2015年12月31日木曜日

石垣りん「女湯」⑧

  炊事が奇しくも分けられた
  女の役目であつたのは
  不幸なこととは思われない、
  そのために知識や、世間での地位が
  たちおくれたとしても
  おそくはない
  私たちの前にあるものは
  鍋とお釜と、燃える火と

  それらなつかしい器物の前で
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためでなく
  全部が
  人間のために供せられるように
  全部が愛情の対象あつて励むように。

「女湯」が載っている詩集のタイトルにもなった詩「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」の後半部分です。

戦後、男女平等をうたった新しい憲法ができ、1947(昭和22)年には労働基準法が制定されます。しかし、これは賃金について女性を理由とした差別を禁止した形式的なものでした。

『女工哀史』に見られるような戦前の過酷な女性労働の状態は無くなっても、女性労働者への差別は歴然として戦後も続きます。

結婚などによる女性の早期退職は当然の慣行として採用され、事実上の解雇も行われました。女性を男性と異なる職に就けることで、賃金も差別化されていたのです。

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

  こうして日本のヴイナスは
  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

  文化も文明も
  まだアンモニア臭をただよわせている
  未開の
  ドロドロの浴槽である。

1958年元旦。「もはや戦後ではない」といわれても、そのころは「まだアンモニア臭をただよわせている未開のドロドロの浴槽」のような時代だったのでしょう。

そんな中、上下関係や男女の別がひときわ厳しい銀行という職場で、りんは「夜と昼が交替にやつてくる」(詩「給料袋」)ような忙しい毎日を送っていました。

悩み事はいろいろとあったのでしょうが、きっと、希望を胸に秘めた生き生きとした日々だったにちがいありません。労働組合の機関誌に詩を書き、女性も加われるようになった組合執行部の常任委員を務めました。

男女の間には、銭湯の仕切りのような厚いカベがあった。それでも、労働者が労働者のために言葉を紡ぐことはできるようになっていました。

忙しい生活の合間をぬって、女性が「政治や経済や文学も勉強」できる時代でもあったのです。

詩「女湯」から、58年後の元旦がまもなくやってきます。みなさま、良いお年をお迎え下さい。

2015年12月30日水曜日

石垣りん「女湯」⑦

  パーマネントに火がついて
  みるみるうちにハゲあたま
  ハゲたあたまに毛が三本
  ああはずかしやはずかしや
  パーマネントはやめましょう

戦時中にこんな歌が流行ったそうです。

日本パーマネントウェーブ液工業組合のHPの「パーマの歴史」によると、戦争の勃発とともに、華麗なおしゃれはそぐわないという日本軍部の圧力が強まりました。

1939(昭和14)年には、「ぜいたくは敵だ」「堅忍持久」などとともに、「パーマネントはやめましょう」という標語が国民精神総動員委員会で定められたそうです。

そして翌1940年には、陸軍省情報部の命令として全パーマネント業者にパーマの自粛が求められ、実質的に禁止されます。

ということは、軍部がこうした命令を出さなければいけないほど、戦前からパーマネントが流行っていたということになります。以下、同組合のHPをもとにざっとパーマの歴史をたどってみましょう。

パーマの起源は、紀元前3000年、古代エジプトの貴婦人たちが、髪に湿った土を塗って木の枝などに巻いて天日で乾かしウェーブをつけた、とされるほど古い。

近代になって1872(明治5)年、フランスのマルセル・グラトウという人が、熱した棒に毛髪を巻き付けてウェーブを作る“マルセルアイロン”という方法を開発します。

熱アイロンの原型だが、当時はウェーブといっても一時的なもので、一回シャンプーすると伸びてしまったといわれます。

1905(明治38)年には、ドイツのチャーチル・ネッスラーが、金属の鑞(ろう)付けなどに使われるホウ砂と加熱器具によるネッスルウェーブを発表しました。これが、1920(大正9)年ごろからアメリカで急激に普及するようになります。

1936(昭和11)年には、イギリスのスピークマンにより、加熱器具を使わなくても亜硫酸水素ナトリウムを用いて40~50度に加温する方法でパーマのかかることが発表されました。

一方、1940(昭和15)年ごろから米国のマックドナウらがチオグリコール酸を用いたパーマの研究を開始。現在の形に近いコールドパーマを実現します。

日本のパーマの始まりは、1923(大正12)年に米国の亜硫酸水素ナトリウムとアルカリからなる製剤と加熱機器を用いた「電髪(電気パーマ)」の器具が神戸に入ってから、など諸説があります。

実際に電髪の営業が始まったのは1930年(昭和5)年ころのことで、昭和10年代に大流行しました。敗戦で軍部による厳しい統制がなくなると、女性たちの美しさへの欲求も一気に解き放たれます。

電髪はアメリカのモダンな風俗として1955(昭和30)年ごろに最盛期を迎えます。しかし、電髪には熱い電線に拘束されるうえ、髪の損傷もはなはだしいものでした。

そのため、1956(昭和31)年にコールドパーマネントウェーブ用剤基準が制定されてからコールドパーマも普及するようになり、1960年代には、パーマの主役は電髪からコールドパーマへと移っていきました。

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

「ゴマジオ色のパーマネント」はおそらく、最盛期を迎えていた電髪の女性でしょう。浴室と脱衣所を隔てる扉が開き、さあっと冷たい外気がはしります。

白髪混じりの豊かな黒髪が、流行のパーマをかけてさらに膨らみを増し、詩人にはアザラシのように見えたのでしょう。

「ゴマジオ色のパーマネント」は、片手を前にあてて浴室を後にし、脱いだ衣服が入っている竹籠のほうに向かいます。

私には美容院のことは皆目わかりませんが、当時、電髪にするにはきっとお金も時間も相当にかかったことでしょう。たとえ着るものは粗末でも、その時代の最高のおしゃれのパーマをかける。

それが女心、というものなのでしょうか。髪はいつの時代も“女性のいのち”ということなのでしょうか。それとも、それが当時の女性の「ケンリ」だったということなのでしょうか。

2015年12月29日火曜日

石垣りん「女湯」⑥

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

従来の銭湯はたいてい、番台の前のカベが仕切り線となって女湯と男湯、すなわち女の世界と男の世界が広がっています。

女性が集まれば自然と、話がはずむ仲間の輪が出来る。人の目をひく“スター”的な存在も現れれば、見えない確執も生まれます。

石垣りんが通っていた銭湯にも、そんな“スター”とおぼしきがいく人と、それを見つめる女性たちがいました。

〈脱衣場で白い襦袢と、とき色の腰巻ひとつまとった湯上がりの老女が、煙草一本つまんで番台に「ちょいと」としわがれた声をかける。

「火をくれない?」

男湯と女湯双方に目の届く番台は、一段高くなっているから、小柄なおばあさんは心持ち爪立ちしないと、台に坐っている人からマッチを借りられない。

そのままの姿勢で一服吸うと、ふう、と煙をいきおいよく男湯の方へ向けて吐く。

のび上がるようにして、風呂屋の主人と話しはじめる。けれど聞かせたい話し相手が男湯の不特定多数なのに本人も気が付かない。

彼女は湯上がりの、その持つ肉体の最上級の美的コンディションでモーションをかけているのだ。

番台の前からひとつの境界線がのび、男女の間は完全に二等分されている。互いに見ても見られてもならない構造で、そのならない所がかいま見える。

逆に言えばこちらを見せることの出来る高みへ、爪立ちする。いまどき見かけない衿白粉を塗ったその後姿を、外の女たちの目がいつも冷笑していた。〉(石垣りん著『ユーモアの鎖国』から)

ダンナと別れてアパートを持っている。むかしオドリを習った。エイガを見にゆくのがたのしみ。〈六十を少しすぎたころか〉と思われるその女性について、りんにあるのはそんな切れ切れの情報だけです。

あさましいといえばあさましく、可愛いと思えば可愛い。その老女にりんは〈待つ姿、女が男を待ちのぞむ、せつない後姿〉を見ました。

一方で、彼女を笑う、だいたいは結婚している女たちについては〈それ以上待つ、ということを放擲しているかに見えた〉。そして老女は〈そういう女たちのナリフリ〉を蔑視しているように思えたのです。

りんは東京山の手の空襲で生まれてからずっと過ごした家を焼かれ、25歳で終戦を迎えています。戦後は、品川の小さな借家で、祖父、父、義母、復員した弟の達雄、異母弟らと暮らします。

