2016年2月29日月曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「かかるとき我生く」

きょうは、「宗教」の次に出てくる、5行だけの短い詩「かかるとき我生く」です。

   かかるとき我生く

大気(き) 澄(す)み 蒼穹(そら)晴れ 野禽(とり)は来啼(な)けり
青き馬 流れに憩(いこ)ひ彳(た)ち
繊弱(かぼそ)き草(くさ)のひと葉ひと葉 日光(ひざし)に喘(あへ)ぎ
『今(いま)』の時晷(とけい)はあらく吐息(といき)す
かかるとき我(われ) 生(い)く



「彳」は、字音は「テキ」「チャク」、訓読みは「たたずむ」。「小步なり。人の脛の三屬相ひ連なるに象るなり」(説文解字)、「行は十字路の姿を描いた象形文字。十字路の左半分だけを描いたのが彳印」(漢字源)などとあります。「ついと前に進み出る」「少しずつ歩く」「佇む」といった意味のようです。

「時晷」の「晷」は、「咎(とが)める」などで使う「咎(キュウ、コウ)」のうえに「日」を載せた漢字です。「時計」ではなく「時晷」なのです。

『学研漢和大字典』によると「晷」の読みは「キ」。意味はーー

①ひかげ 地上にうつった柱のかげ。転じて広く、日光によって生じるかげのこと。「日晷(ニッキ)」(日かげ、日時計)、「晷刻(キコク)」(時刻、とき)

②ひどけい 影の長さで時をはかるとけい。▽昔、八尺(または十尺)の柱を地上にたて、その影の最長の日を冬至、最短の日を夏至と定めた。

③はかる 時をはかるまた解字として、咎は、人がつまずいて進めないこと。さしつかえ、とがの意に用いる。晷は「日+咎(つかえる、くぎる)」の会意文字で、日のかげによって時をくぎること。

とありました。こうして見てくると、「時計」ではなく「時晷」でなくては、この詩はしっくりしないことがわかってきます。

2016年2月28日日曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「宗教」

これから信州・飯田出身の詩人、日夏耿之介(1890-1971)の『転身の頌』の詩作品を読んでいきます。ですが、これまで読んだ「序」でもわかるように、耿之介の作品は、ざっと読むというだけでも一筋縄には行きません。

それは、私の教養が乏しいから、というだけでもなさそうです。耿之介を非常に高く評価してした清岡卓行ですら、『転身の頌』と同じ年に出版された萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』に「溺れているような状態であった」とき目にした『転身の頌』の詩について、次のように記しています。

「日夏耿之介の詩における、むずかしい漢字の使用、漢字の音訓がときどき特異であること、あるいは、文語で書かれているにしろ、文語的な口語で書かれているにしろ、言葉のリズムが多くの場合、最初の接触においては流麗ではないと感じられること、こうしたことなどにいくらか辟易したのであった」

それどころか私などには、耿之介の詩をワープロで打つというだけでも「辟易」させられるときがあります。ですが、苦労して漢字変換をしてみると、そこに言葉というものの幅広さ、奥深さが垣間見られたような、思わぬ発見にワクワク感を覚えることも少なくありません。

というわけで、いまの私に耿之介の詩をきちんと読み解く能力は、とてもありませんが、それを書き写して眺めてみるだけでも十分に楽しめる気がしています。

詳しい読みは別の機会にゆずり、これからしばらくの間、朔太郎の『月に吠える』と同じ年に出た、こちらもまた日本近代詩にとっての記念碑的な詩集『転身の頌』の全詩をざっと眺めてみることにします。きょうは、その冒頭の「宗教」です。


   宗教

孟春(はる) 朝(あさ)まだき
雨後(うご)のあした
ーー善良の「人の子」ら咸(みな)睡るーー
雑木林(ざふぼくりん)に擾(ささ)げる胸赤きROBINを矚(み)しか
心かなしみかぎりなく
大地に耳(みみ)ふせ
忌忌(ゆゆ)しき泪(なみだ)の脈拍(みゃくはく)を心に聴きて
泉のごとくに笑へる也
心ーーなんの歓喜(くわんき)ぞーー純白不二(じゅんぱくふじ)にして
杳かなる神に呼吸(いき)すれば
地は息忙(いきせは)しくわが瓦斯体を吸収(きふしふ)せむとす
かかるとき
水枝(みづえ)に来啼く野の禽(とり)のさけびを聴け
翼(つばさ)あるものは 歌(うた)うたへる也

心さびし
乱声(らんざう)の悲しき禽(とり)よ
おんみら亦ともに呼吸(いき)するや
烏乎(ああ) 地は萌えいづるもろもろの陰影(かげ)を察よ
春天(はる)は大地(たいち)とともに溶解(とけ)さりぬ

この呼吸を悟(し)る耶(か)

