2017年1月1日日曜日

飯島耕一「わが母音」③

あけましておめでとうございます。今年も、詩や詩論を休み休みマイペースで読みつづけていきたいと思います。よろしくお願いします。

もう昨年になってしまいましたが、前回に続いて「自伝のかわり」に書いた年譜から、飯島の終戦直後の足どりをみておきましょう。

〈一九四八年(昭和二十一年)、岡山市に戻る。廃墟となった駅前に早くも闇市が出来ている。つねに空腹。第六高等学校文化丙類に入学、四国高松への連絡船の出る宇野港の仮校舎(旧陸軍兵器庫)に通う。

担任教官は戦後早くトレーズの「人民の子」を訳した長崎広次氏、哲学の教官として梯明秀、近藤洋逸氏がおり、ヘーゲルやプラグマティズムの理論を学ぶ。経済学の教官としてまだ若かった宇高基輔氏、英語の教官としてエリオットの北村常夫氏がいた。

二十二年、当時出ていた創元選書で中原中也、富永太郎、青磁社の本で萩原朔太郎を読む。はじめて詩らしい詩を読んだのである。『あんばるわりあ』を早くも読んでいた同級生中島達夫に「コスモス」という雑誌、中野重治の名、新人として平林敏彦がいることをおしえられる。

「近代文学」を読みはじめる。ボードレールを読む。詩の習作数十篇。永瀬清子を知る。堀口大學訳『シュペルヴィエル詩抄』を見せられ、その感覚の新鮮さに強烈な印象を受ける。のちシュペルヴィエルの短篇〈コント〉集『ノアの方舟』を愛読する。

吉田健一訳、ラフォルグの『ハムレット異聞』。小林秀雄訳サント・ブラウ『我が毒』。同年入学の理科の生徒だった栗田勇と中島にすすめられ、それまで経済学部のつもりでいたが栗田とともに東大の仏文にすすむ。中島も翌年仏文に入ったが、彼は神経病を病み、以後療養。

一九四九年(昭和二十四年)、東京大学文学部仏文学科に入る。栗田のほか、橋本一明、鈴木道彦、森本和夫、村松剛、渋沢竜彦らがいた。鈴木信太郎、渡辺一夫教授、中村真一郎講師のクラスに出る。

一級下に金大中がおり、栗田、金とともに一九五〇年、ガリ版の詩誌「カイエ」を創刊し、安東次男、鮎川信夫らにおくる。安東次男からハガキで返信あり、安東を訪ね『蘭』を見せられ以後親密を加えた。岸田衿子を知る。

「カイエ」にはのちに東野芳明、工藤幸雄、村松、石川喬司、佐藤巌、渡辺香根夫らが参加。別のグループの雑誌に日野啓三、大岡信らの「現代文学」があり、それに新日本文学系のグループがあって、はやくも公式主義的進歩派から批判された。

工藤が懸命に弁護してくれたのを思い出す。当時の東大では、中村稔『無言歌』、関根弘『砂漠の木』が読まれた。中村の詩集でユリイカの名を知る。大岡と親しくなったのは大岡が卒業して読売に入った昭和二十八年になってからである。

それよりまえ、金大中とともに「詩行動」に参加、ここに平林敏彦、柴田元男、森道之輔、難波律郎、児玉惇がいた。翌二十七年、『他人の空』の原型ともいうべき詩を書き、はじめて詩が書けそうだという自信を得た。同時に「詩行動」解散。しばらくして「今日」が創刊された。

一九五二年(昭和二十七年)大学卒業、保健同人社に入社、赤坂檜町に高畑昭久とともに住む。

一九五三年(昭和二十八年)退社、練馬区中村南町に住む。夏『他人の空』の一連の詩を書き、十二月出版。自費出版だが、費用は六高で一級下だった三木稔がシンフォニーを書き尾高賞を得て、その賞金を提供すると言い出したのである。

銀座にあったユリイカを訪ねはじめて伊達得夫に会ったことを思い出す。かたくなって「詩集を出してくれますか」とたずねたところ「よろしいでしょう」と彼は言った。自費出版だったのだが、かたくなったのは純情だったわけである。村野四郎、中村稔、大岡信の書評が出た。〉


     他人の空

  鳥たちが帰つて来た。
  地の黒い割れ目をついばんだ。
  見慣れない屋根の上を
  上つたり下つたりした。
  それは途方に暮れているように見えた。

  空は石を食つたように頭をかかえている。
  物思いにふけつている。
  もう流れ出すこともなかつたので、
  血は空に
  他人のようにめぐつている。

年譜に出てくる「他人の空」は、戦後詩の代表的な名篇として、しばしば取り上げられます。鳥たちが空からおりたち、地面の「黒い割れ目」をついばんだり「見慣れない屋根」の上を行き来したりしているのです。

なんということのない風景描写のようですが、それは何事かとりかえしのつかなくないことが起こった直後の廃墟なのでしょう。空は「頭をかかえ」、呆然と「物思いにふけつて」います。

それでも、鳥の行動に示されているように、何かが動き、動きはじめています。帰ってきた鳥は、当然、戦争直後の復員兵をイメージしていると読むこともできるでしょう。もはや、犠牲となる者たちの血は流れなくなったのです。

しかし、あるのは焼け野原の空。そこに、行き場所を失ったかのように「血」がただよっています。戦後の荒廃した状況を内面化して、世界と人間との関係の崩壊、不安を描き出しています。

こうして、飯島耕一の戦後ははじまり、詩人としてのスタートを切ったのです。

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