2016年9月30日金曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑦

金森本では、19世紀初頭からバシュラールのころまでのフランス近代思想の流れを大きくふたつに分けています。

一つは〈概念の哲学〉の流れ、あるいは〈合理性の哲学〉。もう一つは〈意識の哲学〉の流れ、あるいは〈主体の哲学〉と呼ばれるものです。それぞれ次のような説明がされています。

①〈概念の哲学〉の流れ

科学や合理性を思索の中心に取り上げる流れ。科学的知識の性格について哲学的に考える流れ。実験、操作、因果性、確率、偶然性、推論、帰納法、無限などの問題に思索をこらした。

②〈意識の哲学〉の流れ

科学的知識についての考察は一応傍らにおき、より価値論的に踏み込んだ議論をする流れ。人間精神の活動の機微をなかば心理的、なかば論理的に分析する仕事を中心的課題にした。人間心理の注意力、努力、習慣などについて、繊細で複雑な記述を残した。科学が意識的に無視する人間の自由や宗教的真理の問題にも積極的に関わった。

これら二つの流れのうち〈概念の哲学〉の流れについて金森本では、「代表するのは何と言ってもコントだろう」として、次のように説明します。

彼の『実証哲学講義』は社会学生誕の書であるとともに、数学から生物学に至るまでの多くの科学史的かつ科学哲学的な記述を含む壮大な哲学書だった。


コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798-1857)=写真、wiki=が近代的に定式化したとされる実証主義は、19世紀後半、大衆的には唯物論と混同されるに至る。本来、唯物論は感覚的所与を越えた物質一般についての判断を含む学説であるために実証主義と同一視することはできない。

しかし、それらがともに宗教的権威に対して敵対的関係をもったために、18世紀啓蒙主義と多少とも関係が深い反宗教的思想としての位置づけをもっていたことは確かであり、その分近代科学との関係も密接だった。

19世紀後半に至り、実証主義はリトレやテーヌなどの強力な推進者をえて、フランス思想界の重要な流れとなっていく。彼らは迷信や宗教的抗争のもつ理不尽さをあげつらいながら、同時に社会で科学的理性がもつ価値について楽観的見通しを述べ立てることに躊躇しなかった。

それはときとして一種極端な科学万能主義をうんだ。ダーウィンの進化論がその流れに拍車をかけた。脳の活動を胆嚢が分泌する胆汁になぞらえたカバニスの言葉は、極端な19世紀唯物論のモットーとして盛んに宣伝された。

実証主義や唯物論と一線を画しながら、カントを主要な霊感源として、科学的認識の妥当性について思索を進めた新カント派の流れがある。それは、無限や物自体を前にして、妥当な認識が成立しうる限界はどこにあるかを問う哲学だった。

2016年9月27日火曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑥

兵役から帰ったバシュラールは1919年10月、技師になる夢を諦めて、故郷のバール・シュル・オーブのコレージュで、物理と化学を教えるようになります。35歳になっていました。

コレージュ(Collège) というのは、フランスの4年制の前期中等教育機関。リセの前段階で、日本でいうと、小学6年から中学3年に相当するそうです。

バシュラールは、35歳から46歳までの働き盛りを、中等教育の学校の先生として過ごしたのです。この時期に、仕事の合間にたいへんな集中力で哲学の勉強に打ち込んでいきます。

1年後の36歳のときには、哲学のリサンスを取得。1922年、38歳のときには、高校以上の教育機関で教えられるアグレジェという資格を取っています。

当時、彼の勉強していた哲学は、認識論、科学哲学と呼ばれている領域にあたります。この当時、ヨーロッパではドイツの新カント派などによって、盛んに研究されはじめていました。

金森本には「自然科学的知識は哲学にとって何ら疎遠な外部ではなく、むしろ実質的哲学を構成するための必要条件だった。しかもこの時期は物理学が激変している時代であり、バシュラール自身アインシュタインの相対性理論には強い衝撃を受けていたという事実もある」とあります。

哲学者としての遅い出発をしたバシュラールは、35歳から43歳にかけて、その地歩を築いていきます。そして、1927年に二つの論文をソルボンヌ大学に提出して、文学博士号を取得しました。