   ◇

詩の中の「ROBIN」は「Robin redbreast」の略で、胸の毛がだいだい色をしているコマドリ=写真、wiki=のことです。

2016年2月27日土曜日

日夏耿之介『転身の頌』序⑦

 きょうは『転身の頌』序の「十一」から、最後の「十三」までです。

十一

本集は七章に分れてゐるが、自分の心性を跡づけるものは、『古風な月』を第一とし『羞明』と、『黙禱』を経て『転身』に及ぶ。

『古風な月』は、内なるものが、未だ覚めなかつた稚醇時代の追憶の片身である。

外生の重積に圧せられて、歔欷と悲鳴と憤激とを継続しながら、尚最も静謐な万有の固有表情の芸術上内在美に憧れた一種偏失の情調であつた。

此の月光惝怳者は、単なる羅漫底格としては余りに古典的な――古雅、温籍、寂静、冷艶の様式美――歪んだ、曲つた、朧銀の燻つた光の心を所有してゐた。

古風な月の光は病弱な心身を照す。

稚き心は、今目覚めようとする孩子のやうに、明るみに眼をしぼしぼさせて、じつと心の海に波打つ声を聴いてゐる。

外生の襲撃にあへば、貝類のやうに忙しく蓋をしてしまふのであるが開かないでは止まない勢力に押し出されて、またおづおづと小心の瞳を瞠かむとする。

かすかに指し込む月夜の世界に躍り狂ふ己が心の化怪の姿に自づと魅惑せられて、次第に薄ら明るむ昧爽を苛立たしく誇らしく、心待ちに待つてゐた。

十二

『羞明』は来た。病弱の身と怯懦の心が欣求する楽欲の世界に吾れから闖入して絶望の自己狂歓が開かれた。

官能の理想主義者ガブリエエレ・ダヌンチヨに傾倒した十八歳より二十三歳に及ぶ数年間は、青春の血潮の変形である。

柔かい、脆い、そこはかとなくおぼろめく情趣から沸き上つた気軽な思想に狂ひわめいてゐたので、本性の肉体上脆弱に眼を閉ぢ、感覚の悦楽に只々心の触覚を指し向けてゐた。

されば、官能の対象に身を浴びても、快楽としてよりは寧ろ雙端の力の軋めきから生れる痛苦としてのみより多く残つた。

自ら肯定する歓楽の論理と実際とが余りに相抗の激しいものであるに愕き乍ら、他に執心の何ものをも獲得する術を自ら考慮しない為、苦笑して尚惰性的に焦燥の月日を過した。

享楽は自分にとつて多く概念的に終始した。

病が進み、血潮が衰へた時、わが父は狂者として爾後三年間、わが母と、兄弟との専念の看護により、生ける屍を照る日の下に横たへた。

自分の心の羞明は此の時赤道下を航下した。何者をも斥けた自分は殉情的に何者をも容れ、何者にも縋らんとした。

『黙禱』につづく、『転身』の時が来る。

『生涯には顔から火の出るやうな失敗の五六は誰にもあるもの』
 と世慣れたモンテイヌが著書に於て自分に教へた言葉にたより、狂熱の夢の間を過ぎ来つた自分はすべてを恥かしい懺悔に埋める。

十三

心緒の沈潜に伴れてスピノザが汎神論の万有観を予は凝視した。また、密林の水枝に神の顔を眺め、濁江の底に神の声をききかつ怕れた、稚き神観の経験者の凡て然るが如くに、予は朝祷し昼祷し、夜更けて尚黙禱静思した。

予の肉身は重き空気の中心から瓦斯体の如くに浮び出でた。触目するものは悉く皆回転しはじめた。遠方に叫ぶ野獣の姿を見た。青空の中に散布された星群を見た。

月光惝悦者は日輪の羞明を経て、カアライルが所謂久遠転身Perpetual Metamorphosesの星の瞬きを幻惑し、かつ祈り、かつ思ひ、読書とVisionとの閑寂な微笑の月日を躊躇せずに受け容れた。

策迷の触手は、なほ不断にあらゆる十方の物象を指さす。謬り肥え太つた擬文化の酸敗として今次の世界戦役が開かれた。此の文化。文化の断滅即ち人類の永遠――此の撞着せる命題に威嚇せらるる現代文化。

1917年2月22日誕辰 鎌倉 日夏耿之介


「十一」に出てくる「羅曼底格」。漱石の友人で『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭のモデルとされる大塚保治の論文「ロマンチックを論じて我邦文芸の現況に及ぶ」(1902年)の別タイトルは、「羅曼底格論」となっています。

「孩子」(がいし)は、中国語で子供のこと。「昧爽」(まいそう)は、明け方のほの暗い時を指します。

「十二」の「ガブリエエレ・ダヌンチヨ」(Gabriele D'Annunzio、1863-1938)=写真、wiki=は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆的な政治的活動を行ったことで知られています。日本では、三島由紀夫も、大きな影響を受けたようです。

「享楽は自分にとつて多く概念的に終始した」という一文は、耿之介をしる一つのヒントになるかもしれません。

「羞明」(しゅうめい)は英語でphotophobia。医学的には、強い光を受けたときに、不快感や眼の痛みなどを生じることで眼や神経の疾患が疑われます。鴎外の「青年」に「鈍い頭痛がしていて、目に羞明を感じる」とあります。

「モンテイヌ」は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表するモラリスト、ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne、1533~1592)。「著書」というのは、主著の『エセー(Essais、随想録)』でしょうか。

「十三」の「スピノザ」(Baruch De Spinoza、1632-1677)は、オランダの哲学者、神学者。デカルトやライプニッツとならぶ合理主義哲学者として知られ、ドイツ観念論やフランス現代思想へも大きな影響を与えました。「汎神論」は、すべてのものや概念、法則が神の顕現であり神性を持つ、あるいは神そのものとみる思想、世界観のことです。

「カアライル」(Thomas Carlyle、 1795-1881)は、19世紀イギリスの歴史家・評論家。ヴィクトリア朝時代を代表する言論人であった。代表作に、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』など。神、預言者、詩人、帝王など「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことで知られています。

2016年2月26日金曜日

日夏耿之介『転身の頌』序⑥

 きょうは『転身の頌』序の「八」から「十」です。



古代波斯白毛道衣派(スーフヰズム)哲人の一人が、たまたまの法悦に陥つた際、『われは神なり』と称えへ、天界の極秘を悉く其の徒弟等に伝へた。

事は数回反復された。一人の徒弟がある日の恍惚から覚めた師にこれを告げた。

哲人は面色を変へて愕き、且つ徒弟の情を謝し、さて『かかる事が将来再び繰り返されたならば、直ちにこれで己れを刺してくれ』と一振の短刀を手渡した。

翌日、師はまた法悦に入つて天界の秘を伝へ初めた。徒弟は矢庭に飛び掛かつて師の咽喉を刺した。

此の時、短刀は鉄板に当つたやうに撥ね返つて、徒弟の咽喉深く突き刺つた。

法悦は神の意志である。個体は選ばれた神子である。人力以上の処に超人力が在る。天才は神から下つたか。人から上つたか。



『まことの詩は、詩人でなくて詩人其のものである。』われらは詩の透明な光を、内なる世界より仮象世界へ、抽象より具象へ軈て紙上に捕獲せむとする慾望に捉はれる。このとき言葉が生れる。

