僕のゐる所至る所につきまとつて来て
  結婚々々と鳴いてゐた
  僕はとうとう結婚してしまつたが
  詩はとんと鳴かなくなつた
  いまでは詩とはちがつた物がゐて
  時々僕の胸をかきむしつては
  箪笥の陰にしやがんだりして
  おかねが
  おかねがと泣き出すんだ。

2015年11月28日土曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑥

貘は、喫茶店の「ゴンドラ」に入り浸っていたころ、こんな詩を作っています。

     会話

  お国は? と女が言つた。
  さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの連想を染めて、図案のような風俗をしているあの僕の国か!
  ずつとむかふ

  ずつとむかふとは? と女が言つた。
  それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がいるとか素足で歩くとかいふような、憂鬱な方角を習慣しているあの僕の国か!
  南方

  南方とは? と女が言つた。
  南方は南方、濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯、竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどと談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
  亜熱帯

  アネツタイ! と女は言った
  亜熱帯なんだが、僕の女よ、目の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
  赤道直下のあの近所

1933(昭和8)年6月、浅草・泪橋の泡盛屋に詩人たちが集まって「琉球料理を味わう会」という催しが開かれました。そこで貘は、ヨーロッパから帰ったばかりの金子光晴、森三千代夫妻と知り合います。

ボヘミアンな自由人、漠と光晴。「遊びに来い」と言われ、貘が訪ねると光晴はモーニングのしまのズボンを質屋に入れて神楽坂の「十字屋」に繰り出しました。すっかり意気があい、以後、2人は生涯にわたる無二の親友となります。

結婚したくて、結婚したくて、コーヒー店を渡り歩いて相手を探します。しかし、女の子たちは貘を「おじさん」としたってもお嫁にはきてくれません。さすがの貘も大いにくさってしまったようで、こんな詩もつくっています。

     求婚の広告

  一日もはやく私は結婚したいのです
  結婚さへすれば
  私は人一倍生きてゐたくなるでせう
  かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
  面白い男と面白く暮したくなつて
  私ををつとにしたくなつて
  せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
  さつさと来て呉れませんか女よ
  見えもしない風を見てゐるかのやうに
  どの女があなたであるかは知らないが
  あなたを
  私は待ち侘びてゐるのです

そして念願はようやく稔ります。ある日、雑誌で貘の詩を読んでいた小学校の教師から、縁談の話がもちあがったのです。写真をみた貘は、

「美人ではないが、目も鼻もちゃんとあって普通の顔であることを納得し、体も丈夫で、女学校を卒ていて、年はぼくより二ツ若いということで、ぼくにはとっては不服のいえる条件ではなかったのである。ぼくは即座に承諾した」(「ぼくの半生」)。

金子光晴夫妻の立ち会いで安田静恵と見合いをし、1937(昭和12)年12月に結婚します。貘34歳のときでした。

2015年11月27日金曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑤

     ものもらひの話

  家々の
  家々の戸口をのぞいて歩くたびごとに
  ものもらひよ
  街には沢山の恩人が増えました。

  恩人ばかりを振ら提げて
  交通妨害になりました。
  狭い街には住めなくなりました。

  ある日
  港の空の
  出帆旗をながめ
  ためいきついてものもらひが言ひました
  俺は
  怠惰者 と言ひました。

東京でルンペン生活に入ってしばらくした1927(昭和2)年、『改造』の編集者をしていた故郷の先輩の紹介状をもって佐藤春夫を訪ねました。

「ものもらひの話」など初期の作品を五、六篇見てもらうと、丹念に読んだすえ佐藤は「機会があったらどこか君の詩を紹介したいとおもっています」。貘はひどく感動しました。

ある日、貘は佐藤から名刺をもらいます。そこには「詩人山之口バクは風体いかがはしきも性温良にして善良なる市民なり」と書かれてあり、「右証明す」とありました。

貘は放浪中、巡査に訊問されたりするとその名刺を示して難をまぬがれました。

さらには、これを見て感激した警視庁のある巡査が、巡査の肩書きのある名刺に「詩人山之口ばくは小生の親友にしてうんぬん」と書いてくれたりもしたといいます。

コーヒー店からコーヒー店へ「女給たちのなかに、相手を物色して」歩いたこともありました。

女給が注文をとりにくるとそっと紙片を渡します。紙には「ぼくは貴女と結婚したいと思いますが、貴女はどうおもいます」と書かれていました。

芝の日影町通りに「ゴンドラ」という喫茶店があって、貘はその店に3年余り入りびたりました。朝の10時ごろから夜の12時ころまで、10銭のコーヒーで毎日のように原稿を書いていたそうです。

そのうちに、店の者と間違われて注文を受けたり、店の娘と親しくなったりました。こんなこともありました。ある常連の役人が沖縄へ出張して、みやげ話をゴンドラでしたのです。