主論文の『近似的認識試論』と副論文の『ある物理問題の進展をめぐる試論――固体内における熱伝導』です。これらの論文は翌1928年に出版されています。これから1962年に亡くなるまで、20冊以上の論文が次々に公刊されていきます。

1930年、46歳のときバシュラールは、故郷の近くのディジョン大学文学部に招聘されました。ここに10年間籍を置いたの後の1940年、56歳のときにはソルボンヌ大学へ移り、「科学史科学哲学」の講座を受け持つことになりました。

バシュラールは、文字通り本の山の中で暮らし、最後まで働くことをやめませんでした。金森は、最晩年の『蝋燭の焔』の中の「私は勉強する。私は勉強するという動詞の主語にすぎない。考えることはあえてする気がしない。考える前にまずは研究を。ただ哲学者だけが研究する前に考える」という言葉を引用し、次のように記しています。

「このしなやかな好奇心があったからこそ、彼は七十歳近くになるまで同時代の次々に刷新される物理や化学を追跡できたし、有名無名にかかわらず無数に読破した詩作品の斬新なイメージに陶酔できたのである。バシュラールを研究することで私たちもまた彼の若さを吸収できるのだろうか」

2016年9月25日日曜日

『バシュラール━科学と詩』序⑤

苦学生として、電信電話技師をめざしていたバシュラール。しかし、勉強をする時間は、第1次世界大戦(1914-1918)によって断ち切れになります。

1914年8月から1919年3月まで、30歳から30代前半を、兵役につかなければならなかったわけです。20代のときのと合わせると6年半を兵役に、8年以上も郵便局員として過ごしたことになります。

兵役の直前1914年7月には、小学生の先生だった女性と結婚しています。しかし妻は、兵役からもどった1年後、バシュラールが36歳になろうとしていた1920年6月に病没してしまいます。


寡夫になったバシュラールは、一人娘のシュザンヌを大切に育て=写真、二度と結婚することはありませんでした。

金森本によると、最晩年の書『蝋燭の炎』には「そうだ、眼差しの光は、死が瀕死の病人の目にその冷たい指を置いたとき、いったいどこにいったのか」とあるそうです。

2016年9月23日金曜日

『バシュラール━科学と詩』序④

■パリの郵便局員

バシュラールは、1902~1903年、18歳のとき、コレージュ・ド・セザンヌという高等中学校で、自習監督の仕事をしています。このとき初めて、自分でお金を稼ぎました。

しかし、この仕事には本性的になじむことができなかったようです。そして郵便局員という、かなり地道な労働に勤しむことになるのです。

1903~1905年、19から20歳にかけて彼はまず、ルミルモンというフランス東部の町で、郵便局の臨時局員として働きました。

ボージュ山地西麓のモーゼル河谷に位置する町で、フランク王国王の別荘近くにできた集落を起源とします。 910年に神聖ローマ帝国の皇女を院長とする女子修道院が設けられ、この院長による支配で町として発展したそうです。

ポンタムソン第12機動部隊に所属しての2年間の兵役をはさんで、1907~1913年、23から29歳まで、今度はパリで郵便局員として働きます。その間、仕事のあい間に、大学の理学部に通って勉強するようになります。

そして28歳のときには、大学3年修了にほぼ相当するという数学のリサンスという資格を習得しています。正規の大学に入らず、郵便局員として働きながら「週に60時間もの勉強が必要」とされる資格を取ったのです。金森本には次のようにあります。

「1913年つまり29歳のとき、パリの郵便局はそんな彼の努力に感服してか、1年間の自由時間を与える。その間彼はリセ・サン=ルイの特別数学クラスで1年間有給のまま電信電話技師の資格試験のための受験勉強に専念するはずだった。

遅蒔きの独学だったとはいえ、しかも他に仕事をもちながらの苦学だったとはいえ、20代に数理的知識を身につけたということはその後の彼の経歴にとって決定的重要性をもつことになった」

