2016年1月31日日曜日

芭蕉『おくのほそ道』15

河合曾良(1649-1710ころ)は、蕉門十哲の一人。『おくのほそ道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子として知られ、「曾良旅日記」を残しています。

こうした曾良については、「日光」の段で「予が薪水の労をたくす」と紹介されていることに上野洋三は注目し、次のような見方を示しています。

「薪水の労」は、釈尊の所業であるとともに、真実の出家遁世を求めた修行者が身を隠しつつ他者に奉仕する形態であった。曾良についてはさらに「旅立暁、髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす」と、「薪水の労」に重ねて剃髪もしていることが記され、すがすがしく確固たる印象を与えている。

また、曾良を紹介する日光の段の文章が漢文訓読調を持ち、使用される単語も仏教説話の遁世者のような人物を色濃く形成しています。

こうした外被をまとった人物として曾良が描かれることによって、こんどは、そのような「同行」を持つ主人公をもまた規定されることにもなるのだ、というのです。

2016年1月30日土曜日

芭蕉『おくのほそ道』14

芭蕉たちが旅であった人々の名前や肩書を眺めてみると、多くに「いふもの」といった表現が付けられていることに気がつきます。

しかし、歴史上の人物については単に呼び捨てで記されるだけになっています。芭蕉はどうしてこのような区別をしたのでしょう。

復本一郎は、『おくのほそ道』が不特定多数の読者を念頭において執筆された作品であるとしたうえで、「いふもの」と付けたのは「当時、芭蕉が『おくのほそ道』の読者として想定した不特定多数の人々の間では、知名度が低いと判断されたためだろう、としています。

「といふもの」との表現を採ることによって、読者は、何の抵抗もなく、先へ先へと読み進むことができるのである」と説明します。想定した読者への配慮が隠されているというわけです。

それでは、こうした登場人物たちが、『おくのほそ道』で具体的にどのように描写されているのか、明日から、同行の曾良を手始めに検討していくことにしましょう。

2016年1月29日金曜日

芭蕉『おくのほそ道』13

『おくのほそ道』には、同行した曾良のほか、旅のなかで偶然に出会った市井の人々から歴史上の著名人まで、さまざまな人物が描写されています。

それらの人々は、おおまかに次のように分類することもできるでしょう。

まずは「等窮といふものをたづねて」「画工加衛門と云もの」「図司左吉と云者」「一笑と云もの」といった、宿の主人や地元の名士、俳諧仲間ら、各段のキーパーソンとして描かれる人物です。

次に「草刈るおのこ」「世をいとふ僧」「目盲法師」「究竟の若者」など、旅でたまたま出会った名も無き人々。

彼らは単に脇役として登場するだけでなく、時に『おくのほそ道』全体の中で重要な役割を演じることもあります。

さらには、旅で実際に接した人たちとは別に、「空海大師」「義経」「秀衡」「慈覚大師」「行尊僧正」「西行法師」「木曽義仲」といった歴史上の著名人たちも、歌枕や地域の言い伝えなどとも絡んで欠かせない役回りをしています。

2016年1月28日木曜日

芭蕉『おくのほそ道』12

視線を違えて見れば、『おくのほそ道』は、俳句(発句)の多彩な機能を提示し、その働きを示している作品ととらえることもできるでしょう。

芭蕉は俳諧師でした。俳諧(連句)は、「座の文芸」といわれ、気心の合った仲間(連衆)が集まって、一つの作品を合作する文芸です。この点で、創作的な要素が強まる近代的な意味での俳句とは根本的に違うのでしょう。

どちらも五・七・五の三句十七音を尊重し、季語や切字を備えた詩句を基本とします。しかし、発句は本来、正岡子規が連句から切り離して名づけた「俳句」のような、「一句で完全に一つの世界を形成して他を寄せつけない」というような性質のものではないのです。

発句だけを独立させて鑑賞することもあるが、一句に脇句を受け入れる余裕も備わっています。「形は似ているけれども、精神はまるで違っている」(『連句辞典』)ものなのです。

