2016年4月30日土曜日

中原中也「早春散歩」⑬

生前、中也自身によって編まれた詩集/は、『山羊の歌』と『在りし日の歌』の2冊だけです。これまでに見たように、長男の文也が生まれた直後の1934(昭和9)年12月、中也27歳のとき、待望の第1詩集『山羊の歌』を出版しました。

その後、文也の死や、中也の精神疾患による入院の時期をはさんで昭和11年から昭和12年9月まで、何段階かの過程を経て、第2詩集『在りし日の歌』がまとめられたと推定されています。

原稿の清書作業は、昭和12年8月末から9月23、24日にかけて行われましたが、詩集が創元社から刊行されたのは、中也の死から半年たった昭和13年4月15日のこと。本になった『山羊の歌』を中也は見ていません。

そんな『在りし日の歌』の中から、ここで、今回の連載のテーマにしている「春」にかかわる詩を二つ読んでおきましょう。


「わが半生」と「春宵感懐」。どちらも時節は春宵。いずれにも、春のわきたつような明るさはなく、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」ではじまる「早春散歩」と同じような空気が流れているように感じられます。

     わが半生

  私は随分苦労して来た。
  それがどうした苦労であつたか、
  語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
  またその苦労が果して価値の
  あつたものかなかつたものか、
  そんなことなぞ考へてもみぬ。

  とにかく私は苦労して来た。
  苦労して来たことであつた!
  そして、今、此処〈ここ〉、机の前の、
  自分を見出すばつかりだ。
  じつと手を出し眺めるほどの
  ことしか私は出来ないのだ。

     外〈そと〉では今宵、木の葉がそよぐ。
     はるかな気持の、春の宵だ。
     そして私は、静かに死ぬる、
     坐つたまんまで、死んでゆくのだ。

「わが半生」は、昭和11年5月の『四季』に発表されました。中也29歳。「私は随分苦労して来た」といいながらも、それまでの人生を淡々と静かに受け止めて、「それがどうした苦労であつたか、/語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。」のです。

悩みの多かった青春に別れを告げ、「そして私は、静かに死ぬる、/坐つたまんまで、死んでゆくのだ。」と平静な気持ちで死を予感しています。

このころ幼い文也はまだ元気で、可愛い盛り。父親としての責任も身にしみていたのだろうが、ここでは「じつと手を出し眺めるほどの/ことしか私は出来ないのだ。」などと、生活感は感じられません。

つぎにあげるのは、「わが半生」と同じころ作られたと思われる「春宵感懐」という詩です。

  雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる、月かくす。
  みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。

  なんだか、深い、溜息が、
   なんだかはるかな、幻想が、
  湧くけど、それは、掴〈つか〉めない。
   誰にも、それは、語れない。

  誰にも、それは、語れない
   ことだけれども、それこそが、
  いのちだらうぢやないですか、
   けれども、それは、示〈あ〉かせない……

  かくて、人間、ひとりびとり、
   こころで感じて、顔見合せれば
  につこり笑ふといふほどの
   ことして、一生、過ぎるんですねえ

  雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる、月かくす。
  みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。

この詩について中村稔は『名詩鑑賞 中原中也』に、次のように記しています。

「この作品はくちずさんでたのしければそれでよいのです。しかし、この作品をたのしむためには、何らか人生の苦渋ともいうべきものを、読者が体験していることが必要でしょう。そして、中原中也が、それを道化にまぎらしているように、読者もまた、自らお道化〈どけ〉る必要があるでしょう。

道化には笑いの奥の悲しみがつきものですが、この作品の底にもやはり悲しみが流れているのです。」

*写真は、速水御舟の「春の宵」(http://czt.b.la9.jp/hayami-enbu.html から借用)

2016年4月29日金曜日

中原中也「早春散歩」⑫

最愛の息子、文也が死にました。中也は悲嘆に暮れ、激しい精神錯乱に陥ります。そんなころ、次のような詩を作っています。

     月の光 (その一)

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

    お庭の隅の草叢〈くさむら〉に
    隠れているのは死んだ児〈こ〉だ

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

    おや、チルシスとアマントが
    芝生の上に出て来てる

  ギタアを持つては来てゐるが
  おつぽり出してあるばかり

    月の光が照つてゐた
    月の光が照つてゐた

     (その二)

  おゝチルシスとアマントが
  庭に出て来て遊んでる

  ほんに今夜は春の宵
  なまあつたかい靄〈もや〉もある

  月の光に照らされて
  庭のベンチの上にゐる

  ギタアがそばにはあるけれど
  いつかう弾き出しさうもない

  芝生のむかふは森でして
  とても黒々してゐます

  おゝチルシスとアマントが
  こそこそ話してゐる間

  森の中では死んだ子が
  蛍のやうに蹲〈しやが〉んでる


詩人は月の光の照らす庭の芝生に、牧童たちがあらわれる幻影を見ています。その「隅の草叢に」は、「死んだ児」が隠れてみているのです。この児はもちろん、文也をイメージしているのでしょう。

「その一」では、執拗に「月の光が照つてゐた」が繰り返されて、悲しみを際立たせています。月光は、「ギタアを持つては来てゐるが/おつぽり出してあるばかり」である雑然とした庭を照らすのです。空洞となった詩人の心の闇に、むなしく月が降りそそいでいるのでしょう。

「その二」にも、「森の中では死んだ子が/蛍のやうに蹲んでる」という表現があります。失ったわが子の幻影を追う作者の心は、悲しくも、美しく、むなしい。その舞台を詩人は「なまあつたかい靄」もある「春の宵」に置いています。

「チルシス」と「アマント」というのは、ヴェルレーヌの詩「Mandoline(マンドリーヌ)」に出て来る牧童の名です。もともとは、古代ギリシャの詩人テオクリトスの『牧歌』に出てくる男の牧人の名前「ティルシス」と「アミュンタス」からきています。

これらの牧人名は、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの『詩選』では、下働きの女性名と美少年の名前として使われました。その後、16世紀のイタリアの詩人タッソの牧歌劇『アミンタ』に、イタリア名「ティルシ」と「アミンタ」として受け継がれました。「チルシス」と「アマント」は、これらのフランス語読みです。

中也は原書の『ヴェルレーヌ全集』を、1926(大正15)年に購入しています。ここでは、川路柳虹訳の「マンドリーヌ」をあげておきましょう。川路はヴェルレーヌの訳詩集の訳者自註で、かれらを「滑稽役」として紹介しています。

  夜の調べのうたひて
  着飾つた聴衆、
  弾くひとの爪音〈つまおと〉に
  さわやかな舞台はひらかれる。

  チルジスもゐる、アマントもゐる、
  さては相変らずのクリタンドルも、
  情〈こゝろ〉ないひとに優しい歌をつたへるダミイも出てゐる。

  絹の短い胴着〈どうぎ〉をきて
  長い裳裾〈もすそ〉は後に曳く、
  その優しさ、その楽しさうな様子、
  そのしとやかな青い衣〈きぬ〉の影。

  うす薔薇色の月の光りに
  恍惚〈うつとり〉 取り巻かれ、
  そよ吹く軟らかな風につれて
  囀づりしきるマンドリーヌ。

2016年4月28日木曜日

中原中也「早春散歩」⑪

1934(昭和9)年10月18日に、長男文也(ふみや)が生まれました。嬉しい出来事は続きます。その翌月には、小林秀雄の紹介で、文圃堂が詩集の出版を引き受けることになったのです。装丁は高村光太郎に依頼されました。12月、中也生前の唯一の詩集となる『山羊の歌』がついに刊行されました。


最愛の息子との生活について、後に中也は日記の中で「文也の一生」と題し、次のようにつづっている。

〈昭和九年(一九三四)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。九月末小生一人上京。文也九月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

十月十八日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後一時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一ヶ月余もつゞく。

昭和九年十二月十日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の六畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新藤病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。

(十二月九日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後八時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)

手術後長くはないとの医者の言にもかゝはらず祖母二月三日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。一月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか三泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子方部屋の次の次の八畳の間に寝る。祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の八畳の間。

三月二十日頃小生腹痛はげしく三四日就床。これよりさき一月半ば頃坊や孝子の乳房を噛み、それが膿みて困る。三月二十六日呉郎高校に合格。この頃お天気よく、坊やを肩車して権現山の方へ歩いたりす。一度小生の左の耳にかみつく。

四月初旬(?)小生一人上京。四月下旬高森淳夫上京アパートに同居す。六月七日谷町六二に越す。高森も一緒。六月末帰省。七月十日頃高森文夫を日向に訪ぬ。三四日滞在。七月末祇園祭。花火を買ひ来て坊やにみす。八月十日母と女中と呉郎に送られ上京。

湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。三等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。上京家に着くや坊や泣く。おかゆをつくり、少し熱いのをウツカリ小生一匙口に入れまた泣く。

九月ギフの女を傭ふ。十二月二十三日夕暇をとる。坊や上京四五日にして匍(は)ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。九月十日頃障子をもつて起つ。九月二十日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段に登る。降りることもぢきに覚える。

拾郎早大入試のため三月十日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。拾郎合格。宇太郎君山高合格。八月の十日頃階段中程より顛落。そのずつと前エンガワより庭土の上に顛落。

七月十日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買つてやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。

八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。〉

ところが、出生から2年後、予期せぬ不幸が襲います。「坊やの胃相変わらずわるく、終日むづかる」と日記に書かれた約1週間後の1936(昭和11)年11月、文也病没。愛するわが子を失った悲痛のなか、中也は春にかかわる次のようなソネット風の詩も残しています。

     また来ん春……

  また来ん春と人は云ふ
  しかし私は辛いのだ
  春が来たつて何になろ
  あの子が返つて来るぢやない

  おもへば今年の五月には
  おまへを抱いて動物園
  象を見せても猫〈にやあ〉といひ
  鳥を見せても猫〈にやあ〉だつた

  最後に見せた鹿だけは
  角によつぽど惹かれてか
  何とも云はず 眺めてた

  ほんにおまへもあの時は
  此の世の光のただ中に
  立つて眺めてゐたつけが……

2016年4月27日水曜日

中原中也「早春散歩」⑩

「早春散歩」を作ったころの、1933(昭和9)年3月、中也は東京外国語学校専修科を修了します。そして、下宿で近所の学生にフランス語の個人教授を始めました。

5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人誌「紀元」に参加。月末には、腎臓炎を患っています。7月、「帰郷」、「少年時」などを季刊『四季』に、9月には、「凄じき黄昏」、「秋」を『紀元』創刊号に発表しています。

いずれも、『山羊の歌』用に印刷済みの詩編です。『山羊の歌』は青山二郎の装丁で江川書房から刊行される予定でしたが実現しませんでした。

12月、遠縁にあたる上野孝子と故郷で結婚します。中旬には上京して、当時の四谷区花園町の花園アパートに新居を構えました。同じアパートに住んでいた青山二郎は、そのころ、について次のように記しています。