薪炭商を営んでいた父は、空襲で商売の基盤を失い、やがて半身不随となります。弟の達雄には職がありません。

りんは家族の生活を支えるため、14歳からはじまった銀行員の生活を続けていくことになるのです。

戦後、男女平等をうたった新憲法が施行され、職場では労働組合が合法化されて、労働者のための労働者自身による文化活動も盛んになりました。

りんは組合の機関誌に頼まれて詩を書き、女性も加われるようになった組合執行部常任委員にも選ばれました。

1951(昭和26)年、組合の機関誌に載せた詩が、アンソロジー『銀行員の詩集』の選者、壺井繁治、大木惇夫の目にとまり3篇が収録されます。

〈私が面白かったのは浴場が描いて見せる男女の図式についてだった。裸の世界を二つに仕切るタイルの壁、あれは職場にも、街にもそのままのびて、万里の長城のように背を分けているような気がする。

ところどころにはめ込まれた鏡に映るのは、所詮こちら側の景色ばかりで、多かれ少なかれ、女はのび上がって待つのではないか、と思う。男の世界を私は知らない。男とは何であろう。〉(同上)

1958年の元旦を迎える「女湯」。前の年の1957年には、父が亡くなっている。りんは、37歳。銀行員になって23年になりました。

男湯との仕切りのように、男の世界との間に存在する大きなカベを強く感じながらも、懸命に働き、詩作に励んでいたのです。

2015年12月28日月曜日

石垣りん「女湯」⑤

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

  これは東京の、とある町の片隅
  庶民のくらしのなかのはかない伝説である。

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

  こうして日本のヴイナスは
  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

「ヴイナス」はいうまでもなく、ローマ神話の愛と美の女神のことです。たいてい、半裸か全裸の美女として表現されます。

もともとは菜園を司る神でしたが、やがてギリシア神話のアフロディテと同一視されるようになりました。古典ラテン語ではウェヌス、日本では英語読みから“ヴィーナス”と呼ばれます。

アフロディテは火・鍛冶の神ウルカヌスの妻ですが、戦と農耕の神マルス、商業神メルクリウス、美貌の王子アドニスらとの多くのロマンスが伝えられています。

そんな一人、アンキセスとの間にできた子アイネイアスは、ローマ建国の祖。ガイウス・ユリウス・カエサルを出したユリウス族の祖ともされます。そのためカエサルは、ウェヌスをまつる壮麗な神殿を奉献したそうです。

有名なミロのヴィーナスは、「頭のてっぺんからへそ」と「へそからつま先」、「バストの幅」と「ヒップの幅」、「顔の横幅」と「顔の縦幅」など、いたるところが、古代ギリシャ時代から美の基準とされてきた1対1・618の黄金比になっています。

ヴィーナスにはまさに、女性の、愛の、美しさが体現されているのです。女神ヴィーナスは海で生まれ、水の中から現れます。

中でもルネッサンス期イタリアの画家サンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスは成熟した美しい女性として描かれ、ホタテガイと見られる貝殻の内側の付け根あたりに立っています。

霊的情熱のシンボルである西風の神ゼピュロスによって岸へ吹き寄せられ、季節の移り変わりを司る女神ホーラたちの一人が花で覆われた外套をさし向けています。

ホタテガイ類が豊穣の象徴として、ヴィーナスとともに描かれることはよくあります。ギリシア・ローマ時代に貝は、女陰のメタファー(暗喩)でもあったようです。

聖ヤコブの象徴としても知られ、この聖人の聖地、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼者たちは、ホタテガイの貝殻を身に着ける風習を現在も続けているそうです。

この絵のヴィーナスの首は、ずいぶんと長く、左肩の傾きも急です。現実の人間と比べると不自然なところが無くはありませんが、成熟した女性がもつ円らかで豊穣な曲線の美を、実にみごとに表現しているように思います。

そんな円らかで美しいヴィーナスは、ヨーロッパだけのものではありません。

  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

とはいえ、アジアの片隅の、高度成長期に差しかかった東京。1958年元旦の「女湯」でも、

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

のです。「たかだか二五円位」といっても、当時の庶民からすれば決して安くはない石鹸です。それで白い泡を立てながら一年のアカを流し、肌をみがきあげるのです。

風呂の湯がどんなに汚れていたって、新しい年に向かってからだをぴかぴかにしてゆきます。新しく生まれ変わるのです。まだ、貧しくはあった。でも、希望にあふれた時代だったのです。

2015年12月27日日曜日

石垣りん「女湯」④

日本に仏教が伝わったころ、僧たちが身を清めるため、寺院に「浴堂」が設けられました。そして次第に、病を退け福を招くものとして入浴が奨励され、貧しい人たちの施浴も行うようになりました。

銭湯の源流は、どうもそのあたりに求められそうです。鎌倉時代になると浴堂を広く開放する寺社が現れ、やがて入浴料を取るようになります。

『日蓮御書録』によると、1266年の記述の中に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」と“湯銭”の文字が見られるそうです。

現存する最古の湯屋は「東大寺大湯屋」と呼ばれているものだそうです。1239年に東大寺で再建され、1408年に修復されたことが分かっています。

室町時代になると、京都を中心に銭湯が増えていきました。当時の庶民が使う銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主でした。

公家や武家の屋敷には入浴施設が作られるようになっていましたが、中には風呂屋を借り切る「留風呂」として利用するした公家もあったようです。

1591年には、江戸城内の銭瓶橋の近くに伊勢与一が蒸気浴を開業します。江戸時代初期には、小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切る戸棚風呂が生まれました。

その後、湯船の手前に細工を施した石榴(ざくろ)口という入口のある風呂が登場。石榴口の中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗かったようです。

江戸後期の文政年間あたりになると、だんだんと薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していきました。

女湯、男湯の別々の浴槽をつくるのは経営的に無理で、当時の銭湯は基本的に混浴でした。浴衣のような湯浴み着を着て入ったともいわれます。隔日あるいは時間を区切って男女を分ける試みもされました。

火事を招くので内風呂が基本的に禁止されていた江戸期、銭湯は庶民の娯楽、社交の場でした。特に男湯の二階には座敷になっていて、落語などが行われることもあったそうです。

銭湯の入り口にはよく矢をつがえた弓や看板が掲げられました。「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落です。明治期の1877年ごろ、東京神田の鶴沢紋左衛門が「改良風呂」を考案します。

石榴口を取り払って天井が高く、広く開放的な風呂が評判になり、現在の銭湯のモデルになりました。旧来型の銭湯は姿を消し混浴は禁止されましたが、銭湯そのものは大きな発展をとげていきます。

大正期になると板張りの洗い場や木の浴槽が姿を消し、陶器のタイル敷きの浴室が主流になります。

昭和に入ると水道式の蛇口が取り付けられ、戦後、大都市に人が集まるようになるにつれて銭湯は急増します。1965(昭和40)年ころには、全国で約2万2000軒を数えるまでになりました。

  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

  脂と垢で茶ににごり
  毛などからむ藻のようなものがただよう
  湯舟の湯
  を盛り上げ、あふれさせる
  はいつている人間の血の多量、

1958年元旦の「女湯」は、こうした日本の長い公衆浴場の歴史の中でも、まさに“最盛期”を迎えた銭湯の風景なのでしょう。

2015年12月26日土曜日

石垣りん「女湯」③

  脂と垢で茶ににごり
  毛などからむ藻のようなものがただよう
  湯舟の湯
  を盛り上げ、あふれさせる
  はいつている人間の血の多量、

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

  これは東京の、とある町の片隅
  庶民のくらしのなかのはかない伝説である。

日本女性の就業率は、戦前から決して低くはありませんでした。戦後初期の統計では14 歳以上女性の就業率は約50%。しかし、就業者の75%は、農林業の家族従業員か自営業主が占めていました。

銀行員だった石垣りんのような、いまでいうOLや、会社や工場で働く女性労働者はきわめて少数派だったわけです。

しかも、たとえば1955年の統計をみると、女性雇用者の65%が未婚者。結婚したら勤めをやめ、家に入るのは当然の時代だったのです。

ところで、りんが通っていた銭湯は、「湯の出るカランが十六しかない。そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂」でした。

「すみませんけど」

ある晩おそく、りんが流し場で中腰になってからだを洗っていると、見かけない女性がそっと身を寄せてきました。手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、軽便カミソリを折るように差し出します。

剃って上げたいけれど、カミソリという物を使ったことがありません。ためらうりんでしたが、次のひとことがカミソリを握らせることになります。

「明日、私はオヨメに行くんです」

唐突なもの言いに驚くものの、少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていました。

りんは彼女の背にまわって、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当ててあげました。

明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思ってのことです。

りんより若いその女性は、病気をして30を過ぎ、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、縁があって神奈川県の農家へ嫁ぐことなどを話しました。

りんは「東京で一人住いなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない」と想像します。そして、お嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで――。