芭蕉は常に俳句の領域を広げ、働きを高めようと努めました。そういう意味では、子規とは正反対のベクトルを持っていたと受け止めることもできるかもしれません。

大輪靖宏は『おくのほそ道』を「芭蕉が句を広範囲にわたって使いこなし、句の働きの大きさを示していると読むこともできる」と指摘しています。

多彩な句の働きを示す「場」でもあった『おくのほそ道』は、単なる紀行文の枠には収まり切らない、句文融合の新たな世界を切り開いた作品といえるのでしょう。

2016年1月27日水曜日

芭蕉『おくのほそ道』11


越後路における広く知られた名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」では、「病おこりて事をしるさず」という文が前にあるだけで、いつ、どこで、どのような思いで詠まれたか、といった記述がそもそも見当たりません。

七夕伝説になぞらえるなど「この句は、実景ではなく、芭蕉の心象風景を詠んだ句であり、虚構であるとするのが、今日では一般的」(『「おくのほそ道」解釈事典』)と考えられています。

『おくのほそ道』の中でも、ひときわ独立性が高い句と言うことができるのでしょう。

『おくのほそ道』は、句と文の融合によって独自の世界を生み出しています。

そして、これまで見てきたように、その中に置かれた句は、地の文章とあいまって輝きを放つものもあれば、独立して読んでもすこぶる味わい深い名句もあります。

地の文と句の間に、さまざまな距離感を内在化させながら、巧みに文章が織りなされているのです。

2016年1月26日火曜日

芭蕉『おくのほそ道』10

きのうまで見てきた句に対して、たとえば日光山を訪れた際の「あらたうと青葉若葉の日の光」は、「今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ」という前書きが無くても、大自然の神々しさを称える普遍性を持つ句として十分に味わうことができます。

宇田川詫助によると、この句は次のようにして成立したと推測できるといいます。

初案は、旅の中で同行の曾良が書き留めた「俳諧書留」にある「あなたふと木の下暗も日の光」だった。そして、芭蕉の真跡を飜刻した「茂々代草」の「あらはふと木の下闇も日の光」が次案。芭蕉は「あなたふと」の「あな」という連歌的表現をさけ、「あらたふと」の俳諧的表現をとったと推測される。

この句形は、別案と思われる「たふとさや青葉若葉の日の光」(「初蝉」)となり、さらに感動がまのびしている「たふとさや」から感動が切迫している「あらたふと」へと修正され、「あらたう(ふ)と青葉若葉の日の光」と決まった。

そして決定句への推敲の契機となったのは、この句が今あるような紀行の地の文のあとに据えようとしたとき、すなわち、旅から五年後の「芭蕉が素竜に清書を命じた元禄七年(1694)の夏にまでこれをずらすことができよう」というのです。

芭蕉は、東照宮を参詣した際には、木の下の暗がりまで日の光が差し込んでいる様子を、神仏の威光として「あなたふと」と詠んみました。しかし「木の下暗」では「あらたふと」と言いたくなるような「日の光」の輝きが十分に生きてこない、と考えたのではないでしょうか。

そこで、中七を「青葉若葉の」と改めた。それによって「日の光」の輝きは増し、生命力をも醸し出すようになったのです。宇田川は青葉若葉の一句について、「〈御光〉や地名の日光をもふくめながら、しかも青葉若葉にさんさんと注ぐ陽光の美しい自然の大観を、感動をこめてうたい出していることがむしろ高く評価されねばならない」と指摘しています。