〈新宿御苑の前から、電車道を越えて市ケ谷見附に出る路がある。一丁ばかり行つて左に折れて、そのまゝ左に右に折れて行くと、其処に花園アパートと謂ふ三階建三棟のボウ大なアパートがあつた。

赤坂の家をたたんでから、此処に私は十年住んでゐた。私が移つてマル一年ばかりしてから、中原が来た様に覚えている。その少し前に小林が結婚して、やがて私の方は夫婦別れをして、そのあと中原が結婚した。

そして、朝鮮の女学校を出た新妻を連れて、いきなり此の花園アパートへ中原が越して来たのである。生れて初めて東京に来て、これも生れて初めて見るアパートと謂ふものに入れられて、二十二か三の若い奥さんは事毎にちゞみ上つてゐた。

数寄屋橋の菊正ビルで中原は一杯やるのが好きで、奥さんの方は連れて行かれて、その間にライスカレーを二皿平らげるのである。それから銀座を一廻りし乍ら、ソレ松屋だ、三越だ、服部だと指差して、大きな声で説明する詩人の夫を奥さんは辱しがつた。

やれやれと思つてゐると、尾張町の四ツ角で中原が最敬礼(注:皇居に向かってなされた最もていねいな敬礼)を始めるのだつた。奥さんは外の遊びは何も知らなかつたが、麻雀だけは中原同様に下手糞ながらやれたから、我々の間に麻雀が流行つた。

中原が我々二三の者に手ほどきをして流行らせたのである。なんでも或る夏のことその晩は運良く奥さんが現れないで、夜明しになつた時、私の部屋で我々は四谷署にあげられた。

ポンもチーも区別の付き兼ねる連中が一晩留置所に入れられたのだから、皆んな得意だつた。その朝一番に呼出されて調べられ、帰つて来て見ると未だ寝てゐて誰も知らなかつた。

大岡昇平はその頃酒場の女が出来て、或る日二人連れで私の処へやつて来た時、中原にふつかつた。彼等は仲の悪い犬みたいに、会うと始めから喉を鳴らしてゐるのである。だから五分もすると双方は忽ち立上つた。

大岡は倚子の前にあつた重たい大きな木の足台を、金太郎が大石を振上げた様な恰好で、頭上高く振りかぶつた。私は大岡の女に耳打ちして、三階へ走つて行つて中原の奥さんをトツサに呼んで来させた。

さうして置いて、喧嘩をするなら表テでやつて呉れと二人にダメを押した。人のゐない所だと、二人では喧嘩にならない、さういふ喧嘩は始末の悪いもので世話の焼けること一通りではない。

中原の知つてゐる人間が私の所にいりびたつている癖に、詰り彼等に言はせると――電信柱の高いのも郵便ポストの赤いのも、皆んな私のノボクレの故なのである。そこへ中原の奥さんが大岡の女と駆けつけた。

中原は中原の一面を奥さんに見せることがなかつたので、この不意打ちに酷く面食らつた様子で、その怒りで大岡の女の背中をどやし付けながら、女房を呼ぶとは何事だと叫んだ。と、大岡は大岡で、よくも俺の女房の背中をどやしたなと改つた。

後年、中原の死後、この奥さんを嫁に貰つて呉れと強請んでゐたのを思ひ出して私が話すと、大岡はケロリと忘れてゐて私のネツゾウだと言ふから、特に書き添へて置く。私が中原を書かずに此の章で奥さん許り書いてゐるのは、中原の女性に対する愛情が彼を更生させてゐたからである。

極めて素朴な石頭の、家ねずみの様な若い女性――下駄屋も詩人も区別すること無く、亭主だから亭主にして、女房だから女房になつた、恁ういふ女性に結ばれた時期を中原は愛してゐる様子だつた。私は昔淋病に成つたことがあると言ふだけで、中原は私の所へ来てもお茶を飲むことを奥さんに禁じられてゐた。

奥さんに子供が出来たらしいのが分つてから、暫くすると奥さんは眼を患つた。うつちやつて置くと盲目になる病気だつた。段々一人で歩けない様になつた。それから毎日病院通ひが始まつた。三階から中原が手を引いて降りて、表テに出て、二三丁先きの俥屋までおねりの様に歩いて行く。

それから時間が来ると、またその通りに俥屋まで迎へに行つて連れて帰つて来て、三階の部屋に納める。それが今日びのアベックの様に恰好の良いものではなく、殊更に引く手をかゝげて、小男が色眼鏡を掛けた若い女の半歩前を歩いて行くのである。これが三四ケ月続いた様に覚えてゐる。〉(『新文藝読本・中原中也』「私の接した中原中也」)

「早春散歩」を作り、結婚をした翌1934(昭和9)年10月、長男の文也(ふみや)が生まれました。中也は、無類の子煩悩さを発揮します。そんな、愛するわが子に関する作品もたくさん残しました。その一つに、こんな春の詩もあります。

     春と赤ン坊

  菜の花畑で眠つているのは……
  菜の花畑で吹かれているのは……
  赤ン坊ではないでせうか?

  いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
  ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
  菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

  走つてゆくのは、自転車々々々
  向ふの道を、走つてゆくのは
  薄桃色の、風を切つて……

  薄桃色の、風を切つて
  走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)
  ――赤ン坊を畑に置いて

*写真は、孝子との結婚記念写真(昭和8年12月3日)=『新潮日本文学アルバム・中原中也』から

2016年4月26日火曜日

中原中也「早春散歩」⑨

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……


全3連、各連6行のワクにおさめながらも、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」といったふうに、のびやかで親しみやすい口語表現でつづられている「早春散歩」。

詩そのものは、とくに難しいところもなく、すらすらと読んでいけます。参考に、中村稔の『名詩鑑賞 中原中也』から、この詩の一つの読みかたを引用しておきます。

〈「早春散歩」という題は明るいものですし、たしかに「春が立返つた」ことをたのしんでもいるのですが、うたわれている内容には寂寥があふれています。

早春の光の中での寂寥、はなやぎそめた光に照らしだされるさびしさ、それがこの作品の主題です。

この作品の第一行は、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」と書かれています。陰があるのは建物だけではありません。散歩する詩人の心にも陰があるのです。

その心を、早春の風が、薄絹か、ハンカチのように、ひきちぎり、きれぎれにして風にとばせるのです。

この詩は朗読してみると気づくことですが、リフレーンが頻用されており、それが幾重にも詩人の心のわびしさを読者にたたみかけるように訴えてきます。

第二聯で、「まるで過去がなかつたかのやうに」「少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如く」「確固たるものの如く」「隙間風にも消え去るものの如く」と、四度もくりかえしています。

第三聯では、「春を迎へるものであることを」「春は立返つたのであることを」とかさね、「風に吹かれながら」「歩きながら」「見やりながら」とくりかえし、「僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……」とくりかえしています。

そのたびに、水が池に滲み入るように、明るい外光の中の寂寥が、読者の心に滲み入ってくるのです。この作品で注目されることには、もうひとつ、第二聯に告白された心境があります。

ここで詩人は、「過去がなかつたかのやうに」とうたい、「風の中を吹き過ぎる 異国人のやうな眼眸をして」と言い「確固たるものの如く、 また隙間風にも消え去るものの如く」と自己を表現しています。

こういう脱落感、人間失格感は、「ゆきてかへらぬ」をはじめとする「永訣の秋」の詩編と共通しているものです。少なくとも、「永訣の秋」の詩情の萌芽がすでにこの作品に認められるのです。〉

春の日といえば、うららかで、明るいイメージがします。俳句に、春日影という季語があります。影という字が入ってはいますが、春の日の光、春の陽光、春陽のことを意味します。

しかし、この詩人の目にある春の風景にも、心のなかにも「蔭」がはっきりとあるのです。紗(しゃ)や絽(ろ)のように生地のうすい薄絹かハンケチででもあるかのように、早春の風が、詩人らの心をきれぎれにひきちぎり、散らします。

風がさっとひきちぎるほど、詩人の心は薄く、もろい状態なのでしょう。中也で、リフレーンというと、すぐに、有名な「汚れつちまつた悲しみに……」が頭に浮かんできます。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さえ吹きすぎる

  汚れつちまつた悲しみは
  たとえば狐の革裘(かわごろも)
  汚れつちまつた悲しみは
  小雪のかかつてちぢこまる

  汚れつちまつた悲しみは
  なにのぞむなくねがうなく
  汚れつちまつた悲しみは
  倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

  汚れつちまつた悲しみに
  いたいたしくも怖気(おじけ)づき
  汚れつちまつた悲しみに
  なすところもなく日は暮れる……

この詩は口語詩ですが、基本的に七五調。小唄のように心地のよいリズムを刻んでいます。「汚れつち」の「つ」の促音によって「汚れ」のイメージを押し出し、リフレーンによって「悲しみ」の大きさがつたわってきます。

「早春散歩」のリフレーンは、「汚れつちまつた悲しみに……」のように大っぴらで声高なものではなく、詩の中にはまり込んで幾重にもつきまとっていきます。

それほどに、詩人の「淋しい心」はかなり深となって根差し、「蔭」となっているのでしょう。リフレーンがそれを、静かに浸みわたらせていきます。

2016年4月25日月曜日

中原中也「早春散歩」⑧

中也は「詩的履歴書」の中で、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」と記しています。

この期間、1日の大半を使っていた「散歩」というのはどんなものだったのでしょうか。中也が残した「散歩生活」という未発表の随筆には、次のようにあります。

〈「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。

そいつらは私の卓子のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。

其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。

「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」

私も女房に別れてより茲に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷六ヶ敷(むつかし)からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。

初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具おもちや屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。

「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々(はるばる)独乙から、やつて来てペン画を描(か)いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。

「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳(こめかみ)をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステッキを持つてる。〉

ちなみに、ここに出てくるフリードリッヒ・グライル(1902~2003)は、ペン画家で、NHKドイツ語放送のアナウンサーをしていた人です。

東洋の地に憧れて1928(昭和3)年に来日して、その後、日本を第二の故郷として定住。一橋大など多くの大学でドイツ語とドイツ文化を教えたりもしています。


また、「我が生活」というこれも未発表の随筆には、

〈女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。

だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。〉

と「口惜しい」ままに「ホツツキ歩いた」青春の日々を描いている。さらに、同じ「我が生活」という題名の別の文章には――

〈私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかった。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。〉とあります。

ところで、「毎日々々歩き通す」中也の散歩生活が終わりを告げる1933(昭和8)年10月というのは、遠縁の上野孝子と結婚、新居を構える直前にあたります。

このとき、「亡命者のやうな私の心」にきっと、大きな変化があらわれたのだろう。中也26歳。それは、青春の終焉を意味していたのかもしれません。


  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

「早春散歩」は、「ホツツキ歩いた」、「毎日々々歩き通す」という散歩生活の最後にあたる、この昭和8年に作られています。

*1933年の銀座通り(ウィキペディア)