りんは逆に「お礼を言いたいような気持ち」でお祝いをのべて、その女性の名前を聞くこともなく、ハダカで別れました。

その後も「初々しい花嫁さんの衿足を、私の指が」ときどき思い出したといいます。(石垣りん『ユーモアの鎖国』から)

14歳で日本興業銀行に事務見習として就職したりんは、55歳で定年退職するまで同銀行で勤め上げます。生涯、結婚をすることはありませんでした。

2015年12月25日金曜日

石垣りん「女湯」②

  一九五八年元旦の午前0時
  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

詩「女湯」は、1957(昭和32)年と1958(昭和33)年の境目の「午前0時」という時の記述からはじまっています。

心も新たに元日を迎えた、というよりは、大晦日の夜遅くまでかかって正月の準備に追われた、主婦と呼ばれる女たちが、何とかやっと片づけて、銭湯に飛び込んだというあわただしい印象がつたわってきます。

「七輪はまだ現役でした。木製の包丁差、徳用の大型のマッチ箱、台所の隅の上のほうに火の神様である荒神様を祀った神棚があったりして。流しはまだまだ木製が多かったのではないでしょうか。

ごまめや昆布巻を煮たり、きんとんを作ったり、伊達巻をこさえたり、仕事が終わるのが夜もずい分遅くなり、それから湯へ行くので、午前0時、すなわち元旦を風呂屋で迎えるということになるわけです」

と、1930(昭和5)年生まれの川崎洋は、思いめぐらしています(『すてきな詩をどうぞ』)。

もはや戦後ではない――戦後の復興が終わったことを告げる、よく知られた「経済白書」が出されたのは1956(昭和31)年のことでした。

この「もはや」は、当時としては、「これまでは戦後復興で大きな成長をとげてきたが、戦前の生産水準にまでたどり着いた。この先は成長をどう続けたらよいか」という、どちらかというと困惑ぎみのニュアンスだったようです。

しかし、復興期から脱した「もはや」の日本は、一気に右上がりの高度成長期を突っ走っていくことになります。

そんな兆しが、銭湯の女性たちがなんとか乗りきった1957年という1年間の出来事のあちこちに垣間見られます。

日本の高度成長を支える柱の一つになった自動車産業では、この年、富士精密工業(後に社名をプリンス自動車工業に変更し、日産自動車と合併)の「スカイライン」、トヨタ自動車の「コロナ」、日産自動車の「ダットサン210」など、新型車がつぎつぎ発売になっています。

ロッテは「グリーンガム」、明治製菓は「ミルクチョコレート・デラック」を発売し、日本コカ・コーラが設立されたのもこの年です。

「そごう東京店(有楽町そごう)」が開店し、初日だけで30万人以上が来店しました。また、日本の南極越冬隊が南極大陸に初めて上陸しました。

当時のソ連が、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げれば、国内では糸川英夫らが開発した国産初のロケット「カッパー4C型」が、発射に成功しています。

5月にはイギリスが、キリスィマスィ島で初の水爆実験を実施。8月には 茨城県東海村の原子力研究所で原子炉が臨界点に達して「原子の火」がともります。一方で、9月にはソ連ウラル地方で原子力事故(爆発事故)が発生し、発表が隠されるという不吉な事態を招きました。

12月には立教大学の長嶋茂雄の巨人軍入団が決定。街にはこんな歌が流行っていました。

  久しぶりに 手をひいて
  親子で歩ける うれしさに
  小さい頃が 浮かんで来ますよ
  おっ母さん
  ここが ここが 二重橋
  記念の写真を とりましょね

そう、島倉千代子の「東京だョおっ母さん」です。150万枚の大ヒット。このとき島倉はまだ19歳でした。

2015年12月24日木曜日

石垣りん「女湯」①

年末年始になると私は、決まってこの詩を思い出します。石垣りんの「女湯」です。今年も、大好きなこの詩を読みながら新しい年を迎えたいと思います。

     女湯

  一九五八年元旦の午前0時
  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

  脂と垢で茶ににごり
  毛などからむ藻のようなものがただよう
  湯舟の湯
  を盛り上げ、あふれさせる
  はいつている人間の血の多量、

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

  これは東京の、とある町の片隅
  庶民のくらしのなかのはかない伝説である。

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

  こうして日本のヴイナスは
  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

  文化も文明も
  まだアンモニア臭をただよわせている
  未開の
  ドロドロの浴槽である。

「女湯」は、1959(昭和34)年に書肆ユリイカから出版された、『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』に入っています。

この詩集は、石垣りんの第1詩集。全部で43編の詩が、5部構成でおさめられています。「女湯」は第2部の最後、詩集全体の17番目に置かれています。

石垣りんは、1920(大正9)年、東京都の生まれ。1934(昭和9)年に高等小学校(当時は、義務教育である6年間の尋常小学校の後、授業料を取る2年間の高等小学校があった)を卒業し、事務見習いとして日本興業銀行に就職(初任給は昼食支給で18円)しました。14歳のときのことです。

敗戦直後から職場の機関誌に詩を載せるようになり、1948年には同人誌「銀河系」に参加。作品は、壺井繁治や大木惇夫が選をしていた全国銀行従業員組合連合会のアンソロジー「銀行員の詩集」にも選ばれました。

1958年、椎間板ヘルニアのため入院。手術を4回受けて、1年間を療養に費やしました。『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は、その快気祝いとして配られた。詩集の「あとがき」には、次のように記されています。

〈こんどあることからたくさんの人のお世話になって、通常なら風呂敷か鰹節のひとつもくばつて祝とするところなのですが、何かこう、私に似つかわしい気持のあらわしかたはないものか、と自分の内面をのぞいてあれこれ物色したのですが、貧しい台所で、ご馳走したくてもわずかに書きためた詩稿があるばかり。

長いあいだ生きてきて、たくわえらしいものはただこれだけだつたのか、と思い知らされました〉

2015年12月11日金曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑲

1959(昭和34)年1月、2カ月近い滞在で沖縄の変貌ぶりに衝撃を受けて帰京すると、夏の終わりまで半年近く仕事がまったく手につかないウツ状態が続きます。故郷の喪失感が、貘の内部にはかり知れないダメージを与えていたのでしょう。

1963(昭和38)年3月、貘は胃に異変を訴え、入院します。胃ガンでした。朝日新聞社に勤めていた土橋治重が、文学やマスコミ関係者をまわってカンパを集め、入院費や手術代にあてました。

そして同年7月19日、家族や友人に見守られて貘は逝きます。59歳でした。翌1964(昭和39)年12月、生前、書きためていた原稿を集めて原書房から詩集『鮪に鰯』が出版されました。

 『鮪に鰯』の2番目にこんな詩が出てきます。

     ひそかな対決

  ぱあではないかとぼくのことを
  こともあろうに精神科の
  著名なある医学博士が言ったとか
  たった一篇ぐらいの詩をつくるのに
  一〇〇枚二〇〇枚だのと
  原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは
  ぱあではないかと言ったとか
  ある日ある所でその博士に
  はじめてぼくがお目にかかったところ
  お名前はかねがね
  存じ上げていましたとかで
  このごろどうです
  詩はいかがですかと来たのだ
  いかにもとぼけたことを言うもので
  ぱあにしてはどこか
  正気にでも見える詩人なのか
  お目にかかったついでにひとつ
  博士の診断を受けてみるかと
  ぼくはおもわぬのでもなかったのだが
  お邪魔しましたと腰をあげたのだ

貘の詩を読んでいると、一見、思いついたことをさらさらっと書き連ねただけのようにみえますが、実は驚くべき推敲を重ねて言葉にたどりついているのです。

〈詩を書き出してから、すでに、四十年にも近くなったというのに、まだまだ、まるで手習いの域を一歩も出ることが出来ないのは、自分ながら、また気の毒みたいで、ぼくはいまでも、詩作にかかると、一日に原稿用紙五枚か六枚を屑にして、百枚ばかりから、二百枚三百枚を屑にして、どうやら一篇の詩をまとめるという風なのろさなのである。それでどうにか詩みたいのになっているのだろうが、なかには、五百枚ほども屑にして、ついに出来ないものも、いくつかあったことを経験した。〉

晩年の1957年2月に創元社から出た『現代詩入門』の中に収録された「バランスを求めるために」という詩論のなかで、このように述べ、一篇の作品が出来るあがる過程を詳しく説明しています。それでは、なぜ推敲をするのか。貘は、次のようにきっぱりと言い切ります。

〈たとえ一篇の詩を書くために、自殺したくなるほどのおもいで苦労したところで、結果に於てその作品がつまらぬものであれば、そのつまらなさはどこまでもその作品のせいなのであって、一旦、作品となったからには、作品の責任は作品が問われなくてはならないものだからである。