「青葉若葉の」となったことによって、もはや前書きも、日光という場所の制限もない、陽光に輝く大自然への賛歌として普遍性をもつ一句へと変容したのです。

2016年1月25日月曜日

芭蕉『おくのほそ道』9

芭蕉が、雲巌寺に立ち寄って即興で作った、「木啄も庵はやぶらず夏木立」という句について、大輪靖宏はさらにつぎのように評しています。

「啄木鳥も遠慮したということで仏頂和尚の徳を称えるとともに、夏木立という季語を添えることによってさわやかな仏頂和尚の人柄をも示している」

いずれにしても、この一句は「おくのほそ道」の地の文章の中で読むと、とたんに輝きを放ち、味わいも深まってきます。

同じようなことが、栃木県那須町芦野の西行ゆかりの遊行柳に立ち寄った際の一句「田一枚植て立去る柳かな」についてもいえます。

単独では意味がとりにくいものの、「今日此の柳のかげにこそ立より侍つれ」という感動がもとになっていることが分かれば、「田一枚植て」と早乙女たちが一枚の田を植え終わるまでの時間に、西行を思う心の軌跡が重なって、「立去る」に西行ゆかりの柳を離れる名残惜しさが痛切に響き渡ってくるのです。

2016年1月24日日曜日

芭蕉『おくのほそ道』8

きのう見たような伝説を踏まえても「木啄も庵はやぶらず夏木立」という句を読んだだけでは、寺を突く啄木鳥も庵は壊したりしないという以上の意味あいや文学性は感じられません。

ところが『おくのほそ道』では、それを補うように、「さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし」などと、この句が作られた状況がきちんと語られています。

雲巌寺は、仏頂和尚ゆかりの禅寺です。尾形仂によれば、仏頂和尚(1642~1715)は、延宝2年(1674)、鹿島根本寺21世となり、天和2年(1682)の勝訴に至るまでしばしば出府、深川海辺大工町の臨川庵滞在して芭蕉と交渉をもった。

さらに「元禄八年以後雲巌寺には入り、ついにここに終わりをとった」といいます。

芭蕉は、心酔する参禅の師、仏頂和尚の山居のあとを見るために雲巌寺を訪れた。

そして、目的の庵が少しも損なわれていないのを見て、「寺つつき」と異名を取るほどの啄木鳥でも、さすがに仏頂和尚の住処だけは崩そうとはしなかったのだ、と感動しているのです。

2016年1月23日土曜日

芭蕉『おくのほそ道』7

『おくのほそ道』の旅で芭蕉は、現在の栃木県大田原市にある臨済宗妙心寺派の雲巌寺に立ち寄って、「木啄も庵はやぶらず夏木立」という句を即興で作っています。

お寺に啄木鳥というと、すぐに「寺つつき」が思い出されてきます。

四天王寺や法隆寺に現れ、嘴で寺中をつついて破壊しようとしていると言われる怪鳥のことです。

鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』(1779年)には「物部大連守屋は仏法をこのまず、厩戸皇子のためにほろぼさる。その霊一つの鳥となりて、堂塔伽藍を毀たんとす。これを名づけて、てらつゝきといふとかや」とあります。

神々を信仰して仏教を受け入れようとしなかった物部守屋が、聖徳太子や蘇我馬子に討伐された後、「寺つつき」という怨霊になって寺を破壊しようとした、というわけです。

2016年1月22日金曜日

芭蕉『おくのほそ道』6

歌枕への憧憬にかられて陸奥へと旅だった芭蕉自身、『おくのほそ道』の中で「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみ」と嘆いていいます。

これに関して白石悌三は、「歌枕とは「古人の跡」にほかならず、「古人の求めたる所」とは「西行の和歌における」ごとき芭蕉の俳諧における発見でなくてはならなかった、としたうえで次のように指摘しています。

〈建て前として歌枕探訪記の体裁をとりながら、「平和泉と心ざし姉歯の松・緒絶の橋など聞き伝へて」とか、多くは道行き風に名を連ねるだけで、見聞したともしないとも紛らわしい文脈で著者自身の感興をはぐらかしている筆法に気付くであろう。何よりも、これだけ歌枕を連ねながら、歌枕を用いた発句があまりにも少なすぎる。逆に、盲目法師の語るひなびた奥浄瑠璃の「辺土の遺風」をうかがい、蚕飼の習俗に「古代の姿」を見、方言(ねまる)や卑語(馬の尿)に興じるなど、「奥の田植唄」や「紺の染緒つけたる草鞋」に通じる土俗的な風流に目を開いていくさまが見てとれるだろう。それこそ「西行和歌における」ごとき、芭蕉の俳諧における発見だったのである。〉(『日本文学研究大成 芭蕉』)