2016年4月24日日曜日

中原中也「早春散歩」⑦

     春の雨

  昨日は喜び、今日は死に、
  明日は戦ひ?……
  ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
  道に踏まれて消えてゆく。

  歌ひしほどに心地よく、
  聞かせしほどにわれ喘〈あえ〉ぐ。
  春わが心をつき裂きぬ、
  たれか来りてわを愛せ。

  あゝ喜びはともにせん、
  わが恋人よはらからよ。

  われの心の幼なくて、
  われの心に怒りあり。

  さてもこの日に雨が降る、
  雨の音きけ、雨の音。


長谷川泰子が小林秀雄のもとにに走った後も、詩作を中断することはありませんでした。むしろ、前に見た「朝の歌」にみられるように、この事件以降、中也は詩人になったといえるかもしれません。

そして、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に中也は第一詩集を出そうと試みました。結局、その計画は実現しませんでしたが、「春の雨」はその詩集に入れるつもりで書かれた詩の一つです。

そんなさ中の昭和3年5月、泰子と小林の関係も破綻します。原因は泰子の神経症だったようですが、事は相当に深刻で、小林は関西へ単身逃げ出しました。

泰子は心情というものがまったく欠如している女だという内容の手紙を、小林は妹に送っています。それからの彼らについて、吉田凞生の「中原中也小伝」には次のように書かれています。

〈しかしそういう泰子が、中也の目には「私の聖母」と映ったのだから、異性関係というものは分からない。中也にしてみれば、泰子は自分のところへ帰ってくるべきなのだが、泰子の方は承知しない。

それどころか、山川幸世という左翼の演劇青年の子供を産んでしまう。中也はその子に名を付けてやり、泰子が映画女優として仕事に出る時は、お守りをしてやったりする。子供に対する特別な感情の現れである。

この間、中也は河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、内海誓一郎らと同人誌「白痴群」を創刊する。昭和四年四月のことである。誌名は「俗物になれぬバカの集まり」という意味である。

初めて自分の詩を世に問う舞台を得た中也は、活発に詩作し、毎号作品を載せた。その中には「寒い夜の自画像」のように詩人としての使命感を示す詩もあれば、「時こそ今は……」のように泰子に対する再求愛のメッセージを含んだ詩もある。

人間には日常の利害打算よりもっと価値のある、普遍的な幸福というものがあり、愛というものがある、というのが詩人中也の信念だった。

しかし「白痴群」は一年で廃刊となった。原稿の集まりが悪くなったためである。そして廃刊を機に、中也の詩作も停滞し始める。

フランス行きの手段として外務書記生の試験を受けることを考え、東京外語に通い始めたりしている。小林秀雄が新進評論家として活躍し始めたのと対照的である。昭和六年、弟恰三が病没したことも中也には衝撃だった。

死者は清純で、生き残った自分は図々しい、という自責の念が中也を悩ます。『山羊の歌』の最後の二篇、「憔悴」「いのちの声」には、生命の停滞感とそこから脱出したいという願望が見える。

中也がそのために選んだのは、詩集を出版することだった。昭和七年(一九三二)、中也は『山羊の歌』を編集し、家から三百円を引き出して、自費刊行を企てる。

だが資金が続かず、本文を印刷しただけで中断せざるを得なくなった。それも一つの引き金となったのか、年末にはノイローゼ状態となった。強迫観念に襲われ、幻聴があったという。

しかし年が明けて昭和八年になると、精神状態は徐々に平衡を取り戻したらしい。この年三月、東京外語を修了。秋、遠縁に当る上野孝子と見合いをし、十二月に郷里山口で結婚した。中也は珍しく素直だったと伝えられている。

新居は四谷区(現在の新宿区)の花園アパートで、同じアパートに小林秀雄との共通の友人、青山二郎がいた。同じ十二月、『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房から刊行した。中也はまずランボーの翻訳で認められたのである。〉

「早春散歩」はこの年の早春、中也の精神状態が平衡を取り戻しつつあったころ書かれたと推定されています。

2016年4月23日土曜日

中原中也「早春散歩」⑥

  天井に 朱〈あか〉きいろいで
    戸の隙を 洩れ入る光、
  鄙〈ひな〉びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  小鳥らの うたはきこえず
    空は今日 はなだ色らし、
  倦〈う〉んじてし 人のこころを
    諫〈いさ〉めする なにものもなし。

  樹脂〈じゆし〉の香に 朝は悩まし
    うしなひし さまざまのゆめ、
  森竝〈もりなみ〉は 風に鳴るかな

  ひろごりて たひらかの空
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

中也自身がが最も好きだったともいわれ、「この詩に近代文学の誕生を見る」(吉田健一)などと讃えられる有名な詩「朝の歌」です。

以前にも見ましたが、中也は「詩的履歴書」の中に〈大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くための、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす〉と記しています。

ここに中也は、自身の詩を見出した手応えを感じていたことになります。この詩はソネット風の五七調と、極めて古典的な形式で書かれています。しかし、そこに醸し出されているものは、従来の朝のイメージとは掛け離れています。


「小鳥らの うたはきこえず」、空は、ツユクサの花=写真、wiki=に見られる、はなだ色(薄い藍色)で、「土手づたひ きえてゆくかな/うつくしき さまざまの夢。」というのです。そこには、新たな日を迎えた溌溂とした雰囲気とは無縁の、心の倦怠感のようなものが漂っています。

「朝の歌」に関して、野田真吉は、次のように記しています(『中原中也――わが青春の漂泊』)。

〈至純で自由な幼児のような魂をもって生きようと希った中原は、それ故に世故たけた現実生活の恥辱にまみれ、ふみにじられなければならなかった。

文字どおり業苦のさなかに身を置き、生きなければならなかった。だが、その業苦を自らのものとしてうけとめ生きることに、彼は詩人が至純な魂をいだいて生きているしるしだと思った。

私が中原中也の詩からうける人間的感動はこのような業苦の世界のただなかにたえずゆれうごき、身も心も引き裂かれる至極赤裸な人間の魂の痛みを抒情詩としてたかめ、うたいあげられているところにある。

それは祈りであり、悔恨であり、迷いであり、愛慕未練の訴えである。〉

「朝の歌」が入っている詩集『山羊の歌』(1934年)の、この詩の前にも、私の好きな春の詩があります。初稿は「朝の歌」と同じころ書かれたとみられている「春の夜」です。

       春の夜

  燻銀〈いぶしぎん〉なる窓枠の中になごやかに
    一枝の花、桃色の花。

  月光うけて失神し
    庭〈には〉の土面〈つちも〉は附黒子〈つけぼくろ〉。

  あゝこともなしこともなし
    樹々よはにかみ立ちまはれ。

  このすゞろなる物の音〈ね〉に
    希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

  山虔〈つつま〉しき木工のみ、
    夢の裡〈うち〉なる隊商のその足竝〈あしなみ〉もほのみゆれ。

  窓の中〈うち〉にはさはやかの、おぼろかの
    砂の色せる絹衣〈ごろも〉。

  かびろき胸のピアノ鳴り
    祖先はあらず、親も消〈け〉ぬ。

  埋みし犬の何処〈いづく〉にか、
    蕃紅花色〈さふらんいろ〉に湧きいづる
        春の夜や。

蕃紅花色というと、サフランの雌しべで染めた黄色っぽい色と、うす紫っぽい花の色の二通りが考えられます。この詩の場合、どちらがしっくりいくでしょうか。

2016年4月22日金曜日

中原中也「早春散歩」⑤

同棲していた長谷川泰子に逃げられた翌年の1926(大正15年・昭和元)年4月、中原中也=写真、wiki=は日本大学予科文科へ入学するものの9月に退学。11月ごろには、アテネ・フランセへ通います。


1928年(昭和3年)5月には父謙助が死去。中也は喪主でしたが、葬儀に帰省参列はしませんでした。このころ小林秀雄は、長谷川泰子のもとを去っています。昭和4、5年に書かれたとみられる「我が生活」という題の草稿には、次のようにあります。

〈私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶(みつ)めることが出来てゐたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若(も)し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。

手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。

一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所が殆ど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。

とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。〉

「口惜しき人」の意味合いは、単に女に逃げられた、友人に裏切られたというところにとどまりません。先行きも希望も見えない、名伏しがたいものを生きていく「口惜しき人」になったのです。それは、中也が、詩人になった瞬間であったのかもしれません。

1931(昭和6)年4月、東京外国語学校専修科仏語部に入学。この年の9月には、日本医科大学の学生だった弟の恰三が病死しています。中也は、その直後、次のような弟の追悼詩を書いています。中也が24歳のときです。

      死別の翌日

  生きのこるものはづうづうしく、
  死にゆくものはその清純さを漂はせ
  物云ひたげな瞳を床の上にさまよはすだけで、
  親を離れ、兄弟を離れ、
  最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

  さて、今日はよいお天気です。
  街の片側は翳〈かげ〉り、片側は日射しをうけてあつたかい、
  けざやかにもわびしい秋の午前です。
  空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
  それは海の方まで続いてゐることが分ります。

  その空をみながら、また街の中をみながら、
  歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
  さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
  みたばかりの死に茫然として、
  卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

この詩を読んでいくと、季節の違いこそあれ、詩のかたちも味わいも「早春散歩」とよく似たところがあることに気がつきます。

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

中村稔は〈早春と秋という季節のちがいはあっても、散歩しながら心のなかにふきあげてくる感傷を描いている〉という点で両作品は似ており〈「死別の翌日」の呼吸、声調が、そのまま「青春散歩」にひきつがれている〉(『国文学』昭和52年10月)。

さらに、大岡昇平は「死別の翌日」の〈個人的感情の直截な表出から、より普遍化された詩想への展開〉が「早春散歩」(「神と表象としての世界」)と指摘しています。

2016年4月21日木曜日

中原中也「早春散歩」④

1925(大正14)年3月、中也は同棲していた泰子とともに上京します。中也は17歳、もうすぐで18歳になるというときのことです。

日大の予科などを受験するというのを口実にしましたが、替え玉受験を依頼したり、試験日にわざと遅刻して受験しなかったり。かと思えば今度は、受験のために予備校に通うのだといって両親らをごまかしていました。

そして山口の実家から、当時としてはサラリーマンの初任給よりずっと多かった80円、90円という送金をしてもらっていたのです。母のフクが「肝焼き息子」という生活の始まりです。送金は100円、120円とつりあがり、死ぬまで続いていきます。

