2016年6月4日土曜日

吉野弘「I was born」⑪

〈  父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。〉

「生まれてから二、三日で死ぬ」という宿命にあるカゲロウ。数千個の卵を産み落としても、孵化するのにふつう10日以上かかるそうですから、カゲロウの親は幼虫を見ることなく生命を終えることになります。「I was born」に出てくる「お母さん」も、わが子の顔を見ることなく死んでいます。

「I was born」は、雑誌『詩学』の1952(昭和27)年11月号に発表されました。このとき吉野弘は26歳。詩を発表した直後に吉野は結婚し、2人の娘の父となりました。


カゲロウや「お母さん」と違って、生まれた娘たちと出あう感動を味わうことができたのです。『遊動視点』=写真=の「紐」というエッセーには、次のように記されています。

〈長女は産婦人科の病院で生まれたが、次女は自宅で、しかも産婆さんの手で生まれたので、そのとき、臍の緒なるものを、この目でしかと見ることができたのである。

襖で仕切った向うの部屋で、産婆さんの威勢の良い声がした。「お嬢さんですよ」産婆さんは私と妻に言った。産婆さんの両掌の上に赤ん坊が俯伏せになっていた。

少し紫がかった肌で、白粉のようなものが、所々に付着していた。そして赤ん坊の腹からは、太い半透明の臍の緒が、電話のコードのように実に頼母しくゆれていた。

まぶしい程の臍の緒の中心を走っている赤いものは血液だと、産婆さんに教えられ、私は、言うべき言葉を思いつかなかった。

なんという力強い紐だったろう、なんという美しい生命の紐だったろう。私は目のさめるようなすばらしい紐を、そのとき見たのであった。〉

父親として、生命をつなぐ「目のさめるようなすばらしい紐」を目にしました。しかしが、「生を得る」ということは、同時に「死をわけあたえられる」ことでもありました。「I was born」の収められた第1詩集『消息』に、「初めての児に」という題の次のような詩があります。

  お前がうまれて間もない日。

  禿鷹のように
  そのひとたちはやってきて
  黒い皮鞄のふたを
  あけたりしめたりした。

  生命保険の勧誘員だった。

   (ずいぶん お耳が早い)
  私が驚いてみせると
  そのひとたちは笑って答えた。
   〈匂いが届きますから〉

  顔の貌(かたち)さえさだまらぬ
  やわらかなお前の身体の
  どこに
  私は小さな死を
  わけあたえたのだろう。

  もう
  かんばしい匂いを
  ただよはせていた というではないか。

わが子が生まれるやいなや、「匂い」を嗅ぎつけてやってきた生命保険の勧誘員。それに対して、詩人は「顔の貌さえさだまらぬ/やわらかなお前の身体の/どこに/私は小さな死を/わけあたえたのだろう」と思います。

前にあげた『遊動視点』のエッセーの中で吉野は、臍の緒のほかに、もう一つの「紐」を取り上げています。

〈「紐」という言葉を聞いたときに思い浮かぶ、もう一つのイメージがある。たとえば百科事典などで、ある人について調べる場合、必ず目につくことであるが、その人の生まれた年――それは殆ど西暦で書かれているが――その生まれた年と死んだ年とが、短い線で結ばれていることである。

すでに亡くなっている人の場合だと、あまり、この線の印象は強くないのであるが、現在まだ生きている人の場合、生まれた年にくっついているこの線は、なぜか不気味である。この線はこう言っているわけである「この人物はまだ生きている、つまり、まだ死んでいない」。

この世に生を享けている人は例外なしに、自分の生まれた年の下に、この、あまり縁起でもない紐、見えない紐をぶら下げているのである。このことは、ちょっと気どって言えば、生命はすべて、死の紐つきだということになるだろうか。〉

2016年6月3日金曜日

吉野弘「I was born 」⑩ 

     仕事

  定年で会社をやめたひとが
  ――ちょっと遊びに
  といって僕の職場に顔を出した。
  ――退屈でしてねえ
  ――いいご身分じゃないか
  ――それが、一人きりだと落ちつかないんですよ
  元同僚の傍の倚子に坐ったその頬はこけ
  頭に白いものがふえている。

  そのひとが慰さめられて帰ったあと
  友人の一人がいう。
  ――驚いたな、仕事をしないと
    ああも老(ふ)けこむかね
  向い側の同僚が断言する。
  ――人間は矢張り、働くように出来ているのさ
  聞いていた僕の中の
  一人は肯き他の一人は拒む。

