2017年1月4日水曜日

飯島耕一「わが母音」⑤

母音とは――。広辞苑によれば、

〈声帯の振動を伴う呼気が、口腔内で著しく通路を妨げられることなく通過して発せられる音。口の開き、舌の位置などの相違によって音色の相違を生ずる。現代日本語では、ア・イ・ウ・エ・オの五つ。呼気がもっぱら口腔を通過するならば口母音、一部鼻腔に流れるならば鼻母音となる〉

と、されています。

人は言葉を発するとき、舌や唇を使って、呼気の流れを抑制したり妨害することによって、いろんな音を作りだしています。ザックリ言えば、母音とは、吐きだす息を唇や舌で妨害しないときに出る音ということになるようです。

一方の子音はといえば、呼気の流れを妨害させて出す音。しかし、唇や舌は連続的な動きをしますから、妨害があるかないかできっちり二分するようなわけにはいきません。

一口に母音といっても、「i」や「u」は「a」よりも子音に近いし、子音といっても「l」や「m」は「p」や「b」よりも母音に近くなります。

母音の音色は、舌や唇のかたちや顎の開閉度で決まります。唇の丸みを伴ったものを円唇母音、そうでないものを平唇母音。

舌の盛り上がったところが前舌であるものを前舌母音、後舌であれば後舌母音、その中間なら中舌母音と呼ぶそうです。

母音は、単独で、あるいはその前後に1個または複数の子音を前後に伴って、ひとまとまりに発音される最小の単位である音節(シラブル)を作ります。

一つの母音の発声中に調音を変えるものを二重母音、三種類の調音がある場合には三重母音と呼びます。

二重母音、三重母音はあくまで一つの母音であって一音節ですが、単に母音が連続していれば、複数の音節となります。

母音はその持続時間の長さの違いによって長母音と短母音に分けられます。日本語をはじめ言語のなかには、長母音と短母音の区別によって、意味の弁別をするものがあります。

音を調整する筋肉の緊張を伴うかどうかで、緊張音、弛緩音というように母音を分別することもあります。母音を調音するとき、舌の先を反らせたり、舌を盛り上げたりすると、咽頭が狭まり「r音」性の母音が出せます。


  A黒、E白、I赤、U緑、Oブルー、母音よ、
  いつかきみたちの誕生の秘密を語ろう。
  A、無惨な悪臭のまわりで唸りをあげる
  きらめく蠅の毛むくじゃらの黒いコルセット、

  影の入江だ。E、靄とテントのあどけなさ、
  誇り高い氷河の槍、白い玉、散形花のおののき。
  I、深紅、吐かれた血、美しい唇の笑い
  怒りのさなか、あるいは悔悛の陶酔のなかで。

前回見たアルチュール・ランボーの詩「母音」では、母国語の5つの母音に、それぞれ一つずつ、合わせて五つの「色」をあてはめていました。

A (アー) は黒、E (ウー) は白、I (イー) は赤、U (ユー) は緑、O (オー) は青です。日本語を使っている私たちには、なかなかイメージを掴むのは難しいですが、フランス人としてのランボーの感性がこめられているのでしょう。

さて、「わが母音」を味わうのにも、母国語であるところの「母音」という単語の意味のひろがりや、音のひびきを感じとっていくことが必要になるのでしょう。

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

吐きだす息を唇や舌で妨害することなく発せられる母音は、この詩によれば、「純粋な」空間をつくり出しうるものなのです。

そして、「母音の空間に生まれるもの」は、「いつそうぼくを駆りたてる/いくつもの夢」でもあります。さらに詩人は、「ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる/あの首くくるような悔恨よりも強力だ」といっています。

「母音」は、「悔恨」よりも力を持ち、「生きる力」の原動力になります。それは「希望」といってもいいかもしれません。しかし、「それは光を追う透明さを持つから/ぼくらは何度も見失いがちになる」のです。

2017年1月3日火曜日

飯島耕一「わが母音」④

1953(昭和28)年に書肆ユリイカから刊行した第1詩集『他人の空』の表紙には、フランソワ・ヴィヨンの詩集『吊された者たちのバラード』に挿入されているフランス中世の首吊りの木版画が使われています。

  僕はインクを探す。
  耳をふさいでいても、
  この部屋を通つた者らの
  心臓の鳴りが
  壁に見えて来る日。

  〈黙れ〉の日。
  吊された者らの
  声が壁に見えて来る日。
  汚れた手で
  吊された木版画の二人が、
  手を前で組み合わせて
  はだしでいるのに気づく日。