秋山駿は「評伝」で次のように記しています。

〈これは、十七、八歳の乱暴さに賭けてでなければ行なえぬ、敢行の行為である。ヴァレリーは、自分の知る若干の天才の場合には、十九歳から二十四歳にかけての間に知的クーデターがあった、としているが、中原のこれは、それに先行する生のクーデターであった、といっていい。

しかし、その敢行の行為が、嘘を吐く(家に向って)、社会から見れば一種のインチキを踏み切り板にしているところに、中原の問題である。私が、中原における犯罪性と言ったのは、そこだ。むろん、そこはこの敢行の特徴を極端化するために言ったので、本当は犯罪性ではない。

嘘は、それを必要として自分の生の行手を賭ける者にとっては、嘘ではない、正当な行為である。むろん、嘘ではない、正当な行為である。むろん、中原はそう考えた。いま、すべてが赦されている、と。

――しかし、こういう生活の手段を生涯続けなければならない、と思うようになってからは、いったいこういう行為とその生とは、赦さるべきものなのか、それとも赦されないのか、という自問自答を、中原は無限に繰り返すようになる。

「生の罪」、あるいはこれを逆転して、「罪としての生」といった音調のものが、彼の詩の根底を流れ出す。〉(『新潮日本文学アルバム・中原中也』)


上京した翌月の1925(大正14)年4月、富永太郎と親しかった小林秀雄=写真、wiki=と知り合います。

この運命的な出会いによって、日本の近代文学史上よく知られた“奇怪な三角関係”がはじまることになるのです。

その年の11月12日、肺病を患い闘病生活を続けていた富永太郎が、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と自ら取り去り、24歳の若さで死にます。

その直後、泰子は中也のもとを離れて小林秀雄のところへ走り、同棲を始めるのです。

そのあたりの詳細は、有名な大岡昇平の『朝の歌』につづられている。ここでは、小林自身が後に書いた「中原中也の思ひ出」(昭和24年8月『文藝』)の一節をあげるのに留めておきましょう。

〈私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。大学時代、初めて中原に会つた当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてから、そんな風に思ひ出したがるものだ。

中原に会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶目茶にした。

言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にならない。

驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。だゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見附けただけであつた。夢の多すぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。

そんな言葉ではないが、中原はそんな意味のことを言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。〉

中也や秀雄たちの青春は、「宗教風の恋」を問うたような賢治とはかなり異質なものだったようです。それはともかく、こうした“奇怪な三角関係”のころに作られたと考えられる作品の中に、つぎのような春の詩があります。

      春

  春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
  その汗を乾かそうと、雲雀〈ひばり〉は空に隲〈あが〉る。
  瓦屋根今朝不平がない、
  長い校舎から合唱は空にあがる。

  あゝ、しづかだしずかだ。
  めぐり来た、これが今年の私の春だ。
  むかし私の胸を搏〈う〉つた希望は今日を、
  厳〈いか〉めしい紺青〈こあを〉となつて空から私に降りかゝる。

  そして私は呆気〈ほうけ〉てしまふ、バカになつてしまふ
  ――藪かげの、小川か銀か小波〈さざなみ〉か?
  藪かげの小川か銀か小波か?

  大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
  一つの鈴をころばしてゐる、
  一つの鈴を、ころばして見てゐる。

2016年4月20日水曜日

中原中也「早春散歩」③

中原中也(1907―1937)は、1907(明治40)年4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)に父柏村謙助、母フクの長男として生まれています。

父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいました。1909(明治42)年、父謙助の転任にともなって広島へ、その後、金沢へと移り住みます。

1914(大正3)年3月、父謙助が朝鮮龍山(現ソウル市)聯隊の軍医長となったため、家族は山口に戻ります。1915(大正4)年1月、弟の亜郎が病死。その死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いています。

8月、父謙助は山口に帰任。10月には中原家との養子縁組を届け出て、一家は中原姓となりました。1917年(大正6)年4月、父謙助は願によって予備役に編入され、中原医院を受け継ぐ。

1920(大正9)年2月、『婦人画報』と『防長新聞』に投稿した短歌が入選。4月には県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学しましたが、このころ読書に目覚め、次第に学業を怠るようになります。

1922(大正11)年5月、友人2人とともに私家版の歌集『末黒野』を刊行。中に、「温泉集」と題して、28首を収めました。「防長新聞」に好意のある批評が載っています。

1923(大正12)年3月、山口中学を落第し、京都の立命館中学第3学年に転入学しました。晩秋には、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒していきます。

その冬、ドイツ文学者の成瀬無極が主宰した小劇団「表現座」に所属していた女優、長谷川泰子(1904―1993)=写真、wiki=を知ることになります。


稽古場にいたとき、中学生がやってきて、ダダの詩の書いてあるノートを見せたのが、出会いの始まりだ、と自著『ゆきてかへらぬ』で泰子は述べています。

泰子は、広島市出身。英和女学校(現・広島女学院)を卒業。ひとり立ちして生きていこうと女優を志し、京都に出てきて、表現座で役者修業をしていました。しかし劇団は解散してしまったため、泰子は途方に暮れてしまいます。

「それなら、ぼくの部屋に来てもいいよ」と中也が言ったのがきっかけで、二人の同棲生活がはじまります。1924年(大正13年)4月のことです。

この年の7月、富永太郎が、上海に渡って永住しようという計画に挫折して、友人がいる京都へ遊びに来ました。その際、中也と知り合い、2人はすっかり意気投合。詩を語り、ダダイストを論じあう仲になります。

そのころとについて、大岡昇平は『中原中也伝――揺籃』のなかで、次のように記している。

〈富永は殆ど毎日中原の部屋へ来て詩の話をし、下鴨の下宿へは寝に帰るだけだった。と当時中原と同棲していた長谷川泰子はいっている。富永二十三歳、中原十七歳、泰子二十歳である。

泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優で、撮影所へはあまり行かなかった。二人の食事を作った。しかし酒を出すなんて考えたことはなかったというから、二詩人のアルコール中毒は大して進んでいなかったと見倣していい。また金もなかった。〔中略〕

中原はこの前の年から高橋新吉の影響の下に、ダダイスムの詩を書いている。早熟の詩才は二人の大学生にとって驚異だったことは間違いない。

富永も大正十年から約十五篇の詩を書いているが、いずれも習作の域を出ず、模索時代である。中原は彼にとって、最初の詩人の友であった。

七月七日附の手紙に「ダダイストを訪ねてやりこめられたり」の句があるところをみると、中原は六歳年長の友に遠慮しなかったと想像される。しかし相互に影響の跡は、二人のその後の作品にはあまり見あたらない。〉

中也が「詩帖」と呼んだ詩篇ノートの最も古い一冊にも、「春」の詩が書かれています。推敲を重ね、中也が生きているときに出した唯一の詩集『山羊の歌』の冒頭に置かれることになった詩「春の日の夕暮」です。

     春の日の夕暮

  トタンがセンベイ食べて
  春の日の夕暮は穏かです
  アンダースローされた灰が蒼ざめて
  春の日の夕暮は静かです

  吁〈ああ〉! 案山子〈かかし〉はないか――あるまい
  馬嘶〈いなな〉くか――嘶きもしまい
  ただただ月の光のヌメランとするまゝに
  従順なのは 春の日の夕暮か

  ポトホトと野の中に伽藍は紅く
  荷馬車の車輪 油を失ひ
  私が歴史的現在に物を云へば
  嘲〈あざけ〉る嘲る 空と山とが

  瓦が一枚 はぐれました
  これから春の日の夕暮は
  無言ながら 前進します
  自〈み〉らの 静脈管の中へです

2016年4月19日火曜日

中原中也「早春散歩」②

中原中也は、自らの詩作の遍歴について、未発表の「詩的履歴書。」という文章で、次のように記しています。
 
大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌つたのが抑々〈そもそも〉の最初である。学校の読本の、正行〈まさつら〉が御暇乞の所、「今一度〈ひとたび〉天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。

大正九年、露細亜〈ロシア〉詩人ベールィ=写真、wiki=の作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われてゐることなんだなと安心す。

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。

仝年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省がなかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎〈とが〉めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正十四年、小林に紹介さる。

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和二年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。

仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。

昭和三年父を失ふ。ウソついて日大に行つてるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧ろウソが明白にされたので過去三ヶ年半の可なり辛い自責感を去る。

昭和四年同人雑誌「白痴群」を出す。

昭和五年八号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和七年季刊誌「四季」第二輯夏号に詩三篇を掲載。

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。

昭和八年十二月、結婚。

昭和九年四月、「紀元」脱退。

昭和九年十二月、「ランボオ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。

仝年十月男児を得。

仝年十二月「山羊の歌」刊行。

昭和十一年六月「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。


さらに「履歴書」の最後には、この詩の題名にもなった「散歩」について、次のように書かれていました。

「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」

*アンドレイ・ベールイ(1880-1934)は、実験的な作風や独自の詩論で知られるロシア後期象徴派の中心的な詩人

2016年4月18日月曜日

中原中也「早春散歩」①

きょうから、日夏耿之介の難解な詩を離れ、中原中也(1907-1937)の「早春散歩」をしばらく読みたいと思います。

     早春散歩

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……


「早春散歩」は、原稿用紙に書かれたままの状態で、中也の死後に見つかった作品です。

原稿用紙は紀伊国屋製。グリーンの罫線で、400字詰め。四方に子持ち罫による囲みがあるタイプで、ブルーブラックインクの万年筆で記されていました。

題名には「早春」とあり、2行目には「春、早春」とありました。原稿用紙の種類やこれらの記載から、1933(昭和8)年早春の作と推定されています。

2016年4月17日日曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「太陽は世界を牽く」

  きょうは『転身の頌』の最期の詩「太陽は世界を牽く」です。

   太陽は世界を牽く

太陽は世界を牽(ひ)く
世に日蝕(につしよく)あり
かかる日の午後
片丘(かたをか)に攀(よ)ぢ登りて
地平の上に浮動する嗤笑(わらひ)を見む
恐らくもつとも聖くされどかすかなる
まことの笑ひを

若し夫れ裸蟲(らちゆう)たるあらば
赤くややすさみ肥(ふと)れる対斉(たいせい)を見
また怪綺なる
嬌媚の瞳に露じめる単純の騒音をきくべき歟
最後にかかる懐瑾(くわいきん)の火のひまびまにありて
ほとんど私語のごとき喘鳴の冷たさを感ず
すべてこれ心なり


「片丘」は、片方が低くなっている丘、または、丘の片側のこと。孤立した丘をいうこともあるようです。

「裸蟲」は、羽毛鱗介のない生物。人もそうです。

「懐瑾」は文字通りにみれば、胸中の固くて美しい玉。

「喘鳴」(ぜんめい)は呼吸のとき出るぜいぜい、ひゅうひゅうという音のことです。

   ◇

ここまで耿之介の『転身の頌』を、ざっと眺めてきましたが、これらのなんとも難解な詩を読み解く力は、いまの私にはありません。

それは将来への「宿題」としおき、ここでは耿之介のこの最初の詩集が、萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』と同じ1917年に刊行されていることに注目しておき、ひと区切りとしておきます。