旅立ちの際、その目的を歌枕を訪ねることと周りに標榜していても、芭蕉の内面では別の志向が働いていたかもしれません。旅路の中で次第にその目的が変わってくるのもまた、旅の楽しみです。

そもそも俳諧師、芭蕉は、「俳諧における発見」を目指して旅だったはずなのです。

2016年1月21日木曜日

芭蕉『おくのほそ道』5

それでは「非歌枕」を詠んだ地名句はどうでしょう。

たとえば「光堂」の地名句である「五月雨の降残してや光堂」について、永田英理は次のように分析しています。

「五月雨」の本意は、『連歌至宝抄』に、「五月雨の比は(略)水たん?として野山をも海にみなし候さまに仕事、本意なり」とあります。

しかしこの発句では、すべてを水に浸してしまうかのように降る五月雨が、この光堂だけは降り残したのかと思ってしまうほど、まばゆい光をたたえている、と詠んでおり、「野山をも海にみな」すほど降り注ぐ五月雨の「本意」を「打ち返して」詠んだ句だといえよう、というのです。

『去来抄』(修行)に「俳諧は新しき趣を専らとすといへども、物の本性を違ふべからず。若し其事を打返していふには、品あり」とあります。

「打ち返し」とはこれを意味するのです。すべてを海のように浸してしまうという「五月雨」の本意に一ひねり加えることで、滂沱たる中にもまぎれない輝きを発している光堂の荘厳さをたたえているわけです。

では、「月山」を詠んだ「雲の峰幾つ崩て月の山」はどうでしょう。夏の季語である「雲の峰」は、俳諧式目の書『御傘』に「夏也。六月照日の時分に、白雲の空にたかき峯のやうにかさなるをいふ也」とあるそうです。

この句では「空にたかき峯のやうにかさなる」という「雲の峰」の本意を、「崩て」という表現で打ち返し、いくつも崩れた雲の峰を築き上げてあの神々しい月山となったのだと解釈することもできそうです。

このように「非歌枕」を詠みこんだ地名句からは、本意を打ち返して「新しみ」を打ち出すことに力点が置かれている句が見て取れるのです。

2016年1月20日水曜日

芭蕉『おくのほそ道』4

歌枕「二見」を詠み込んだ「蛤のふたみに別行秋ぞ」をみてみると、「一般に「蛤」が「二見」の枕詞になっており、「ふたみ」は「二見」(地名)と「蓋」「身」の掛詞、「行」は「別れ行く」と「行く秋」の二重の意を示唆している」(『おくのほそ道大全』)というように、枕詞や掛詞など和歌的な技巧がこらされています。

さらに金子俊之は、この句の前に置かれた「長月六日になれば、伊勢の迂宮おがまんと」という本文にも注目します。

伊勢参りの際にはまず二見を訪れて身を清めてから参るという当時の一般的なイメージを重ね合わせれば、この句も歌枕本意に沿うように作られた一句と見られるというのです。

このようにして、「歌枕」句は、①歌枕本意に沿うよう詠まれていること、②地名に別の意味をかけて詠んでいること、など地名そのものに工夫のこらされていることが見てとれ、加えて③和歌以来の伝統的な読み方を踏襲している、と考えられると金子はまとめています。

2016年1月19日火曜日

芭蕉『おくのほそ道』3

それでは、「歌枕」の句をいくつか眺めてみましょう。

まずは、「さみだれをあつめて早し最上川」です。

歌枕「最上川」を詠み込んだ歌には『兼好家集』の「最上川はやくぞまさるあま雲の登ればくだる五月雨のころ」があります。

また、飯尾宗祇の作とされる『名所方角抄』では、「最上川 早川也」とされています。

よく知られているように「さみだれをあつめて早し最上川」は、連句の挨拶吟だった初案の「五月雨を集て涼し」の「涼し」を「早し」に変えたものです。

「涼し」から「早し」への変更に関しては、「早川」としての本意に即したものという指摘〔大内蕉門等〕が、現在の共通理解とされています。

2016年1月18日月曜日

芭蕉『おくのほそ道』2

金子俊之は『おくのほそ道』所収の地名句として全27句を認定し、「歌枕」を詠み込んだ句、「非歌枕」を詠み込んだ句、芭蕉以外の作者の句(6句)に分けて、それぞれ本意の扱い方の特色を考察しています。