  そのひとが、別の日
  にこにこしてあらわれた。
  ――仕事が見つかりましたよ
    小さな町工場ですがね

  これが現代の幸福というものかもしれないが
  なぜかしら僕は
  ひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしく
  いまだに僕の心の壁に掛けている。

  仕事にありついて若返った彼
  あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
  ほんとうの彼ではないような気がして。


詩「仕事」は、吉野弘の第3詩集『10ワットの太陽』に収められています。

〈 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。〉

受け身である「I was born 」、「生まれさせられ」た、存在させられた人間。こうして与えられた「生」というのは、一生、「受身形」でありつづけるのでしょうか。

私たちは、自らの意志で自らの生き方を決め、自らの好きな人を愛し、自らやりたい仕事をします。当然、すべてがそんなにうまくはいくはずはないのだけれど、ふつうはそうしたいと思っています。

でも「受身形」で生を受けた人間は、誕生してから後も本来的には、そんなに意志的、主体的になり得るものではないのかもしれません。詩「I was born 」を読んで私は、ふと、そう感じました。

たとえ食べるため、家族を養うためにつづけてきた仕事であっても、いざ、そこから離れ、やることがなくなると、詩「仕事」にあるように、落ち着かず、老けこんでしまうというようなことはよく聞きます。

本当に生き甲斐を感じ、自ら切り開き、自己実現をしている思う仕事や職業についたとしても、ひとはそれを「天命」と、「天職」と呼びます。天から授けられた、どこか受身的なとらえかたをするわけです。

けれど、詩人は、

  ――人間は矢張り、働くように出来ているのさ
  聞いていた僕の中の
  一人は肯き他の一人は拒む。

そして、

  仕事にありついて若返った彼
  あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
  ほんとうの彼ではないような気がして。

と思います。そんなふうに、私も感じます。

たとえ一人っきりで惨めな最期を迎えても、いい歳になっても、天や“遺伝子”にさからってでも、「受身形」ではない自分なりの人生を生きてみたいと思っています。

2016年6月2日木曜日

吉野弘「I was born」⑨

「I was born」を読むと、私はいつも『利己的な遺伝子』のことが頭に浮かびます。

「我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく、盲目的にプログラムされたロボットなのだ」という有名な書き出しで知られるイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンス=写真、wiki=の著書だ。

ドーキンスは「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする、遺伝子を中心とした進化理論を提唱したことで知られている。


『The selfish gene』という題名で1976年に出版。1991年に邦訳が出て、国内でも大きな話題を呼びました。

われわれ生物は「遺伝子によって利用される“乗り物”に過ぎない」という比喩表現は、私にとっても「こんな考え方もできるんだ」と驚きでした。

「なぜ男は浮気をするのか」「なぜ世の中から争いがなくならないのか」といった問題についても、自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己的なふるまいから、ドーキンスは解き明かしてみせました。

ところで、はかないものの代名詞のようにいわれるカゲロウだが、以前もみたように、石炭紀後期にすでに地上にいたことがわかっている。およそ3億年ものあいだ「生」をつなぎ、遺伝子を生き残らせてきたのです。

それに比べるとわれわれ人類の歴史は、まだ無いに等しい短期間ですが、とりあえずなんとか500万年くらいは生命のバトンを繋いでいます。これも、利己的な遺伝子のなせるワザということでしょうか。

〈 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。〉

ドーキンス流に考えれば、利己的な遺伝子の“乗り物”として「人間は生まれさせられるんだ」ということになるのだろう。そして、

〈――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――〉

カゲロウが「何の為に世の中へ出てくるのか」かといえば、「遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせる」ため、ということになります。そのために、

〈口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。〉

というように卵をつくり、2~3日の短い生涯を懸命に生きます。

『利己的な遺伝子』を翻訳した日高敏隆は、次のように記しています(「i feel」出版部50周年記念号)。

〈(ドーキンスのいうような)プログラムを作りあげているのは遺伝子の集団であって、どれか特定の遺伝子ではない。そしてプログラムがどのようにしてできるのかは、「ヒト・ゲノム」がわかったからといってすぐにわかるようなものではない。

このプログラムは人をロボットのように操っているのではない。遺伝的プログラムは厳然として存在しているが、それを具体化していくのは、個体であり個人なのである。

ドーキンスの『利己的な遺伝子』の邦訳が出版されたとき、それを手にした多くの人々は何か癪にさわるものを感じたらしい。しかし癪にさわると思いつつもついつい読んでしまったと言っていた。このあたりにこの本のもつ興味ぶかい意味があるような気がする。〉