という「吊された者の木版画に――序詞にかえて――」に始まって、22篇。大学ノートサイズの57ページの薄い本でしたが、その反響はたいへんなものでした。

谷川俊太郎はすぐに会いたいという手紙を飯島に送り、大岡信は『詩学』に長所や短所を指摘した書評を、中村稔はこの新人詩人を褒めたたえたうえで、出版した書肆ユリイカの伊達得夫も激励したといいます。

『他人の空』を出版する直前に飯島は、大学を卒業して就職した保健同人社を1年ほどで目的もあてもないまま辞めています。そして、『他人の空』を出した翌年の1954(昭和29)年には、結核が発病。清瀬病院で右上葉の肺切除手術を受けました。

1955(昭和30)年、長野県小諸市にあったアフターケアの病院を出て、社会復帰。といっても働き口があるわけでもなく、伊達の求めでシュペルヴィエルの詩の翻訳などを手がけます。とともに、伊達の支援で出したのが第2詩集の『わが母音』でした。

  純粋な
  母音の空間に生まれるもの。
  不在であるために
  いつそうぼくを駆りたてる
  いくつもの夢。
  ぼくらは繰返すことしかできないが
  繰返しのなかに
  とある暁の最初の母音のように
  響きあうイマージュがある。
  わが母音は
  ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
  あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
  それは光を追う透明さを持つから
  ぼくらは何度も見失いがちになる。

  澄んだ母音を見つけることが
  ぼくらの日課の色どりであればよい。
  それは恐ろしい現実にたち向かう
  ぼくらの 幸福すぎる
  権利なのだ。
  まるい小石を蹴るように最初の母音を蹴りながら
  ぼくは今日も雑踏のうちにまぎれこむ。
  雑踏のなかにいても 一人は一人であることができ
  一人は一人を愛することができる。
  そして二人でつくつた
  まだ秘密の愛の誓いのように
  ぼくはわが母音をひそかに培い、忘れて見失わぬ
  術〈すべ〉をおぼえる。

詩集の冒頭に置かれた「わが母音」について平出隆は、「飯島耕一自身の詩の詩法の、一つの宣言である」として、次のように鑑賞しています。

〈ここで「わが」と付いているのは、おそらくアルチュール・ランボー(1854―91)=写真=の詩篇「母音」を受けてのことだろう。ランボーの「母音」もまた詩法の表明としての詩であった。

しかしランボーが、統一よりも錯乱を詩法とすることによって現実を攪拌しようとしたのに対して、ここでの飯島耕一は、現実に立ち向かうための武器を培う、初初しい準備をしているばかりのようにみえる。

「それは恐ろしい現実にたち向かう/ぼくらの 幸福すぎる/権利なのだ。」――この「すぎる」という語法に、詩として未だに現実に立ち向かっていないことへの自己批評がみえる。

けれどもこうした自己批評が、この宣言を現実の中へ、「雑踏のうち」へさらに押しすすめる力をもつことになる。〉(『現代の詩人10 飯島耕一』)。

ランボーの「母音」というのは、次のような詩です。鈴村和成の『ランボー全集 個人新訳』から抜粋しておきます。

     母音

  A黒、E白、I赤、U緑、Oブルー、母音よ、
  いつかきみたちの誕生の秘密を語ろう。
  A、無惨な悪臭のまわりで唸りをあげる
  きらめく蠅の毛むくじゃらの黒いコルセット、

  影の入江だ。E、靄とテントのあどけなさ、
  誇り高い氷河の槍、白い玉、散形花のおののき。
  I、深紅、吐かれた血、美しい唇の笑い
  怒りのさなか、あるいは悔悛の陶酔のなかで。

  U、これは周期だ、緑なす海の神々しいゆらぎ、
  動物の散らばるのどかな牧場、皺の平安か、
  学究の大いなる額に錬金術が刻みこむ。

  O、至高の金管楽器、奇怪な鋭い叫びに満ちみちて、
  《世界》と《天使》の横切ってゆく沈黙だ。
   ――Oオメガ、《かの女の目》の紫の光線よ!

2017年1月1日日曜日

飯島耕一「わが母音」③

あけましておめでとうございます。今年も、詩や詩論を休み休みマイペースで読みつづけていきたいと思います。よろしくお願いします。

もう昨年になってしまいましたが、前回に続いて「自伝のかわり」に書いた年譜から、飯島の終戦直後の足どりをみておきましょう。

〈一九四八年(昭和二十一年)、岡山市に戻る。廃墟となった駅前に早くも闇市が出来ている。つねに空腹。第六高等学校文化丙類に入学、四国高松への連絡船の出る宇野港の仮校舎(旧陸軍兵器庫)に通う。

担任教官は戦後早くトレーズの「人民の子」を訳した長崎広次氏、哲学の教官として梯明秀、近藤洋逸氏がおり、ヘーゲルやプラグマティズムの理論を学ぶ。経済学の教官としてまだ若かった宇高基輔氏、英語の教官としてエリオットの北村常夫氏がいた。