2016年4月16日土曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「金色のエロス」

 きょうは『転身の頌』から「金色のエロス」を読みます。3部に分かれています。

   金色のエロス

(一)黄金欣栄

ああ 斯(こ)の崇高(けだか)き民戯よ
哀憐の黄金帝座に雙(なら)びあり
謙仰にして至純なれば自然の繁殖部に溺没す
群りあひ低語(さざ)めき又俯仰するは賤人(まちびと)らなり
虚空たかく晴れわたり太陽とともに逍遥す
金色の浄光は必ずその環境を鍍金(めつき)せり
時ありて密雲ふかく帝座は金声を点ず
哀しく君臨しかつ嬉しみて高蹈せり
夫れ ものみなの情熱による更生は
燦爛(きらめ)く黄金の欣栄か

(二)黄金王

火燭(くわしよく)に火とぼして この日
危き夜の世界をとぶらはむ
すべてのものことぼとくその原容をとり失ひ
譬へば捕縛せられし犯罪美少人のごとし
わが紫磨黄金(しまわうごん)の火燭の光ひとり栄(は)えて
燦爛と凄壮と立ち坐(ゐ)ならぶ也
このとき軽く われ しはぶきするに
灯は樸直(ぼくちよく)に火(も)え 躍り かがみ
すべてのもの ひとしく明滅す

茂林(もりん)の深緑に黄金の征矢(そや)わけ入り
暗紫(こむらさき)の陰影(かげ)など梢に啼きしきり
病める流星は夙(と)く南天を航す也
わがこがねいろの洋燈(らむぷ)は暗夜を遍照し
こころたのしみ華奢なる網代車に憩へる
月はなく 星も今は亡(な)し
ああ、太陽をや

(三)黄金王景

緑濃き草原(くさはら)を奔(はし)る細川のうちに
月夜(げつや)なり
黄金色(わうごんじき)ひかりあまねき天人の亡骸(なきがら)泛ぶ

うら寂び 浄く澄める細流(ながれ)のひまを
やすらかに睡むる銀鱗のむれびとよ
水底の力に伴(つ)れて
老いたる水藻(すゐさう)の鬚(ひげ)いともかすかに顫ふ也
天人のかばね赫灼と光れり
甘き羞明はわが心を襲ふ

ああ 黄金(こがね)なす妹好のしかばね
いとおびただしきソプラアノの連続は
めぐみ裕(ゆた)かなる生(いき)の身の光被者ぞもよ


「欣栄」(きんえい)は、よろこびと光栄、よろこばしい光栄。

「逍遥」は、気ままにあちこちを歩き回ること。

「高蹈」には、身を高く清く処する意があります。

「紫磨黄金」は、紫色を帯びた純粋の黄金で、最も良質とされたもの。紫金。紫磨金。

「征矢」は、鋭い鏃(やじり)をつけた、戦闘に用いる矢のことをいいます。

「赫灼」(かくしゃく)は、ひかりかがやくさま。

「光被」は、光が広く行きわたること、君徳などが広く世の中に行きわたることをいいます。

2016年4月15日金曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「三鞭酒」と「房星」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   三鞭酒――又は流火の歌

良後(あたらよ)の天床(ふしど)に於ける片破星(かたわれぼし)は
夥しくこぼれし三鞭酒(しやんべんしゆ)の一滴にすぎず
微星(ぬかぼし)らの声音(こわね)を好む
神経質の笑ひにて
其存在を精密に高度に知覚すべければ
詼諧(くわいかい)よ 衝動よ 慟哭よ 歓呼よ
房心楽しみ快飲するとき
屡(しばしば)声高く叫ぶなり
快く目醒ましき凄壮の奇襲戦よ
醗酵せる焮衝(きんしよう)よ 跛足(はそく)の悲嘆よ 地上讃美よ
爾の小賢しき毛髪と
快く熟眠せる四肢と戯謔(ぎぎやく)好きの黒瞳とを嘉す
爾 何を思索するもよし喋言するも亦よし
いで黄金杯高くかかげ
われらが片破星らを頌(ことほ)がむ

   ◇

中国では3種類の動物の陰茎を漬けて、強精剤としての効果もあるとされる酒を「三鞭酒」(サンピエンチユウ)というそうですが、ここでいうのはシャンパンのことでしょう。すなわち、フランスのシャンパーニュ地方でつくられる、アルコール分13%前後の発泡性ブドウ酒です。

「片破」(かたわれ)は、かけら、細かいかけらの意。

「詼諧」(かいかい)は、こっけいな言動をしてふざけること。おどけ。諧謔(かいぎゃく)。

「焮衝」(きんしょう)は、からだの一局部が赤くはれて熱をもち、痛むこと、炎症。


   房星

房星(ばうせい) 遠流(をんる)にありて
黄金(こがね)の鈴さはやかに鳴らす也
われ 房星の彳みを見きはめて
みづからのたましひの蒙塵(もうぢん)を感ず
わが肌の細胞にいと鮮かなるその鈴の音(ね)よ
王者なれば われは美服(びふく)し
浄光肉身にして
かの貴金属の孤唱(こしやう)をきかむ
怪綺なる痙攣(けいれん) いまわが骨を埋没(うづめ)たり
房星らをして死なしめな
房星らをしてたのしましめな
ああ 孕(はら)みしわが心 疲れぬる

   ◇

「房星」は、二十八宿の房(ぼう)宿の和名。サソリ座の頭部の四星から成ります。

二十八宿というのは、黄道に沿う天空の部分に設けた二八の中国の星座。月がだいたい一日に一宿ずつ宿るところと考えられました。

各宿の間隔は等分というわけではありませんが、それぞれ規準になる星があります。房宿は二十八宿のひとつで、サソリ座の頭部の四星から成ります。

「蒙塵」は、もともと宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意で、変事に際し、天子が難を避けて宮城の外に逃れることをいいます。

2016年4月14日木曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「春娃と万象」と「愛の王者」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   春娃と万象

棕櫚の葉は高く掌(てのひら)を放(ひら)き
白樺の幹を褄(つま)かかげて並居(なみゐ)たり
おほどかに月のめぐる
宙空(そら)は碧玉の頸飾にして
山山呼吸(いき)はげしく地心よりの輪舞に狂へり
青き光を生絹(すずし)に鍍金(めつき)して
一人(いちにん)の阿嬌は若くあゆめど
その陰影(かげ)をよそにして何かありや

   ◇

「娃」の音読みは「アイ、ワ、ア、エ」など。美しい、美女、少女などの意味があります。「おほどか」は、おおらか、おっとり。

「棕櫚」は、ヤシ科の常緑高木。高さは5メートル以上になり、幹は直立し、枝がなく麻のような毛で覆われます。

「棕櫚の葉」=写真、wiki=は頂上に群生し、手のひら状で大きく長い柄をもちます。帽子、敷物、うちわなどの材料にも使われます。

「頸飾」(けいしょく)は、くびかざりのこと。

「阿嬌」(あきょう)の「阿」は親しみを表す語、「嬌」は漢の武帝の后の幼名で、美しい女性を意味します。


   愛の王者――又は螢感の歌

心は大気にはびこりみち
愛は運命のごとく出没す
婉美流火(えんびりうくわ)よ
爾(おんみ)ら 悉(ことごと)く光沢(つや)ある紅玉の類(たぐひ)にして
わが愛のあしどり速くもすぎ適(ゆ)かば
泡沫(うたかた)のごとく砕け散らむ
愛の王者のあゆみは軽く迅かに
廓(ひら)けゆく世界に火花咲きかつ散るべし

   ◇

「婉美」は、しとやかで美しいこと。

「流火」は、7月の異名でもあるようです。

「廓」には、城の外囲い、くるわといった意のほかに、がらんとして広い、広げるという意味もあります。

2016年4月13日水曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「神学教授」と「挨拶」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   神学教授

空気は春にぬるみ
雲しどけなく泪(なんだ)ぐみ
水流は環舞宴(くわんぶえん)にのぞみ
大いなる顔上天(じやうてん)に形(あらは)れて
神学教授の瞳まことに青し

   ◇

「神学」は宗教、特にキリスト教で、その教理を体系化し、信仰の正統性や真理性、さらに、その実践について研究する学問。ヨーロッパの大学で神学部は、最も古くからある学部の一つです。

「環」は、輪の形、めぐって端がないこと、一まわりまわる、めぐる、めぐらす、かこむこと。「環舞」という踊りがあるのでしょうか?。

「上天」には、そら、天、天上、天上界の中ですぐれている方の天などの意があります。


   挨拶

われ感ず
存(ながら)ふる積儲(もの)の挨拶を
わがこころの曠野に落日(いりひ)して
わが哀憐(あいれん)の花苑(はなぞの)にひと村雨(むらさめ)しければ
はたた神 世を領(しろ)し
雨後の清純こそ来りたれ
われ感ず
存ふる積儲の挨拶を

   ◇

「積儲」は、本来は「蓄(たくわ)える」という意味のようです。

「村雨」は、強く降ってすぐ止む雨のことをいいます。「群れた雨」の意で、群雨、叢雨とも書きます。歌川広重の「東海道五十三次/庄野・白雨」=写真、wiki=の白雨も村雨のこと。

「はたた神」は、はたたく神の意味で、激しい雷を指します。夏の季語で、たとえば山口青邨に「はたた神下りきて屋根の草さわぐ」という句があります。

2016年4月12日火曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「伝説の朝」と「痴情小曲」

きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   伝説の朝

古伝の春の朝まだき
あまた郡民のまづ臥し匿れて
血汐吐く玉冠も
顔色(いろ)蒼白めし古塔の破風(はふ)も
姦妊の宵の内扉(うちど)も
石級下に泪(なんだ)さしぐむ処女林も
すべて心暖かき春の日の光うれしみ興じ
浪漫底格(ろまんちく)の絹衣 古雅のうち被(かづ)き
悠久の姿力(すがた)あり 現界(ここ)にあらはる
かかる祈り
樹の間に来啼く紅樹歌童(うぐひす)の
いと快くいと婉雅なる
されどまた弾力ある顫音(せんおん)を心に聴く歟
烏乎(ああ) 伝統の美と
美より生れし異(あや)しき生命(いのち)とを讃美す

   ◇

「破風」=写真、wiki=は、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のこと。もともと切妻造、入母屋造の屋根の妻側部分を広く示す名称です。

屋根の平側に、ドーマーのようにあえて部分的に切妻造の屋根をつけ、破風として屋根装飾を施す例が日本の神社や城郭建築に見られます。

「石級」は、石の階段、石段のこと。「この石級は羅馬(ローマ)の乞児(かたい)の集まるところなり」(鴎外訳「即興詩人」)