われわれの生命というものが「遺伝子の“乗り物”」に過ぎないものであるかどうかはともかく、ある意味で「淋しい」「せつなげ」な構造をしていることはたしかでしょう。

「I was born」で少年が発見したように、ひとは気がついたときには生まれさせられていて、確実に待っているのは死。生きるというのは、その誕生から死までの過程でしかありません。

けれど、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見える」カゲロウの卵たちにしても、輝いている「光の粒々」なのです。

〈私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。〉の「せつなげだね」からは、こうした「生」を精いっぱい受け止めて前向きに生きようとする、すがすがしい姿がかいま見えてきます。

2016年6月1日水曜日

吉野弘「I was born」⑧

〈満員のバスが終点に着くと、乗客たちはいっせいに出口に集まり、目立たぬように先を争った。先を争うので、かえって揉みあいになり車内の人の数はなかなか減らないのだった。

奥の座席に、二、三歳ぐらいの子供を連れた若い母がいた。子供に靴をはかせて席を立つと、大きな声で「さあ早くおりましょうね」といった。

そして子供の両肩をうしろから両手で押し出すようにして、人々の塊りの中へ、うしろからスッと割りこんだ。それはいかにも自然な動作で、たちまち、親子連れは車の外へ出てしまった。

私は感心して見送った。彼女が子供連れでなく一人きりのときだったら様子は少し違ったかもしれない。人込みを分けたのは、子供と一緒だったからこそ、自然にそうしたのではないか。母親である故に無意識にとった行為――私はそう思って感嘆したのだ。

父という立場の男だったら、なかなか、こうはゆくまい。男は、その時々の社会秩序に枠づけられ、いわゆる良識の中に生きている。だから、まず世間体を考え、世間に献身し、時には義務のために湯玉のように飛散する。

子供を守るということに限っていえば、このような良識的な父は、頼りなくてもろい。世間に色目を使う父より、まず身辺第一主義でゆく母のほうがどれだけ頼りになることか。

誰も、自分の母を、この若い母のようだとは思いたくないだろう。私もまた同じ思いだが、つきつめれば、同じであったのではないかという気もする。

私の妻の母は、極端に食糧事情の悪かった戦後のある日、子供たちに食べさせたい一念で、他人の畑から、薩摩芋の蔓を盗んできたことがあるらしい。芋には、さすがに手が出せず、芋を掘ったあとに放置された蔓を、夜陰に乗じて持ってきたとか。

「あの気の小さい母が、と思うとなんだか必死なようで滑稽で……」と妻は笑うのだが、父といわれる世の男が、恥も外聞もないこんな盗みをするだろうか。

私も世の男並みに女性を笑うことはあるが、子供のために世の掟を破るという無意識的な生活力には、とても批判の歯は立たないのである。〉


1970年に発表された「母性」というエッセイの中で、吉野弘はこんなふうに記しています。

〈 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――〉

人間のように「何の為に」なんて考えなくていいのが、昆虫のうらやましいところなのですが、あえて何の為かと理屈をつけるとすれば、もちろん「子孫」を残すためということになるのでしょう。

すでに見たように、生のある2~3日の間にメスは、交尾から産卵まで終えなければなりません。「群れ飛び」をする集団に飛び込んでオスをとらえ、素早く交尾、産卵場所を求めて飛び回った末、5000個をこえる卵を産みます。考えて見れば、とてつもない「仕事」をしているわけです。

高齢化、少子化が著しい現代ならともかく、戦時中の貧しく厳しい時代に多くの子ども産み、育てなければならなかった詩人の母の世代の女性たちにとってもきっと、「子供たちに食べさせたい一念で、他人の畑から、薩摩芋の蔓を盗んで」くることはあっても、「一体 何の為に世の中へ出てくるのか」などと考える余地はなかったでしょう。

〈 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。〉

「I was born」が『詩学』に投稿されたのは、1952年。1950年の朝鮮戦争特需もあって、焼け跡からの復興にもようやくメドがたち、戦後の食糧難も改善されたころのことです。ようやく父と子の間で、「生」を客観的に語る余裕も生まれてきた時代だったのでしょう。

そんなころ、「身辺第一主義でゆく」ような母を失った詩人が、「その時々の社会秩序に枠づけられ、いわゆる良識の中に」生きている父との間で交わされた対話だったのです。