言葉は仮りの媒介者であるが、内なる世界に交渉の度合深ければ深いだけ言葉を愛籠する情致が深くなる。言葉は、それに泥みすぎることのない程度で専念に磨かねばならぬ。

心性史の金鉱から掘り出された言葉の粗金(あらがね)は、磨くに従つて燦然の光を放つ、此の時自づから言葉は詩興の壺に嵌まる。言葉を絶対に駆使するには、彼等をその伝統の羈絆から切り放たねばならぬ。

言葉は心の庭で心が磨き出しやがて形の与へられるのであるが、其の歴史を一一に亡ぼして新しい個性を与へねばならぬ。性命の鮮血をそそがねばならぬ。



象形文字の精霊は、多く視覚を通じ大脳に伝達される。音調以外のあらゆるものは視覚に倚らねばならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命である。

この『黄金均衡(ゴールドウン・アベレイジ)』を逸すると、単に断滅の噪音のみが余計に響かれる。

象形文字を使用する本邦現代の言語は、其の不完全な語法上制約に縛られて、複雑の思想と多様の韻律とを鳴りひびかするに先天的の不具である。

文語と日常語的文語との各区分もややこしい問題である。

多くの議論以上、われらは今の日常語を完成する使命を痛感してゐる。

内なる世界を顧みると、われらは詩作に際し、此の痛感以外に、以上三体の言葉を自由に種別に順応せしめて使用したい欲求を有つことを余儀なくされる。

此の詩集には主として文語使用の詩篇のみを集成したが、所詮、読者自ら、文語の固陋な因習の邪悪的半面から努力して蝉脱する時、簡勁の古文体詩篇も自ら全く鮮やかに新しい近代の性命を帯びて再生するであらう。

此の集の永遠性の一部を此の点に鉤掛ける。


「波斯」は、ペルシャ。「白毛道衣派(スーフヰズム)」すなわちスーフィズム(Sufism)は、イスラーム教の神秘主義哲学。担い手のスーフィーにイズムをつけて、こう呼ばれたそうです。

スーフィズムでは、導師の指導のもと禁欲的で厳しい修行をするそうです。白い布状の服を身につけて一心不乱にまわる回旋舞踊(ズィクル)とうものをして、神との一体化を求めるということです=写真、wiki。

「九」では、「まことの詩は、詩人でなくて詩人其のものである」などと、言葉と詩についての耿之介の考え方が明確に示されています。

「羈絆」(きはん)は、「羈」も「絆」も牛馬をつなぎとめるものの意であるところから、行動する者の妨げになるものや事柄。きずな。ほだし。束縛。寺田寅彦の「藤棚の陰」に「この世の羈絆と濁穢(じょくえ)を脱ぎ捨てる」とあります。

「十」の「断滅」は、字の通り、絶やし滅ぼすこと。「噪音」は、 振動が不規則で、振動時間がきわめて短く、音の高さが特定できない音。あるいは、騒音のことをいいます。

「三体の言葉」とは、「文語」「日常語的文語」「日常語」ということでしょうか。「簡勁」は、言葉・文章などが、簡潔で力強いことをいいます。

2016年2月25日木曜日

日夏耿之介『転身の頌』序⑤

 きょうは『転身の頌』序の「六」と「七」です。



かかる傾向は、天才をも且つ賤民の酒料のために不当の労役に服させ、彼岸の友をも覗ふ火器をも負はしめる。

謬り進められた文化、不消化の教養、悪の一旦の勝利は世界戦争の第一の口火を点じた。此の戦役は悪疾の年重つた末に迸り出た膿血である。

若しかかる戦ひが、ある善良な結果を導くとしたら、それは少くとも前世紀から今代に及ぶ文化の根本精神の触手が恒に不断に悪傾向に向つてのみ増進させられて来たと云ふ恐ろしい事実の自覚を強ひる迄にある。

近代民主々義の実生活上の理想は、正しい民、謙虚ある民、神を跪拝することを知る民による民主ではない。

既に、覚醒は彼らの大脳を刺衝して居る。彼等は根底より改更しなければならぬ。

正しき文化の様式は、まことの人間の生活型式は、何時の時代にも恒に天才の脳裡にのみあつて覚認(リヤラヰズ)される。

民人は天才の前に昔の神に対するのと等しき謙仰にて礼拝しなければならぬ。

そして天才の幻覚の裡から万能の審士の正しき箛を吹奏させなければならぬ。かく励むは民人の与へられたる責務である故に。



霊感の神馬(ペガサス)に鞭打つて天界に徜徉する詩家と、思念の綱を手繰つて実在の聖体盒に参ずる哲人と(優れた宗門の偉材は、両個を兼ねたるもあれば、其の一により法悦の秘観に入るもある)は、偏寵の神子である故に、神の意志による人間霊性の最大級の奔躍が彼らによつて試される。