2016年9月22日木曜日

『バシュラール━科学と詩』序③

バシュラールのおじいさんは靴屋で、両親はバール・シュル・オーブのナショナル通りで、新聞とたばこの小さな店を開いていたそうです。後年「水の豊かな場所で生まれた」となつかしそうに語っていたと言います。金森本には次のようにあります。

「彼は、最晩年、火をめぐる夢想のなかで生涯を閉じることになるが、最後の主題になったフェニックスつまり火の鳥との最初の出会いとして、川に急降下するカワセミの姿を喚起している。

火の鳥という架空の存在との出会いという逆説的心象は、それが水の辺で出会った火という意味で二重に逆説化されている。水と火という元素の揺らめくような混淆。

幼年時代をほとんど語らない彼ではあったが、後年ある著作の中なかで、孤独な老年時代になって初めて孤独な幼年時代を思い出すと述べているところを見ると、物思いに沈みがちな孤独な少年だったのかもしれない」


カワセミ=写真、wiki=は、水辺に生息する小鳥で、鮮やかな水色の体色と長いくちばしが特徴で、ヒスイ、青い宝石、ソニドリ(翠鳥)と呼ばれることもあります。

全長は17 cmほど。くちばしが長いので、体はだいたいスズメくらいです。羽毛にある微細構造によって、光の加減で青く見えます。美しい外見から“渓流の宝石”ともいわれます。

海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、むかしは町中でも普通に見られました。飛ぶときは水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声をあげることが多いとか。

水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫、エビ、カエルなどをくちばしでとらえます。水中に深く潜るとき、いったん高く飛び上がってから潜ることもあるそうです。

ヨーロッパ、アフリカ北部からインド、東南アジアにかけて分布します。確かに「水」と「火」のちがいはありますが、カワセミには、フェニックスを想起させるものを感じます。

2016年9月17日土曜日

『バシュラール━科学と詩』序②

ガストン・バシュラールは、1884年6月27日、パリ東方のシャンパーニュ地方にあるバール・シュル・オーブ (Bar-sur-Aube)に生まれました。

穏やかな田園の広がる、現在の人口は5000人余りの小さな町で、そこを横断するオーブ川=写真、wiki=は「曙」という意味をもつそうです。


名前の通り、ラ・テーヌ文化時代のオッピドゥムの痕跡もある古い町で、アッティラが率いるフン族の来襲で荒らされこともありました。

シャンパーニュ伯時代には、2月半ばから4月半ばまでのシャンパーニュの大市にはオリエントの香辛料、絹、織物などが集まり、フランドル商人やイタリア商人が行き来していました。

1318年、フィリップ5世はジャック・ド・クロワにバールを売りつけようとしましたが、住民自らが町を買い上げ王が売ったり処分できないようにしました。

神聖ローマ皇帝カール5世がサン=ディジエを包囲したときにも、住民たちは水面下で抵抗運動を繰り広げられました。

また、1636年には黒死病が流行して、市が閉鎖されたこともあったそうです。1862年には町を覆っていた城壁が取り壊され、町を取り巻く大通りが生まれました。

フランス第一帝政末期の1814年2月には、バール・シュル・オーブの戦いが起こっています。

2016年9月8日木曜日

『バシュラール━科学と詩』序①

科学哲学者であるとともに詩的想像力に関する独創的な洞察を多く残したガストン・バシュラールは、「詩と科学」に興味を抱く私にとってはいつかきちんと読んでおきたいと思っている憧憬の思想家です。

とはいえ、私には残念ながらバシュラールを読みこなすフランス語力はありません。そこで翻訳されている詩論だけでも、生きている間にできる限り多く読んでみたいものだと考えています。

その目標にかかる前に,、ここではまず、バシュラールの人生と思想のおおよそを眺めておきたいと思います。

道先案内は、定評のあるバシュラールの入門書である金森修著『バシュラール━科学と詩』に主に拠っていく予定です。


ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard、1884-1962)=写真、wiki=の人生をざっと眺めると、次のようになります。