「酋長の家に招かれて、バナナだのパパイヤだの、泡盛だのを御馳走になって大変な歓待を受けた」というのです。

女将やその娘は、珍しそうに目を輝かせてその話を聞いていました。困ったのは詩人である貘でした。

2015年11月26日木曜日

山之口貘「鮪に鰯」④

茨木のり子は『貘さんがゆく』で、当時の貘の生活ぶりについてつぎのように描いています。

〈仕事はできることならなんでもやりました。書籍問屋の発送荷作人、暖房工事人夫、ニキビ・ソバカスの薬通信販売、隅田川のダルマ船にのって鉄くず運搬業、おわい屋……。

おわい屋といっても、肥桶をかついで、便所の汲み取りをして歩くのではなく、貘さんのやったのは、水洗便所のマンホールのそうじ人夫でした。

マンホールがあまりにくさいので、四、五人で焼酎を飲んで鼻をすこしばかにして、長ぐつをはいてはいりました。糞尿をかいだしたあとも、大きなマンホールの底は、ツルツルすべることといったらありませんでした。

そこでつくづくと、便はすべるものであるという認識をえました。職業意識というのは、たいしたもので、なかまのひとりなど汚物のついている清掃用のホースにへいきで口をつけて、おいしそうに水をがぶがぶ飲んだりしました。

「僕はめしを食えなかったから、おわい屋になったのであります」

――つまり、おわい屋をやることで、世の多くの人々とははんたいにめしを食ったのであると、貘さん自身ユーモラスに語っていますし、おわい屋をやった話はあまりにも有名なので、長いあいだ汲み取り屋をやったように印象づけられていますが、繊細な神経をもった貘さんには、この仕事は耐えられなかったのでしょう。じっさいにやったのは、四、五回だけという話です。

両国のあるビルの、じめじめと水の流れてくる地下室に住んでいたこともあります。そのビルに佐藤という人が住んでいて、鍼灸学校(お灸やハリの打ちかたを教える学校)の先生をしていました。佐藤氏は貘さんのめんどうをよくみてくれましたが、またかなりがめついところのあった人でした。

貘さんも見よう見まねで、お灸のすえかたを心得たので、免状を取ろうとしたのですが、免許証をとるにもお金がかかり、なんとか調達しようとじたばたしたのですが、果たせずにとうとうあきらめました。そして、もぐりのお灸屋として活躍した。

第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまで、世は不景気風が吹きまくり、ちまたには失業者のあふれた時代ですが、そのうえに、中学中退、沖縄県人という履歴が、さらに貘さんの暮らしをひどく不安定なものにしていました。

求人広告を見てゆくと、入り口に「朝鮮・琉球おことわり」とれいれいしくはってあるのはしょっちゅうでした。まったく不当な話です。〉

また、「おわい屋」体験をもとに貘は、次のような詩作をしています(山之口貘「詩とはなにか」)。

〈人類は鼻など持っているために、こんな臭い仕事とおもわないのではなかったのであるが、鼻をなだめすかして汲み取るより外には術もなかったのである。まもなく出来た詩が「鼻のある結論」というのである。

  ある日
  悶々としてゐる鼻の姿を見た
  鼻はその両翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた
  呼吸は熱をおび
  はなかべを傷めて往復した
  鼻はつひにいきり立ち
  身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした
  僕は詩を休み
  なんどもなんども洟をかみ
  鼻の様子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた
  あゝ
  呼吸するための鼻であるとは言へ
  風邪ひくたんびにぐるりの文明を掻き乱し
  そこに神の気配を蹴立てゝ
  鼻は血みどろに
  顔のまんなかにがんばつてゐた

  またある日
  僕は文明をかなしんだ
  詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの
  それは非文化的な文明だつた
  だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた
  僕は来る日も糞を浴び
  去ゆく日も糞を浴びてゐた
  詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ
  あゝ
  かゝる不潔な生活にも 僕と称する人間がばたついて生きてゐるやうに
  ソヴィエット・ロシヤにも
  ナチス・ドイツにも
  また戦車や神風号やアンドレ・ジイドに至るまで
  文明のどこにも人間はばたついてゐて
  くさいと言ふには既に遅かつた

  鼻はもつともらしい物腰をして
  生理の伝統をかむり
  再び顔のまんなかに立ち上つてゐた。

この詩を読んで、読者は即座に鼻をつまんでそっぽを向いてしまうのかも知れないが、作者のぼくとしてはそれを無理に、この詩から美を感じてもらいたいと読者に対して頼むわけにはいかないのである。なぜならば、それはまったく詩そのものの罪なのであって、ぼくのとるべき責任ではないからなのである。

汲取屋のぼくはただかゆいところを探しあてて、そこに鼻の問題のあることを見つけ、文明の問題や人間の問題などのあることを見つけたりして、自分なりの感想や批判をもって書いたまでのことで、言葉をかえていうならば、かゆいところを掻かないではいられなかったのである。〉

2015年11月25日水曜日

山之口貘「鮪に鰯」③

第一次大戦中の日本は、戦争景気に酔ったが、やがて全国的に長い戦後不況が始まります。沖縄も例外ではなく、庶民はコメどころかイモも口にでず、野生ののソテツまで食べて飢えをしのぐようになっていました。

ソテツの実や幹にはサイカシンといいう猛毒が含まれていて、調理を間違えるとソテツ中毒になって死ぬ人もたくさん出ました。大正末期のそうした悲惨な沖縄は「ソテツ地獄の島」とも呼ばれたそうです。

山之口貘が上京したのは、そんな時代でした。父に「月々十五円の仕送りをしてくれるようたのむと、ぼくの熱意に動かされてか、父はそのことを承諾した」(貘「ぼくの半生記」)のだったが、仕送りが届くことはありませんでした。

