2016年12月23日金曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑨

これからバシュラールを読んでいくうえで、私自身への問いにも重なる、金森の「問いかけ」を抜粋しておきます。

いったいこの世の中で、科学と詩ほど違うものがあろうか。科学は客観性を尊び、方法的にも整備されているので、どんな知識が妥当でどんな知識が妥当でないかをその度に見極めるすべを心得ている。一定の手続きさえ踏めば誰もが参加できるという開放性と任意性が科学の本質であるように思える。

それに比べると、詩は客観性など初めから求めていない。むしろ誰もが知っていても普通の言葉でしかとらえていないもの、つまり誰もが紋切り型の知識で理解していると思っているものが、本当はそれよりもはるかに豊かな意味を隠しているということを私たちに気づかせてくれる人、それが詩人である。

詩人は客観性をもちえないのではなく、むしろもってはいけない。誰もが感じきれないでいることを十全に感じとること、そしてそれを読者をはっとさせるような言葉で表現すること、それこそが詩人に固有の仕事なのだ。だとすると、科学者は詩人であってはいけないし、詩人は科学者であってはいけないということにならないか。

それなのにバシュラールは科学も、詩も語る。互いを常に同時に語るわけにではないにしろ、片方を語るときにももう片方をそっと忍ばせながら語っている。それは常識に逆らって科学の内部に詩を見つけるということか、そして詩人の仕事のなかに一種の科学的着想の芽を探り出すということなのだろうか。

それはバシュラール個人の離れ技なのだろうか。それとも本当は科学も詩も、人間の行為として、人間の根源ではつながっているのだろうか。科学は方法化された詩なのか、詩は偽装した科学なのか。それともやはり科学と詩は、人間が生みだしたものであるにもかかわらず、互いに異質な世界に旅立っているのだろうか。


そして金森は、森で捕まえたトンボの顔を例に次のように訴えかけています。

〈森で捕まえたトンボの顔をじっと見つめてごらん。その大きな目にある網の目のような模様には、私の顔はどんな風に見えるだろう。

水滴に映った顔みたいに奇妙に丸まって見えるのだろうか。そう思って眺めていると、トンボが頭を傾げてみせる。

きっとトンボにも私の変な顔がおかしく見えたに違いない。羽を放してやると、飛行機みたいな音を立てて遠ざかる。

私が味わう数分間の体験には、確かに幼い科学も、下手な詩人の試作もが隠されている。だから読者よ、科学にも詩にも目をふさがずに、素直にバシュラールの言葉に耳を傾けてほしい。〉

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