「処女林」とは、自然のままの森林、原生林のことです。


   痴情小曲

春のあしたの日も寒く
沈沈とものみな黙(もだ)す牢獄(らうごく)の
窓に靠(よ)り青き爪喰(つめは)む囚人(めしうど)か

真昼の街の片かげに
ちやるめらの音(ね)を在りし日に忍(しの)びては
白足袋(しろたび)の穢(よご)れも厭ふ売女かな

ながれて澱(よど)む悪水(あくすゐ)の
濁臭(だくしう)に白宵(ゆふべ)の唄をながめては
身の末を嘆(かこ)ち顔なる船子(ふなこ)かな

梵音(ぼんのう)みだる僧院の
内陣にかげとぼとぼと燃えかがむ
黄蠟(くわうらふ)のひびきを愛(め)でむ朽尼(くちあま)か

日は沈み
月出(い)でにけり

     ◇

「靠」には、寄りかかる、もたれる、という意味があります。

「船子」は、船長の指揮下にある人、水夫、船方。土佐日記に「楫取り、船子どもにいはく」とあります。

「梵音」は、五種清浄の音を発するという、梵天の王の声。読経や仏教の音楽の意で使われることもあります。

「黄蠟」は、蜜蜂から分泌され、蜜蜂の巣の主成分をなす蠟のことです。

2016年4月11日月曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「園囿閑春」と「悲劇役者の春の夜」

きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   園囿閑春

夜半の村雨小心の忍び足にうち過ぎぬ
哀思に濡れ霑(そぼ)ちたる花苑(はなぞの)の央(もなか)にありて
閑暇は過去(こしかた)を孕(はら)みつ現当(げんたう)の夢に仮睡し
月は追憶に蝕ばまれて色青く嘆嗟(なげかひ)す也
わが幻人(げんじん) かかる折りしも悲しく
いと古風なる寝衣紅(あけ)に艶めかしく
白鞣(しろなめし)の小靴(をぐつ)なめらかに履き鳴らし
青き夜帽(ナイト・キヤツプ)前飾りおどろおどろしき
かの紫夢(むらさきのゆめ)に鍍金(めつき)せられ現出(あらは)るめり
幻人の声 琳璆(りんきう)と黄金(きん)に光り音し
地の黒影(こくえい) 鬱悒(うついふ)のバス咳(しはぶ)きすれば
遙か彼方の街角(がいかく)より風狂者の銀笛響き来り
悠長なる行潦(にはたづみ)に宣叙調(せんじよてう)の点線奔(ほとば)しりいでて
夜半の雨有(また)もや一切(しき)り閑談に耽りゆく覩(み)ゆ

   ◇

「囿」(ゆう)はもともと鳥獣を放し飼いにするという意で、「園囿」は草木を植え、鳥や獣を飼うところをいいます。

「現当」は、仏語で、現世と来世。この世とあの世。現未。げとう、とも言います。

「白鞣」は、色染めをしてないなめしがわ。

「幻人」とは、ふつう人の目をくらます術を使う人のことをいいます。妖術、忍術、魔法、奇術、手品などを含みます。もともと西域に起こったもので、唐を通じて伝来、天平時代にはかなり盛んになっていたようです。

「琳璆」は、玉がふれあって鳴るすがすがしい音、あるいは水のさわやかな音の形容として用いられます。

「鬱悒」は、心配事などがあり、心がふさがることをいいます。

宣叙調は、レチタティーヴォ、叙唱のことでしょう。オペラ、オラトリオ、受難曲、カンタータなどでみられる形式で、歌というよりも朗読のように歌われます。

 「その天然の美音もて、百錬千磨したる抑揚をその宣叙調(レチタチイヲオ)の上にあらはしつ」(鴎外「即興詩人」)


   悲劇役者の春の夜

道化たる古雅の衣(きぬ)まとへる悲劇役者のひと群は
春の夜の雨の巷をさざめきて縫ふ
人間の命より溢れ出でし膩(あぶら)とかせし春の雨
青く愁ひ怡びに痩せ 白脛顫動(しろはぎをののか)す女等を矚(み)よ
また 頬赤き美少人(びせうじん)の疾走哉
美興(びきよう) すべて春空(そら)より降(くだ)り 快感 地(つち)に湧く歟
巷巷に灯(ともしび)笑ひ
飾窓 銀にざんざめけば
甃石(しきいし)のアスファルトもバスす也
心煕(こころたの)しきこの宵を
道化たる悲劇役者の一群が
ぞめきの姿湮(さ)えゆけば
古き世の笛吹き奏(なら)し
若き按摩(あんま)も踊り出づ
鬚白(ひげしろ)き哲学教授が皺だめる額に刻む
索迷の苦茗(くめい)醍醐味
巷巷に怡悦(よろこび)あふれ
生活は街頭に海波を逶迀(うね)る

   ◇

「膩」には、脂っこい、しつこい、飽き飽きする、うんざりだ、ねばねばする、細かい、垢(あか)などの意があるようです。

「巷」には、人が大ぜい集まっている賑やかな通り、町中といった意味のほかに、道の分かれる所、分かれ道、岐路という意もあります。

「ぞめき」は、浮かれさわぐこと。遊郭や夜店などをひやかしながら歩くこと。

「湮」の音読みは、「イン」。うずもれて、跡形もなくなることをいいます。

「苦茗」は、苦い茶、質の悪い茶。

仏教では、牛や羊の乳の精製過程を、乳味、酪味、生酥味(しょうそみ)、熟酥味、醍醐味の五段階の味で表わします。

このうち「醍醐味」は、精製の段階を経て美味となった最高級の風味や乳製品を指し、このことから物事の真のおもしろさや仏教での衆生に例えられることもあります。

*写真は「ハドリアヌス帝のヴィッラのモザイクに描かれた悲劇と喜劇用の仮面(wiki)

2016年4月10日日曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「古風な月」と「聖痕」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   古風な月

泪(なんだ)にみてる無際涯の気海を
漕ぎゆくは ぴかぴかとひかる
もの古りし鍬形兜に前飾られし
三日月のごとき夫(か)の光の快艇(ヨット)なり
風 天心より吹きいでて
岡と森とその緑を環(めぐ)る掘割と
掘割に泛ぶ難破せし笹舟と
夜警の巡邏(じゆんら)のごとく彳(た)ち睡れる煙突と
天主公教会の堂母の破風(はふ)とを
揺曳ある迷景に顫動せしむるとき
(こは雨をふくみて黙せる卯月の夜なり)
われは なにとはなくも固定表情の
神楽舞に用ゆる滑稽にして神厳なるべき
翁面(おきなめん)の抽象凝視を想ふ
こころ このとき歩みを歇(とど)め
たよりなき小乗の感傷性に殉死せむとし
ひたすらに肉情の奔躍を蔑視しつつ
絶望を育める更生者のありて
月蝕の夜の十字街に索迷せるさまに
また かの蘇生(よみが)へりしモナ・リイザの幻に眼(まなこ)釘打たれて
くごもりつ くごもりつ
巌間(いはま)を迸(ほとば)しる小泉の爆声は
息つまり からくも叫ぶ也
ああ 古風なる月よと

   ◇

この詩の入った「古風の月」という節のタイトルには「ユピテルは、恒に、サツルヌスの胃を免れる。――アルテュル・ゴビノオ『文芸復興』第二版序」という但し書きがあります。

「鍬形」は、鍬をかたどったところから、「兜」(かぶと)の前部につけて威厳を添える一種の前立物をいいます。時代劇などでよく見かけるように、金属や練り革で作った2本の板を、眉庇につけた台に挿して角のように立てたもので、長鍬形、大鍬形、獅噛(しがみ)鍬形、三つ鍬形などの種類があるそうです。

「天主公教会」は、ローマ-カトリック教会の明治・大正期の呼び名です。公教会とも略されます。

「顫動」は、小刻みにふるえ動くこと。

「神楽舞」(かぐらまい)は、神前で奏する、日本古来の舞い。


   聖痕

かかる宵
熱疫(や)める満月はあまた磋嘆(さたん)し
星どもことごとく嘲笑せり
心忙しく茂林を漫歩(そぞろあ)りきつつ
わが哀傷の聖痕(すてぐまた)を凝視(みつ)めたり
また われは如何なる物欲に心牽かれざるべし
この地球のきしめき自転(めぐ)るにつれても
素秋(あき) 中空にはびこりつ
まま 冷たき夜風這ひ蟠居(わだか)まりぬ
わびしき限りなければ
白く暖き寛衣(がうん)に この身ふかく匿(かく)れ
いづくの里に赴くならむ
たえず つぶやきて
ああ『月魄(つき)は涓(なが)れぬ』と

   ◇

「磋嘆」はなげくこと、あるいは感心してほめるという意味。嘆息磋嘆ということばもあります。

「蟠居」(ばんきょ)は、根を張って動かないこと、わだかまること。その地方一帯に勢力を張っていることをいいます。

「寛衣」(かんい)は、ゆったりと大きく仕立てた着物のことで、ここではガウンをイメージさせています。

「涓」は、音読みだと「ケン」。小さい流れ、水のしずく、わずか、きよめる、などの意があります。

2016年4月9日土曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「涙を喰ふ者」と「火の寵人」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   涙を喰ふ者

透明清純にして 味甘(あぢあひうま)く かつ にがし
白宵(ゆふべ)白宵にあまたの涙を喰(くら)はなむ
かつて数おほく薄明舞台をよろめき歩める者
いま明るき洋燈(らむぷ)とともに夜を奔らなむ
薄暮(くれがた)の草原(くさはら)に戯(たはむ)る処子らは
生命(いのち)とともにいそしみて
いそいそとその泪(なんだ)を捧ぐ也
捧げもの小胸(こむね)にみたば
愛は跣足して生活を踏みしだき
常春楽土きたるなるべし
頽唐を課税し 絶望を負債せしむる
淫蕩世界を泛み出でて
狂ひたまむるる
あまた そこらなる
あまたの涙(なんだ)を喰ふ者

   ◇

「処子」は、未婚の女性、おとめ、処女の意の他、処士すなわち民間にあって、仕官しない人を言うこともあります。

「跣足」は、はだし、すあし。

「頽唐」は、勢いが衰え、くずれ落ちること。健全な思想が衰え、不健全な傾向に進んでいくようすをいいます。

「淫蕩」のほうは、酒色にふけってだらしがないことです。


   火の寵人

惟(これ)を嗜む千万冠子蟲(かんしちゆう)を その嗟嘆(なげかひ)を
破灌子(はくわんし)等肥満(ふと)り弾力ある裸身(はだかみ)にして
牡豹(をへう)の如く白日の青床に横る時
肉障の各処より汗と発散する異風の香に咽ぶ
其柔く粘気ある真白き蹠(あなうら)に呂(べえぜ)せん歟
かの放肆なる笑ひを綴る
腓脛(こむらはぎ)の輝く感触に眩暈す
凡そ髪毛の洒落(しやらく)なる刺衝心理の落付たる享感を喜(この)む
あらゆる内気なる皮膚の羞める恍惚の繊美に傾倒す
此等感覚性蠱惑(こわく)の法悦よ
更に更にこれらなに者よりも
希くば 神よ 神よ
崇(けだか)く健康にして叡智夥しき妙人の
艶ある雙頬(さうけふ)の通路を下る白光真珠の一群を搾取せしめよ
涙(なんだ)の中心にて感ずるは悉皆(しつかい)世界の好色横断面也
そのいとをかしき重積なり
宝石鉱の燦爛(さんらん)ある至高情緒の心ゆく顫音也
六月月夜(げつや)の燐光ある耽楽(たんらく)の抽象的内在美也
想像(おもふ)は
白く冷き星涙に濡れそぼてる丹朱花の生香ある花弁に呂する。
健かなる紅顔子の黒瞳(こくとう)より
自然(おのづから)に奔(ほとばし)り出る白熱の水液也
視よ 覩よ
かかる玉瑶大地に落ち散り
力あれど青さめし炎(ほむら)と火(も)え昌(さか)るを
今全世界を死力にて我心臓を重圧すと夢見たり
然れども常にかかる涙(なんだ)の酵出する火によりて
酷愛せらるるを喜ぶもの我也
火よ! 火よ!