父重珍は、第百四十七銀行を退職して八重山へ渡り、沖縄産業銀行の八重山支店長をまかされます。と同時に、鰹節製造の事業に乗り出しました。しかし事業は失敗、とうとう銀行の金を持ち出すようになり、家まで手放さざるをえなくなったのです。

上京後、貘は日本美術学校に籍を置くが、1カ月でやめます。あてにしていた父からの送金がないので、友人の下宿を転々としながらの放浪生活。そんなさ中の1923(大正12)年9月、関東大震災が起こりました。

貘はほうほうのていで沖縄に舞い戻ります。しかし一家は破産し、ちりじりになっていました。帰郷してみたものの、字を書けない遊女の手紙の代筆をするなどして飢えをしのぐしかありませんでした。

そして1925(大正14)年夏、詩稿の入ったかばんを持ってふたたび東京へ渡ります。住む家はなく、芝浦の土管に潜ったり、公園や駅のベンチに寝たり、銀座のキャバレーのボイラー室に仮住まいといったルンペン生活が始まったのです。以後16年間、畳の上に寝ることはできませんでした。

     世はさまざま

  人は米を食つてゐる
  ぼくの名とおなじ名の
  貘といふ獣は
  夢を食ふといふ
  羊は紙を食ふ
  南京虫は血を吸ひにくる
  人にはまた
  人を食ひに来る人や人を食ひに出掛ける人もある
  さうかとおもふと琉球には
  うむまあ木といふ木がある
  木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ
  いつも墓場に立つてゐて
  そこに来ては泣きくずれる
  かなしい声や涙で育つといふ
  うむまあ木といふ風変りな木もある。

そんなころ「貘といふ獣」から「山之口貘」を名乗るようになりました。

2015年11月24日火曜日

山之口貘「鮪に鰯」②

  ここに寄り集まつた諸氏よ
  先ほどから諸氏の位置に就て考へてゐるうちに
  考へてゐる僕の姿に僕は気がついたのであります

  僕ですか?
  これはまことに自惚れるやうですが
  びんぼうなのであります。

1938(昭和13)年に出た第1詩集『思辨の苑』にこんな詩があります。山之口貘は、1903(明治36)年9月11日、沖縄県那覇区(現在の那覇市)東町大門前で、父・重珍(じゅうちん)と母カマト(戸籍名トヨ)の三男として生まれました。

山口家は氏族の出身で、300年も続いている名家でした。重珍は第百四十七銀行(現在の鹿児島銀行)に勤務していたのですから、幼少のころは「びんぼう」とはいえない、比較的恵まれた生活を送っていたようです。

戦前、沖縄では戸籍名のほかに、「たるー」(太郎)、「じるー」(次郎)、「さんるー」(三郎)といった「わらびなー」(童名)をつける習慣がありました。大人になっても家族や友人同士では、親しみを込めて「わらびなー」で呼び合っていたそうです。

貘の本名は、重三郎(じゅうさぶろう)。幼いころは「さんるー」と呼ばれていた。これを少し変えて、「サムロ」というペンネームを使っていたこともある。

〈毎日机に向かっているのであったが、頭のなかには一つ年下の少女の顔があるばかり〉(山之口貘「私の青年時代」)で、受験に一度失敗した後、1917(大正6)年4月、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高校)に入学しました。

「私の青年時代」には、次のように記されています。

〈二年生になったとき、新入生に喜屋武(キヤン)というのがいた。ぼくは自分からすすんで、この喜屋武とつき合って出来るだけ親しくした。

かれにはグジーという名の姉があったからなので、本心はグジーに近づく手なのであったが、いかにも未来の弟を得たような気分になって、ついにその家にも出入りするようになり夢見ごこちにしばしば目の前にグジーの顔を見ることが出来たのである。

しばしばはやがて、雨の日も風の日もどころではなくなって、台風の日も、びしょぬれになってまで毎日毎日喜屋武を訪ねて、長時間をかれの家で過ごした。しかし、グジーと話をする機会はまずなかった。

意識的にその機会をつくらないからでもあった。グジーと話をする機会をつくっては、喜屋武は勿論のこと、その家の人達に、ぼくの本心がばれそうなのでそれを警戒したのである。

ぼくは毎日も喜屋武家に通いながら、手紙さえグジーに手渡したことはなく、書くたんびに郵送した。

その手紙が、どのような文章で、どんな書体であったかはいまは記憶に残っていないのであるが、とにかく喜屋武家に通いながら、一方では文通によってグジーとの交際を続けて、将来ぼくとの結婚についての彼女の同意を掴むことが出来たのであった。

こうして、恋愛に夢中になっているうちに、おろそかになっていたのが学業で、ぼくはもう一度三年生を繰り返したのであった。そのころは、絵を描いたり、すでに詩もつくるようになっていたが、友達四、五人で「ほのほ」という詩の雑誌を寒天版で印刷して出したりした。

ぼくたちは生田春月や室生犀星や藤村の詩なども読んだが、仲間はみんなホイットマンの詩に傾倒した雰囲気をもっていた。そして寄ればすぐに、無産階級とか有産階級とか、搾取とかの用語を口にし、大杉栄の名が出たりしたのである。

四年生になってからの雄弁大会に「ほのほ」の仲間であるOとNとが演壇に立ったが、Oは熱弁をふるって社会主義を唱え出して弁士中止、そのために学校を追われ、Nは骨董品に校長をたとえてその人身を攻撃し出したので演壇から引摺り下ろされNも放校処分となった。

