2016年12月31日土曜日

飯島耕一「わが母音」②

飯島耕一は1930(昭和5)年、トマス・ハーディの研究者として知られる英文学者の父、隆と、岡山県立第一高等女学校で音楽の教師をしていた母、八重子のもとに生まれています。

以下、耕一自身が「自伝のかわり」にと記した年譜をあげておきましょう(思潮社『飯島耕一詩集』)。

〈一九三〇年(昭和五年)、二月二十五日岡山市に生まれる。父方の曾祖父は佐竹藩士、のち弁護士開業、祖父ははじめ農林省にあり、ついで秋田県湯沢に木工会社を起す。失敗。鉱山探索、その他各種事業にしたがう。のち東京へ出てくるが、父が昭和四年、旧制第六高等学校の教官として岡山に赴任し、以後岡山に住んだ。

一九三六年(昭和十一年)、岡山県立師範附属小学校に入った。小学校へ入るまえ、「ドンキホーテ」を毎夜人に読ませるのが習慣だった。毎夏を瀬戸内海の島で過ごす。少年講談を耽読する。はじめて記憶させられた詩は明治天皇御製という時代である。

一九四二年(昭和十七年)、岡山県立第二岡山中学校入学。三年のとき、勤労動員で造船工場に行く。鋳物工として特殊潜水艦の部品をつくっていたが、一つもものにならなかった。四年になり、陸軍航空士官学校を受験する。六月、B29の空襲で岡山市の八割は焼失、一切灰燼となる。

八月はじめ、航士合格、八月二十日入校の通知があった。八月十五日、谷崎潤一郎も疎開していた岡山市近郊、庭瀬町の寄寓先で終戦の詔勅の放送をきく。航空隊に入るつもりになっていたので残念に思った。岡山の聯隊の兵舎のまわりを歩き「徹底抗戦」の貼紙を見る。〉


付け加えると、耕一が小学校へ入った1936年には、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂「二・二六事件」が勃発、翌年7月には北京西南の盧溝橋で起きた衝突事件で、日中戦争(支那事変)がはじまっています。

岡山市に住んでいた耕一は、幼少時から小学校の6年間、夏になると瀬戸内海の島や海岸を訪れることが多かったようです。

それが、子どものころの思い出として深く心に刻まれます。しかし太平洋戦争へ突入するころになると海へ出かけるのもままならなくなりました。

詩人としての耕一の原点には、戦争へと突き進んでゆく時代のなかで記憶に刻まれていった幼少時代の夏の海のイメージがあるようです。

耕一は「詩のイメージ」というエッセーで次のように述べています。

〈アンドレ・ブルトンは次のように書いたことがある(『シュルレアリスム第二宣言』一九二九年)。

結局あらゆることから、生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、高い所と低い所、そうしたものが、もはや互いに矛盾したものとしては知覚されなくなるような、精神のある一つの点が存在することを信ぜざるを得なくなるのである。このような点を確定したいという望み以外の動機を、シュルレアリスムの活動の中に探そうとしても、それは無駄である。

ブルトンはこの一点を、また別のところで「至高点(ポワン・シュプレーム)」とも名づける。これは右のようなあらゆるものの混じり合い、あらゆる矛盾の乗り越えられた精神の一地点であるとともに、ブルトンはフランスのバス・ザルプ県のある地点から眺められたあるすばらしい景色を、「至高点」と具体的に掴んでいた。

たとえばぼくの内部にも、幼少時代の夏の瀬戸内海のイメージが、記憶の一点として純粋化されて残っており、それはぼくにとっての「至高点」を確かにかたちづくっている。その後、見、経験したいかなる海も、それを乗り越えることがない。

あの幼少時代の海岸の体験、その海のイメージ、そこに全的に没入することが可能なら、ぼくはまったく自由になり、解放され、言ってしまえば詩を書く必要など、はや持たないはずだ。

実際、健康な子供は(そのような子供がいるとして)、ものを書いたりする必要はなく、反省とか思考をする必要もない。彼らは近代人的な反省や思考によって引き裂かれていない。

こうした「至高点」が確かなものとしてあるらしい。だが、実際のわれわれはそこから切り離されている。生と死は区切られ、過去と未来は二つの分かたれ、伝達(コミュニケーション)の不如意があげつらわれる。

イメージということに限ってみても、われわれは意識的と無意識的とを問わず、イメージの過剰、あるいは欠乏にたえずつき動かされている。一切の現象は見通しがきかないと思うことがある。

われわれの意識に、多少の惨めさと不自由感があるとすれば、それはそうしたところから発している。人々の哀れな罪障意識がそこに重なる。

おそらく詩というイメージの劇、イメージの化学は、こうした事情の間隙を縫って進むもの、欲求されるものであると考えられる。二つに分離されたものは一つになることを自ら求めている。〉 

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