この使命は自然の自発的意欲である。この出産は混沌に於ける炎の出現である。かれらの足跡は一一に神の業績である。

経験の種々相と眼前に展開された現象界の華麗に眩惑されて、人間は神の物の中心の心根を読む術を識らぬ。

各時代於て凡そ衆愚は霊性頽廃の断崖に彳み、思慮するところなく神の御国のための正義に罵詈の癡言を吐く真理の仇敵である。

天才を神の御国に働かしめるのは神の意志である。天才を人界で働かしめるのは民人の責務である。

天才は神と人との溝渠に横たはる桟橋である。今代民主々義の理想は、この桟橋に向つて火を放たむとする。

黒金の如く堅固に孔雀の如く壮麗な真理は恒に孤寂と崇貴との間にのみ産れる。


この詩集は、人類史上最初の「世界戦争」である第1次世界大戦(1914-1918)の最中に出版されました。第2次世界大戦が勃発する以前はまさに「World War」と呼ばれていました。

後に「大正デモクラシイ詩壇」からの批判にさらされる天才主義的、高踏派的な考え方が端的に述べられています。

「神馬(ペガサス)」=写真、wiki=は、ギリシア神話に登場する伝説の生物で、鳥の翼を持ち、空を飛ぶことができる馬。「霊感」の象徴とも、されています。

「盒」(ごう)は、飯盒などとして使われますが、中国語では小箱、ケースといった意味があるようです。上田敏の「海潮音」に「日や落入りて溺るゝは、凝るゆふべの血潮雲、 君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒」などとあります。

「罵詈」(ばり)は、罵詈雑言といわれるように、口汚くののしること。「癡言」(ちげん)は、いいかげんな言葉、たわごと。

2016年2月24日水曜日

日夏耿之介『転身の頌』序④

 きょうは『転身の頌』序の「四」と「五」です。



特に、科学の破産を経験し既成宗教の更改と其の新しき見方説き方に腐心する現代にあつて一部の注心を索いてゐる媒霊者らの提示した心象の諸問題は、上代煉金道人らの残して去つた不思議な心緒の自由な飛躍とともに、ブレイクの幻覚した小動物の精霊に関する描写や、イエイツがたまたまなる生霊徜徉の記録などに完き芸術上表現を得てゐるが、すべて表現に依る離脱、芸術に依る霊覚を経験した選ばれし人々のフレクシブルな心霊は、かうして、詩家稟賦の詩技の黄金の鍵により、久遠の国の関の扉をただ貧しい心持で一杯に押し開く。



詩技の事は稟性神賜であつて、後天の精進は、末梢を矯め直し、詩家純真の気稟をば、邪路に迷はぬやう、延延と快活に育むのに過ぎぬ。

専念の努力が遂に熟達の境に臻つた例は、画事に多く見るが、多くそれは、ある後天の生理、人為、偶発の障礙に匿され、長く仮睡してゐた本然の徳質がたまたまの精進により瞭確に闡明せられたに過ぎぬ。

この民主の時代に於て、心性鈍(うとま)しく真純の気稟に乏しい迷蒙不遜な民人が、軽佻な野望に駆られ劣材を頼んで芸術の神壇を蹂躙し汚損して憚らぬのは允し難い瀆神の一種である。

民に知らしむべからずとした本邦中世期の芸術的理想を今尚踏襲するものと迷断してはならぬ。

芸術は人間最高の心的活動の一である。

純劣不遜の民人が頓悟して此の祕壇を垣間見んとならば、若き沙門の修道の如き心にて其の知見の誇りを捨て芸術の理想の大旛の前に跪拝せよ。

秘壇の回転扉は十方の心貧しい巡礼をこばまない。

今の民主的理想を狂信する事深き輩は、神聖壇を象牙の塔よりささげ出でて巷の十字街に置く。これは許さるべき進展である。

然し、不遜と選賤劣との外に何物もない民人の凡ての安閑たる懶惰に便するために、彼等は全く芸術本然の不可思議性を閑却して何等かの型式に於て第二義芸術の制作に自足してゐる。

民人を愛撫せずして、民人の概念を愛撫する事に耽湎してゐる。

かくして民人は弥が上にも不遜と賤劣に堕してゆく。従つてそれらの理想は、誠に民人のためではなくて、『彼等の民人の概念』のために、芸術を劣等化して了ふ。

現代の民人は幸福にも、不真面目に腹這ひしてゐながら、懇切に口辺まで当てがつてくれる芸術家の芸術的食料品を不消化のまま呑み下す。

然し、遂に、最も善良な芸術は、必ずしも衆俗凡ての味解を待つことはできぬ。

足を投げ出した民人らに尊き芸術品の凡てを易く嗜むことは許されぬ。民主的時代の衆民は、心より芸苑に至るの道を知らぬ阻はれた思想上の賤民である。


「ブレイク」=写真、wiki=は、イギリスの詩人、画家のWilliam Blake(1757-1827)。銅版画職人。『ミルトン』の序詞「And did those feet in ancient time」に音楽が付けられたものが、事実上のイングランド国歌として知られています。

「幻視者」(Visionary)の異名を持ち、唯理神ユリゼンやロスなどの神話的登場人物が現れる『四人のゾアたち』など預言書と呼ばれる作品群で、独自の象徴的神話体系を構築しました。

「イエイツ」は、アイルランドの詩人、劇作家のWilliam Butler Yeats(1865-1939)。ロマン主義、神秘主義、モダニズムを吸収、イギリスの神秘主義秘密結社「黄金の夜明け団」のメンバーでもありました。

「徜徉」(しょうよう)は、気ままに歩き回ること、逍遥。「稟賦」(ひんぷ)は、生まれつきの性質、稟性、稟質。

「五」では「詩技の事は稟性神賜」つまり、詩をつくるとは、生まれつきの、天賦の性質、稟質で、神からの賜りものだ、といいます。

「頓悟」とは、長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと。「旛」は、仏や菩薩などを荘厳、供養し、その威徳を標示する旗のことをいいます。

「第二義」は、根本的でないこと、さして重要でないこと。桑原武夫の「第二芸術 ―現代俳句について―」が出て、第二芸術論争がはじまったのは、この詩集が出て約30年後のことです。