そして、ぼくは「琉球新報」紙上に、「石炭」と題する詩に、「一中の坂口先生に与える」と副題して発表した。博物の先生が講義の時に、「石炭にも階級がある。まして人間の社会に階級のあることは当然としなくてはならない筈だ」という意味のことを言ったので、それに対しふんがいして書いたものなのであった。

その詩の書き出しは、「褐炭 泥炭 無煙炭 それは階級ではない」というのであったが、そのあとはもう忘れてしまった。サムロ生として匿名で発表したがすぐに校長室から呼び出されたのはぼくなのであった。

新聞を目の前に突きつけられて、誰だかこころ当りはないかと言われたが、全然ありませんで通したのであった。しかし、父がそれを知っていたことは意外で、「落第生のくせに先生を馬鹿にしやがって」と、頭をぶんなぐられて、足で蹴飛ばされてのであった。

そんなこんなで、学校には愛想が尽きてサボル日が続いていた。まもなく兄夫婦が大阪へ出て行って、相ついで父母が石垣島へ渡り、弟や妹もそっちへ行ってしまい、ぼくだけが那覇の家に残ったのであった。そこへグジーからの破談状が舞い込んで来たのだ。〉

そんな旧制中学時代に貘は、失恋の鬱憤をはき出すような、こんな詩も作っています。

     むかしのお前でないことを

  最早むかしのお前でないことを私(わし)は知つてゐる
  お前はお前の膝から 春情を彼にやつたとのこと
  おゝお前は私にヒステリーの男と言ふのか

  恋の玩具から、平気な微笑でお前は私の胸に触れてはいけない。お前の瞳の中には五六人の好男子がまゝごとあそびをやつてゐる……
  もう一週間が一月にもなつて、
  お前の唇と私の眼との間を、多情と嫉妬のかくれんぼが初まつてゐる
  今日用がありますから と私との媾曳(あいびき)を拒んでお前が行つた夜!
  だがあの日お前は何処へ行つたと言ふのだ? そしてあの女をお前でなかつたと言ふのか
  気の毒にお前の唇は大分すりへらされて褪せてゐる
  一体お前はあの女を誰だつと言ふのだ?
  あゝお前の瞳の中にはどんどん石が投げ込まれて、お前の天水が濁つてしまつた。
  私はお前を責めねばならない 私は彼等を憎んでしまつた 私の眼には燈火(あかり)が見えなくなつた。

恋に敗れた貘は一中を退学し、1922(大正11)年秋、上京してはじめて本土に足を踏み入れます。19歳のときでした。約束したはずの父からの送金がとどくこともなく、やがて、長い放浪生活がはじまることになるのです。

2015年11月23日月曜日

山之口貘「鮪に鰯」①

     鮪に鰯

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

1954(昭和29)年3月、アメリカ軍による太平洋ビキニ環礁での水爆実験で「死の灰」を浴びる第五福竜丸事件が起こりました。きょうから読むのは、この事件に対して書かれた山之口貘(1903~1963)の一篇です。

貘の没後、1964(昭和39)年12月に原書房から刊行された、この詩のタイトルが付けられた第4詩集『鮪に鰯』に収められています。

この詩集には、貘が残した詩の過半数にあたる126篇が収録、金子光晴の次のような「小序」が付いています。

 〈貘さんの詩が、その後、こんなにたまっていようとは、意外なほどである。貘さんの詩の序を書くのは、じぶんの役目のような気がしていて、承諾してみたものの、よく考えると、生前の貘さんといくら親しくして、気をゆるしあっていたからといって、それだけのことで、ひとさまをさしおいて序文を書くなどということは、公私混同のような気がしないでもない。

詩集の序文であるかぎり、詩のことについてはなすべきだとおもうのだが、僕には、詩というものが、貘さんのような詩以外、あんまりよくわからないので、なにか書くと、ひいきのひき倒しになりそうな心配があるのだ。

貘さんの詩は、まずまちがいない。安心してよませてもらえる、それは、貘さんが、自分の一つ、一つ、をいかに大事にして、鼻のあぶらをつけたり、黄ろいツヤぶきんをかけたりしていとおしがっているからで、ゆめゆめ、勲章をもらう道具にするような量見がないからであろう。

ふしぎなことは、こうして貘さんの詩をよんでいると、こんなにたのしいのにじぶんの書いた詩となるとみるのも胸くそがわるい。

じぶんの詩ががらくたで、貘さんの詩が、すぐれた詩であるせいかもしれない。そして、つくづく貘さんのような詩の書ける人がうらやましくなる。

僕としても、まだこれから生きているかぎりは、歯ぎしりのような詩や、けいはくな『売り詩』を書かねばならぬハメになるだろうが、ほん音は、『もう、書くことはない。貘さんがいてくれれば、それでいいじゃないか』と言いたいところなのだ。

これからも、貘さんの詩は、みんなに大事にされるだろう。みんなのこころをほぐし、みんなをらくにしてくれるからで、詩からそれ以上のなにかを得ようとするものがいたら、そうとう横着なてあいである。貘さんは、よそでも書いたが、キリストとよく似ている。