というと、如何にも、作者には責任がないみたいであるが、実は、作品の全責任を作品に持たせることが、即ち作品に対する作者の責任なのではないかと、ぼくはそう常々おもっているのである。

それならば、作品の責任を作品に持たせるための作者の責任というのは、一体どういうことを云うのであろうか、即ち、ぼくの場合は、前述のような推敲をするより外に道はないとおもっているのであって、つまり、作者は作者としてのやるべきことを、その博学、浅学、才能の如何にかかわらず全力をそそいで推敲することなのだとぼくは思うのだ。

作者としてのやるべきことをやりもしないでいて、自分の作品がけなされたり、やっつけられたりすることを気にしたところで、あとの祭りではなかろうか。〉

さらに、「バランスを求めるために」はつぎのようにしめくくられています。

〈このごろ、原子爆弾や水素爆弾のことをテーマとした詩が、あちらこちらに見受けられる。ぼくにも、「鮪に鰯」というのがある。

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

ここまで挙げた作品によって、ぼくがどんな風な詩を書いて来たかは、読者にわかってもらえることに違いない。「鼻のある結論」では、うんこのことを、詩や人間や文明のことにまで結びつけて考えたり、「鮪と鰯」では、原爆、水爆のような大問題を、日常の箸の尖端に結びつけたりしているが、これは、なにごとも生活との結びつきにおいて詩を探り歩いているからなのかも知れない。

この間、若い友人に、君はなんのために詩を書くのかときいたら、かれは、小首をかしげて、「恋人に見せるために。」と答えた。ぼくもしばしば、受ける質問であるが、そのたびに、自分の答えが、めしを食わずには生きてはいられないことと似ているのを感じる。

めしを食うということ、詩を書くということ、それは食わずにはいられないことであり、書かずにはいられないことなのであり、生きることそのことなのであって、それは、人間としてのバランスを求めるためなのである。〉

2015年12月10日木曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑱

1958年11月6日、貘は泊に入港した沖縄丸を降りて、故郷の土を踏みました。55歳。34年ぶりの沖縄です。そのときの印象を、つぎのように記しています。

〈船が沖縄島に近づくと、私はデッキに身をのり出しました。
 なつかしい島が、今私の目の前に、くっきりと浮かび出ています。
 白い浜、そして、浜にそって小高くうねる山々のみどり。
 三十四年前と少しも変わらない瑞々しい島のみどりを、私はしみじみと見つめました。
 とその時です。私は、そのみどりの山の中腹に、白い線が細長く続いているのを見ました。
 「おや、あれはなんだろう?」
 私の知っている沖縄には、そのような白い線はありません。山という山はみどりの連続だったのに――
 その白い線――それは、山の中腹にたち並ぶ、白壁の近代的建物でした。
 「ああ、そうだったのか――」
 私ははじめて感傷からさめ、現実の沖縄島をみつめました。
 この白い近代住宅、白い道路。これこそ今だにアメリカ軍に大部分を占領されている沖縄の象徴なのです。
 戦後十四年。日本本土から戦争のなごりが消えさった今、沖縄には、まだ敗戦国の悲しい宿命の影が残っているのでしょうか――
 でも、私のその不安は、上陸とともに消え去りました。
 なるほど、沖縄の中心都市那覇市には、むかしのおもかげはありません。
 星条旗とアメリカ軍の軍用車があふれています。
 が、道ゆく人々の表情の明かるいこと――
 私は、ある女学生に、こんなふうに聞いてみました。
 「おじょうさんは、今の沖縄をどう思っていますか?」
 と、女学生はこう答えました。
 「生活もだんだんよくなってきましたし、将来にも希望をもっています――ただ、一日も早く、日本本土と同じ状態になったらいいなと思っています。」
 その少女の答は、もちろん日本語、それも、はきはきした標準語でした。
 私の耳に残っている沖縄方言はどこへいってしまったのだろうか――そいうえば、その女学生の顔にも、かつての沖縄女性のおもかげがないのです。
 「変わった、変わった。」
 私は思わずつぶやきました。〉(「沖縄はわが故郷」)

「敗戦国の悲しい宿命の影が残っているのでしょうか」という不安こそ消えたものの、記憶のなかの沖縄と現実の沖縄との間の大きな隔たりに、貘は深く、激しいショックを受けたようです。

なかでも、「沖縄語」ではなく「日本語、それも、はきはきした標準語」で話されている故郷の変貌ぶりに、ただなるぬものを感じていたのではなかったのか。よく知られた次の詩からは、そうした詩人が受けた衝撃が伝わってきます。

     弾を浴びた島

  島の土を踏んだとたんに
  ガンジューイとあいさつをしたところ
  はいおかげさまで元気ですとか言って
  島の人は日本語で来たのだ
  郷愁はいささか戸惑いしてしまって
  ウチナーグチマディン ムル
  イクサニ サッタルバスイと言うと
  島の人は苦笑したのだが
  沖縄語は上手ですねと来たのだ

    ガンジューイ:お元気か
    ウチナーグチマディン ムル:沖縄方言までもすべて
    イクサニ サッタルバスイ:戦争でやられたのか

2015年12月9日水曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑰

アメリカが、太平洋に浮かぶ島国、マーシャル諸島のビキニ環礁で行った核実験。それによって、第五福竜丸の乗組員だけでなく、近くに住んでいた島民たちもたくさん被爆しました。

マーシャル諸島も、貘を生んだ沖縄と同じように「異民族の軍政下にある島」だったのです。貘にとっては、それは決して他人事ではなかったにちがいありません。

「沖縄と日の丸」「沖縄を思う」「沖縄の叫び」など、「鮪に鰯」を作った1954(昭和29)年ごろから貘は、沖縄に関する評論やエッセーを次々に発表して、沖縄の問題を訴えています。

一方で、このころから貘自身の健康問題も、抱えることになりました。1955年末には胃潰瘍をわずらい、好きな酒をストップ。その後も、神経痛や五十肩に苦しんでいます。

1958(昭和28)年7月には、貘の生前最後の詩集となる『定本山之口貘詩集』が原書房から刊行されました。この年の8月6日には、行きつけだった池袋の小山コーヒー寮で祝賀会が開かれています。

この出版をきっかけに、沖縄の友人たちが中心になって、貘に里帰りを「プレゼント」してくれることになりました。そして9月には、池袋の西武デパートのホールで盛大な歓送会が開かれます。

〈こんど、ぼくが沖縄へ旅することになって、過日、歓送会にまねかれて、ぐんと胸にくるものがあった。そのときの模様は、知人、友人の間に知れわたり、会うたびごとに、沖縄へはいつお立ちになりますか、ときかれた。

ぼくはそのたんびに、旅券がおり次第と答えたのである。ところが旅券は、おもったよりも長びいた。そのうちに人々のいうことも変わって、もう沖縄へは行かなくてもいいじゃないか、という人もあらわれたのである。どうしてかときくと、餞別をたんまりもらったのだからいいじゃないか、とのことである。

いわれてみればもっともなことで、歓送会の餞別は、ぼくの生活なら二カ月ほどはささえるにたる金額なのである。しかしながら、旅券がおりなければとにかくであるが、沖縄行をやめてまで、餞別を食うにはしのびないおもいがするのである。

ところが、相手がいわく「バクさんのことだから大丈夫、だれも文句はいわないよ」である。貧乏も、そこまで見とおされているのでは、義理を立てる気づかいもないわけであるが、あいにくと、ついこの間、旅券がおりたのである。

ところがそれを、旅券とおもったのは間違いで「身分証明書」なのである。岸信介さんによって、ぼくが日本人であることが証明されているのである。

沖縄は外国ではないのであるから、旅券でないことはもっともなことであるが、それにしても、身分証明がなくては、沖縄へ渡航ができないわけで、いわば「旅券」ですよ、とある人はいうのである。しかし、それはどちらにしても、ぼくの沖縄行が確定したわけで、おまけに、餞別をだまさずにすむわけである。〉(「餞別」)

2015年12月8日火曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑯

     雲の下

  ストロンチウムだ
  ちょっと待ったと
  ぼくは顔などしかめて言うのだが
  ストロンチウムがなんですかと
  女房が睨み返して言うわけなのだ
  時にはまたセシウムが光っているみたいで
  ちょっと待ったと
  顔をしかめないでいられないのだが
  セシウムだってなんだって
  食わずにいられるものですかと
  女房が腹を立ててみせるのだ
  かくて食欲は待ったなしなのか
  女房に叱られては
  目をつむり
  カタカナまじりの現代を食っているのだ
  ところがある日ふかしたての
  さつまの湯気に顔を埋めて食べていると
  ちょっとあなたと女房が言うのだ
  ぼくはまるで待ったをくらったみたいに
  そこに現代を意識したのだが
  無理してそんなに
  食べなさんなと言うのだ