それによると、「歌枕」を詠んだ芭蕉の句は「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」(信夫)、「桜より松は二木を三月越シ」(武隈の松)、「さみだれをあつめて早し最上川」(最上川)、「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」(湯殿山)、「暑き日を海に入レたり最上川」(最上川)、「象潟や雨に西施がねぶの花」(象潟)、「わせの香や分入右は有ソ海」(有磯海)、「蛤のふたみに別行秋ぞ」(二見)の8句。

一方、「非歌枕」の地名句は「あらたうと青葉若葉の日の光」(日光)、「田一枚植て立去ル柳かな」(遊行柳)、「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」(笠島)、「蚤虱馬の尿する枕もと」(尿前の関)、「有難や雪をかほらす南谷」(南谷)、涼しさやほの三か月の羽黒山」(羽黒山)、「雲の峰幾つ崩て月の山」(月山)、「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」(あつみ山)、「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」(汐鶴)、「荒海や佐渡にようこたふ天河」(佐渡)、「しほらしき名や小松吹萩すゝき」(小松)、「山中や菊はたおらぬ湯の匂」(山中)の13句だったそうです。

「歌枕」句よりも「非歌枕」句のほうが多いということになるのです。

2016年1月17日日曜日

芭蕉『おくのほそ道』1

現代の女性詩人から一気に、日本の江戸時代へと飛んで、きょうからしばらく、最近読み直した芭蕉の『おくのほそ道』について考えてみたいと思います。

「拙者、三月節句過ぎ、早々松嶋の朧月見にとおもひ立ち候。白川・塩竈の桜、御浦やましかるべく候」

『おくのほそ道』の旅に出かける直前の元禄2(1689)年2月15日、尾張熱田の桐葉に宛てた書簡にこんな記述がみられます。

さらに、この年の1月ごろの伊賀上野の宗七宛てと見られるものにも「弥生に至り、待ち侘び候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより、北の国にめぐり」とあります。

こうした書簡などから、『おくのほそ道』の旅の目的は、歴代の歌びとたちによって詠み込まれた名所めぐり、すなわち歌枕探訪にあった、というのがいちおう通説になっているようです。

しかし、『おくのほそ道』で訪れているのは歌枕の地ばかりではありません。

たとえば桜井武次郎は「芭蕉は歌枕すなわち「名所」だけが念頭にあったのか、『奥の細道』を読んでいけば、「非名所」をも頻繁に訪れていることに気付くはずである」と指摘しています。

2016年1月5日火曜日

石垣りん「女湯」⑬

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

元旦、「粗末な衣装」に身をつつんで銭湯を後にした女性たちは家に帰って、きっと新年の食卓の準備に追われることになったことでしょう。

時代は異なる現代でも、お正月の忙しさから少し解放されて、この時節ほっとされている女性もきっとたくさんおられるのではないでしょうか。

「女湯」の舞台になった「1958年元旦」から20年ほど後に出版された詩集『略歴』に、「新年の食卓」という詩があります。

その中で詩人は、元日に顔を合わせた家族に向けて、詩人らしい奇妙な提案をしています。

  元日に
  家族そろって顔を合わせ
  おめでとう、と挨拶したら。

  そこであなたは
  どこからおいでになりましたか、と
  尋ねあうのも良いことです。

  ほんとうのことはだれも知らない
  不思議なえにし
  たとえ親と子の間柄でも
  いのちの来歴は語りきれない。

  そして取り囲む新年の食卓
  これは島
  手にした二本の箸の幅ほどに
  暮しの道はのびるだろう
  きょうから明日へと細く続くだろう。

近年のDNAによる進化の研究では、母方の家系をたどるとすべての人類は、十数万年ほど前に生きていたアフリカの一人の女性(ミトコンドリア・イブ)にたどりつくということのようです。