時々、まちがわれて迷惑したのではないかとおもう。キリストは、貘さん同様びんぼうだったろうが、びんぼうから超越して、びんぼうをあわれんで、かあいがっていたようなところがあったようだ。貘さんの場合も、まったくおなじだ。びんぼうや、死は貘さんがいとしんで飼っている小動物のようなものであろう。

いろいろめいわくをかけられながらも、貘さんは、決してつよい声で叱ったりはしないので、そこで、びんぼうも少々のさばり加減だったのかもしれない。

貘さんは、死んでしまった。だが、それは止むをえないことだ。僕がすこし淋しいのは、僕に、ほかの友人がいないからだ。しかし、僕だって、死ぬことはま近い。死んでしまっては、なにもかも、しやっぽだ。

あの世でお目にかかれそうもない。貘さんは、キリストだから天国へゆくかもしれないが、僕のほうは、わるいことをいっぱいしているから、まず地獄はまちがいないところだ。たとへ天国へゆかなくても、貘さんには、詩があるだろうが、僕のほうは、ダメだ。そんなときは、貘さんの詩を拝借することにしよう。

最後に、よく、詩とはあまり縁のないおしろうと衆から、『貘さんは詩人としてどのくらいの地位にいるのですか。貘さんの詩は等級にして、何等級ぐらいですか』ときかれる。ばかな質問ではない。

おそらく、もっともな質問で、それをハッキリさせないと、例え死んでいるにせよ貘さんのあつかいに困るだろうからだ。そこで、僕は、言う。貘さんは第一級の詩人で、その詩は従って第一流の詩であると。

日本のはえぬきの詩人と言えば、萩原朔太郎、それ以後は、貘さんだろう。その他は、僕もふくめて、安ペカな洋品まがいで、日本であればこそ、特別の需要のある代用品であることにまちがいない。〉

詩「鮪に鰯」は、後にフォークシンガーの高田渡(1949~2005)によって曲が付けられ、歌われました。高田は1998(平成10)年、大工哲弘、石垣勝治、佐渡山豊、嘉手苅林次らのミュージシャンとともに、「鮪に鰯」など貘の詩に曲をつけたアルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』をリリースしています。

2015年11月11日水曜日

四年半後の「駝鳥」⑫

  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。

窮乏した生活、自由にものを表現できなくなっていく行き場のない圧迫感。

そんな現実のなかで「遠くばかり見て」いて、「身も世もない様に燃えてゐる」。

それでも「瑠璃色の風が今にも吹いて来る」と、この芸術家は理想を抱いています。

こうした光太郎の理想もやがて、大きな戦争によって打ちのめされてしまうことになるのです。

東日本大震災でわたしたちはいま、関東大震災には存在しなかった「原発」という、猛獣以上の〝化けもの〟をどうするか、という人類的課題に迫られていることも忘れるわけにはいきません。

人間の手に負えない〝化けもの〟であることを思い知らされてから四年半、

  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

詩人の叫びはいまも、突き刺さるように響いているように思われます。

2015年11月10日火曜日

四年半後の「駝鳥」⑪

東日本大震災から四年半が経ちました。関東大震災から「ぼろぼろな駝鳥」が作られたのと、同じくらいの時が流れたのです。

私には、関東大震災後と東日本大震災後の日本社会には、かなり似ているところがあるように思えてなりません。

第一次大戦の戦需景気に沸いた反動で戦後恐慌に陥っていたところに、追い討ちをかけるように関東大震災は起こりました。

失業者が激増し、決済できない震災手形は莫大な額にのぼりました。関東大震災後の混乱を治める名目で、緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」が公布されます。

この勅令の廃止と引き替えのかたちで震災から2年後の1925(大正14)年、社会主義や自由主義者、労働運動などを取り締まる治安維持法が成立しました。

「ぼろぼろな駝鳥」ができた昭和3年には、処罰に死刑が加わり、言論や思想への弾圧はいっそう厳しさを増していきます。

一方で、リーマン・ショックを境に世界的に経済は冷え込んで消費は落ち込み、金融不安で急速なドル安が進行、日本経済も大幅な景気後退を余儀なくされていました。

東日本大震災が起こったのは、そんな時のことでした。

そして、関東大震災後に治安維持法が成立したのと同じ、ちょうど2年後の一昨年12月には、特定秘密の保護に関する法律(特定秘密保護法)が成立しています。

国が「秘匿することが必要である」と判断すれば、特定秘密として扱われ、公にした者は罰則の対象になる危うい法律です。

そして先日、多くの識者が「憲法違反」だと警告し、反対のデモが巻き起こるなか、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案が国会で強行採決されました。

2015年11月9日月曜日

四年半後の「駝鳥」⑩

伊藤信吉は、『逆流の中の歌―詩的アナキズムの回想』のなかで、次のように回想しています。

〈昭和三年末か四年はじめの冬のこと、私は酔っぱらった草野心平や小野十三郎やそのほかの人たちと、夜ふけの前橋の街をもつれあってあるいていた。ぐだぐだしたその酔っぱらいたちのからみあいの中から、そのとき小野十三郎が「よせよ、それ。ないぢゃないかなんて。」と言った。誰かがそんなしゃべり方をしたのだ。それは高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」「上州川古『さくさん』風景」などの詩に、「ないぢやないか」という特徴的な語法がたくさん出てくることに関連していた。たとえば「ぼろぼろな駝鳥」は「脚が大股過ぎるぢやないか」「頸があんまり長過ぎるぢやないか」「これはもう駝鳥ぢやないぢやないか」という語法で成立っている。それが私たちの会話にもぐりこんだわけで、高村光太郎の詩精神や語法というべきものは、地方都市前橋の冬の寒さの中にまで持ちこまれていたのである。〉