『転身の頌序』が出版された1917(大正6)年には、ロシア革命が勃発しました。2年後の1919年(大正8)年には、耿之介の母校、早稲田大学で「民人(みんじん)同盟会」が発足。高津正道、浅沼稲次郎、稲村隆一らが参加して「デモクラシーの普及徹底によって新時代の埠頭に立つ」と歌い上げていました。

2016年2月23日火曜日

日夏耿之介『転身の頌』序③

 きょうは、『転身の頌』序の「三」です。



美の狂歓に倚るジヨン・キイツの離脱は、純主観の古希臘主義を圧縮して
「美は真なれ 真こそ美なれ」
の高き道を踏んだとき、オリュムポスの山上に幻感した異教諸神の巨手によつて緑明の中空に描き出された物心一如のCockaigneである。

ロゼッティが詩集『性命の家』に於ける麗人の美貌に力服されるのは、かの覚認せられた肉塊の秘奥に安坐する神意の不可思議性を織巧に感悟し得たからである。

これら陶酔者の三昧境は、リュカデイヤ巌頭の古代女詩人が、『うるはしきヘラスの全図よりも、少人よ、おん身を』と叫んだ至情、ウーマル・カイヨムの悲劇、サーディの想念とともに悉くわれらの心浄く磨き出され欣求の力強い修道の果として高きより恵まれたる地上楽園だからである。

繊く青白い病詩人の生命の小函にも、信と愛と望とにかがやいた天人の黒瞳は宿る。かかるとき、身肉は征服せられ、裸身にして清き心意は霊内融会の一視点に凝縮せられる。

又、かかる場合と反して、エミリ・ブロンテが女性らしき、青く澄み切つた晩祈に倚る忘我や、ジェエフリーズ、ウヮズウォース達が、自然界の核心深く食ひ込む凝視の黒く冴えわたつた心眼にも、同じく、物の象を掴むで、象の奥に眼をひたと瞑ぢて横臥する心の完き生命を掘り出す性命力が確存し、美に倚る解説者が美を愕くべき透視力で眺めて美の奥の力に想到する様に、彼等は物象を祈念の涙で力服して、霧霽れて緑の山々が姿を現ずるやうに、物の象は淡雪のごとくに溶けさり、すべて万有の精神は悠久の力を帯び神霊となつて顕現する。

かくどのやうに違つた様式による芸術も、変つた流派も、表現人の性命自らが偉大なれば偉大であるだけ深刻に精緻に瞭確に宇宙実在の基本精神を発見し、新しき創造の歓喜を一身に浴びて神人合致の福祉に参しうる。


「ジヨン・キイツ(John Keats、1795-1821)は「ギリシャの古壺のオード」(Ode on a Grecian Urn)、「秋に寄せて」(To Autumn)などで知られる英国ロマン主義の詩人。結核を患い25歳の若さで亡くなっています。ローマの新教徒墓地に葬られ、墓石には「その名を水に書かれし者ここに眠る("Here lies one whose name was writ in water")」と彫られているそうです。

「ロゼッティ」は、19世紀英国の画家・詩人ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ Dante Gabriel Rossetti(1828-1882)=写真、wiki=のことでしょう。詩集『生命の家』(“The House of Life”1871)は、彼が手がけていたステンドグラス製作の共同制作者ウィリアム・モリスの妻ジェーンとの愛を綴った101篇のソネットからなり、ペトラルカンソネットと呼ばれるイタリアの古典詩の様式を模し、abba+acca+dde+ffeという脚韻を踏んでいます。

「Cockaigne」は、コケーニュ。贅沢と怠惰の想像上の土地、逸楽の国。中世ヨーロッパのユートピアの一つ、とされました。

「霊肉融会」は、とけて一つに集まること。 子規の「獺祭書屋俳話」に「神理天工、一心一手の間に融会して」

『嵐が丘』の「エミリ・ブロンテ」(Emily Jane Brontë、1818-1848)は、「No Coward Soul is Mine(私の魂は怯懦ではない)」など抒情詩人としても知られています。

2016年2月22日月曜日

日夏耿之介『転身の頌』序②

 きょうは、『転身の頌』序の「二」です。



貧しきわれにも、夜更けてしばしば病苦に眼覚め、一二時間の枯坐観想を強ひられるとき特に、あるひは白日の閑寂な密林、光り眩ゆい海辺の散策の折りなどにも、また偉人の残し与へた古名品に臨む時などにも、言ひ表はし得ない快活なたましひが、渾身の血潮を悦ばしい力に充ち満ちた、しかし淑やかな奔躍に駆り、肉身はかすかに顫へて、ものとしもないときめきに胸わななく一瞬時がある。

この時夜ならば枕頭にいつも置いてある白紙に焦慮することなく、この自らをとどめんと努める。

この大喜悦は、宗門の徒によって法悦と称ばれ、芸術の表現人によつて霊感と仮りに名づけられてゐる。

表現者の稟性の種別に応じて、霊感はさまざまの時と処とに鬼人のごとく出没する。

あるものは酒精又は印度大麻の蟲惑の媒力を要し、あるものは腐れかかつた林檎の香をかぎ、またあるものは聖経を踊して、眼前に形態を備へて出現する幻覚を夢心地に禦ぎながら、夢幻の間に表現の努力を了へる。

霊感は、又、表現人によつて著しく虐遇され、殆ど其の可能性を認められない事すらもあるけれど、多く之れは、彼れの心向の特殊性に基くのであつて、かかる人の場合でも、霊感は自由に遠慮なく潜行して謙虚な行ひを果してゐる。