語りきれない不思議なえにし。それは、新年の食卓という「島」に集う家族にも、「女湯」のドロドロの浴槽に集う女性たちの間をも、結んでいます。そして、りんにとってそれは、言葉が取り持つ「えにし」でもあったのでしょう。

「長いあいだ言葉の中で生きてきて、このごろ驚くのは、その素晴らしさです。うまく言えませんけれど、これはひとつの富だと思います。人を限りないゆたかさへさそう力を持つもので、いいあんばいに言葉は、私有財産ではありません――。権利金を払わなければ、私が「私」という言葉を使えない。といったことのない、とてもいいものだと思います」(『ユーモアの鎖国』)。

石垣りんが亡くなって早いものでもう12年。2016年元旦の「女湯」には、どんな光景が広がっていたのでしょうか。そして、どんな「えにし」が生まれていくことになるのでしょうか。

2016年1月4日月曜日

石垣りん「女湯」⑫

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

  こうして日本のヴイナスは
  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

  文化も文明も
  まだアンモニア臭をただよわせている
  未開の
  ドロドロの浴槽である。

りんは「女湯」について、自著『ユーモアの鎖国』に次のように記しています。

〈「野火」に連載されている伊藤桂一さんの〈抒情詩入門〉を愛読しておりますが、そのなかの――余韻のある読後感――で“匂い立つ後味こそ、大切”と、書いていられました。

ここに掲げた「女湯」は、匂い立つ後味に欠けているため、私のあまり好む詩ではありません。公衆浴場の、言ってみれば風俗詩のようなもので、匂うものがあるとすれば、作者も鼻をつまみたくなるような臭気ばかりです。

けれど、ドロドロの汚れの中で、女達がすっくりと健康な裸を上気させ、洗い清めることをしていた。安い石鹸で、彼女たちはそのことをしていた、明日を迎える儀式のように。

お風呂屋さんもひとつの社会です。その悪条件の中から、一人一人からだを拭いて上がってゆく姿を美しいと思いました。

ゴマジオ色のパーマネント、は事実をありのままに書いたものです。私は多少のおかしさをこらえ、日本のヴィナスを見た、と思いました。〉

風呂を上がった「日本のヴイナス」たちは銭湯を後にして、新年を迎えた家に帰っていきます。

新年になったといっても、そこにはさっそくお節振舞の準備や集まった家族たちの世話など、女性たちにとってはいつもにも増して忙しい家事が待っているのです。でも、そこは、いつもとは違う浮き立つような特別な「家」でもあります。

  「新年」
  それは昨日に続く今日の上
  日常というやや平坦な場所に
  言葉が建てた素晴らしい家、
  世界中の人の心が
  何の疑いもなく引越して行きました。

ある年の12月はじめ、りんのもとに速達が届きました。新年のはがきに刷り込むから8行以内の詩を書くようにという高崎市の音楽茶房からの依頼でした。それで書かれたのが、この詩。このときはボツになってしまったそうですが。

それはともかく、「新年」というのは、昨日から今日へと続いていく流れの上に建てられるもの、というのは女性である詩人の実感でしょう。

りんが生涯にわたってさぐりつづけた言葉が建てた「素晴らしい家」。銭湯でぴかぴかになった「日本のヴイナス」たちも、なんの疑いもなくそこへと引っ越していくのです。

2016年1月3日日曜日

石垣りん「女湯」⑪

  手に残る小さな石鹸は今でこそ二十円だが
  お金で買えない日があった
  石鹸のない日にはお米もなかった
  お米のない日には
  お義母さんの情も私の椀に乏しくて
  人中で気取っていても心は餓鬼となり果てた、