「ぼろぼろな駝鳥」が発表される前年の1927(昭和2)年、日本の経済は第一次世界大戦による大戦景気から不況へと転じました。

さらに、関東大震災の復興のための震災手形が莫大な不良債権と化していました。折からの不況によって中小の銀行は経営が悪化。金融不安が社会に蔓延するようになります。

「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました(実際はこの時は破綻していなかった)」。3月14日の衆議院予算委員会における片岡直温大蔵大臣の失言を機に、一気に取り付け騒ぎが起こります。

そして、昭和金融恐慌の嵐が吹き荒れるのです。4月には鈴木商店が倒産、そのあおりを受けた台湾銀行が休業に追い込まれます。高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を増刷するなどして不安の払拭に躍起になりました。

5月には山東出兵、6月には日米英三国によるジュネーブ軍縮会議、7月には芥川龍之介が「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である」と書き残して睡眠薬による自殺をしています。

金融恐慌によって、肖像彫刻「園田孝吉胸像」の制作を依頼するなど、光太郎を庇護してくれていた第十五銀行も倒産しました。こうした中、光太郎たちの生活も窮乏を極めています。

きっと、「腹がへるから堅パンも食ふ」のに近い、状態だったのでしょう。

2015年11月8日日曜日

四年半後の「駝鳥」⑨

 近年は、北海道の旭川市旭山動物園など各地の個性的な動物園が人気を集めていますが、光太郎の時代の動物園といえば、なんといっても上野動物園でしょう。

まして光太郎は、上野動物園のある現在の東京都台東区の住人だったのです。関東大震災で上野動物園はどうなったのか。

というと、意外にも、正門の門柱が一本倒れたほかは大きな被害はなく、カバがびっくりして水に潜ったままなかなか出てこないので心配した、という程度。

動物たちはみんな無事だったそうです。それはともかく〝猛獣篇〟では、自由で自然な猛獣に対比させるかたちで人間の卑小さをクローズアップさせています。

そして、ここに出てくる「駝鳥」のように動物園に閉じこめて飼う残酷さを描くことで、人間社会を批判するのです。

「ぼろぼろな駝鳥」は、全13行のうち「……ぢやないか」でしめくくった文が8行を占めています。そして、これらの繰り返しが、たたみかけるように力強い詩のリズムを作りだしています。

一見プロレタリア詩に出て来そうな「ぢやないか」という平俗な語り口が、脚韻のような効果を生み出しているのです。

島崎藤村や国木田独歩のような文語的な格調のある響きはありませんが、代わりに、開放感に満ちた親しみやすさがあります。

いまからすれば「ぢやないか」は、日常ごくふつうに使うありふれた表現、若い人たちにとっては古くさい感じすらするかもしれません。

しかしこの表現が、文語詩が当たり前だった当時の若い詩人たちに与えた影響には、並々ならぬものがあったようです。

2015年11月7日土曜日

四年半後の「駝鳥」⑧

「ほろぼろな駝鳥」は、1928(昭和3)年2月7日、光太郎が四四歳のときの作品です。ダチョウは鳥の一種ですが、ふつうの鳥のイメージからはかけ離れた異色な存在です。

第一、鳥なのに飛ぶことが出来ません。もともとアフリカとアラビア半島に広く生息していました。しかし乱獲などで現在は、アフリカ中部と南部のサバンナや砂漠、低木林などと、生息範囲は限られています。

頭は小さく、1メートル近い長い首をもっています。オスの成鳥になると全長230センチ、体重135キロにも達し、現生の鳥類の中では最も大きい。

また陸上動物の中で最大の直径5センチ近い目を持ち、視力も抜群のようです。

翼がヒレのようになったペンギンや、翼が退化しかかっているドードーにもある竜骨突起がダチョウにはありません。

竜骨突起というのは、鳥の胸部にある竜骨と呼ばれる大きな骨の中央を縦に走る出っ張りです。

飛ぶのに必要な胸筋を支える役割を担っていますが、これが無いので胸筋は発達せず、羽毛もふわふわとしていて揚力を受けて飛ぶ構造にはなっていないのです。

飛べない代わりに、脚は頑丈で俊足です。通常、軽自動車なみの時速50キロ近いスピードで走り、時速70キロを出すこともできるそうで、羽を使って走る向きを変えたりもします。

ダチョウの一歩は3~5メートル。その強力なキック力は、ライオンや人間も倒すほどだとか。2本指の足には長くて鋭いツメがついています。

いろんな年齢のオスやメスが混ざってふつう10羽程度の小さな群れで生活しています。群れを支配するオスは優位なメスと交尾。メスとオスは交代で鶏卵の25倍もの重さになる大きな卵を抱卵します。

ダチョウは、危険が迫ると砂のなかに頭を突っ込むといわれます。実際にはそうした習性はないようですが、その姿から英語では、The foolish ostrich buries his head in the sand and thinks he is not seen.(愚かなダチョウは頭を砂に埋めて、見えないと思っている)などと言われたりします。