単に一庶物の並列があらうと、積極の緊張した心の一聯鎖があらうと、外貌に現れたものには、固より何のかかはりもない。

所詮、偉いなる力は、時を竊んで人間の胸深く忍び入り、腕をつたはつて指頭のペンに顕れ出て、軈て文字となり言葉をなして分娩が完了する。

優れた詩人は、ひたすらに謙抑篤実な実在本体への媒霊者(メデイアム)である故に跪拝せられる。

詩人の精進は、いつもその心の大洋に浪打つ生の律動の生命を直視する各努力であり、又、唯一大霊への黙禱、本体への思念である。

その純真にして敢為なるべき『我』の生活が、たまたま狐疑の索迷に陥没してゐるとき、時あつて多くの擬霊に欺かれ、また、自己自らのために誑かされる。

詩人のたましひは玻璃の傀儡である。黄蠟の人形である。かれらは、地熱や日輪の光のために溶ける。自らの火のためにも身を亡ぼす。

最も繊美に神経的に反響を持続する機具は、常に最も高貴に造られねばならぬ。

宇宙に遍満した光あるたましひは、表現人の心緒に錯交し、心の硝子管をつたはつて、あらゆる人の感覚を通じ其の心霊らの面前にまで展開される。

芸術史上多くの、Beatific Visionは、この奇蹟の春の朝の鳥声である。

   ◇

耿之介は、1906(明治39)年、16歳の春、脳神経病を患って京北中学校を中退するなど、若いときから「病苦」とともにありました。

「枯坐観想」とは、ものさびしくつくねんと座って、思いを凝らすことをいいます。

「法悦」とは、仏教の教えを聞き、味わって喜ぶこと。あるいは、なんらかの状態において生じる恍惚感のこと。

「竊」は「窃」。ぬすむ、ひそかに。他人の物をこっそりぬすみ取ること。

「狐疑」は、狐(きつね)は疑い深い性質をもつというところから、相手のことを疑う意。「誑」の読みは、たぶら(かす)です。

「beatific vision」は、見神。キリスト教で、霊感によって神の本体を感じ悟ること。神霊の働きを感知することの意です。

2016年2月21日日曜日

日夏耿之介『転身の頌』序①

きょうからしばらくの間、長野県南部、飯田市が生んだ詩人、日夏耿之介(1890-1971)=写真、wiki=の最初の詩集『転身の頌』をざっと眺めていくことにします。

飯田市にある日夏耿之介記念館による解説には、耿之介について次のように紹介されています。

〈詩人、文学者、翻訳家として多彩な文芸活動を展開した日夏耿之介。日夏は、明治23年(1890)に、城下町の風情薫る下伊那郡飯田町で生まれました。独特の美意識に貫かれた詩風は識者の間で高い評価を受け、自ら「ゴスィック・ローマン詩体」と称します。早稲田大学、青山学院大学教授を歴任後、郷里飯田で晩年を過ごしました。〉

『転身の頌』は、早稲田大学文学部英文科を卒業した3年後の1917(大正6)年、耿之介が27歳のとき、家蔵版として刊行されています。なんとも、漢字の読みを追っていくだけでも四苦八苦してしまう難解な詩が並んでいます。

この詩集には、その時点における彼の詩論と目される長い「序」(一~十三)が付いています。とりあえず「序」から読み始めていきます。きょうは『転身の頌』序(一)です。


『転身の頌』序



凡そ、詩篇は、所縁の人に対して、実在が、そのまことの呼吸の一くさりを吹き込めたものの、或る機会の完き表現でなければならぬ。

それは、選ばれたものにも儘ならぬ、選ばれぬものへの宿命的示唆である。

媒霊者のない自動記書(オートラテイング)である。また言へば、天来の『智慧』である。詩家は霊感の浮橋に依つてのみ、しばしば、神の御国に歓遊する。

虫類の細微体から宇宙諸相の大いに臻(いた)る悉皆触目の存在当体は固より、かりそめにも人間の心緒に渦巻くあらゆる情感の揺曳は、詩人の対境として、遙かの国の内陣秘龕から賦与せられた『窄き門』である。

この不可思議の扉口を過ぎて、汪々と絶対の神の伊吹きが貫き流れる。現象界と、現象界から放散する薫香との二個から切り放たれたまことの神慮がはつきりとのぞみ観られる。

されば、霊感の受難週は、小やかな詩人の個体をも、易く神人融会の『賢人石』のなか深くに押し匿す。

かかる聖なる異香の流動は選ばれたものの全てを捉へて、入神(トランス)の中有境に投げ込む偉いなる虚空の手である。

    ◇

霊媒者などと呼ばれる人たちは、「死者の霊が下りてきた」などと無意識的にペンを動かしたり語りかけたりします。

日本では「神がかり」「お筆先」とも呼ばれていました。そうした「媒霊者」を介さない「自動記書(オートラテイング)」だと言っています。

当然、アンドレ・ブルトン(1896-1966)らシュルレアリスム(超現実主義)の詩人たちが試みた詩作の実験「オートマティスム(自動記述)」が念頭に置かれているのでしょう。

「龕(がん)」は、石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けられたくぼみ、あるいは、仏壇や厨子のことです。「入神(トランス)」とは、技能が上達して、人間わざと思えないようなな優れた域に達することをいいます。

2016年2月20日土曜日

芭蕉『おくのほそ道』23

さらに平井敏照は『おくのほそ道』にちりばめられた句の配置に注目します。全六二句の三一番目の句が「涼しさや」で、三二番目の句が「雲の峰」の句で、芭蕉が作った五〇句の二五番目が「涼しさや」、二六番目が「雲の峰」になるというのです。

「句の配置に大いに神経を使った芭蕉のことだから、句の配列の中心に出羽三山をもってきたことは、十分意識していい」として、「出羽三山は、ウラの水源であるだけでなく、また『ほそ道』のピーク、分水嶺にもなるのではないか」とも指摘しています(平井敏照「俳諧師のオモテ、ウラ」(『『おくのほそ道』を読む』講談社、一九九五年五月)。