貘の最後の詩集『鮪に鰯』には、「鮪に鰯」によく似たこんな詩も収録されています。

4年前の東日本大震災で「フクシマ」を、直に、あるいは間接的に体験している私たちとって「雲の下」は、ごく最近作られたようなリアリティをもって迫ってきます。

  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

「鮪に鰯」で食卓にのっていたのは鰯でした。が、「雲の下」では、「ふかしたて」のサツマイモ。夫婦で「湯気に顔を埋めて」食べています。

サツマイモというと薩摩、鹿児島をイメージします。でも、そもそも18世紀の初めに前田利右衛門という人が琉球を訪れたときイモを持ち帰り、薩摩藩で栽培されるようになったというので、貘の故郷、沖縄のほうが栽培の歴史はずっと古いことになります。

繁殖能力が強く、やせた土地でも育つサツマイモ。1732年の享保の大飢饉では、西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥りました。

そんな中、薩摩藩内からの持ち出し禁止だったサツマイモをこっそり持ち出して栽培していた瀬戸内海の大三島の周辺では、餓死者がまったく出なかったといわれています。

太平洋戦争も末期になると、東京でも、空き地があれば畑にしてサツマイモやかぼちゃを植えていました。サツマイモは、米と混ぜていもご飯、ツルは雑炊やすいとんに入れていたそうです。

サツマイモは、鰯と同じように、庶民がよりどころにしている頼りになる食材です。貘は、そんなごく日常の、なんでもない食卓から、なにげない言葉で、されいげなく現代文明を批判しているのです。

仲程昌徳は、著書『山之口貘』(1975年)で、次のように指摘しています。

〈「鮪に鰯」は、「死の灰」の恐怖が、日常の食生活までむしばみつつあることを書いたものである。と同時に、「亭主も女房も互に鮪なのであって/地球の上はみんな鮪なのだ」という「事例の平均化・均質化」の立場から、人間も鮪も、今では科学文明の発達によって、まな板の上に乗せられた刺身の材料に等しいものになってしまったことを嘆いているのである。

貘は、「鮪に鰯」の中で、「火鉢の灰」と「ビキニの灰」とをとりちがえる悲喜劇を、巧みなユーモアでもって描いてあるわけだが、その巧みなユーモアの後にみえかくれする現代の悲劇を「雲の下」もまた、同じ日常の食事風景を通じて表現したものであろう。

「ストロンチウム」や「セシウム」という、「カタカナまじりの現代」が、いかに日常の生活をおびやかしているものであるか、例えば、それは現在のPCBあるいはCTS等という頭文字のひきおこしている恐怖とあきらかに通じていくものがあると思えるが、貘は、そういう悲しき科学文明が、日常生活の足もとをおびやかすまでになってしまったことを、それとなく「雲の下」で批判しているのである。

「鮪に鰯」や「雲の下」は、そのように「鮪」や「さつま」いもを食っている生活にまで入りこんでくる「カタカナまじりの現代」を批判しているといえるが、しかし、そこから積極的に抜け出すための思想なり行動なりを展開する手だてを、貘は明瞭に示しているわけではない。

ということを、すぐさま貘の限界などといってかたずけるわけではないが、実生活との退っ引きならぬ関係を持ってうたわれた詩篇の、それは一つの限界ということはできるようである。〉

2015年12月7日月曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑮

  借りた金はすでに
  じゅうまんえんを越えて来た
  これらの金をぼくに
  貸してくれた人々は色々で
  なかには期限つきの条件のもあり
  いつでもいいよと言ったのもあり
  あずかりものを貸してあげるのだから
  なるべく早く返してもらいたいと言ったのや
  返すなんてそんなことなど
  お気にされては困ると言うのもあったのだ
  いずれにしても
  背負って歩いていると
  重たくなるのが借金なのだ
  その日ばくは背負った借金のことを
  じゅうまんだろうがなんじゅうまんだろうが
  一挙に返済したくなったような
  さっぱりしたい衝動にかられたのだ
  ところが例によって
  その日にまた一文もないので
  借金を背負ったまま
  借りに出かけたのだ

1951(昭和26)年に発表された「借金を背負って」という詩です。疎開先から引き揚げて1948(昭和23)年、東京・練馬に間借りして文筆一本の生活に入った貘でしたが、待っていたのはやはり、どん底の貧乏暮らしでした。

「長いものは金になるから」と金子光晴にすすめられて、娘の泉が小学校に通いはじめたころから詩のほかに小説や随筆にも力を入れます。小説はほとんど「無銭宿」「野宿」などの自伝でした。

それでも、――ある年の税務申告から貘が知った年収は、23000円。月に2000円に満たない額だが、実際は5000円から7000円の支出がある。生活費から2000円を引いた額は借金、という状態でした。

泉は、小学校に入学したころの父のようすを、次のように描いています(『新版 父・山之口貘』)。

〈私の入学後、暫くすると、父はちょくちょく外出するようになった。早くも、父の収入と私の学費とがぬきつぬかれつの追いかけっこを始めたのだ。

けれど、初めのうちにこそぬきつぬかれつだったこの競争は、八雲書店の解散で詩集が出せなくなり予定していた印税がまるまるふいになった頃から、次第に、ぬかれつぬかれつになってきたのである。

今や私の月謝をひねり出すためには原稿料だけでは足りず、なんとか外で都合をつけてこなければならなかった。

父も母も、その苦心のさまを私には見せまいと苦労したようだが、大人が考えるほど子供は鈍感ではないし、ましてたったひと部屋の暮らしである。

隠そうという方が無理で、私は、いつの間にか、父が外に行ってどんな風にお金の都合をつけてくるのか知ってしまった。

方法は二つあって、その一つは、着物や時計をボストンにつめこんで行き、お金に変えてくるのである。品物とひきかえにお金を貸してくれるお店が質屋というのだということも、またの名をいちろく銀行というのだということも、自然におぼえた。

が、不可解なのは、もう一つの方法で、父は手ぶらで出て行くのにお金を持って帰るのである。そんな時、父は、帰るとすぐ、母に向かって指をたてて見せる。指は、二本のときもあり、三本の時もあり、あるいはたった一本の時もあった。

それから父は内ポケットに手をつっこみ、おもむろに、たてた指と同じ数だけのお札を出すのだが、おもしろいことに、そのお金たちは特にできが違うのか、千円札とか百円札とかいう区別のほかに、れっきとした人間みたいな名前を持っているらしかった。

何故なら、それを母に渡しながら、父は、必らず、「これは、H君」とか「Kさんだ」とか「Oのおばさん」とか、念を押すようにささやいたからである。

そして、母は、懐かしそうな気まり悪そうな複雑な表情でそれを受け取り、すぐさま、家計簿に向かい、金額と名前を丁寧に書きいれるのであった。〉

そんな生活のさなかに、遠い南の海のビキニ環礁で行われた超大国の核実験で日本のマグロ漁船が、「死の灰」を浴びたというニュースが、飛び交いました。

「その日にまた一文もないので/借金を背負ったまま/借りに出かけ」るような、アジアの片隅で「人間みたい」でない貧しい生活をおくる家庭にとっても、ただならぬことだったのです。

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが

そこには「焦げた鰯」しか食えない現実の食卓があります。貴族が食べない卑しい魚という「いやし」に由来するともいわれる鰯。しかし、戦後の食料難を補う強力な食料として大きな役割を演じた鰯でもあります。

  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

2015年12月6日日曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑭

  塩まぐろ取り巻いている嬶(かか)ァたち
  鮪売り安いものさと鉈を出し

江戸時代には、こんな川柳も生まれています。

長屋のかみさんたちが、塩をまぶしてすり込んだマグロを取り巻いて、品定めしています。当時は生身を包丁でさばいて刺身にするような魚ではなく、鉈でぶち切って安く売られる下魚だったのです。

当時は魚の鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすかった。水槽に入れて生きたまま売る方法があったものの、サイズが大きいマグロではそれは出来ません。

干魚として乾燥させても、マグロは身が極度に固くなってしまうため容易には食べられません。塩漬にすると食味がたちまち落ちてしまいます。そのため下魚とされ、最下層の庶民の食べ物だったのです。

マグロが大量にとれたときは、頭などが往来に大量に捨てられて悪臭を放ち、犬も近寄らぬありさまだったとか。また「しび」という呼び声が「死日」と聞えて不吉に感じられた、ともいわれています。