二十二年、当時出ていた創元選書で中原中也、富永太郎、青磁社の本で萩原朔太郎を読む。はじめて詩らしい詩を読んだのである。『あんばるわりあ』を早くも読んでいた同級生中島達夫に「コスモス」という雑誌、中野重治の名、新人として平林敏彦がいることをおしえられる。

「近代文学」を読みはじめる。ボードレールを読む。詩の習作数十篇。永瀬清子を知る。堀口大學訳『シュペルヴィエル詩抄』を見せられ、その感覚の新鮮さに強烈な印象を受ける。のちシュペルヴィエルの短篇〈コント〉集『ノアの方舟』を愛読する。

吉田健一訳、ラフォルグの『ハムレット異聞』。小林秀雄訳サント・ブラウ『我が毒』。同年入学の理科の生徒だった栗田勇と中島にすすめられ、それまで経済学部のつもりでいたが栗田とともに東大の仏文にすすむ。中島も翌年仏文に入ったが、彼は神経病を病み、以後療養。

一九四九年(昭和二十四年)、東京大学文学部仏文学科に入る。栗田のほか、橋本一明、鈴木道彦、森本和夫、村松剛、渋沢竜彦らがいた。鈴木信太郎、渡辺一夫教授、中村真一郎講師のクラスに出る。

一級下に金大中がおり、栗田、金とともに一九五〇年、ガリ版の詩誌「カイエ」を創刊し、安東次男、鮎川信夫らにおくる。安東次男からハガキで返信あり、安東を訪ね『蘭』を見せられ以後親密を加えた。岸田衿子を知る。

「カイエ」にはのちに東野芳明、工藤幸雄、村松、石川喬司、佐藤巌、渡辺香根夫らが参加。別のグループの雑誌に日野啓三、大岡信らの「現代文学」があり、それに新日本文学系のグループがあって、はやくも公式主義的進歩派から批判された。

工藤が懸命に弁護してくれたのを思い出す。当時の東大では、中村稔『無言歌』、関根弘『砂漠の木』が読まれた。中村の詩集でユリイカの名を知る。大岡と親しくなったのは大岡が卒業して読売に入った昭和二十八年になってからである。

それよりまえ、金大中とともに「詩行動」に参加、ここに平林敏彦、柴田元男、森道之輔、難波律郎、児玉惇がいた。翌二十七年、『他人の空』の原型ともいうべき詩を書き、はじめて詩が書けそうだという自信を得た。同時に「詩行動」解散。しばらくして「今日」が創刊された。

一九五二年(昭和二十七年)大学卒業、保健同人社に入社、赤坂檜町に高畑昭久とともに住む。

一九五三年(昭和二十八年)退社、練馬区中村南町に住む。夏『他人の空』の一連の詩を書き、十二月出版。自費出版だが、費用は六高で一級下だった三木稔がシンフォニーを書き尾高賞を得て、その賞金を提供すると言い出したのである。

銀座にあったユリイカを訪ねはじめて伊達得夫に会ったことを思い出す。かたくなって「詩集を出してくれますか」とたずねたところ「よろしいでしょう」と彼は言った。自費出版だったのだが、かたくなったのは純情だったわけである。村野四郎、中村稔、大岡信の書評が出た。〉


     他人の空

  鳥たちが帰つて来た。
  地の黒い割れ目をついばんだ。
  見慣れない屋根の上を
  上つたり下つたりした。
  それは途方に暮れているように見えた。

  空は石を食つたように頭をかかえている。
  物思いにふけつている。
  もう流れ出すこともなかつたので、
  血は空に
  他人のようにめぐつている。

年譜に出てくる「他人の空」は、戦後詩の代表的な名篇として、しばしば取り上げられます。鳥たちが空からおりたち、地面の「黒い割れ目」をついばんだり「見慣れない屋根」の上を行き来したりしているのです。

なんということのない風景描写のようですが、それは何事かとりかえしのつかなくないことが起こった直後の廃墟なのでしょう。空は「頭をかかえ」、呆然と「物思いにふけつて」います。

それでも、鳥の行動に示されているように、何かが動き、動きはじめています。帰ってきた鳥は、当然、戦争直後の復員兵をイメージしていると読むこともできるでしょう。もはや、犠牲となる者たちの血は流れなくなったのです。

しかし、あるのは焼け野原の空。そこに、行き場所を失ったかのように「血」がただよっています。戦後の荒廃した状況を内面化して、世界と人間との関係の崩壊、不安を描き出しています。

こうして、飯島耕一の戦後ははじまり、詩人としてのスタートを切ったのです。