湯浅の「円弧説」にもとづいた平井の「前後二部構成説」は、『おくのほそ道』の全体構成を前半と後半を対照的にとらえるという点では、前半部の「松島」「平泉」、後半部の「出羽三山」「象潟」を帆船の四本マストになぞらえ、松島ー象潟、塩竈の明神ーけいの明神、雲岸寺ー立石寺などの対応をみようとする上野洋三の「前後対照説」とも重なります。

また二部構成とみる点では、奥羽の歌枕、名所・旧跡などに接する願いはかなえられ「出羽の旅の終った象潟の章をもって一応完結したのではあるまいか。芭蕉はここまでで『おくのほそ道』の旅の目的は終ったと思った」などとしたうえで、「第一部は象潟までで、「酒田の余波日を重ねて」以後は第二部だ」とする井本農一の二部構成説とも似たところがあります。

こうして諸説を眺めてみると、それぞれに説得力は感じますが、一長一短いずれも決め手に欠ける感も否めません。平井の主張は分かるが、上野や井本の説を凌駕する裏付けがあるようにも思われません。

掘切実は「『おくのほそ道』には、今日便宜的に分けられているような章段意識が厳密にはないに等しい」としたうえで、「旅程中心の構成論にしても、綿密にみてゆくと、諸説ともかなり強引で、不自然な感じがある」と指摘しています。

芭蕉の創作意識に関わる研究の進展などで、今後、より説得力のある構成論へと集約していく可能性はあるでしょう。しかし、そもそも『おくのほそ道』という作品を、このように単純に図式化してみることにどれほどの意味があるのか。そうした基本的な吟味もまた、同時に必要となるのではないでしょうか。

2016年2月19日金曜日

芭蕉『おくのほそ道』22

平井照敏は、月山を重視する理由としては、ここに来て『おくのほそ道』が、花も月も、さらに雪や恋までもまとめて出している点をあげています。

花は、芭蕉がオモテで苦心したテーマでした。江戸の出立が三月二七日(陽暦五月一六日)。花の季節が過ぎてから江戸を発っているのに、上野・谷中に花が咲いているように書くなど、咲いているはずのないものを、なんとか出そうと工夫を重ねてきたのです。

その花を、月山から湯殿山にくだったあたりで、ついに目にすることができた。

その感動が「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ」と嬉しげに記されたというわけです。

行尊僧正の歌というのは、『金葉集』におさめられた「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」のことです。平井は「この歌を使って花に結着をつけようとする演出だったのかもしれなかった」とも推測しています。

月については、山そのものの名が「月山」であり、その1979メートルの山頂に立つこと自体「日月行道の雲関に入るかとあやしまれ」る経験でした。だから、芭蕉自身大いに修験行法をつくしたと信じたのだろう、とみています。

そこから、月をうたう意欲と自信を得て「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峰幾つ崩て月の山」とうたいはじめ、敦賀の名月へと調子をたかめてゆくというのです。

2016年2月18日木曜日

芭蕉『おくのほそ道』21

平井照敏は、湯浅説を「対応の一々には多少異論もありうるだろうが、ほぼ大筋のところは受け入れられる」と受けとめて、こうした図式化も結局は、オモテとウラが強く意識されていて、そのおのおのが互いに対応しているであろうとする観察の結果だとみています。

たとえば「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」という松島と象潟などは、芭蕉自身もはっきり意識されていた対応だ、というわけです。

とりわけ平井が注目しているのが平泉と月山の対応で、オモテのクライマックスが平泉にあるとすれば、ウラ全体を支配しているのが「出羽三山くだり」にあると主張します。

オモテの部分では、焦点の平泉を最後に置き、那須では与一を出し、飯坂では義経、弁慶、佐藤庄司と二人の嫁を、塩竈では和泉三郎を出して、だんだん調子を高めていく。

そうした伏線が平泉で一気に結集して、高館の丘で懐旧の情をあふれさせる。だが、それにしては平泉のくだりは、「意外に小ぢんまりと」している。

これに比べると、出羽三山、特に月山に登るあたりの高揚には壮大なものがある。このようにとらえたうえで平井は、「ウラ全体にひろがる恋も月も花も、すべてがこの月の山の高揚からあふれ出、ながれ出るもの」であると力説するのです。

2016年2月17日水曜日

芭蕉『おくのほそ道』20

『おくのほそ道』の旅は、江戸から太平洋寄りに平泉まで進み、その後、本州を横断して酒田に出て、今度は日本海沿いに象潟まで北上、そして敦賀までくだります。

それはちょうど、表日本、裏日本という呼び方に符合する旅のオモテ、ウラといえると平井照敏はみて、「歌仙では、初折、名残折の二枚の懐紙のそれぞれにオモテとウラがあるが、実際の旅では、もちろん折は一つだけで、それにオモテとウラがあった」と主張しています。

平井はまず、湯浅信幸が、ペンギン・クラシックスに収めた芭蕉作品の英訳集の前文で示した「円弧説」に注目します。

ここでは、全旅程を時計回りに描かれた円弧で示し、その主要地点が江戸ー大垣、日光ー敦賀、白河ー市振、仙台ー福井、松島ー象潟、平泉ー月山というように、対応関係にあることを点線でつないで図示しているのです。

