2016年12月30日金曜日

飯島耕一「わが母音」①

今年の年末年始は、飯島耕一の「わが母音」を読むことにします。 

     わが母音

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

  澄んだ母音を見つけることが
  ぼくらの日課の色どりであればよい。
  それは恐ろしい現実にたち向かう
  ぼくらの 幸福すぎる
  権利なのだ。
  まるい小石を蹴るように最初の母音を蹴りながら
  ぼくは今日も雑踏のうちにまぎれこむ。
  雑踏のなかにいても 一人は一人であることができ
  一人は一人を愛することができる。
  そして二人でつくつた
  まだ秘密の愛の誓いのように
  ぼくはわが母音をひそかに培い、忘れて見失わぬ
  術〈すべ〉をおぼえる。


「わが母音」は、同名のタイトルが付いた飯島耕一の第2詩集=写真=の冒頭に収められています。詩集『わが母音』は16篇の詩からなっていて、1955(昭和30)年に書肆ユリイカから刊行されました。飯島が25歳のときのことです。詩集の「あとがき」には次のように記されています。

〈ぼくは自分の詩を考えながら、昔のアンドレ・ブルトンの次のようなことばを少しも訂正しようとは思わない。

「私はただ現実的なるものと想像的なるものと、この二つのものを結ぶ緊密な関係を明らかにすることによつてのみ、あのますます悪く設けられるように思われる主観的なるものと客観的なるものとの区別に対して新しい一撃を加えようと思う。」

詩人の仕事が難解だとしたらその理由はこのような現実、あるいは「現存するもの」への大胆な認識のしかたにあるのだろうし、詩人の役割こそこのような認識が必然的にもたらす新しい現実の発見にあるのにちがいない。

ぼくはぼくの現実的で想像的な世界を、観察し、歌おうとするよりも、はるかにそこにふみこんで行こうと試みた。そしてその歩み方がぼくの詩のリズムとなることをのぞんだ。

ぼくの詩に不均衡な印象がつきまとつているとしたら、それはただちにぼくの歩み方が不均衡であるためにほかならないだろう。その不均衡を強いるのがあるいは時代の影響であるとしても、ぼくは自分の方法にそうしたものをこえる強さを恢復したいと思う。

想像的であり同時に現実的な「現存するもの」を自分に引留め、かがやかしいものに変身させたいという意識は、これらの詩を書いた時期に、ぼくに切実なものであつた。しかしぼくは自分の詩がメタフイジツクな意味で蔽われることを欲しない。冒頭の詩「わが母音」はぼくの「詩法」(art poetique)であるといえる。〉

飯島の第1詩集『他人の空』は、1953(昭和28)年にを同じ書肆ユリイカから出版されています。伊達得夫が編集者兼社主としてたった一人でやっていた小さな出版社です。それから2年後、『わが母音』を出版したころのことを、飯島は次のように振り返っています。

〈『わが母音』は彼の事務所が神田神保町のちっぽけな昭森社ビルに移ってからの出版で、入口近くの机の一つが書肆ユリイカだった。幸い『他人の空』が好評だったので、それ以降の詩集は各社の企画出版となる。

『わが母音』は三百部と記憶する。表紙の絵は今はボストンに居を移して彫刻家として知られる井原通夫に頼んだ。絵に入ったカバーが刷り上がって来た時、わたしはたまたまそこに居合わせたが、伊達の計算ちがいで上下が妙に長すぎた。

しかしこれでよいとわたしが言って(すでにもう親しくなっている)、長い部分を折り曲げることにした。おかげで珍しい造本の奇書が出来、気づかぬみんなはしゃれたアイデアだと言っていた。五五年十月刊。学生の頃は「カイエ」「詩行動」のメンバーで、その後「今日」に加わる。

特記すべきことは、この二冊の間の時期に肺結核の手術(その当時はまだ初期の肺切除)のため、東京清瀬の清瀬病院に入り、同じ十三病棟に入っていた吉行淳之介を知る。〉

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