天保時代、マグロの大漁に乗って「夷屋」という寿司屋が、ためしにマグロを湯引きにして、しょう油、ミリンのたれに漬けて寿司ネタにしてみました。

すると、新しいもの好きの江戸っ子に大いに受けて人気を博しました。マグロの身をしょう油づけにする「ヅケ」のはじまりです。

といっても、寿司にしたのは赤身の部分だけで、高級店でマグロを扱うことはありませんでした。下魚あるいは大衆魚としての位置づけは、明治、大正時代になっても基本的には変わりません。

北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していたといいます。

近代以降、赤身の部分の生食はだいぶ普及していきました。だが特に腐敗しやすい脂身のトロは、猫もまたいで通る“猫またぎ”ともいわれるほどの不人気。もっぱら缶詰などの加工用でした。

生食用として珍重されるようになったのは、冷凍保存技術が進歩するとともに、ライフスタイルの洋風化で味覚が変化してきた1960年代以降のことです。

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ

「鮪に鰯」に出てくる「鮪の刺身」もきっと、あの赤身を思い描いてのことでしょう。

貘がこの詩を作った1954(昭和29)年は、ちょうど高度経済成長がはじまった時期。マグロにとっても、「庶民の魚」から高級魚へと駆け上がっていく過渡期にあったのです。

2015年12月5日土曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑬

マグロ(鮪)は、回遊性の大型肉食魚です。60センチほどのものから、3メートルに達するものまでいろんな種類があり、世界各地で重要な食用魚として漁獲されています。

中でも日本は、世界一のマグロ消費国。そのほとんどを刺身や寿司など生食で消費しています。

水揚げ日本一は第五福竜丸の母港、焼津港を抱える静岡県で、消費のほうも静岡県や隣の山梨県、関東地方が上位を占めています。

日本かつお・まぐろ漁業協同組合は、10月10日を「まぐろの日」と定めています。なぜこの日か、というといにしえの万葉集の歌にちなんで、のようです。

神亀3年(西暦 726)10月10日、山部赤人は、聖武天皇のお供をして明石地方を旅し、鮪(まぐろ)を獲って栄えているこの地を讃えて次のようにうたいました。

  やすみしし 我が大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 高(たか)知らせる 印南野(いなみの)の 大海(おふみ)の原の あらたへの 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人(あま)船騒き 塩焼くと 人そさはにある 浦を良(よ)み うべも釣はす 浜を良み うべも塩焼く あり通ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜

「わが大君が神として立派にお治めになる印南野の大海の原の、藤井の浦に、鮪を釣ろうとして漁師の舟はせわしなく動き回り、塩を焼こうとして人が集まっている。浜がよいので塩を焼くのももっともなこと。たびたび通ってご覧になるわけもはっきりしている。この清い白浜よ」(岩波文庫『万葉集(二)』)という意味です。

鮪(シビ)とはクロマグロ、ホンマグロとみられています。万葉集には、大伴家持のこんな恋の歌もあります。

  鮪(しび)突くと 海人の燭(とも)せる いざり火の ほにか出でなむ 我が下思(したも)ひを

マグロを突くといって海人が灯している漁火のように、秘めた私の思いをおもてに出してしまおうか。マグロ漁の漁火に、心に秘められた恋の炎をみているのです。

万葉の時代よりもはるか前、縄文時代の貝塚からもマグロの骨類がたくさん出土しています。マグロは古代人にとっても身近で、おいしい魚として歓迎されていました。

北海道や東北の縄文の遺跡からは、回転式離頭銛といわれる、骨を加工して作られた銛(もり)も見つかっています。

獲物に刺さると、先端の銛先と柄の部分が分離して、先端部に結び付けた縄やひもを引っ張ると銛先が回転して抜けなくなる高度な仕組みになっているそうです。

2015年12月4日金曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑫

ひきつづき、ビキニ水爆被災事件が起きてちょうど60年にあたる今年3月1日に刊行された『第五福竜丸は航海中』をもとに、事件のその後をたどってみましょう。

ブラボー水爆は、海上のサンゴ礁の台座に置かれました。とてつもない爆発とともに、海中のサンゴが粉々に砕かれ、キノコ雲に吸い上げられていきます。

サンゴ礁は、直径2キロ、深さ60メートルにわたってえぐり取られ、やがて強い放射能を帯びたサンゴの粉(死の灰)となって降りそそぎます。

乗組員たちのあびた放射線量は、おおよそ2000~3000ミリシーベルト。広島原爆の爆心から800メートルの放射線量に相当し、放射線をあびた半数が死亡する半致死量にあたるとみられています。

3月14日早朝、寄港した第五福竜丸の乗組員23人は、その日のうちに焼津協立病院で診察をうけて「原爆症」が疑われ、症状の重い2人が15日上京し、東大病院に入院しました。

翌16日の読売新聞朝刊で、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」「焼けただれた顔」などと大々的に報じられ、事件は一挙に知れわたります。

第五福竜丸は15日にマグロを水揚げし、東京、大阪など各地に送られていました。「原子マグロ」の恐怖がひろまり、焼津漁協から「福竜丸のマグロを売らないように」という連絡が各地に入りました。

東京の築地市場での検査では、マグロとサメから強い放射線が検出され、市場の人通りが少ない場所に埋められました。

大阪では一部が小売りに出まわり、富田林市では保健所で検査する騒ぎになっています。

19日には米海軍はビキニ海域の危険区域を8倍に拡大。日本政府は指定区域を設けて、そこを通った漁船の放射線調査を実施しました。

魚から10センチ離したガイガーカウンターが1分間に100カウントの放射線を検出すれば廃棄処分とされ、土中深くか海洋に捨てられました。

焼津中央病院に入院していた乗組員21人は3月28日、米軍輸送機で羽田空港へ輸送されます。症状の重い5人は、先に入院した2人とともに東大病院に。残り16人は国立東京第一病院(いまの国立国際医療センター)に入院しました。

4月半ばになると、通常4000~8000(1立方ミリあたり)の白血球数が1000前後、通常10万~20万個の骨髄細胞が1万個に激減する乗組員が出てきました。発熱やだるさにくわえ、鼻血、歯茎からの出血、血便など造血機能障害の症状がでました。抗生物質が投与され、大量の輸血がつづけられました。

6月に入るとようやく白血球が増加する兆しが見えはじめたものの、17人が肝機能障害を起こし、黄疸の症状があらわれます。当時28歳の甲板員安藤三郎は手記に次のように記しています。

「病気は悪くなるばかりであったが、毎日子どもの事を考えて心を励ました。幸い先生方の昼夜を分かたぬ御診療のお蔭で、少しづつ気分が良くなった、だがこんどは社会人としての価値を失ったのではないかという不安が持ち上がってくる」

7月になると無線長、久保山愛吉の黄疸の症状が悪化していきます。8月20日ごろから久保山の容体は急変、29日には意識障害を起こし昏睡状態に陥りました。医師団の懸命な治療で一時は意識が回復したものの、9月23日午後6時56分、焼津からかけつけた家族が見守るなか、息を引き取りました。享年40歳。乗組員で最年長でした。

医師団は久保山の死因を「急性放射能症とその続発症」と発表しましたが、アメリカは水爆実験による被爆との関係を認めていません。久保山の死に関連して、石垣りんはこんな詩を残しています。

     夜話

  ビキニの灰で
  漁夫久保山さんが亡くなれば
  弔慰金は五百五十万円だ、と
  新聞が大見出しをする、
  貧乏な国の記者が
  貧乏な大衆に向かって書き立てた
  あわれな風情が見えるようだ。

  そういう私も
  五百五十万円家族に残せたら
  死んだ方が喜ばれやしないか、と
  フラチであわれなことを考える。

1955(昭和30)年5月、22人の乗組員は退院しました。しかし被爆による後遺症の心配がある海の男たちは、長期にわたる遠洋での漁は許されませんでした。2013年末までに23人中16人が亡くなっています。その多くが肝機能障害に苦しめられ、死因のほとんどが肝硬変や肝臓癌でした。

ところで現代詩人会は、ビキニ水爆被災事件の直後の1954年5月の総会で、アンソロジー『死の灰詩集』の刊行を決議し、同年10月に宝文館から刊行しています。

詩人たちが生命の存在を根底からおびやかす核実験に断乎たる拒絶の意思を示したこのと本、初版印税は、入院中の第五福竜丸の乗組員たちに贈られました。

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ

『死の灰詩集』には、山之口貘の「鮪に鰯」も収録されました。弱い漁師たちを襲った理不尽な被爆事件は、貘のふるさとと同じ美しい海に囲まれた南の国で起こったのです。

しかも核実験を強行したのは、生まれ育った沖縄を統治している大国アメリカなのです。貘の「腹だち」はきっと、尋常ならざるものであったにちがいありません。

2015年12月3日木曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑪

     鮪に鰯

  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

ハワイの南西約2500キロ、グアムの東約2000キロ。太平洋の真ん中に、ビキニ環礁があります。「太平洋に浮かぶ真珠の首飾り」ともいわれるマーシャル諸島共和国の環礁の一つです。