それを見ると、ちょうど本州の中央山脈を折り目にして重ね合わせた形で、白河ー市振と仙台ー福井の点線が交差する外はすべて平行線を描く対応関係にあります。

湯浅は『おくのほそ道』の特色は変化と統一にあるとして、訪れた土地が、円弧の図のように互いに関係するものとして相関的に描かれていると指摘。

「バラエティ」を通して「ユニティ」を実現するために、芭蕉は出来事の順序を変えたり、架空の出来事を作り出したりしているとしているのです。

2016年2月16日火曜日

芭蕉『おくのほそ道』19

馬場錦江は『奥細道通解』(安政五年)に「市振」の条について「此条は此紀行に恋を出せる一巻の模様なるべし」と記しています。

『おくのほそ道』が連句の式目をふまえた構成があると指摘しているわけです。このように、連句的構成に関するさまざまな論考が江戸時代からなされてきました。

とともに、旅程の分析などを通じた全体構造や構成についての説もいろいろと生まれ、今日に至るまで盛んに論じられてきています。

たとえば『おくのほそ道解釈事典』では、こうした「旅程を中心にして分析する」諸説を①三分法・四分法②円孤説③三角形構図説④前後二部構成説⑤前後対照説⑥一部・二部構成説の六つに整理しています。

ここでは、これら諸説の中から、全体の旅程を懐紙のオモテ(表日本)とウラ(裏日本)に二分し、それぞれの対応をみる平井照敏の「前後二部構成説」を取り上げ、他の説と比較しながら考察してみます。

2016年2月11日木曜日

芭蕉『おくのほそ道』18

「市振」の段では、芭蕉一行は伊勢詣での遊女2人と同じ屋根の下に隣り合わせることになり、翌朝、遊女たちからあとについて行くことを許してほしいと頼まれます。

あちこち寄るところがあることを理由に遊女たちの頼みを断わりますが、その哀れさに芭蕉は心を動かし、「一家に遊女もねたり萩と月」という句を作る、ということになっています。

『おくのほそ道』の中でも、特別になまめかしさと物語性を帯びた一節です。大輪靖宏は、『おくのほそ道』を一巻の連句と見立てた場合に、恋にあたる個所がこの「市振」であるとみています。

曾良の『随行日記』によれば、遊女とのこうしたやり取りは実際はなかったようで、芭蕉の「一家に」の句も曾良の『俳諧書留』に記されてはいません。

つまり本当は、芭蕉が旅をする遊女を見かけたとか、遊女が同じ宿に泊まっているのに気付いたとかいう程度のことらしいのです。

「それをわざわざこのような短編小説的構成にまで仕立て上げているのは、芭蕉がこの市振の項を、恋の場として、『おくのほそ道』の中のひとつのヤマ場にしようとしているからであろう」と大輪は推測しています。

こうして見てきたように、『おくのほそ道』における人物造型や描写には、全体の構成やバランスが配慮されるとともに、能の擬態にもとづく“俳諧”を試みたり、連句的な恋の場面を設定したりといった心憎いばかりの工夫が随所に施されているのです。

2016年2月7日日曜日

芭蕉『おくのほそ道』17

仏五左衛門に見られる性格は、尾形仂も指摘するように「宮城野」の段の画工加右衛門や「福井」の段の等栽にも通じるところがあるのでしょう。

有馬に次ぐ名湯ともされる山中温泉の段では、この旅の16年前に世を去った著名な俳諧師「貞室」が、鮮やかな筆さばきで描かれています。

安原貞室(1610~1673)は、京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に出入りし、慶安4年(1651)42歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承応2年(1653)師の貞徳が没するや、政治的手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年貞徳二世を名乗った、とされます。

この段は、珍しく「山中や菊はたおらぬ湯の匂」という発句にはじまり、菊慈童が永遠の若さを保った菊の滴りをもしのぐほどだと誉め讃えてから、宿の「あるじ」が「いまだ小童也」と紹介されています。そして俳諧を好んだこの少年の父の時代のこととして貞室の逸話へと導いていきます。

上野は「貞室の逸話は、この導入における構成のみごとさに負うところが多い。事実を追えばおそらくぎくしゃくしたものになったであろう一話が、この草画風の軽い筆使いを前提としたために、「風雅に辱められて」で必要十分になったのだ。逆に「判詞の料」を受け取らなかったことまでが、わざとらしさのない、一種すがすがしい畸人伝として読まれる」と指摘しています。

2016年2月1日月曜日

芭蕉『おくのほそ道』16

「我が名を仏五左衛門と云ふ。万正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打解けて休み給へ」。

芭蕉一行が日光山の麓に泊まった際、出会った「あるじ」はこのように、なんとも仰々しい言いかたで迎えました。

これに対して芭蕉が「いかなる仏の、濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにや」とするのもまた、少々大袈裟すぎるように思われます。

ここの描写について尾形仂は「自らを諸国一見のワキ僧に擬した、能の擬態にもとづく〝俳諧〟なのだ」とみています。

能のワキ僧は行雲流水に身をまかせ、浮き世の旅に迷い行き、霊地のほとりで一夜の宿を借りては前ジテの里人の姿を借りた古人の亡魂や草木の精霊と問答を取り交わします。

「いかなる仏の、濁世塵土に示現して」というのは、そうした能のワキ僧としての擬態から、五左衛門を前ジテの前ジテの里人と観じた諧謔にほかなりません。

そして「一夜の草の枕」といったセリフにもそうした芭蕉の用意が働いている、というのです。五左衛門は、ただの宿屋の主人だと思っていたのが、実は正直そのものの、心の美しい人物だった。

世間的常識から見れば愚直固陋な人物が、内に持っている人間としての純粋さ、誠実さに芭蕉は強く惹かれるものを感じたのでしょう。

そして最後に芭蕉は、大袈裟に『論語』まで引き合いに出して、「智愚」を改め「気稟の清質」といったむずかしいことばを使って、この男の人物についての断案を下すことになります。

尾形は「そのような真顔の俳謔のスタイルをもって、「はにふ・むぐらのうちにて見出」した「金」のごとき人物の真価を語っているところに、この一章の俳文としての妙味がある」と評価しています。