日本のことわざでいえば「頭隠して尻隠さず」といったところでしょうか。また、ダチョウはなぜか昔から「火を食う」「石を食う」「鉄を食う」などとも言われてきました。

なんでも食らう〝化けもの〟のようなイメージもどこかにあるのかもしれません。

2015年11月6日金曜日

四年半後の「駝鳥」⑦

関東大震災が起こった1923年9月1日の夜以降、混乱の中「朝鮮人が襲ってくる」というデマが流れ、朝鮮人に対する虐殺が繰り返されるようになります。

震災後の戒厳令下、東京の亀戸では社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10人が警察に捕らえられ、刺殺。前に書いたように、アナーキストの大杉栄、伊藤野枝らも憲兵隊に連行されて殺害されました。

さらには、皇太子(後の昭和天皇)が社会主義者の難波大助により狙撃を受ける虎ノ門事件が発生して内閣は総辞職。鬱積する社会不安とともに、治安維持の名のもとに人間性を無視した暴挙が続いていきます。

「清廉」は、こうした時代の閉塞した空気のなか、猛獣と化した人間界に、かまいたちの「清廉の爪」をあびせようとしているかのようです。また、本来の人間の生を確かめ、寄りそっていこうとする理想主義者、光太郎の決意をうたっているようでもあります。

この詩を読んだ田中静三にあてた手紙に、「私として一度は通過しなければならなかつた心の過程であります故自分としては是非善悪を超えた境です。御し難い野獣をインノセントの昔にかへして更に高いものに馴致し得るオルフオイスの力を望んでゐます」と光太郎は記しています。

 「猛獣篇」の中でも広く知られ、近代的な言葉のリズムや音の響きなどで最も成功しているといわれるのが、関東大震災から四年半ほど後、東日本大震災から勘定するとちょうどいまごろにあたる時期に発表されたのが「ぼろぼろな駝鳥」です。

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頚があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

2015年11月5日木曜日

四年半後の「駝鳥」⑥

「猛獣篇(第Ⅰ期)」の中で最初に発表されたのは、関東大震災から1年あまり経った1924(大正13)年11月に作られた「清廉」という詩です。

  それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
  そそり立つ岸壁のががんと大きい
  山巓の気をひとつ吸ひ込んで
  ひゆとまき起る谷の旋風に乗り
  三千里外
  都の秋の桜落葉に身をひそめて
  からからと鋪道に音を立て
  触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
  ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
  世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ

  愛憐の霧を吹きはらい
  情念の微風を断ち割り
  裏にぬけ
  右に出て
  ひるがへりまた決然として疾走する
  その行手には人影もない
  孤独に酔い、孤独に巣くひ、
  茯苓〈ふくれう〉を噛んで
  人間界に唾を吐く

  ああ御しがたい清廉の爪は
  地平の果てから来る戍亥〈いぬゐ〉の風に研がれ
  みずから肉身をやぶり、
  血をしたたらし
  湧きあがる地中の泉を日毎あびて
  更に銀いろの雫を光らすのである
  あまりにも人情にまみれた時
  機会を蹂躙し
  好適を弾き
  たちまち身を虚空にかくして
  世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
  身を養ふのは太洋の藍碧〈らんぺき〉
  又一瞬にたちかえる
  あの山巓の気

 「かまいたち(鎌鼬)」は、主に甲信越地方に伝えられる妖怪のことをいいます。つむじ風に乗ってやってきて、鎌のような爪で人に切りつけます。鋭い傷を受けますが、痛みはありません。

もともと「構え太刀」のなまりと考えられていましたが、転じてイタチの妖怪として描かれるようになったようです。

ハリネズミのような毛をしてイヌのような鳴き声をする獣で、空を飛び、刃物のような前脚で人を襲うともいわれています。

2015年11月4日水曜日

四年半後の「駝鳥」⑤

花巻駅にも多くの罹災者が降り立つようになっていたころ、賢治のよき理解者だったともいわれる高村光太郎は、大震災の混乱の真っ只中にありました。

東京の約六割の家屋が罹災したとされるなか、幸い光太郎と智恵子は難を逃れることができました。しかし当然、震災の影響は二人のアトリエにも侵入してきました。

光太郎は、下町からの震災避難者たちにアトリエを開放し、智恵子の実家から取り寄せた清酒「花霞」を人々に傾けたりしています。

それまで自己の内面へと眼差しを向けていた芸術家が、大震災が契機となって外側へ、社会のほうへと視野を広げ、現実を見つめていかざるをえなくなったのです。

光太郎は焼け失せた東京の姿を上野から見下ろして「なつかしさ堪へぬ愛人を思ふ様な涙」にぬれ、「故郷よ、故郷よ、と繰返し」ました。

そして「災厄があまり大き過ぎる時、人はもう愚痴をこぼしてゐない。愚痴をこぼすほど自己の感傷に甘つたれてゐられない。絶体絶命の境地は人の根本力を叩き起こす。人は自己の個性の奥から、もつと深い、もつと遠い人間本能の不可抗力に駆られるのを感じる。さうして防衛と再起とは同意味同時の有機的な言葉となつてあらはれる」(「美の立場から――震災直後」)と記しています。

2人は「絶体絶命の境地」の中で、自らの生のありかを再構築せざるを得なくなったのです。

智恵子は「必要以外何物も有たないこと=貧乏なこと。本能の声を無視しないこと。どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。赤裸なこと」という生活信条で生きようと心に決めています。