環礁というのは、サンゴ礁でできた島のこと。円環状にひろがるサンゴ礁の真ん中は、ぽっかり空いたみずうみ(礁湖)になっています。ビキニ環礁は23の島からなり、礁湖の面積は約600平方キロに及びます。

珊瑚礁だけで出来ているため、島の標高は高いところでも数メートル程度。礁湖の水深は数十メートルありますが、礁の外縁の海底は急崖となり、海岸の近くで水深数千メートルの大洋底になっているところもあります。

礁湖は戦時中、諸国の艦船の避泊地として利用されました。日本海軍も、かつてトラック島と呼ばれていたチューク環礁などを本拠地としていました。

大戦後は漁業やリゾート・観光地としての利用のほか、戦後の冷戦の時代に自国の大都市から遠く離れたこれらの島々は、しばしば核実験の場ともなりました。

そんなひとつ、大戦中にアメリカ軍が占領したビキニ環礁では、1946年~1958年に、核実験が繰り返されることになります。

ビキニ環礁での最初の核実験は1946年7月1日と25日に行われたクロスロード作戦。大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験でした。

このとき標的になった全長220メートルの戦艦長門や、全長280メートルの米空母サラトガなどはいまも深海に眠っています。

ちなみに、このときの核実験の報道を受けてフランスのルイ・レアールは、自身の考案した水着について、その大胆さが周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて「ビキニ」と命名した、とされています。

  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  をかぶっていると言った

1948年には実験場を隣のエニウェトク環礁に変更しました。1954(昭和29)年3月1日、ふたたびビキニ環礁に戻して行われた水爆実験(ブラボー実験)では、日本人も「ビキニの灰」をかぶる惨事が起こります。

ブラボー実験では、広島型原子爆弾約1000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾が炸裂。3つの島が消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターができた(北緯11度41分50秒 東経165度16分19秒)とされています。

米軍が核出力の見積りを誤って不十分な危険水域を設定したため、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」をはじめとする数百隻以上の漁船が被曝。ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、あわせて2万人ほどが被曝しました。

その日の午前6時45分(日本時間午前3時45分)。極秘裏に行われた水素爆弾が炸裂したとき、静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(乗組員23人)はビキニ環礁の東方約160キロの航海上で操業していました。

昨年、ビキニ水爆実験、第五福竜丸の被爆からちょうど60年になりました。その節目に刊行された『第五福竜丸は航海中』(第五福竜丸平和協会編)には、被爆の状況が次のように記されています。

〈1月22日に焼津港を出港した第五福竜丸は、2月上旬ミッドウェー海域で操業していたが、はえ縄の半数以上を失うアクシデントに見舞われ、進路を変更して南下しマーシャル諸島のビキニ海域へと近づいていった。

2月27日、燃料も食料も限界に近づいたことから、漁労長見崎吉男(28歳)と機関長山本忠司(27歳)は月1日を最後の操業と決めた。3月1日午前6時30分、3時間半に及ぶ14回目のはえ縄の投げ入れ作業が終わった。

揚げ縄作業が始まるまでは乗組員たちの貴重な仮眠の時間である。第五福竜丸はエンジンを止め、穏やかな波間に漂っていた。その日は「南海の波静かな洋上に星影を写すほどの凪であった」という(半田四郎、22歳)。

そのとき水爆ブラボーが炸裂した。

「『太陽が上がるぞォー』『馬鹿野郎、西から太陽が上がるかッ!!』甲板上で絶叫し合う声を、船室にいた私が聞くと同時に、ドヤドヤと2、3人の船員が船内に駆け下りてきました。『わァー、何だ、あれは……、驚いたぜ、突然西のほうが一面焼けただれたように真っ赤になって、ちょうど太陽が上るように明るくなったんだ。おい!早く甲板に出てみろ、凄いぞ!』私はその声にせきたてられて、慌ててデッキに飛び出しました」(池田正穂、21歳)。

西の空に大きな火のかたまりが浮かび、その強い光が空も海も船もそして自分たちをも包み込むのを、乗組員たちは目撃した。東経166度35分、北緯11度53分。アメリカ海軍が設定した「危険区域」の外側の東方約30キロメートルの洋上であった。光は色を変えながらやがて消え、次第に元の暗い静かな海に戻った。

光を見てから7、8分後、轟音と衝撃波が襲ってきた。「『ドドドドドー、ゴー』海面が伝わってくる爆発音ではない、地鳴りだ。足元を震わす轟音が、海全体を包み込んで下から突き上げてきたのだ」(大石又七、20歳)。「原爆だ」と叫ぶ者もいる。ところが、その後は何の音も変化も起こらない。乗組員たちの不安はますます募ってきた。

午前7時30分、漁労長見崎の指示で、揚げ縄作業が始まった。無線長久保山愛吉(39歳)は「海図室に昇り、果たして今の輝きは何だろう。場所は何処だろうと船長と漁労長とで調べた。どう考えてもビキニの外なく、ビキニへは約百浬〔約180キロ〕ある。揚縄して行けば距離はだんだん遠くなる」と回想している。

午前9時ごろ、空を覆う黒雲から雨に混じって白い粉が降ってきた。やがて雨は止み、白い粉だけが降りつづいた。白い粉は乗組員の頭、顔、手、足、髪の毛に付着し、鉢巻や腹巻き、ズボンのベルトにもたまった。そして、目、鼻、口、耳から体内に入り込んだ。

午後1時30分、揚げ縄作業は終わった。航海日誌には「3月1日午前10時30分(日本時間)揚縄終了後N(北)に帰途に付く。原子爆実験地と思われるビキニ環礁まで87浬最短距離のビキニ島迄75浬の地点にて閃光及び音響を聞く」とある。

第五福竜丸は白い粉の降る海域をぬけ帰途に着いた。乗組員たちは身体や甲板に積もった白い粉を海水で洗い流した。しかし、その日の夕方から放射能の影響があらわれた。

目まい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血、そして顔は黒ずみ、白い粉の付着したところは放射線により火傷のように膨らんだ。一週間ほど経つと髪の毛が抜け始めた。

3月14日午前5時50分、第五福竜丸は乗務員たちの不安をのせたまま、母港・焼津に寄港した。〉

2015年12月2日水曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑩

  そんなわけでいまとなっては
  生きていることが不思議なのだと
  島からの客はそう言って
  戦争当時の身の上の話を結んだ
  ところで島はこのごろ
  そんなふうなのだときくと
  どんなふうもなにも
  異民族の軍政下にある島なのだ
  息を喘いでいることに変りはないのだが
  とにかく物資は島に溢れていて
  贅沢品でも日常の必需品でも
  輸入品でもないものはないのであって
  花や林檎やうなぎまでが
  飛行機を乗り廻し
  空から来るのだと言う
  客はそこでポケットに手を入れたのだが
  これはしかし沖縄の産だと
  たばこを一箱ぽんと寄越した

敗戦直後に作られた貘の「島からの風」という詩です。沖縄の詩人、高良勉はその著『僕は文明をかなしんだ』でこの詩について、次のように記しています。

〈この詩の中の「島」とは、言うまでもなく貘の故郷の琉球列島のことです。この作品は、敗戦後もっとも早い時期に、故郷沖縄について書かれた詩の一つです。

貘は、「島からの客」が来るたんびに、沖縄戦のことや、戦後の故郷のようすを聞かずにはいられなかったにちがいありません。故郷は、「異民族の軍政下にある島」になってしまったのです。

貘が戦前体験した沖縄の生活では、「物資は島に溢れ」、「飛行機を乗り廻」すとは想像すらできないことでした。

話し相手の客から、その時もらった沖縄産のたばことは、どんな銘柄だったのでしょう。「うるま」それとも「バイオレット」?そのなつかしい故郷に、貘はなかなか帰ることができませんでした。

その主な理由は、第一に沖縄への渡航が自由にはできなかったこと。第二にパスポートを申請しても、二、三カ月以上経たないと許可されなかったこと。第三に船便などの交通機関が充分に復興していなかったこと。そして、貘さん自身が経済的に余裕がなかったことが挙げられます。

したがって、貘は父母の死に目に会っていません。バクさんの両親は、沖縄の離島の中の離島、台湾の側の与那国島に住んでいたのです。弟の重四郎一家が老いた父母と一緒に暮らして、めんどうをみていました。〉