  その思い出を落すのにも
  こころのよごれを落すのにも
  やはり要るものがある
  生活をゆたかにする、生活を明るくする
  日常になくてならぬものが、ある。

  日常になくてならぬものがないと
  あるはずのものまで消えてしまう
  たとえば優しい情愛や礼節
  そんなものまで乏しくなる。

  私は石鹸のある喜びを深く思う
  これのない日があった
  その時
  白いものが白くこの世に在ることは出来なかった、

  忘れられないことである。

りんの「白いものが」という詩の後半部分です。日本に石鹸が入ってきたのは16世紀、種子島へ鉄砲が伝来したのと同じころと考えられています。

交易のあったポルトガルの船が運んできました。当時は、大名など特別な人しか手にすることはできないたいへんな貴重品で、洗剤というより下剤などの薬として使われていたようです。

1890(明治23)年10月に、国内初のブランド石鹸「花王石鹸」が発売されます。桐箱入り3個で35銭、顔も洗える高品質が売りで、“かお”の読みが入った「花王」という名前になったといいます。

当時は米1升6~9銭だったそうですから、庶民には“高嶺の花”でもあったのでしょう。明治の終わりになると価格はだいぶ下がって、庶民でも洗顔や入浴に石鹸を使えるようになりました。

戦前までは、ポルトガル語やスペイン語の読みに近い“シャボン”と呼ばれることも多かったようです。

  石鹸のない日にはお米もなかった
  お米のない日には
  お義母さんの情も私の椀に乏しくて
  人中で気取っていても心は餓鬼となり果てた、

  その思い出を落すのにも
  こころのよごれを落すのにも
  やはり要るものがある

そんな「白いもの」である石鹸のある喜びを、詩人は深く感じています。体内のアンモニアはふつう、尿素に変換されて尿と一緒に排出されます。

でも、疲労が溜まっていたり、体の調子が悪かったりすると、この変換がうまくいかなくなって、体でできるアンモニアが汗とともに放出されるようになるのです。

「女湯」の浴室からは、溜まった女性たちの疲れが凝縮されたアンモニア臭も漂ってきます。

  脂と垢で茶ににごり
  毛などからむ藻のようなものがただよう
  湯舟の湯
  を盛り上げ、あふれさせる
  はいつている人間の血の多量、

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

皮膚から分泌される脂、こびり付いた垢やアンモニア臭、それに心にまとわりついたもろもろ、そうした1年間の“汚れ”が、白いシャボンの泡とともに洗い流されていく。そして美しいヴィーナスに生まれ変わるのです。

2016年1月2日土曜日

石垣りん「女湯」⑩

最近、ずいぶんと銭湯とはご無沙汰なので知らなかったのですが、東京都の公衆浴場の入浴料金は、大人(中学生以上)460円、小学生180円、小学生未満は80円のようです

  一九五八年元旦の午前0時
  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

東京都公衆浴場業生活衛生同業組合の資料によると、この「女湯」の時点の入浴料は、大人16円、小学生12円、小学生未満6円でした。

はがきが5円、たばこのゴールデンバット30円、 ビール1本113円、国鉄の初乗り10円、新聞購読月330 円、封切りの映画が150円の時代です。

1957(昭和32)年の物価上昇率は、3.1%。高度成長期に入り、物価が年々上がるのが常となっていました。「一九五八年元旦」の2カ月前にも、銭湯の料金は値上がりをしています。

大人15円、小学生12円、小学生未満6円だったのが、大人だけ1円値上がりしたのです。それまで10円玉と5円玉1個ずつ、夫婦で入れば10円玉3枚で済んでいたのが、1円玉が1枚、2枚と余分に必要になりました。

入浴料は、その後もコンスタントに上がり続けていきます。1960(昭和35)年7月には大人17円、小学生13円、小学生未満7円に、2年後の昭和37年1月には大人19円、小学生15円、小学生未満8円 になりました。

そのときのことについて、「銭湯で」というりんの詩があります。

  東京では
  公衆浴場が十九円に値上げしたので
  番台で二十円払うと
  一円おつりがくる。

  一円はいらない、
  と言えるほど
  女たちは暮しにゆとりがなかったので
  たしかにつりを受け取るものの
  一円のやり場に困って
  洗面道具のなかに落としたりする。

