2016年9月27日火曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑥

兵役から帰ったバシュラールは1919年10月、技師になる夢を諦めて、故郷のバール・シュル・オーブのコレージュで、物理と化学を教えるようになります。35歳になっていました。

コレージュ(Collège) というのは、フランスの4年制の前期中等教育機関。リセの前段階で、日本でいうと、小学6年から中学3年に相当するそうです。

バシュラールは、35歳から46歳までの働き盛りを、中等教育の学校の先生として過ごしたのです。この時期に、仕事の合間にたいへんな集中力で哲学の勉強に打ち込んでいきます。

1年後の36歳のときには、哲学のリサンスを取得。1922年、38歳のときには、高校以上の教育機関で教えられるアグレジェという資格を取っています。

当時、彼の勉強していた哲学は、認識論、科学哲学と呼ばれている領域にあたります。この当時、ヨーロッパではドイツの新カント派などによって、盛んに研究されはじめていました。

金森本には「自然科学的知識は哲学にとって何ら疎遠な外部ではなく、むしろ実質的哲学を構成するための必要条件だった。しかもこの時期は物理学が激変している時代であり、バシュラール自身アインシュタインの相対性理論には強い衝撃を受けていたという事実もある」とあります。

哲学者としての遅い出発をしたバシュラールは、35歳から43歳にかけて、その地歩を築いていきます。そして、1927年に二つの論文をソルボンヌ大学に提出して、文学博士号を取得しました。

主論文の『近似的認識試論』と副論文の『ある物理問題の進展をめぐる試論――固体内における熱伝導』です。これらの論文は翌1928年に出版されています。これから1962年に亡くなるまで、20冊以上の論文が次々に公刊されていきます。

1930年、46歳のときバシュラールは、故郷の近くのディジョン大学文学部に招聘されました。ここに10年間籍を置いたの後の1940年、56歳のときにはソルボンヌ大学へ移り、「科学史科学哲学」の講座を受け持つことになりました。

バシュラールは、文字通り本の山の中で暮らし、最後まで働くことをやめませんでした。金森は、最晩年の『蝋燭の焔』の中の「私は勉強する。私は勉強するという動詞の主語にすぎない。考えることはあえてする気がしない。考える前にまずは研究を。ただ哲学者だけが研究する前に考える」という言葉を引用し、次のように記しています。

「このしなやかな好奇心があったからこそ、彼は七十歳近くになるまで同時代の次々に刷新される物理や化学を追跡できたし、有名無名にかかわらず無数に読破した詩作品の斬新なイメージに陶酔できたのである。バシュラールを研究することで私たちもまた彼の若さを吸収できるのだろうか」

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