アメリカ軍は1945(昭和20)年4月1日、貘の故郷の沖縄に上陸し、沖縄諸島各地に侵攻をはじめ日本軍と地上戦を繰り広げました。それが沖縄戦です。

上陸直後の4月5日には、奄美群島以南の南西諸島地域における日本政府の行政権を停止して米軍政府が統治すると宣言、読谷村に琉球列島米国軍政府を設立しました。27年間におよぶ米国統治がここに始まりました。

戦後の1949(昭和24)年になると東西冷戦が激化し、朝鮮半島の軍事的緊張が高まります。極東戦略の一環で米国は、沖縄に大規模な軍事基地や施設を建設しました。

軍道の拡張、那覇軍港の整備、弾薬倉庫、米兵用住宅などの軍用地開発が進められます。沖縄本島は極東最大の米軍基地へと変貌を遂げ、米軍からは「太平洋の要石」といわれるようになっていました。

〈このごろになって、一米国人によって沖縄の人権問題が積極的に世界の眼前に取り出された。アメリカの接収する土地の借上料坪当りが、B円で月当り平均十八銭で煙草一個、コカコーラ一本にも値しないという風な取り扱いを受けていることだけでも、住民の生活がどのように苦しいものであるかと推察しないではいられない。

こうして、沖縄の生産地帯が、コンクリートやアスファルトや鉄に化けてしまって、住民は、いわば、軍艦の甲板の上で生活しているようなものだ。朝日新聞社発行の「琉球その後」の写真を見ると、沖縄出身であるところのぼくの目にさえなにが沖縄だか見当もつかないほどの変ぼうをきわめていて風景、風俗のすべてが植民地になっているのだ。

郷愁をそそるものとして、わずかに舞踏だけに、本来の沖縄の姿を見るにすぎないのである。日の丸の旗を掲げても、それがどこの旗であるかを知らないこどももあるというところまで沖縄が変ってきているのだ。

そのような変り方は、言語の上にまですでに反映しているらしく、従来は日本本土の人のことを、ヤマトンチュ(大和の人)といっていたのであるが、現在では、ジャパニーといったりするそうだし、またウチナーンチュである沖縄人のことを、オキナワンといったりするとのことで、沖縄現地のある人はそれらを混血語といっている。〉(「沖縄を思う」)

貘は、もどるに、もどれず、気が気でない故郷への思いをこのようにつづっています。そして、1956(昭和31)年に発表したつぎの詩では、沖縄のこの悲しい現実を、沈むことのない「航空母艦」に見たてています。

     浮沈母艦沖縄

  守礼の門のない沖縄
  崇元寺のない沖縄
  がじまるの木のない沖縄
  梯梧の花の咲かない沖縄
  那覇の港に山原船のない沖縄
  在京三〇年のぼくの中の沖縄とは
  まるで違った沖縄だという
  それでも沖縄からの人だと聞けば
  守礼の門はどうなったのかとたずね
  崇元寺はどうなのかとたずね
  がじまるや梯梧についてたずねたのだ
  まもなく戦禍の惨劇から立ち上り
  傷だらけの肉体をひきずって
  どうやら沖縄が生き延びたところは
  不沈母艦沖縄だ
  いま八〇万のみじめな生命達が
  甲板の片隅に追いつめられていて
  鉄やコンクリートの上では
  米を作る手立てもなく
  死を与えろと叫んでいるのだ

2015年12月1日火曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑨

第1詩集『思弁の苑』を刊行した1938(昭和13)年には、国家総動員法が制定され、戦時体制はいよいよ強固なものとなっていきます。

軍需産業やその関連業種の労働力の不足がしだいに顕著になり、労務の強制的な動員や配置が必要になりました。

それには、労働力の量や質、その所在を明確にしておくことが前提となります。そのため、同年4月、職業紹介法が全面的に改正されて、労働者の募集などで国家的規制が強化されます。

市町村など自治体ごとに営んでいた職業紹介所は国営となり、従来の失業者救済機関から、労働力の軍事的再編成のための適正な配置を担当する機関に転換しました。

貘が飯田橋にあった東京府職業紹介所に就職し、「国家の一雇員になった」のは、ちょうどそんなときのことです。

「国家総動員法に依て発動された国民登録制の機関」である国民登録所の異動申告係に配属され、窓口に席が与えられます。就職の翌年、1940(昭和15)年5月に発表された貘の小説『詩人、国民登録所にあらわる』には、初々しい役所勤めのようすが細かく描かれています。

〈ここはまるで渚のように終日人波押し寄せている所である。波は、時勢のかおりを高く振り乱して、そこらの町工場や彼方此方の工場地帯から日々この窓口に打ち寄せて来るのである。

彼等はみんな、厚生大臣に依て指定された「職業」や「学歴」や「免許」のある人達であり、または大小会社の労務係というような人々である。みんな手に手に登録手帖を持っていて、「就業の場所」や「職業」や「居住の場所」や「出征」等に関する異動申告の手続を受けに寄せてくる。

僕らは窓口に待構えて毎日寄せてくる波を受付けるのである。手帖には、異動に関する記事記入欄があって、たとえば僕が、従来の「就業の場所」を退職した時は、「異動年月日」の欄へその年月日を記入し、「異動記事」とある欄へ、解用と、「本人印」の欄へ僕の印を、そして、「使用者住所氏名印」の欄へは、退職した就業場所の所番地と名称と使用者の印を捺し、その手帖を窓口に提出するのである。

そして、従来の「職業」(指定の職業)のまま僕が就職した時は、「異動年月日」の欄へ就職の年月日を、「異動記事」の欄へ、右肩に小さく括弧して就業場所と記し就業場所の所番地及び名称を記入、「使用者住所氏名印」の欄には矢張り使用者の所番地とその印、という風にして記入の上、窓口の係へその手帖を提出するのであるがこれはほんの一例に過ぎないのだ。

こうして提出された手帖を受取って、異動申告係はそれに眼を通す。若しも、解用と書くべきものを解雇としてあったり、または退職となっていたりする場合とか、あるいは異動のあった翌月の末日までというようなそういう異動申告の期間を遅れたとか、それもほんの一例に過ぎないのだが、そんなことに対する注意を与えたりして、僕らは統計伝票の作製にかかるのである。

波は、毎日毎日押し寄せてくる。旋盤工も仕上工も、鉱山技術者も機械技術者も、自動車運転手も化学技術者も、非鉄金属製錬工も、光学ガラス工も金属プレス工も、タレット工も中グリ工も、造舟工も潜水夫も、其の他入れかわり立ちかわり、時勢の波にもまれて揺れてくるのである。彼等みんな波に打ちあげられて窓口に来て、異動の手続をすませては、再び、あちらへあちらへと退いてゆくのである。〉

この年の12月には、『思弁の苑』に新たに12篇を加えて『山之口貘詩集』を刊行した。翌1941(昭和16)年には長男の重也が生まれます。しかし翌年、急死してしまいます。昭和19年3月には女の子を授かり、泉と名づけました。

戦火が迫っていました。赤ん坊を育てながらの東京での生活を逃れて、この年の12月には、茨城県結城郡飯沼村の妻の実家へ疎開します。貘は東京の勤め先まで、4時間近くかけて通いました。そして、敗戦の臭いを嗅ぐのです。

     鼻の一幕

  かつておまえは見て言った
  もしも自分があんなふうに
  鼻がかけてしまったら
  生きてはいまいとおまえは言った
  生きてはいまいとおまえは言ったが
  自分の鼻が落ちたとみると
  なんとおまえはこう言った
  命があれば仕合わせだと言った
  命があれば仕合わせだと
  おまえは言ったがそれにしても
  物のにおいがわかるのか
  鼻あるものらがするみたいに
  この世を嗅いだり首をかしげたりするのだが
  どうやらおまえの出る番だ
  いかにも風とまぎらわしげに
  おまえは顔に仮面をして
  生きながらえた命を抱きすくめながら
  鼻ある人みたいに登場したのだが
  もののはずみかついその仮面を外して
  きつねの色だか
  たぬきの色か
  鼻の廃墟もあらわな姿をして
  敗戦国のにおいを嗅いだ

戦後の1948(昭和23)年3月、9年間勤めた役所を辞めます。人員整理があり、病気で半年ほど休んでいた貘は自分から辞表を出したそうです。詩人を職業として生きていくことを決めました。貘は45歳。

同年7月には茨城の疎開先から、東京へ引き揚げます。練馬区貫井町の知人宅の六畳一間を借りて、戦後の生活を始めました。2、3カ月の約束だったのが、けっきょく貘が亡くなるまでの15年間、そこに居つくことになります。