1884年6月27日、フランス・シャンパーニュ地方の町バール=シュル=オーブに生まれる。ここで、中等教育まで受ける。

1902年、コレージュ・ド・セザンヌ(高等中学校)で自習監督の仕事に就く。

1903-1905年、ポンタムソンの第12機動部隊で兵役。

1907-1913年、パリで郵便局員として働く。

1913-1914年 郵便局を休職、電信電話技師の資格試験のため受験勉強。

1914年8月-1919年3月、第一次世界大戦のため徴兵され、戦闘部隊の一員として前線に赴く。

1919年、ソルボンヌ大学卒業。

1919-1930年、バール=シュル=オーブのコレージュで物理学と化学を教える。

1922年、哲学の大学教授資格(アグレガシオン)を取得。

1927年、ソルボンヌ大学で文学博士号を取得。

1930-1940年、ディジョン大学(現・ブルゴーニュ大学)の哲学教授。

1940-1954年、ソルボンヌ大学教授、科学哲学および科学史を担当する。

1961年、文学国家大賞を受ける。

1962年10月16日、動脈炎で苦しんだ末、パリで死ぬ。

金森修『バシュラール』には「自分の人生の軌跡が普通の人には随分変わったものにみえるということに、いったい彼は気づいていたのだろうか。少なくとも彼は、自分が大学で哲学を教える人間としては、若い頃八年以上も郵便局で働いたという経歴を特殊なものと感じていたはずだ」(p12)とあります。

いずれにしてもバシュラールは、ふつうに哲学者いわれる人とは、とくに前半生はかなり違う経歴を歩んだようです。おそらくそれが、彼の思想にも大きな影響を与えることになったのでしょう。

2016年9月2日金曜日

吉野弘「I was born」⑬完

「I was born」について八木忠栄は「吉野弘の詩の最高傑作としてよく知られている作品だが、さらに言えば、現代詩が生んだ最高傑作の一つと言っていい」と高く評価しています。

これまでも見てきたように「I was born」は、1952(昭和27)年、吉野弘が詩作をはじめた26歳のときに作った投稿第2作目です。

その出発点で、完成された最高傑作をもつということは、その芸術家の人生にとってどういう意味をなすのでしょう。若くしてオリンピックの金メダリストになるようなものなのでしょうか。

もちろん「I was born」で注目を集め、高い評価を受けたことが、その後の吉野の創作への意欲をかき立て、詩人としての地位を確固たるものにしていったのでしょう。

と同時に、それ以上の作品を書かなければ、というプレッシャーのようなものも、生涯どこかにつきまとっていたのかもしれません。

ともかく、この「最高傑作」が吉野の文筆家活動の出発点となりました。そして、アルチュール・ランボーのように若くして筆を折ることも、小説家や評論家に転身することもなく吉野は2014年1月15日に87歳で亡くなるまで60年以上にわたって、詩を書き続けました。

「僕は詩は認識だと思うんだ。詩に限らず、芸術は、事物を人間の意識の中にもたらすための一種の言語だと思うわけだ。感動というのは、謂わばそれの端緒だ。感動の未発達の曇った状態から確実と明晰との段階に高めるための作業が即ち認識だ」(「詩とプロパガンダ」)。

けばけばしい過度な表現を厭い、温かい眼差しと分かりやすい言葉で「生」をさぐり、人間の営みを淡々と描きだす「認識」の詩。吉野の詩をすべて読んだわけではありませんが、そうした詩への姿勢には、生涯、一貫したものがあったように思えます。

     I was born

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

            ◇

「I was born」について、清岡卓行は次のように評しています。

〈生まれることが受身であるだけではないこと、いやむしろ能動であることを示す《卵》のイメージの感動は、十分に伝わるだろう。

そして、主人公の中学生の内部に可能性として感じられる、生まれないことの幸福を思う死への傾斜が、原理的には《卵》に象徴される盲目的な生の欲望と合致することが、今さらのように新鮮に気づかれるだろう。

内部矛盾の瞬間的な解消。ぼくは、この散文詩を読んだときの感動を今も忘れないが、それは、詩における生へのリズムと死へのリズムの根源的な照応にかんするぼくなりの思考に、強力な一つの支柱をあたえてくれるものであった。

このような意味において感謝する他人の詩作品は、ぼくにとって「I was born」のほかにはない。〉