  おかげで
  たっぷりお湯につかり
  石鹸のとばっちりなどかぶって
  ごきげんなアルミ貨。

  一円は将棋なら歩のような位で
  お湯の中で
  今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

  お金に
  値打ちのないことのしあわせ。

  一円玉は
  千円札ほど人に苦労もかけず
  一万円札ほど罪深くもなく
  はだかで健康な女たちと一緒に
  お風呂などにはいっている。

デフレのどん底からアベノミクスによる物価の上昇、さらには消費税の導入、税率の引き上げと、「一円玉」が気にかかるようになってきた昨今。「歩のような位」の一円玉が、妙に重さを増しているように思われます。

2016年1月1日金曜日

石垣りん「女湯」⑨

あけましておめでとうございます。年が明けてもひきつづき、石垣りん「女湯」を読んでいきます。

1955年に発行された鮎川信夫『現代詩作法』や、小野十三郎の『現代詩入門』、1955年から1956年にかけて3巻本として出された『現代作詩辞典』など、石垣りんが「女湯」を書いたころに出た現代詩の入門書が、私の手元にもたくさんあります。

りんは小学生の時から、見よう見まねで詩を書き始めました。

「散文とは違った形の表現方法、短歌とか、俳句とか、そのころではまだなじみの薄い、詩の形のあること」(『ユーモアの鎖国』)がりんをひきつけ、少女雑誌などに投稿を繰り返したのです。

14歳で日本興業銀行に就職し、見習から正式な事務員となった1938(昭和13)年には、当時は珍しい女性文芸誌の投稿詩の選者をしていた福田正夫の指導で、女性だけの雑誌「断層」を創刊します。

女性が読み書きすることが、忌み嫌われていた時代です。きっと、それ相応の覚悟と勇気がいってのことでしょう。

戦後になると、詩をはじめとする職場での文芸活動も盛り上がりをみせます。1951(昭和26)年には、組合の機関誌に載せた詩が、全国銀行従業員組合連合会のアンソロジー『銀行員の詩集』の選者だった壺井繁治、大木惇夫の目にとまって「原子童話」など3篇が採用されました。

翌年の『銀行員の詩集』にも、伊藤信吉、野間宏選で「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」ほか3篇が収録されています。

こうしてりんは、“銀行員詩人”として知られるようになっていくのです。職場の文化部の催しなどで面識のあった、選者の一人、壺井繁治について、りんは次のように書いています。

〈「銀行員の詩集の選者を引き受けたのはいいけれど」と言って、壺井先生は目をまるくし、「目方で量ったほうがいいくらい原稿を持ちこまれた」とこんどは目をしばたたき、うすい唇の先をちょっととがらせたようにすぼめたあとは、低い声で大笑いされた。

このことは、あと一度ならず話題にされたから、よほど骨の折れる仕事だったに違いない。その中に私の何篇かも目方として含まれていた。私はその重みほどの掌を先生のいまはない肩において、お礼と、別れの挨拶を申し上げたいと思う」(1975・11「詩人会議」)。

現在、会社や役所の職場で、現代詩のサークルがどれくらいあるでしょう。私のいた職場では、句会はしばしば開かれていましたが、現代詩関係の集まりなど聞いたこともありません。むしろ、詩がどうのと言えば“変人”として扱われるのが常でした。

毎日毎日、ヒマさえあれば選に追われて大変、といった声を俳句結社の主宰者からよく聞きます。しかし、現代詩人から、賞の選考以外でこうした声を聞くことはあまりありません。

カルチャーセンターには俳句や短歌の講座がずらりと並び、有名な俳人や歌人の講座には受講者が殺到します。私もそんな受講者の一人ですが。

しかし現代詩の講座はあまり見かけません。俳句や短歌の入門書はたいていどんな本屋でも置かれていますが、「現代詩作法」「現代詩入門」といった本は、もう古書店でないと手に入らないようになりました。

そんな昨今とはちがって、りんがバリバリ書いていた時代は、詩壇だけでなく、職場でも、サークルでも、学校でも、詩が、盛んに読まれ、書かれ、光り輝いていたのです。