   ◇

この詩には「ひと日日光の熱を楽しむ老いさらばひたる檞樹の下にて歌へる歌」との前書きがあります。

「寵人」は、ちょうにん、または、ちょうじんと読み、愛している人のことです。

「冠子」は、鶏のとさかの意味とか。

「肉障」は、唐の楊国忠が多くの美女を周囲に並べて、寒さ防ぎの屏風がわりにした故事のこと。肉屏風、肉陣。

「悉皆」は、ふつうは、残らず、すっかり、全部の意で用いられます。

「紅顔」は、年若い男の血色がよくて皮膚につやがある顔の意ですが、古くは美しい婦人の容貌にも用いたそうです。

2016年4月8日金曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「うるわしき傀儡なれど」と「翫賞」

きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   うるわしき傀儡なれど

うるはしき傀儡なれど
みにくかる生存なれど
わが右手(めて)の脈搏を相応(ふさは)く乱調せしめ
わが小むねの赤き血汐を溷濁(こんだく)せしめ
わが青春の光ある肌膚(きふ)を窘蹙(きんしゆく)せしめ
つひにわが肉体より
力と美とを駆り落し
すべて
まことわが心を圧死せしむ

うるはしき傀儡なれど

   ◇

「溷濁」は、混濁と同義で、いろいろなものがまじってにごる、といった意味がありますが、「溷」は、川の流れの上に作った小屋の意からか、「かわや」とも読まれます。

「傀儡政権」などといわれますが、「傀儡」は、あやつり人形、くぐつ、でくのこと。また、自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者のことをいいます。

「窘蹙」は、すくむ、ちぢまる状態。



   翫賞

われ旃(これ)を嗜む
この婉美(えんび)なる無思念とその弾力ある激感と
戯謔(ぎぎやく)好きなる鮮血を珍蔵する腿肚(こむら)と
かなたこなたなる自由なる表皮の磁力と温度とを
旃によりて涙感するは
呂(べえぜ)によりて出産する法悦と
抱擁の醗酵する解脱と
電光のごとき人間神化の痙攣のすべて也
されど ああ 夙く小夜の出牕を闔(と)ぢて
かの紅法衣よりほの瞥ゆる
旃が内なる世界をしていと熟睡(うまい)せしめよ

   ◇

「翫賞」は、風景・美術品などを味わい楽しむこと、鑑賞。

「戯謔」(ぎぎゃく)は、たわむれ、おどけ。「こは、固 (もと) より戯謔に過ぎざりき」(鴎外訳「即興詩人」)

中国語では、ふくらはぎのことを「小腿肚子」というようです。

「呂」(りょ)は、中国や日本の音楽理論用語で、中国では、12律のうち偶数番目にあって陰性をもつと考えられていた6個の律をいいます。日本では雅楽や声明の音階の1つを意味します。

2016年4月7日木曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「坂路に於ける感触」と「白き足」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   坂路に於ける感触

日は 黄色(わうじき)に膿み爛(ただ)れ世界(よ)に腹這ひ
凡て物象は三稜形灰白の墳墓を築く

わが肉は青白き衰耗面紗(すゐもうめんさ)に臥し隠れて
わが心は裂傷の神経性疼痛に戦きけり
しかれどもわが便乗の街上電車のみは
限りなく凄まじき偏盲の惰力に奔馳(ほんち)す

その警鈴(べる)は 紅き点線の誇張ある継続にして
車台は海嘯の相(かたち)して今坂路(はんろ)を溢れ下らむとす
不思議なる法悦はかの春潮の若(ごと)くはやく
悪運の前知に慄(わなな)くわが胸の小函をみせたり

わが心はかの若く美しき阿嬢子が
天鵞絨(びろうど)の繊巧ある水落の周辺なり

   ◇

「衰耗」衰え弱ること。

「面紗」はベール、「黒色の長い面紗をかぶり」(永井荷風「ふらんす物語」)。

「海嘯」は、海鳴り、あるいは満潮のとき、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になって砕けながら川上に進む現象をいいます。

「阿嬢子」は、「お嬢さん」ということでしょうか。


   白き足

人人は木彫の静止を保ち
小景の両側(りやうそく)に群り集ふ

急行列車のひと列(つら)は
心みち気驕れる青年侍従が
ことさらなる厳峻の威容以て
いづくよりか奔り来りぬ

年老いし踏切番は
冷殺の微笑とともに
把手を手にとり持ちつつ
若き犯婦の白き足を
淡紅の半霄(なかそら)高くささげたり
されど列車は 躁狂者の悲鳴を放ち
いち早くその常軌により逸し去りぬ
踏切番の老人は私語しつつその静居にかくれ
人人はその硬直を自ら解きていま蠢動す

   ◇

「把手」(はしゅ)は、手に握る部分、取っ手のこと。

「躁狂者」は、ある事に非常に熱中している人、マニア、神がかり、気違い、といった意味があります。

「蠢動」(しゅんどう)は、虫などがうごめくこと、物がもぞもぞ動くこと。「不満分子が蠢動している」などと、つまらないもの、力のないものなどが騒ぎ動くことに使います。

2016年4月6日水曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「漂泊」と「遊民序歌」

きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   漂泊

「女性」と呼べる声あり
さながら凱歌のごとく世界(よ)に満つ
他は野犬の徒らに吠え続くるあるのみ
星は眼(まなこ)血走りて切(しき)りに星座を離れ
地は息づかひ激しく脈搏(みやくう)てり
ひたすらに 風吹(ふ)き浪あれ
あまつさへ 黄金(こがね) 山に吹き出で
白銀(しろがね) 谿(たに)に流れいでたるさへあるに
いま われ何地(いづち)いづくに漂泊(さま)よふらむか

   ◇

「漂泊」は、流れただよう、所を定めずさまよい歩く、さすらうこと、流浪。

「あまつさへ」は、「あまっさへ」の「っ」を、促音でなく読んでできた語で、別の物事や状況が、さらに加わるさま。特に悪い事柄が重なるときに多く用いられます。

「何地(いづち)」は、どこ、どの方向。方向や場所についていう不定称の指示代名詞。平家物語に「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け」とあります。「いづく」も、どこ、どちらといった意で、同じく平家物語には「薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん」などとあります。


   遊民序歌

心つねにたはむる
 ――人かく云へり われもまたかく信ず――
偉(おほ)いなるたはむれよ
触手ある飛躍よ
飢者の餌(ゑば)を漁るがごとき
少人(せうじん)の春に憧がるるがごとき
警吏の自動車に轢殺せらるるがごとき
航空機の時ありて墜落するがごとき
おごそかなる確性(かくせい)の実事にして
崇(たふと)ぶべき真理のかげなり

すべて戯れは道義の一也

   ◇

「触手」というのは、主に無脊椎動物の、頭や口の周囲から伸びる柔らかい突出部分=写真、wiki=のことをいいます。感覚細胞が多く分布し、触覚や捕食の働きをします。

「轢殺」は、電車や自動車などの車輪でひき殺すこと。

「実事」(じつごと)は、一般には、真実であること、真剣であること。歌舞伎では、判断力を備え、人格的にすぐれた人物の精神や行動を写実的に表現する演技のことをいいます。

2016年4月5日火曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「伶人の朝」と「青き神」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   伶人の朝

山門は四十歳の去勢者のごとき
その風貌と足踏みとをもて聳(そそ)り立てり
格天井に浮彫彩画ありて
十二匹の畜類は夫(か)のあらゆる奇蹟のごとく
単なる冷嘲(れいてう)をもて俯瞰す也
時は秋晴の朝(あした)なりき
若き伶人(れいじん)は小琴(をごと)掻き鳴らしつつ
その驕慢の一路を歩みきたれり
跫音(きようおん)は快き中音(アルト)に高く波打てり
この時丘の公孫樹(いてふ)は風なくて
金色の朽葉を振ひ落せしが
葉は太陽にきらめきわたり
白金の鴎を空気中に踊れりしか
伶人は歩みをとどめ得ざる也
その瞳は堂母の冷厳(れいごん)と伝統美とに
焼きつけられしもののごとくに爾(しか)くありき
斯(かか)る冒険の後脱出なせしこの人に
外光ふたたびかの奢侈なる美服を照し出(いで)しとき
門内の一隅に偃曝(ひなたぼこ)りしてただ仮睡せる
偏盲の女乞丐(をんなかたゐ)は何事か夢語をなせりき
朝(あさ)はきはめて寂寞なりき

   ◇

「冷嘲」は、冷ややかにあざけり笑うこと。

「伶人」は、雅楽を演奏する人=写真、wiki=、楽人、楽師。1870(明治3)年に太政官に置かれた雅楽局の楽人につけられた名称でもあります。

「偃」は、のいふす、あおむけに寝る、倒れ伏す。

「偏盲」は、片方の目が見えないこと。両目の大きさが著しく異なる人をいうこともあります。

「乞丐」は、こじき、ものもらい、物知らず、ばか者の意。


   青き神

ある夜寒―歌亡き宵(よ)也
嗤(あざわ)らふかの遊星の隙間(あひまあひま)を 閑閑と
わが世に来航(きた)る青き神神をわれ観たり
神の眼(まなこ)は 腐魚の臭ひを放ち
跫音(あしおと)は突風のごとく黝(かぐろ)き積雲を蹴上げつつ