こうした震災直後の1924(大正13)年から1928(昭和3)年にかけて、光太郎の内部から噴き出すように生まれていったのが「猛獣篇(第Ⅰ期)」と呼ばれる一連の詩群です。

それらの題名を並べていくと――「清廉」「白熊」「傷をなめる獅子」「狂奔する牛」「鯰」「象の銀行」「苛察」「雷獣」「ぼろぼろな駝鳥」「竜」という具合になります。実在の動物や空想の生物、いろいろと出てきますが、どの詩も、人間の生や生活を抑圧するものに対する反発や怒りに満ちあふれています。

2015年11月3日火曜日

四年半後の「駝鳥」④

 東京と東北の岩手。2011年3月に起こった東日本大震災のときとは全く逆の立場で、賢治は自然の異変がもたらした恐怖に気持ちを尖らせています。

それにしても、「金をもつてゐるひとは金があてにならない/からだの丈夫なひとはごろつとやられる/あたまのいいものはあたまが弱い/あてにするものはみんなあてにならない」という表現には、大震災で一変してしまった社会や生活の混乱ぶりと、そこに置かれた人間の無力感が表れているように思われてなりません。

それは、わたしたちが東日本大震災で実感した思いともつながっているはずです。

栗原敦の『宮沢賢治』(NHK出版)によれば、「花巻駅前救護事務所で調べた当駅下車の罹災民は3日より12日まで707名」に達していたと、この年9月14日の「岩手日報」は報じているそうです。

関東大震災は岩手県でも、とうてい他人事ではあり得なかったわけです。

賢治が花巻南温泉峡に行った9月16日には、大震災後の戒厳令下、アナキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一の3人が憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で殺され遺体が井戸に遺棄された甘粕事件が起こっています。

電車の中の賢治にこの事件を知る術はなかったでしょう。しかしこの時、私たちが東日本大震災の原発事故で感じたような底知れぬ、行き場のない不安や恐怖を、賢治も感じ取っていたに違いありません。

「東京、神奈川の中心部分を壊滅状態に陥らせた関東大震災の被害に、華やかに見える都会の放縦な文化の危うさ、頼りがたさを痛感し、自らの日々のあり方を反省して、あるべき理想の世界の探求に向かう、宗教的、社会的使命感が激しく揺さぶられる思いであったろう」と栗原は推測しています。

2015年11月2日月曜日

四年半後の「駝鳥」③

 「市民諸君、我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。……」

ここに上げたのは関東大震災の後の新たな街づくりのために、ときの東京市長、永田秀次郎が「市民諸君に告ぐ」と題して行った有名な演説です。

この演説が行われたのは、震災の翌年の1924年3月のことですから、永田演説から賢治の詩の「市民諸君」が取られたわけではないでしょうが、震災直後の混乱の中で「市民諸君」といった訴えが連日つづいていたことが想像されます。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80キロを震源とするマグニチュード7.9の地震によって引き起こされた関東大震災。

神奈川、東京を中心に、千葉、茨城、静岡県の東部まで広い範囲に甚大な被害をもたらしました。被災者190万人、10万5000人余が死亡あるいは行方不明とになったとされています。

 「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ/見たまへこの電車だつて/軌道から青い火花をあげ/もう蝎かドラゴかもわからず/一心に走つてゐるのだ」と、詩人はいいます。

「ドラゴ」は、初夏の北天に輝くリュウ(竜)座のこと。夜空を賑わす竜座流星群としても知られています。サソリ座の「蝎」や「ドラゴ」が、軌道から青い火花を散らしながら走る電車を形容しています。

「この貨物車の壁はあぶない/わたくしが壁といつしよにここらあたりで/投げだされて死ぬことはあり得過ぎる」という危なっかしさにあるのです。

2015年11月1日日曜日

四年半後の「駝鳥」②

 「昴」は、おうし座の散開星団であるプレアデス星団の和名です。距離410光年にある約130の星の集団で、誕生したばかりの高温の青い星で構成され、母体となったガスがまだ残っています。

肉眼でも、輝く5~7個の星の集まりを見ることができます。そのため昔から多くの記録に登場し、いろんな星座神話が作られてきました。

清少納言の『枕草子』に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星)。よばひ星(流れ星)、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて(尾をひかなければもっとよいのだが)」と記されているのもよく知られています。

賢治は、用事を終えた日暮れ時、「山を下る電車の奔り」の中にいるのでしょう。

「山へ行つて木をきつたものは/どうしても帰るときは肩身がせまい」と、木を切るという行為が、自身の自然保護や仏教の考えと相いれないものがあったのか、何か居ごこちが悪く後ろめたいものを感じているようです。

「善逝〈スガタ〉」は、梵語のSugataの漢訳。智慧の力で煩悩を断ち、世間を脱して悟りの世界に到達した人のことをいいます。また、仏陀と同じ意味で用いられる10種の称号「十号(じゅうごう)」の一つでもあります。

 「ああもろもろの徳は善逝〈スガタ〉から来て/そしてスガタにいたるのです」のリフレーン。何もかもあてにならないこんなご時世にあって、あらゆる徳性は如来のもとにあるのだと考えているのでしょう。

そんななか突然、「市民諸君」という言葉がとび出します。