窓に坐凭(ゐよ)り 限りなく愁ひ啼けば
神かたはらに彳みし

わが脈搏は 靭(つよ)く最高度に大波打ち
雪白(しろ)き肌膚(はだへ)のおのおのは
鋭(と)き夜の空気に軋(きし)みて
火を発(はな)たむとす

響なく色なく香なきいく刻に
この逢遭(はうさう)は人間の言の葉をも亡(な)みしたり
わが庭の小鳥のむれは気敏(けさと)くして
僅か七分の後に閑閑と遠離(とほざ)かりゆく神神のかげを睹(み)しか

音立てて燃ゆる空気と
狂ほしく叫ぶ大地と
かの仮睡に落ちゆかむとする昊天(おほぞら)の下(もと)にあり
啾啾(しうしう)と愁ひ泣き且跼蹐(きよくせき)する小さき我がかげを瞥(み)て
小鳥らの私語(さざ)めくを感ず也

   ◇

「凭」は」、もたれるという意。ここでは、窓にもたれているということでしょう。

「逢遭」は、めぐりあうこと、出会い。

「啾啾」は、小声でしくしくと泣くさま。

「跼蹐」は、跼天蹐地(きょくてんせきち)の略。高い天の下でからだを縮め、厚い大地の上を抜き足で歩く意。肩身がせまく、世間に気兼ねしながら暮らすこと、ひどくつつしみ恐れることをいいます。

2016年4月4日月曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「黒瞳」と「照る日の下に」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   黒瞳

燭(そく)の灯をとれ
灯は憤怒(いか)りて いくたびか乱舞したれば
火逝かば
寂莫(じやくばく)の夜の暗黒(やみ)の黒瞳(ひとみ)をみとれ
闇は 性急につぶやけり
暗黒は眼(まなこ)をしばだたけり
爾(なんぢ)は闇より生るる嗤笑を聆(き)きしか

   ◇

「寂莫」は、じゃくまく、とも読んで、寂しいほど、ひっそりしているさまをいいます。

「嗤笑」(ししょう)は、あざけり笑うこと、嘲笑。「此言を聞く者、咸(みな)予を嗤笑して以て狂と為し」(幸田露伴「運命」)


   照る日の下に

照る日の下に 暗黒世界あり
裸身(はだかみ)にして 人人奔(わし)り狂ふ
男あり女もまた在り
緘黙(かんもく)は世界に咳(しはぶき)す
わが右手(めて)を翻せば
人人俯仰(ふぎやう)して仆る
たとへば砂丘の上に横死する魚類の若(ごと)し
人人笑ひ泣き且つ怒る
私語するもあり
押しなべて一顫音(せんおん)を引くのみ
わが弓手(ゆんで)を振れば
轟(とどろ)きありて地は乾割(ひわ)れ
人人悉く没落し去る
懸念に勝(た)へざる也

   ◇

「緘黙」(かんもく)は、原因によらず、明瞭な言語反応が欠如した状態を指します。

「仆る」は、「たうる」。「たおれる」の文語形、倒る、殪る、斃る、とも書きます。

「顫音」は装飾音の一種トリルのことで、ある音と、それより二度上または下の音とをかわるがわる素早く鳴らします。

「弓手」は、弓を持つほうの手、左の手をいいます。

2016年4月3日日曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「寂寥」と「神領追憶記」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   寂寥

身を抱擁(だき)しめる秋の沙(いさご)
白くひかる
波の穂がしら
たはむれ遊ぶ異民の女(をみな)らよ
心は塩垂れ ためらひがちに
身は弱く生命(いのち)の息を圧(お)して
ああ 心寥(さび)し
漁人(ぎょじん)よ 白鴎(はくおう)よ 若き散策者らよ
大地も秋に 覚醒(めざ)め
海光のみかぎりもなく
日を孕(はら)みて蕩揺(たうよう)する海辺に

   ◇

「塩垂れ」は、みすぼらしいようすになる、元気がないように見えること。「しょぼしょぼと塩垂れた姿で帰って来る」(花袋「田舎教師」)。

「白鴎」は、全身白色で全長73センチほどある大型のカモメ。北極圏で繁殖し、冬鳥として北日本の沿岸でみられます。

「蕩揺」は、ゆり動かすこと、ゆれ動くこと。「春は何時しか私の心を―し始めたのである」(漱石「硝子戸の中」)


   神領追憶記

わが神を
かの幻惑と威力と抱擁との
凄まじき統一者の神領をわれ想ふ

黔首(まちびと) あまた住みあひて
定業(さだめ)られたる小事業いそしみぬ
われも亦心狂へるみそさざいのごとく
翔(と)びかつ舞へり
ひと日虚空に颱風の羽ばたきありて
神苑の長者天降(あも)りたまひぬ
形相(かたち)なく色調(いろ)とてなし
況(ま)してその道(ことば)をや
怕(おそ)れ慄へる心の上にわれはただ響を感ず
かくて畢(つひ)に凄惨だるかの末日は来りにけり
その夕(ゆふべ)あまた人の子おとしめられつ
そは悉く盲目(めし)ひたる牧人なりき
黔首はいと自誇(ほこ)れる悲鳴を放ちあひ
居残れる男 女と袂別(わか)れゆきぬ
ただ一人 裸形女人は発狂の発作著しく
『とどめたまへ』と繰り返し繰り返し
人人のあはひを縫ひぬ

いく人かおとしめられし
いく人か居のこれりしを
忘却(しら)ず ただ懐(おも)ふ
偉(おほい)なる野のわが神なつかしく
怕ろしき神領の白宵(ゆふべ)白宵を

   ◇

「神領」は、神社の領地、社領をいいます。明治維新以前、全国の神社にその運営の経済的基盤等のため、神地、神田、神戸、神郡、御厨、御園、朱印地、黒印地などとよばれる地があり、神社がそこを管理して収入を得、ときにその地の行政権、司法権ももっていました。

「黔首」(けんしゅ)は、むかし中国で庶民はかぶりものをせず黒髪を出していたことから、人民、庶民の意。

「怕れ」は、(神を)おそれ多く思うこと。

2016年4月2日土曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「堕ちきたる女性」と「野心ある咳」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   堕ちきたる女性

昏黒(くらやみ)の霄(そら)たかきより 裸形(らぎやう)の女性(をんな)堕ちきたる
緑髪(かみ)微風(そよかぜ)にみだれ
雙手(もろて)は大地をゆびさす
劫初(ごふしよ)の古代(むかし)よりいままで 恒に堕ちゆくか
一瞬のわが幻覚(まぼろし)か
知らず 暁(あけ)の星どもは顔青ざめて
性急に嘲笑(あざわ)らふのみ

   ◇

「昏黒」は、ふつうは「こんこく」と読んで、日が暮れて暗くなること、日没のことをいいます。

「霄」は、大空、はるかな天。

「劫初」は、仏語で、この世の初めのことをいいます。


   野心ある咳

心 孤(ひと)つ身
たまたま泪(なんだ)に浴(ゆあ)みしけり
慄(ふる)へ揺くさまざまの血脈よ
聖(きよ)き刹那の法悦に色青さめし生命(いのち)の貌(おもわ)よ
もの哀しき前(さき)の世のまぼろしよ
ああ 野心ある咳(しはぶき)の音(ね)よ

   ◇

「揺く」(あよ・く)は、ゆらぐ、ゆれることです。「群玉 (むらたま) の枢 (くる) に釘刺し固めとし妹が心は揺くなめかも」(万葉集、4390)

「刹那」はもともと、仏教でいう時間の最小単位で、一つの意識の起こる時間をいいます。『正法眼蔵』には、「一弾指の間に六十五の刹那ありて」と、1回指を弾く間に65の刹那があるとされます。

2016年4月1日金曜日

日夏耿之介『転身の頌』から「海底世界」と「憤怒」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   海底世界

青き水面(みなも)を透(すか)して
日はほの赤くさせり

魚鱗(ぎよりん)のむれ 乱れ擾(さや)ぎて
海草の隙(あはひ)に匿れ しばしば
雑色(ざつしき)の埃及(えじぷと)模様を織りなせしかば
なかば錆びたる沈没船の砕片は
黒色(こくしよく)砂山のいただきに金字塔を築きたり
水死者の蹠(あなうら)たかきよりきたる

魚鱗のむれみだれさやぎ いま
若き新来者(まらうど)を相抱擁(いだき)たり
覩(み)よ ここにして不思議なる観念(こころ)の裡(うち)に
青ざめし死者の笑顔を
死者は踊れる也 狂へる也
魚は魚とむすび 貝は貝とむすび
悪(ああ) 人と人は相接すなり

まとゐは尽きねど
水死の人 人魚と化(な)り
砕片は塔をなす
滄溟(おほわだ)の底(そこひ)にして
人すべて鱗族(りんぞく)たるをえうす

ああ 日はほの赤くこの世界を訪るる

   ◇

「魚鱗」は、文字通りに読めば、うろこのことですが、うお、さかな、そのものを指すこともあります。また、兵法で、魚のうろこの形のように、中央部を突出させて人の字形に配置した陣形をいうこともあります。

「蹠」は、あしうら、あしのうら。

「滄溟」は、青海原。

「鱗族」は、うろこのある動物、魚類のことです。


   憤怒

白金の烈夏の熱砂の街頭に
緑髪のもの仆れたり
心敏(こころさと)き風とく砂礫を運び来て
物静けき埋葬に忙(いそ)げば
勇敢なる雄蟻はために行潦(にはたづみ)に憤死せり
ひそやかに含羞草(おじぎさう)の青さめし表情に心そそげ
愛すべきくさかげろふの狂舞歇みはて
疲憊(ひはい)に頭(かうべ)うなだれし雑草の小陰に
われは重傷せる地蜂の盲目(めしひ)たる歓語を聆(き)く
毀(こぼ)たれし舶来玩具の各(おのおの)に痴呆対話あり
燃えはてし葉巻の頑迷(かたくな)なる怨声(ゑんせい)を聆くや
女人の屍(しかばね)にも日光の顫音(せんおん)あり
噫(ああ) 黽勉(びんべん)なる日のひかりの営みを覩(み)よ
屍(しかばね)は神に還元(かへ)りゆく也
かかる自然の各部につきて観察せよ
午後の街上に憤怒はわが心情(こころ)を拊(う)つ

   ◇

「行潦」は、雨が降って、地上にたまり流れる水のこと。

「疲憊」は、動けないほどに疲れること、疲れ弱ること。

「聆く」は、きく、さとる、と読んで、聞く、悟る、了解するといった意味があります。

「黽勉」は、つとめはげむこと、精を出すこと、里見弴の「今年竹」に「黽勉よく努めて忽ち世の認むるところとなった」とあります。